いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2008.12.17
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陶器12

 車を運転中、思わず考え事をしてしまって、気が付いたら目的地の近くまで来ていた・・・

 なんて経験が皆さんは無いですかね?その間、道を曲がったり、信号で停止したりといった運転の諸作業はどうやって行われたのでしょう。ちなみに私は、そんな危険な運転はしませんがね。(裏切り・笑)私の頭の中は、常に色々な映像が次々に現れ、かぶさる様に瞬時に変化しています。

 視覚を邪魔するようなモノではないのですが、とても頭の中が煩くてしょうがありません。確か坂本龍一氏が、常に頭の中に音楽が流れている様な表現をしていたのを記憶しています。ここで、少し私の母に触れておきます。 

 基本的に自分から話はしたがらない母ですが、施術中の患者さんの質問に対してだけは、何か自分の心に問う様にして答えを導き出し、伝えていました。患者さんはその答えに妙に納得し、その時点からみるみる症状が良くなって行った様に見えました。まるで「こう言ってくれたら気持ちを直す方向に向けられるのに」と無意識の中で想っている事を言い当てた様でした。

 私が、「気」の施術において患者さんから伝わって来る感覚に、
1. その人のプライドに触れないような間接的(比較的表層的)なモノ
2. 直接その人のプライドに触れてしまう(深層的な)モノ

とが在ります。前者は、いわゆる「病気」やその「原因」などに直接関わるイメージですが、母は主にここに繋がっている様に感じます。後者は「寂しい」とか「悔しい」などの感情に似た感覚ですが、私は最近ここばかり強く伝わってきて少し困っています。子供の頃の感覚が戻って来る様な感覚です。一度後者に繋がると、前者には繋がり難くなりますね。

 そして、初めから後者に触れると大概はプライドを傷つけ事態を悪くしてしまいます。私は経験ありますが、人と話している時、特に自分の都合の悪いプライドに触れる話で、核心(本意)をつかれたと(後から考えると)感じる時に限って、ひどく怒ったりしていませんか?ただ、子供の頃の感覚とは少し違った感覚もあるのですよね。

 施術中に伝わってくる「寂しい」や「悔しい」の「気」は健気で、いとおしく感じられるような心地よいモノです。普段の生活の中で他人と関わる時の「気」は、同じ人であっても必ずしも心地の良いモノだけではありませんね。(07.7.22著)

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「気のせいだよ」

 「気のせい」というと、一般には「勘違い(錯覚)」的意味に遣われていますかね?少なくとも「気」の世界観においては「気の影響で・・・」的に扱われていることが多いように感じますかね。ところで皆さんは、意識(関心・想い等)が別の所に向いてしまって、痛さや痒さなどの症状(感覚)が一時的にも消えてしまった経験の一つも無いですかね。

 そして医者に再検査して貰ったら、病気が治っていたり、良い方向に向かっていたり・・・といった不思議な経験は無いですか?むしろ再検査して変わっていなかったり、悪くなっていたりの方が不思議ですかね。原因が在るにも拘らず、一時的にも症状が消えてしまったと感じるのですからね。そもそも症状(感覚)って何によって創られるのでしょうかね?

 今流行の脳科学などで言えば、症状が消えたことが脳の引き起こす「錯覚」とか言うことになるのでしょうかね?脳内物質等の発生のメカニズムの研究は進んでいても、その物質が何故「錯覚」を起こすかという根本の解明はなされていないようにも感じますがね?また時に脳が「偽」を見せる(感じさせる)のなら「真」の判断はどうなされるべきなのですかね。

 その時々で利害が一致した多数派の似通った感覚ですかね?

