全34件 (34件中 1-34件目)
1
芭蕉と曽良は、4月3日(今の5月21日)に黒羽に着いて13泊したらしい。5日には雲厳寺を訪れたらしい。黒羽城代家老の浄法寺高勝(桃雪)邸に長く泊まったらしく、その書院からの景色を芭蕉は「山も庭も動き入るるや夏座敷」と詠んだらしい。その館は黒羽城三の丸にあったと。2月に黒羽城跡地にたつと西に山々が連なっていた。座敷からこの峰々を詠んだのだろうか。24吋別窓表示 2023.2の写真三の丸跡地にたつ芭蕉と曽良黒羽城址本丸跡地
Apr 1, 2023
コメント(2)
塩飽衆が支配した備讃瀬戸の中心は本島らしい。与島のパーキングから眼前にみえた。山城跡が山上にあるらしい。自治領として江戸期を過ごし、代官所の建物や町並みが残っているらしい。是非上陸してみたいものだ。技に秀でて塩飽大工とも呼ばれた技能集団でもあったらしい。水夫としても咸臨丸の渡米時に多く採用されたと聞くので優秀な衆であったらしい。水島コンビナートの中の運河に突き出た岬の上に本太城跡があるが、能島村上の城だったと読んだ。塩飽衆も戦国時代は能島村上の支配下に入っていたらしい。瀬戸は古代から海上交通が盛んな内海であったらしいが、必然、歴史の舞台でもあるわけか。村上海賊と塩飽衆が拠点とした島々に、今では、巨大橋梁の威容がそびえる陸路ができたわけか。本島、牛島など一望与島から備讃瀬戸大橋を一望 24吋別窓表示宇多津から備讃瀬戸大橋を望む
Nov 8, 2022
コメント(0)
しまなみ海道は村上海賊の諸城の痕跡がたどれるルートらしい。(尾道市のパンフはこちら) 上陸はかなわないので、遠望でその立地の巧妙さを潮目をみながら推し量れた。この海峡には来島村上の城が、手前から三番目の橋脚のある島、その先の橋脚のない島、ずっと奥のみえない位置にある来島の三島にあったらしい。 亀老山展望デッキから望むと左から右にゆっくり流れる潮がみてとれた。大型船も中型船も、標識ブイをかすめながら進入角度を皆同じにして順番に海峡に入っていく。海賊の水先案内は必須だったにちがいない。(24吋パノラマ別窓表示)能島と鯛崎島。宮ノ窪瀬戸を押える位置にある。潮流は渓流のよう。能島城の郭の段が遠目からもみてとれた。能島村上の遺産として復元作業をしているらしい。(24吋パノラマ別窓表示)能島・来島村上海賊年表(別窓表示)
Oct 29, 2022
コメント(0)
街道網は、古代から整備されてきたらしい。そのルートは、時代が進む中、変化していって現存するルートは少ないらしいが、備中の山陽道ルートは、古代のルートが比較的残っているらしい。確かに古代の道路が直線ルートであったことがみてとれる。 古代の駅のあった場所も発掘された土器の破片に馬の文字を確認して特定されているらしいが、高架橋の下となり、今では現場にたつことはかなわない。が、江戸時代の宿場は、矢掛宿として面影が現存していて、散策できる。 そして、何よりも、矢掛は、往来の要衝地であったことをみてとることができる。南の山向こうには、山陽道の側道としての鴨方往来があり、鴨方と矢掛をつなぐ間道が地蔵峠を越えて山陽道に通じていたらしい。地蔵岩の駐車場で、間道を押える要衝地点に山城跡が位置していることを見てとることができた。 地蔵岩の駐車場からは中山と船が迫山を見下ろせ、その頂に山城跡があるそうだ。秀吉が九州攻めの時によった茶臼山城跡と、秀吉の高松城攻めの時の毛利輝元が入っていた猿掛山城跡は、背後の左右の奥にあるはず。茶臼山城の小田川対岸を押える位置にあり、山陽道を川越しに見通すとともに、山陽道と鴨方往来を繋ぐ地蔵峠越えの間道を押える位置でもある。 山城と間道ルートを眺めていると、歴史の現実味をみているようで面白い。左が矢掛で、左の山の下の小山が茶臼山城跡。中央の丘の向こうに猿掛城跡のある猿掛山、右が中山城跡と船が迫山城跡のある中山と船が迫山中山を地蔵岩の駐車場からみおろす。間道は、眼下から登ってきて写真の右方向にある地蔵峠を越えて鴨方に下ることになる。赤線がこの間道。山陽道の矢掛宿に通ずるが、矢掛宿の東には、奈良時代に文武で活躍した吉備真備の出身地真備があり、西には、北条早雲の出身地となる高越城跡がある。時代を超えた英傑を産んだ山陽道の要衝地域だ。 少し広く、備中を眺めると、備前岡山藩の六官道の内、鴨方往来、松山往来が岡山から放射状に伸びている。さらに緑線は、庶民が大山詣に行ったり、大山の牛馬市で取引される牛馬を牽いたりした大山道の備中ルートで、道標がいくつも県道脇に残っているらしい。その岡山の起点にほど近い足守は、維新を成し遂げた多くの人々が学んだ適塾の緒方洪庵の生誕地となる。同時期には、備中松山藩藩主板倉勝静のもとに山田方谷もいた。 備中には優れた「文人」の歴史もある。道すがらこの岩を拝んで道中の安全を祈願したり、感謝したりしたのだろうか。この岩の西には阿部山があり、安倍晴明が天体観測をしていたとの説もある。今では、この岩から南の台地に、国立天文台と、東アジアで最大の望遠鏡(名を「せいめい」)を備えたと言う京都大学の天文台がある。
