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熊野大社出雲國一ノ宮島根県松江市八雲町熊野2451熊野大社公式HP■御祭神 神祖熊野大神櫛御気野命 (かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)神社のホームページによるとこの御祭神は伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)その意味はイザナギノミコトの尊い御子である神々の祖、熊野に坐す大神 櫛御気野命そして素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別神名とのこと。参拝日は2021年11月6日で、3度目の参拝。初参拝は2008年、2度目は2016年でした。。。境内の前にある意宇川。いつもこの光景に見とれてしまいます。2008年5月の初参拝のあと、出雲へのイメージが大きく変わりました。出雲は神話の国であり、「出雲=大国主命」というイメージでしたが出雲は須佐之男命の国なのではないかと強く感じたのです。そして出雲は神々の里ではなく、「人」がつくった歴史があり所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)が治めた「国」があったのです。。。西谷墳墓群・西谷2号墓。西谷墳墓群に行き、四隅突出型墳丘墓の上に立ったとき大和王権にも勝るとも劣らない「王国」があったことを確信しました。西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓は、大和の前方後円墳よりも古いものもあるのです。そして熊野大社と意宇川の流れ。。。2008年の出雲で最も印象に残ったのが、この意宇川の光景でした。そのころ古事記と日本書紀の歴史しか知らなかった私はこの地がかつては出雲国の政治と祭祀の中心であったことや、熊野大社も出雲大社と並んで「出雲国一ノ宮」であることを知りませんでした。帰ってから参拝記録の記事を書くときにいろいろ調べてこの地の奥の深さや謎を目の当たりにしたのです。普通は前もってリサーチして行くものですが、私の場合はいつだって「事後調査」なのです。。。隋神門(2016年撮影・雨)。古事記神話の「国譲り」の印象が強すぎて大国主命が国譲りの際に高天原から与えられた住処が「出雲大社」そうイメージしている人は少なくないと思います。私も漠然とそう思っていました。しかしよくよく調べてみると、出雲大社の創建はそれほど古くはありません。。熊野大社・本殿(2016年撮影)。出雲国造家の記録によれば、杵築(出雲大社)に移ったのは霊亀2年(716)だと記されています。乱暴な言い方になりますが、まるで古事記の編纂(712)に合わせたみたいです。元々の国造家の本拠地、意宇・大庭では大国主命を祀っていた形跡がありません。意宇六社の御祭神にも、その名は見当たりません。古事記神話で国譲りの舞台となった「伊耶佐の小浜(稲佐の浜)」近くに8世紀になって大国主命を祀る神社が創建されて、国造家が移り住んだ。スケールの大きな「つじつま合わせ」のような気がしてなりませんが。。。【参照】龍水御朱印帳・裏ばなし 「出雲大社創建は8世紀頃???」。。。しかし3回目の参拝(2021年11月)で新たな疑問が生じました。それは意宇川の畔にあった案内板の内容です。この意宇川の川上五百メートル 御笠山の麓に熊野大社の「上の宮」跡があります。熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在の天狗山)にありましたが、中世より里に下り「上の宮」「下の宮」(現在の当社)として近世末まで二社祭祀の形態をとりました。「上の宮」には紀伊國の熊野信仰の影響を受けて伊弉冉尊、事解男神、速玉男神等を祀る神社が、また「下の宮」には天照大神・須戔嗚尊等祀る神社が造営されておりました。明治時代に至り「上の宮」の神社は、政府による神社制度の改正を機に「下の宮」であった現在の熊野大社へ奉還合祀されました。「上の宮」跡背後の御笠山の頂上付近からは、熊野大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けられています。また登山道途中には、洗眼すると眼病に効き、あるいは産婦がこの水を服すると母乳が満ち足りるという御神水「明見水」が巨岩から滴り落ちています。 熊野大社意宇川の流れを眺めながら古の営みに思いを馳せていた私でしたが、どうやらこの辺りで祭祀が行われるようになったのは中世以降のことのようです。日本書紀・斉明天皇5年(659)の記述に「この年、出雲国造に命じて神の宮を修造させられた」とあるのは熊野大社の元宮のことなのでしょうか。。伊邪那美神社。