 また例えば初めて同じ色を同時に見て、そこでその色が「赤」であると約束を交わし、後に同じモノを見せればその約束により皆「赤」と答えるのでしょうが、それが皆同じ「赤」を見ている証明になるのでしょうかね?極端に言えばAさんの「青」がBさんの「赤」だったりしていることは無いという証明になっているのですかね?色の好みも人それぞれですし・・・

 「色盲」とかもあったり・・・まして焦点(意識)の反れている視界にあるモノに関してはとても曖昧なように感じますがね。意識が反れて症状を感じなかった事実は物質的な立証も蔑ろになっているようにも感じますが、「錯覚」とか「偶然」・「個人差」のように科学の逃げ道的に遣われるモノにこそ大切(真)なモノが在るような「気」がしますがね?(09.11.12著)

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 私も「優柔不断」な方でしてね・・・

 自分一人を考えれば答えは直ぐに出ているんですよね。ただ複数の人が絡んでくると、全ての人を満足させられる答えが見つかるまで答えられないんですよね。それぞれの相手の立場になってシミュレートしている感覚ですかね?そして私の行為により一人でも不満を感じる人が出るようなら、なにもしない方がマシ・・・的に大概は心が収まってしまいますかね?

 一部の人だけが幸せになったことで他に不幸のシワ寄せが行くのであれば、皆で不幸でいようよ・・・的に。大勢で背負えば不幸も少しは軽減できそうですし、皆が公平に不幸であれば、それは不幸では無くなってしまうようにも感じますしね?ところで皆さんも自分の中に複数の自分が同時に現れて、初めの自分の判断の邪魔をするような感覚は無いですかね?

 「多重人格」と言う症例を聞きますが、一人の人間が瞬時に別の人間の様に変わってしまうようですね。ただそれって複数の人格にスムーズに移行できている訳で、本人にも演技(嘘)の自覚も無いようですし、個人的にはより一人の人間的感覚ですかね。中には前世・言語等も含めそれぞれの過去の事実と合致する記憶を持っていたりする例もあるようですが・・・

 私は今ある「輪廻転生」的世界観そのままの肯定者ではありませんが、前にも少し書きましたが、科学で言う「死後は無」的世界観にもいまひとつ違和感がありましてね・・・そもそも「無」と言うモノ自体も感覚的に理解できず、生まれてから今までの記憶でさえほとんどが忘れ去られている訳で、生まれる前には何もなかったと言いきることも難しく・・・

 ただヒトは追い詰められると並外れた能力を発揮するようで、そこに記憶力も含まれたりして・・・例えばサヴァンと呼ばれ、一度聞いた音楽や風景などを一瞬に記憶してしまう人達がいたりして、過去に何気なく目にしたモノが突然よみがえったり、ましてヒトは強い「想い(自己主張や自己防衛等)」により、物質や現象をも創り出してしまう力も感じますかね。

 そして言葉なしで相手にそれを伝える力も感じますし、肯定的研究者には「共鳴」的力も芽生え易かったり・・・ヒトは都合良く(無意識に)記憶も書き換えてしまう能力も感じますので、どこまでが本当の過去の記憶なのかは自分でも解らないと感じます。そもそも「今」から振り返った記憶は、詳細まで見ればほとんどが今創ったモノのように感じますかね。

 また「悪魔憑き」や「催眠術」なども、普段から開放的な人は勿論、根は素直で普段我慢強く抑圧されているような人にとっても、そういった儀式をきっかけに汚い言葉を吐いたり恥ずかしいことをして、祭・酒同様に無意識な欲求不満の解消の場になったり、また術師に対しての無意識な気遣い(期待に応えなきゃ!)的な気質を感じることも少なくないですかね。

 俗に「気遣い」と言われるような、相手の気持ちに沿うように気持ちを合わせることが「気功」などでも言われる「キヅカイ(気を操る)」とも大きく関りを感じますかね。そして何回も遣いました「無意識」自体が他人や時に自分自身に対しての体裁・プライド等を守ってくれる都合の良い他意識なのであると感じ、多くは幼い頃に身につけているように感じますかね。

 厳密には欲求(自己主張や自己防衛等)を満たすために、人格を変える際に無意識に自分にする言い訳・・・結局ここでも無意識が発生してややこしくなりましたが、ニュアンスは伝わりましたかね?個人的には前記した「優柔不断」的人間の方が同時に複数の人格的なモノが存在する訳で、むしろ「多重」という意味においては近いように感じますかね。(10.11.14著)




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Last updated  2012.04.21 15:59:15
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