Aug 22, 2022
コメント(0)
伊勢新九郎盛時・北条早雲は、荏原荘の半分を支配した備中伊勢氏の子としてこの地に生まれたと説明されていた。一介の武士が戦国大名になったとの話は、現代の歴史研究によりただされ、立派な出自が明らかになったと。この城で育ち、京で幕府に仕えた後、兄姉が嫁いだ今川家の家督争いに加勢するため駿河に下り、戦国大名にのし上がっていったらしい。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 荏原荘は、古く、那須与一が屋島の合戦の功績により得た地でもあって、下野に戻る前、この城の北西にある小菅城にいたことがあるらしい。 この地は、もともと古代より交通路として栄えていたようで、大和朝廷と太宰府を結んだ山陽道の備中駅家(うまや)のひとつ小田駅家は、この城から東に少しいったところにあったらしい。 備前、備後の山陽道は、中世には、ルートが変わったらしいが、備中のルートは、古代、中世、近世と変わらず、古代の外交使節の往来、中世の源平の往来、元寇の鎌倉武士の往来、足利尊氏の九州からの大軍、戦国時代の毛利や秀吉の進軍、江戸への大名行列など、この地はつぶさに見てきたわけか。東側の神代町からの遠望。24吋別窓表示主郭のあったところ。山陽道と笠岡往還を見下ろす眺望。旗指物がつづく様子などを想像してみた。笠岡往還で海にでれば笠岡城に村上海賊が在ったらしい。眼下の山頂に出城の横畑があったと。平坦な頂には、山上山城があったと。馬の文字の入った遺物が発掘されたと。今では井原線の高架下となり、痕跡はないと。191が高越城。山城がいくつもつづく、要衝の地。
Mar 7, 2022
コメント(0)
滝口康彦の備中兵乱の純歴史小説「鬼哭の城」によると、備中兵乱では備中松山城は全山城塞化されたものの、城主の叔父の裏切りにより寝返りが続発して、毛利・宇喜多勢の攻撃に三村勢は壊滅してしまう。備中松山城については、以下の描写がある。「備中松山城は、東は尾根続きで吉備高原につながり、西もまた甲部川を渡れば、吉備高原が備後まで伸びている。 松山城は、最高峰の大松山が約四八〇メートル、小松山、天神丸はやや低い。石垣はないが、三面の断崖絶壁が寄手を阻む天険をなしていた。」と。 甲部川とは、現高梁川のことで、現最高峰は天神丸487m。地図の等高線を追うとまさに記述のとおりだ。城からは直下に高梁川の深い碧の川面が見えた。 その毛利も関ヶ原では敗北し、当時の絵図を見ると城は荒れていたらしい。江戸期に入ると修復が始まり、現在の姿の原型が整えられていったらしい。 備中兵乱から約三百年、備中松山藩主板倉勝静の幕末の激動の時代、山田方谷が起用され、藩をあげて倹約、殖産に励み、財政再建がなされ、城の強化もされたらしい。三方の断崖以外に唯一尾根が続く地点の整備はこの時らしい。 「大たわの堀切」とその番所がそれで、城内最大の堀切に防備の工夫が施されたらしい。「たわ」とは、撓む・たわむからきている言葉で稜線の鞍部をさすらしく、まさにこの地点を表している。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 板倉勝静は名君でその事績を追うとドラマチックな人物像に心が震えてくる。老中首座として活躍し、闘う姿は好ましい。 城主が老中首座として幕府にあって藩には不在の中、鳥羽伏見の開戦により朝廷から備中松山藩追討令が岡山藩にだされる緊急事態が勃発する。もともとは、長州とは戦うつもりであった松山藩であったらしいが、岡山藩に対して無血開城するように藩論をまとめ、藩と領民を救った方谷の舵取りは、実学と実践にたけた学者がなした業績として、当時の学問の現実的な力に改めて目を見張る。 戦いの備えは怠らず、情勢を見極め、領民と藩を救った手腕は立派なものだと思う。江戸の無血開城に先立つこと三ヶ月の事だったらしい。 いまある見事な城のこの姿は、勝静と方谷なしには、残っていなかったと言うことか。24吋別窓表示
Jan 31, 2022
コメント(2)
冠山城跡は、田の中の小さい丘にあった。激戦があったとは思えないのどかな丘だ。秀吉の備中高松城攻めで、加藤清正に切り込まれて、奮迅の末に陥落した冠山城。宇喜多直家を退けた城も、その二年後、秀吉率いる織田軍と宇喜多軍の三万との戦いとなり、奮戦の末、落城。思わず慰霊碑に手を合わせた。ここがおちてから二ヶ月後に備中高松城は水攻めで開城。この小さい城でよくしのいだものだと思われ、奮い立つ腕と意気のなせる技であったのだろう。備中兵乱の備中松山城、織田軍との戦役の備中高松城、そして冠山城、いずれの落城も、義の証にちがいない。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)24吋別窓表示
Sep 30, 2021
コメント(0)
