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《自然と人間とは離す事は出来ないが、両者は、それぞれ、その「倫」を異にする、その秩序を異にするもので、両者を一丸となすが如き原理は空想に過ぎない。さういふはっきりした考へが、徂徠の思想にあつた、両者は一丸とはならない、両者は、彼に言はせれば「出合ふ」のである。この 「出合ひ」が、人間の生活経験の基本形式であり、これに、人と人との出含ひが加はり、「無尽の変動」が出来するところに歴史がある。道の問題が、この出合ひに集中するものなら、「学問は歴史に極まり候事 ニ 候」と彼が言ふのは当然な事である。従つて、彼の考へによれば、もし自然の道といふ名が仮名なら、自然の歴史といふ名も仮名に過ぎない》(「考へるヒントII 歴史」:『新訂 小林秀雄全集』(新潮社)第12巻 考へるヒント、p. 250)
《学問ハ飛耳長目之道と荀子も申候。此国に居て、見ぬ異国之事をも承候ハ、耳に翼出来て飛行候ことく、今之世に生れて、数千載(せんざい)の昔之事を今日ニミることく存候事ハ、長き目なりと申事ニ候。されバ見聞広く事実に行わたり候を学問と申事ニ候故、学問ハ歴史に極まり候事ニ候。古今和漢へ通し不 レ 申候へは、此国今世の風俗之内より目を見出し居候事にて、誠ニ井の内の蛙に候》(「徂徠先生答問書 上」:『荻生徂徠全集』(河出書房新社)第6巻、 p. 178 )
自分の体験や経験はごく限られたものであるから、それでは井の中の蛙にしかならない。が、歴史を学ぶことによって、自らの見聞を広げることが出来るということだ。
《小林秀雄が荻生徂徠(おぎゅう・そらい)に学んで学問は歴史に極(きわま)ると考へるのは至極当然である。吾々は歴史が在る様(あるよう)にしか、歴史が書かれる様にしか生きられないからだ。吾々の人格は吾々の過去によって成立つ。吾々は吾々の過去であり、吾々の過去以外に吾々は存在しない。その吾々はまた歴史の中に生れて来るのである。
確かに吾々自身の過去や歴史が無ければ、吾々は存在しないのだが、その過去や歴史は既に在るからといって吾々の所有には成らない。無為にして放って置いたのでは、吾々は禽獣(きんじゅう)と同じ様に唯(ただ)瞬間的現在しか所有出来ない。それは何も所有しないといふ事である。吾々は己れを空しくして過去を、歴史を自分のものにしようと努めなければならぬ》(「小林秀雄の『考へるヒント』」:『福田恆存全集』(文藝春秋)第 7 巻、 p. 649 )
我々は、歴史の積み重ねの上に存在している。が、その歴史が如何なるものかを理解しようと努めなければ、存在基盤は失われてしまうに違いない。歴史を有(も)たぬ存在は、ただ本能の赴(おもむ)くままに生きる禽獣に等しい存在でしかない。人間として生きようとするのであれば歴史を学ばなければならない。そして、日本人として生きようとするのであれば国史を学ばなければならない。
《それは今日の歴史学が好んでさうする様に現在の自分を正当化するのに好都合な資料の集成を意味しない。歴史を追体験し、それを生きる事、さうする事によってしか、吾々は吾々の過去や歴史を自分の所有と化する事は出来ないのである。そして、過去や歴史を所有出来なければ、人格が成立しないとすれば、歴史とは人間の本性であるといふ小林秀雄の言葉は充分に納得出来ようし、学問は歴史に極り、学問は人倫の学だといふ考へ方も極(ご)く当り前の事に思へて来る筈である》(同)
他者の歴史観を鵜呑みにしてはならない。歴史そのものに降りて行って、自ら過去を「経験」しなければならない。歴史を知識として身に付けるのではなく、自らを歴史の中に置き、「実体験」しなければ、自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の物とは成り得ない。【続】
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