備中では、城域が、松山城の次に大きいお城だったそうだ。 松山城は、石垣も、お城の背後の備えも、井戸も池も立派なもので、臥牛山の稜線に展開した立派なお城で、長い歴史を持ち、雲海に浮かぶ天守の姿は、武者の声が聞こえてくるかのようだ。 一方、こちらのお城は、短い期間で廃城となったそうで、戦国末期の縄張りの原型がそのまま残されていることになるらしい。独立した115mの丘陵、茶臼山一帯の尾根筋に曲輪を重ねたお城だそうで、散策してみた。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)24吋別窓表示 茶臼山の南にひろがる水田地帯で、北から、東、南まで。左の山の下にある丘陵が茶臼山で、中央の道路の先の山のむこうに猿掛山がある。毛利元清は、猿掛城から茶臼山城に移り、拡張工事を施したらしい。確かにひろい城内。曲輪が続く。三の丸を見下ろす。ここの右端を登ってきた。犬走りを山道にした可能性もあるらしい。爺ヶ段の一番したの曲輪。井戸が残っていた。転落防止に柵で囲い、鉄の格子がはめられていた。 鎮守丸から西方面に見た矢掛宿。 古代道路の時代の駅家は、まだ、少し先にあったらしい。毎戸遺跡で馬と書かれた断片が出土したらしい。今は、鉄路の下になってしまったらしい。 ここの往来は、太宰府への時代から、秀吉の九州出兵、参勤交代と、日本史通りに続いていたらしい。今は、宿場町観光の往来になっているが、交通の要所であったわけだ。茶臼山山頂の主郭跡。この姿。 二の丸の最上部曲輪の南端からの眺め。 東方の写真正面が猿掛城のある山塊。樹木をはらえば、山陽道の往来を眼下に確認できただろう。毛利軍の進軍も、秀吉の進軍も見えたに違いない。
Sep 20, 2021
コメント(2)
岡山県の調査報告(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)によると中世の山城を大幅に改修して複合的な連郭式山城に仕立て上げられたと。 立派な石垣と虎口、井戸跡、深い堀切跡などがみられた。各尾根には重層的な曲輪群があるそうで、登山道沿いにも確認できた。堅固な縄張りが山全体に施されていたらしい。 本丸のあった頂上部からの眺望は樹木で遮られていたが、眼下の三谷川は旭川に繋がり、その合流地点からは少し上流に金川城のある臥龍山がある。 徳倉城は、金川城の支城にあたるらしく、松田氏の一族の宇垣氏が護っていたらしいが、宇喜多直家との合戦により、宇喜多勢の支配にかわり、関ヶ原後には一国一城により廃城となったらしいが、石垣は壊されずに残ったようだ。山頂には、立派な石垣と、堅固な虎口があった。 岡山空港の滑走路の先二キロくらいに位置していて、ジェット機は山城の上を飛んで離着陸しているようだ。
Jun 23, 2021
コメント(0)
案内板によると、もともとは、15世紀後半からあった城らしいが、16世紀後半に宇喜多勢の伊賀久隆が城主となったときに拡充されたらしい。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 伊賀久隆は、金川城の松田氏の家臣であったが、宇喜多直家に調略されて、堅固な山城の金川城を攻撃して陥落し、松田氏は滅んだと。宇喜多勢の中では力の大きい存在となったらしい。 1580年の虎倉合戦では、毛利方が竹の荘に進出した後、備前福山城をおとし、虎倉城をめざして進軍するも、下加茂で伊賀勢が襲撃し、敗走させたらしい。ところが、その翌年、伊賀久隆は謎の死をとげたと。死期の迫った宇喜多直家による謀との説があるらしい。 伊賀久隆を継いだ家久は、宇喜多から離反し、毛利方につき、宇喜多勢と戦ったらしい。備中高松城の戦いで毛利が秀吉と和睦したため、伊賀家久は、秀吉方の宇喜多領にある虎倉城をでて、毛利領へ転出したと。 なんともめまぐるしい下克上で、宇喜多勢による父親の暗殺に抗して、備中兵乱で途絶えた三村氏と似たような因縁話だ。 蛇行する宇甘川を眼下に見下ろす虎倉城跡は険しい山容で、その姿がますます厳しいものに思えた。24吋別窓表示。右の山の頂の後ろに出丸がある。麓の市場集落の宇甘川対岸より。本丸本丸の下の曲輪出丸にほんブログ村
Mar 9, 2021
コメント(0)
御津金川は、旭川に宇甘川が合流する地点で、交通の要衝であったようだ。宇甘川を遡ると川の右岸山上には松田氏家臣であった伊賀氏の虎倉城があった。 備前松田氏は、もともと相模の松田にあったが、軍功により備前に領地を得て後、金川城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)を設け、以来、城主として治めていたそうだ。北の丸、二の丸の他に、道林寺丸、出丸があり、幾重にも曲輪が連なり、各尾根沿いには、堀切がいくつもしつらえられ、斜面は急で、堅固な規模の大きい山城であったらしいが、1568年、宇喜多直家に調略された虎倉城の伊賀久隆に滅ぼされたと。 松田氏は日蓮宗に厚く、寺が設けられた道林寺丸跡もあった。北の丸、本丸、二の丸には、深い井戸がそれぞれあり、特に本丸の北面直下にある天守の井戸は、深さ10.8m、径8mだそうだ。井戸の規模と曲輪の数からすると大勢が詰めたと思われ、城は統治と信仰と武芸の場であったのだろう。 24吋別枠表示 山上に金川城のある臥龍山と旭川日蓮宗の信仰が厚かったらしい。吉備高原をさらに西に行くと西身延と呼ばれる寺もある。道林寺丸から宇甘川上流を望む。伊賀勢の侵攻を眼下にみたのだろうか。24吋別窓表示 北の丸東側 旭川を眼下に。北の丸と本丸の間の東斜面にある白水の井戸。深く、底が見えなかった。本丸の北の直下にある大きな井戸。直径8m、深さ10.8mと。本丸跡。石の様子から石囲いや館を思った。誰かが拾い上げた瓦の破片もいくつか。二の丸の杉の木の井戸。出丸から旭川の下流と御津金川の街を眼下に。にほんブログ村
Mar 7, 2021
コメント(2)
案内板によると平安末期に築かれ、江戸時代の一国一城で破城となった山城らしい。(鶴首城址の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 戦国時代、三村家親が城主となり、備中全域に勢力を拡大してからは、家親は備中松山城に移り、かわって三村親成が城主となったらしい。 三村親成は、家親と並び、毛利からの信任が厚かったそうだ。家親が火縄銃で宇喜多直家の家臣遠藤秀清(後に浮田家久)に暗殺された際、親成は何事もなかったかのごとく兵を指揮し、宇喜多直家は暫く暗殺を信じなかったらしい。錬磨の武将であったようだ。 毛利が宇喜多直家と和睦したため、三村元親は宇喜多は宿敵として毛利から離反し、織田方についたが、三村親成は織田を信用できないとして毛利方にとどまり、備中兵乱を終えたらしい。 三村氏が滅んだが、三村親成は毛利から減封されるものの成羽城は安堵されたらしい。徳川の世になると城を追われ、福山で召し抱えられたらしい。 親の仇を貫くために毛利から離反した三村元親、信任の厚かった毛利に離反しなかった三村親成、いずれも戦国武将の生き様と思う。下克上の渦の中に信義の杭が二本のぞいているようだ。 鶴首城も備中松山城に劣らず立派な山城だったに違いない。 北側の成羽川対岸からの鶴首山。橋のたもとあたりが船着き場らしい。高瀬船の並ぶ姿を思った。太鼓丸。太鼓丸展望台の眼下には成羽小学校があり、その塀は廃城後にしつらえられた陣屋の壁で、細い武者走りが見える。二の丸もあり、大きな山城。谷が要害となり堅固な縄張り。尾根が続く南には深い堀切があった。曲輪がいくつも続いていた。破城により石垣はくずれ、苔むした石が散らばっていたが、主郭の一部残った石垣が確認できた。主郭から町と成羽川が見下ろせた。にほんブログ村
Feb 14, 2021
コメント(0)
瀬戸内海の潮待ちの港として栄えた下津井の背後の山の上の立派な破城だった。(下津井城跡の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 宇喜多秀家が昔からの砦を城にし、城代を浮田家久にしたらしい。浮田家久は、三村家親を火縄銃で狙撃して暗殺した遠藤秀清らしい。毛利がその宇喜多と和睦したため、三村は毛利から離反し、備中兵乱となったが、備中兵乱の最期の戦いは、常山城の陥落だった。 下津井城の城主が変遷して池田氏の代の時に、常山城は廃され、下津井城を整備したらしい。部材を転用したとの言い伝えもあるらしい。 一国一城の時代に入ると下津井城も廃城となったらしい。 築城から廃城まで半世紀足らずらしい。城主の変遷は、児島の戦国史をよく表している。 下津井城跡からの眺めは見事で、連なる瀬戸大橋、讃岐富士、塩飽諸島、行き交う船、見飽きることはなかった。水軍の寄せる様子を城からみていたのだろうか。下津井の廻船問屋跡、漁港が眼下に三の丸下の石垣大手門跡別窓表示。西の丸から24吋別窓表示。二の丸からにほんブログ村
Jan 22, 2021
コメント(0)
能島村上水軍の勢力下に永くあった海城(本太城跡の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)らしい。能島水軍は、塩飽水軍などとも組み、瀬戸内海を支配していたそうだが、元々は、能島水軍は、毛利に従っていたらしい。その後、三好勢、浦上勢と組み、毛利と戦い、小早川隆景にこの城をおとされてしまったそうだ。備中兵乱時には、毛利との関係は修復されていたそうだが、この城が、毛利勢の児島進出の拠点になったらしい。 水島コンビナートの威容の塊の中に運河があり、そこに突きでるようにかろうじて残っている岬に城跡はある。岬の陰には古くからの港も健在だった。 岬の陸側にある神社から遊歩道が整備されている。昔は、唯一陸とつながっていた細い馬の背をわたると、城跡が草木に潜ってあった。枯れ草と茨に覆われ、幾重もあるはずの曲輪には入らなかった。 コンビナートの操業音が鈍く響き渡っていて、公園として城跡を整備できれば、戦国時代の海城と近代産業の牙城とも言えるコンビナート群の対比は、強烈な印象を与えるだろうにと思う。 以前、人気をはくした「村上海賊の娘」のモデルは、能島水軍を率いた村上武吉の娘で、架空の小説とはいえ、織田の水軍との海戦の活劇は面白かった。この城がその海賊の城と思うと、海賊史の痕跡としても全体をみてみたい。24吋別窓表示にほんブログ村
Jan 20, 2021
コメント(2)
日差山と石井山は、備中高松城の水攻めの時の両軍の本陣跡で、眺望からすると、日差山(日差山城跡の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)が合戦を俯瞰する位置で、石井山(石井山陣跡の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、高松城をみとどけるような位置にあった。秀吉は、水攻めに際して龍王山から石井山に移ったらしい。 日差山からは、備中高松城は正面に遠望でき、手前の築堤の進捗は、霧でもかからない限り、手にとるようにわかったはず。どれほど沈痛な気持ちで水に浮いた高松城をみていたのだろう。 石井山から備中高松城は、眼下にあり、清水宗治の自刃の地は眼前にある。ここで舞い、自刃する姿は、秀吉に「武士の鑑」と言わしめるはずだ。小早川隆景も山上から遠くみとどけていたのだろうか。24吋別窓表示 (鷹巣城の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)24吋別窓表示にほんブログ村
Jan 17, 2021
コメント(2)
経山城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、毛利方の中嶋元行が小早川隆景の城代とあった。備中兵乱時、伊與部山城に入った小早川隆景からは、北に見える位置だ。 経山城跡からは、三村方の荒平山城跡が山の間から見えたが、その背後の正木山から先にある鬼身城跡は高度が下がり、見えない。秋葉山からの稜線の先にある井山城のあった位置も見下ろせた。高梁川に平安時代から続く湛井堰は、稜線の陰になり、見えなかった。 南には、正面に福山があり、その中腹の三村方の幸山城は、よく見えたはずだ。落城の様子ははっきりととらえられたと思う。遠くには、三村方の最後に落城した常山が霞んでみえた。 東南には、秀吉が水攻めした備中高松城跡が緑の点で見えた。経山城の中嶋元行は、高松城城主の清水宗治の娘を妻にしており、高松城に籠城していたそうだが、清水宗治の自刃により永らえたらしい。毛利に仕えた後、帰農し、経山の麓に暮らしたらしい。屋敷跡には記念碑がのこっているらしい。戦国を生き延びた武将の穏やかな晩年の地だったのだろう。訪ねてみたい。 この屋敷は、もともと、経山城での生活の場であったらしい。山中鹿之助が備中松山城の毛利輝元のもとに連行されるとき、ここに立ち寄り、中嶋元行から饗応されたらしい。鹿之助は、この後、備中松山城目前の阿井の渡しで謀殺されることを考えると、すくわれる思いが湧いてくる。24吋別窓表示鬼ノ城西門から見た経山。西をおさえるには、鬼ノ城よりも経山の方が張り出しており、適地であることがわかる。 備中兵乱の時、毛利勢は、山陽道から玉島往来に入り、鬼身城の西の峠を越えて美袋に入り、備中松山へ進軍したのだろうか。経山からは、進軍の様子が見えただろう。にほんブログ村
Jan 11, 2021
コメント(2)
鬼身城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、備中兵乱の合戦のあった山城だそうだ。備中松山城主三村元親の弟、上野実親が城主で、主郭跡からは兄姉の鶴姫が戦った常山城も遙かに霞んで見えた。眼下には、木村山、伊與部山が見える。木村山には鬼邑山城、伊與部山には夕部山城があったと。 毛利勢の小早川隆景は、夕部山城に入ったらしい。夕部山城は、北に鬼身城、荒平山城、経山城、東に幸山城、西に鬼邑山城、南に南山城と、四方の城がすべて確認でき、陣所の役割を発揮できたらしい。 上野勢は、眼下に見える大兵力にひるまず奮戦したらしいが、味方の離反も発生し、配下の助命と引き換えに城主実親は二十歳で自刃したそうだ。滝口康彦が「鬼哭の城」で描いているらしい。小林正樹監督の映画「切腹」と「上意討ちー拝領妻始末ー」は、滝口康彦原作で悲劇の名作だった。鬼身城の陥落も悲しみに満ちたものに違いない。 次は、夕部山城跡から鬼身城跡を見あげてみたい。 24吋別窓表示虎口、石組みの痕跡幾面も続く曲輪からみた主郭にほんブログ村
Jan 9, 2021
コメント(0)
吉備中央町は、備前と備中に跨がっている地域で、毛利勢と宇喜多勢や織田方との合戦があったらしい。 宇甘川は、旭川の支流で、流域には村がつながっている。この川を見下ろす山上にある福山城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、国境を目前にした地点にある。この地域は、北の落合や西の備中高梁にぬける街道の要衝であったらしい。 出会った土地の老人によると、宇喜多方の一番北の出城で、備中松山城から攻めてきた時に、いち早く通報していたんだと。この地域の奥に入ると、雲海を眼下に見下ろせる。主郭らしい。自然地形を利用した曲輪と。途上。昔、車でも上れるように公園として整備したようだが、ひとけはなく、竹がのび車では難しい。
Dec 3, 2020
コメント(0)
備中の総社市にある福山は、標高302mでよく整備され、市民の手頃なハイキングで賑わっていた。山裾には、古墳群がいくつもあり、市の案内を合計すると217基にのぼる。 福山城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、その山上にあり、1335年、九州から足利尊氏が攻め上がってきた時、後醍醐方との攻防になった城らしい。この城の先に幸山城址(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)があり、1575年、備中兵乱の時、城主は備中松山城に三村勢としておもむくも、かなわず自刃したとあった。 福山城址の土塁と備中兵乱の常山合戦のあった常山が右にみえた。中央の扇状地の真ん中に備中高松城跡の緑の点が見えた。右の手前の山が日差山で小早川隆景の陣があったらしい。山に入り込む平地の西の尾根上に備中兵乱で合戦のあった荒平山が見えた。その平地に流れる高梁川の対岸に山城があった井山、城山もみえた。福山城址から常山、児島湖、岡山を望む。にほんブログ村
Nov 30, 2020
コメント(0)
備前児島の常山は標高307mで、山頂の常山城跡(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)からは、南に高松の五剣山、屋島、讃岐富士、瀬戸大橋など瀬戸が一望できた。北東には、早島、岡山、児島湖が広がり、東には、両児山、八浜、麦飯山が見下ろせた。 戦国時代、常山一帯では、毛利・宇喜多勢が三村氏を滅ぼした備中兵乱の最期の合戦となる常山合戦、毛利勢と宇喜多勢が争った八浜合戦が繰り広げられたらしい。 その後、中国国分けで毛利から児島を手に入れた宇喜多秀家は、高松城水攻めでの築堤の指揮者等を使って、早島から酒津まで長い堤を築き、土地を広げたと。宇喜多堤と呼ばれてきたそうだ。 吉備穴海は、平安時代から営々とつづけられてきた干拓で広大な田畑に変わったらしい。干拓は、昭和の児島湖の竣工で完成したと。児島湖は日本で最初の人工湖となるらしい。 常山山頂からは、平安時代から昭和までの治水と干拓の歴史が一望できると言うわけか。常山城の最高部の曲輪跡。本丸らしい。常山合戦で自害した上野隆徳の碑がある。岡山県によると「現在残されているこれらの縄張りは、宇喜多氏が岡山城の軍事的な外構えを形成するため、さらに瀬戸内海路に関わる岡山の南口として整備したと考えられ」るらしい。常山合戦、八浜合戦時の縄張りは、今とは違うかも知れない。戦国の城の盛衰を物語る城史と思う。瀬戸の向こうに五剣山、屋島がかすんで見えた。24吋別窓表示正面の田と山の境にある一番手前の低い丘が両児山、そこから右の田と山の堺が湾曲しているところに八浜かと。さらに写真の一番手前の右外には麦飯山がある。常山合戦で、常山城城主は上野氏から毛利氏にかわり、七年後、宇喜多氏は両児山城を拠点にして常山城と麦飯山城に構える毛利勢と八浜で合戦することとなったらしい。この地は備前と備中の境で、瀬戸内海路の要衝でもあったらしい。24吋別窓表示江戸時代は、早島の先の干拓となっているので、早島が陸続きになったのは、室町以前となるらしい。早島の東の妹尾兼康が高梁川の湛井堰を整備して十二箇濠用水の原型を始めたのが、平安時代らしいから、平安以前か。植松岩實著:岡山平野の歴史地理縄文前期奈良時代中世末現代にほんブログ村
Nov 9, 2020
コメント(0)
古代、埋め立てられる前の吉備には、吉備穴海があったらしい。陸地には、巨大な前方後円墳がいくつも造られていたと。その内のひとつ造山古墳は、大きさでは、国内四番目で、これより上位の古墳は、大阪にあり、立ち入り禁止らしい。この古墳に葬られたのはこの地の有力者らしく、立ち入りできた。 5世紀前半に築かれ、墳丘全長は350m、写真左の後円部の高さは30m、下の写真の前方部の高さは25.5mと。周囲には、周濠の跡が確認されているらしいが、住宅、農地、馬場に囲まれていた。後円部は、織田勢の備中高松城攻めの時、毛利方の陣となって削られ、曲輪と土塁が残っていた。前方部は、三段で、高さは下段から、1:1:3の比と。三段目が盛り土で、一、二段目は地山を部分的に利用と。前方部には神社が設けられていた。なぜかこちらに石棺の蓋の一部が野ざらしになっている。後円部の斜面では発掘作業がなされていたが、本格的発掘調査はまだらしい。備中高松城址は正面方向となり、左の遠方の稜線には、鬼ノ城がみえる。正面の高速道路の奥に備中高松城址が位置する。最上稲荷の大鳥居の頭がみえた。前方部の背後にある山の頂上が鷹巣城跡、さらに左奥の山の上には日差山城跡があり、小早川隆景の陣であったらしい。 吉備は、平野部にも山上にも、古墳、城が多く、河川にまつわる逸話もあり、古代から中世、近世の痕跡が随所にあるようだ。にほんブログ村
Nov 3, 2020
コメント(2)
敗者の理 備中松山城の三村元親、その妹の備前常山城の鶴姫、阿井の渡しの山中鹿之介、備中高松城の清水宗治、戦国時代のこれらの敗者の最期は、それぞれに理のあるものに思う。命をかけた、本領安堵、家臣の助命、武士の誉れ、忠義が語り継がれ、敬われ、弔われている。 古代の温羅について鬼伝説が有名だが、郷土史に詳しいこの地の人と話すと逆に思っているようで、地域では、鬼を敬い、祭ってもいる。古代にも敗者に理があったように思えてくる。温羅ゆかりの地が残されていて、鎮魂の場のよう。鬼ノ城に設けられた温羅の碑。24吋別窓表示鬼ノ城の北の山中にある鬼の差し上げ岩と呼ばれる岩屋。24吋別窓表示鬼ノ城の東門の北にある屏風折れの石垣といわれる城壁。屏風折れの石垣は、あたかも出丸のよう。この近くに温羅の碑がある。屏風折れの石垣から北の谷をのぞいた景色。この谷底に流れているのが温羅が流して染まったと伝えられている血吸川の源流となる。24吋別窓表示にほんブログ村
Oct 29, 2020
コメント(0)
備中兵乱の末期、備中松山城の下流の山間部が終わろうとする地点にある荒平山城を小早川隆景が制した。この城は高梁川を挟んで北と東の対岸に山城があったらしい。城跡に登ると、東向きから南向きに大きく方向を変える高梁川を一望でき、要衝であったことがよくわかる。 この城の陥落の数ヶ月後に、備中松山城、そして最後に常山城がおちて、毛利と宇喜多勢が備中を支配することになったらしい。尾根の頂上が荒平山城跡。地図272。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 南側に深い堀切が残っていた。その先には、古墳時代前期、中期、後期の古墳群が尾根に沿ってつづき、麓には、秦廃寺の古代の遺構もあった。高梁川は、上流から鉄を運ぶ水路であったとのことで、この地域は古くから盛んな土地であったようだ。秋葉山と井山城跡。地図342。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 秋葉山から下の低い丘に城があったことになる。その裏には、宝福寺があるが、備中兵乱で伽藍は焼け、三重ノ塔のみが当時からの現存らしい。雪舟の小僧時代の伝説の舞台となった方丈の柱も焼け、今ある方丈は再建されたものと。志良計(しらけ)城跡。地図341。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 三つの城が互いによく見える位置にあったことになる。谷筋の奥にある山の向こう側に古代の鬼ノ城が位置する。 ここから下流域には平安時代から灌漑された豊かな平地が広がっていたらしい。湛井堰と十二箇郷用水の原型が平安時代にでき、改修と郷をまたがった調整運用は現代まで続けられてきたそうだ。 田は潤い、収穫後に鬼ノ城から十二箇郷地域を眺めると、野焼きの煙があちこちからあがっていた。24吋別窓表示山城を頂くパノラマ写真 24吋別窓表示にほんブログ村
Oct 28, 2020
コメント(0)
岸壁の階段に腰掛けて鞆の浦を眺めていたら、陽が差しこんだ水の中を細かい糸が帯のようにゆらいでいるので、よくみたら、極細のしらすが群れをなして階段にそって流れていた。しばらくすると、澄んだ水に戻っていた。現役の港幕末の三条実美ら七卿都落ち、上洛時の宿と。保命酒造の酒屋。龍馬がいろは丸事件に対処していた時の隠れ部屋と。山中鹿之助は、備中阿井の渡しで謀殺された後、鞆にて足利義昭に首実検され、静観寺で葬られたと。毛利勢は、対信長の拠点として鞆に陣を構えていたらしい。鞆城の本丸跡から見た鞆の浦にほんブログ村
Oct 21, 2020
コメント(2)
史跡 備中松山城跡 (岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 北側の尾根筋にある雲海展望台用バス回転場から入って、石垣で囲われた大池、鎌倉時代の砦の大松山城跡、近世の神社跡、番所跡、近世の城郭の小松山城と巡れた。1240年から幕末まで都合6百年の痕跡。馬の背ならぬ、牛の背をたどる山城一式だった。雲海展望台前の駐車場は数台分なので、奥の北側の路肩のみ縦列駐車は可と高梁市。雲海の季節はこれから。山中の水利の最大施設。元禄時代1694年に城を受け取った大石内蔵助は、大池について屋根がけと清掃用の船のある様子を手紙に記したと。慶応年間(1604-1616)、備中国奉行の残した絵図では、谷部を堰き止めた池として描かれていると。大松山城跡。1240年、有漢の地頭、秋葉三郎重信が築いたと。北からこの地に進出したのだろうか。底に水がみえる井戸の遺構。他には、本丸、二の丸などのいくつかの平坦地と堀切が残る。臥牛山の最高点。近世に建てられた神社、天神の丸跡。番所跡にある橋、土橋。谷が深い。二重櫓。現存建物。岩盤上に建ち、天守からの避難経路であった可能性もあると。二の丸から。山城で唯一現存の天守と。殿様は、いつもは麓の館、御根小屋で就寝と。備中松山城・小松山城跡はこちら。三の丸、二の丸、本丸。2019.8にほんブログ村
Sep 30, 2020
コメント(2)
史跡 鬼城山 一年振りの再訪。今回は、東の麓から北に血吸川にそって廻り、北門から入った。標高差、350mほど。巨岩が覆い被さるような隘路もあり、深山気分であったが、北門の登り口に入るところは、岩屋への車路分岐となっていた。血吸川の渓流は、温羅伝説に赤にそまるとあるようで、茶で覆われていた。鉄分らしい。 古代の山城の原型が残っているそうで、急峻な斜面で守られ、山頂部はなだらかにひろがり、適地に築城したことがよくわかる。都と太宰府の中間地にあり、海運と国防の要衝と。諸元 標高:鬼城山397m 城壁:8から9合目に2.8km、高さ6m、版築土塁、一部に高石垣、内外両側に敷石 城門:4ヶ所、西、南は堅固、北、東は小型 水門:城壁が谷をまたぐ箇所に排水用水門6ヶ所、下部石積み、上部版築土塁 角楼:横からの攻撃防御施設 建物:7棟の礎石 築城:史書に記載のある大野城と同時期、前、後の諸説。近年は出土物から7世紀後半説西門 24吋別窓表示手前から、血吸川、足守川、その次の丘の向こうの田の中に点にみえる緑が備中高松城址 24吋別窓表示東側斜面の登山路のアプライト。垂直に節理。山頂の岩体にも10センチ間隔の垂直の節理があるらしい。これを敷石にしたと推定されると。アプライトとは、黒雲母花崗岩の急冷層で表面が細粒な優白色岩と。24吋別窓表示北門。アプライトの利用はなく、周辺の花崗岩を利用したものと。24吋別窓表示南門 24吋別窓表示東門。眼下に血吸川。対馬の金田城、太宰府の大野城と似ている古代山城らしい。両城もいつか巡ってみたい。24吋別窓表示
Sep 20, 2020
コメント(2)
史跡 高松城跡 附 水攻築堤跡 (岡山県中世城館総合調査報告2020はこちら)豊かな田園の広がる扇状地にたって、東と北を取り囲む丘のような山を確認しながら、東西南北に布陣を追って、三万の兵と旗指物がひしめく姿を想像してみた。 東にある低い石井山に秀吉の本陣跡の白いのぼりが見えた。平原と川と囲む山の位置関係を確認すると、足守川から水を引き入れる水攻めを可能にした地形が理解できた。 三万の軍勢があるとしても、土木工事の短い工期、堤の規模、投入費用の大きさに驚く。今、実感するのは難しいが、さぞかし羽柴方は、勢いづいていたのだろう。 清水宗治の首塚や自刃の地にたつ五輪塔を見ると、本領安堵と家臣の助命を自身の首と引き換えにして切腹する清水宗治の義を思った。 ここから足守川を5キロほど遡ると、江戸期の足守藩の陣屋跡がある。1601年に姫路城から所領替で木下家定が足守藩主となり、明治まで続いたそうだが、家定は、北政所の実家杉原家の兄で、木下、豊臣を名乗ることを許されたそうだ。足守川の秀吉との関係は深い。 穏やかな水田地帯の真ん中に、秀吉の天下取りの起点が静かにあった。24吋別窓表示24吋別窓表示24吋別窓表示にほんブログ村
Sep 10, 2020
コメント(2)
復元とは言え、鉄砲狭間もしっかりとあり、思わず覗いてしまった。森家の家紋の鶴丸も壁にあしらわれていた。ちなみにJALの鶴丸は、今、五世代目のロゴで、二代目のロゴから登場したらしい。また、島津の鶴丸城、鹿児島県立鶴丸高等学校も関係ないみたい。盛岡の南部家は対鶴丸胸に九曜の紋らしい。24吋別窓表示
May 4, 2020
コメント(0)
備中櫓 (復元。畳敷で装飾が施され、女性達の社交場でもあったそうだ。殿もおなりになった場所らしい。) 層を重ねる石垣の連続に感嘆の連続。明治の廃城がうらめしい。華麗な重層の城を城下から拝んでみたいものだ。畳敷の巨大な城とのことで、外は威風、中は優美と言うことか。森家の権勢の品格をさぞかし現出させていたのだろう。美しい地であったに違いない。天守閣跡
Feb 8, 2020
コメント(2)
別窓表示24吋
Aug 20, 2019
コメント(0)
別窓表示24吋別窓表示24吋
Aug 14, 2019
コメント(0)
別窓表示24吋別窓表示24吋
Aug 12, 2019
コメント(2)
優美に威風堂々と治める力を示したに違いない。武具が集積した軍事施設は、その美しさで人々をひきつけ、壮麗さこそが平穏な城下の生活と人々の安寧を保証していたのであろう。 数百年たっても為政者の優れた治世を感じさせる美しさと思う。城の美しさは、治世の上手に比例していたのではなかろうか。 大手門をくぐり、首をひだりにふって城を眼前に見たとき、邦人も異邦人もほとんどが感嘆の声をもらしていた。 城は、くにの自慢であったに違いない。
Mar 28, 2018
コメント(0)
利根川と江戸川の分流するところの博物館です。16世紀の治水事業で利根川を東京湾から銚子に分流させた歴史など、洪水と水運の資料が展示してありました。今も保守されている江戸川側のコンクリート製水門は近代の先駆的遺構だそうです。広くて不思議なところでした。
Apr 30, 2007
コメント(0)
全34件 (34件中 1-34件目)
1