本殿の向かって左にある伊邪那美神社。小ぶりながら大社造の社殿。御祭神は本殿・御祭神の母神、伊邪那美命(いざなみのみこと)その他、多くの神が合祀されているようです。。。稲田神社。本殿の向かって右にあるのは稲田神社。本殿・御祭神の后神、櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)が祀られています。その他、近隣の神社に祀られていた多くの神が合祀されています。。鑚火殿。変わった造りのこの建物は「鑚火祭」が行われる鑚火殿(さんかでん)。この鑚火殿は大正時代に造られ、熊野大社公式HPによれば「現在の物は平成3年に奉新建されたものです」とあります。しかし最近修繕されたか、あるいは造替されたものと思われます。2008年(平成20年)に撮った写真と比べても違いは歴然ですし。。2008年(平成20)の鑚火殿「鑚火祭」については熊野大社公式サイトをご参照ください。。舞 殿。神楽や舞が奉納される舞殿。元々は拝殿として利用されていたものを昭和53年に舞殿として移築したものだそうです。さて毎度のことながら、今回の参拝も「宿題」が残りました。「上の宮(かみのみや)」跡を訪れていないからです。白状しますと、上の宮跡について書かれた案内板を読んだのはこの記事を書く準備をしているときでした。「御由緒」とか「案内板」は、現地では読まずに、スマホなどで写真を撮ります。で、帰ってから読む(読まないこともありますが)のです。15年以上も神社参拝記録のブログをやっていて、この適当さ。反省しております。【参照】龍水御朱印帳・裏ばなし 「意宇六社」。
2022.08.07
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神魂神社(かもすじんじゃ)島根県松江市大庭町563 ■御祭神 主祭神 伊弉冉大神 合 祀 伊弉諾大神 意宇六社の一社。八年前の出雲の旅で、最も印象に残っていた神域。大庭大宮とも称し、社伝では出雲国造の祖・天穂日命がこの地に天降り創建したとのこと。そのとき天穂日命が乗っていたと伝わる神釜が御釜宮に祀られています。「釜」で天降ったと聞けばUFOを連想し、一部の神秘家が喜びそうな伝承。神社でいただいた「由緒略」によれば、「大国主命の国譲も、出雲朝廷のもと国造として祭政を執ったのも皆当社が中心で古代の神都」と伝えています。その「由緒略」では北島家に残る「北島国造家沿革要録」同様、出雲大社創建後、716年に国造が杵築に移ったと書かれています。「裏ばなし」の方にも書きましたが、やはり出雲大社の創建は8世紀の可能性が高いような気がします。※「出雲大社創建は8世紀頃???」ただし当社は記紀、延喜式神名帳、出雲国風土記にも記載がなく神社としての創建は中世とも言われています。 社号標と二ノ鳥居。さすがに初参拝のときほどの感動はありませんでしたが、この参道を歩くと大和の神社とは違う「何か」を感じます。 拝殿前から見下ろした参道。かなり急な石段ですが、社殿に向かう緩やかな「女坂」もあります。 手水と女坂 本殿は室町時代のもので、現存する最古の大社造で国宝。開放的な本殿ですが、近づき難いご神気を感じます。前述のように「由緒略」にも「出雲朝廷」という言葉があり当地は鎌倉時代までは政治・経済・交通の要衝であったと称し日本の礎を築いた出雲国の神都としての誇りを持っておられるのでしょう。 女神である伊弉冉大神が主祭神のため千木は内削、そして内部も出雲大社とは左右が逆の「女造(めづくり)」なのだそうです。 本殿に向かって左側にある貴布禰稲荷両神杜(右)は本殿と同時に建てられた記録があり国の重要文化財の指定を受けています。境内を歩き、写真を撮ったのは本殿の左側ばかり。めったに来られない出雲なので、ゆっくりと参拝し境内をくまなく回るつもりでいたのになぜか御釜宮など本殿の右側はほとんど記憶がありません。私のような「よそ者」にとっては何度か足を運ばなければ受け入れていただけない場所なのかも知れません。 左から武勇社、蛭子社、荒神さんのような神籬(ひもろぎ)。奥に見える穴について、一部の方がパワースポットだとか言って話題にしています。しかしあの穴の前で騒ぐのはおやめになった方がいいです。また神籬は地元の方々の大切なご神事の場なので、よそ者が能天気に近づく場所ではありません。 御朱印をいただくときに、女性のご神職にあの穴のことを尋ねると・・・ 神魂神社のご神職の回答がイカしてる 「龍水御朱印帳・裏ばなし」 神魂神社境内の謎の穴.
2016.04.03
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揖夜神社(いやじんじゃ)島根県松江市東出雲町揖屋2229 ■御祭神 伊弉冉命 大己貴命 少彦名命 事代主命 配祀 武御名方命 経津主命 意宇六社の一社。意宇六社とは古代出雲国の中心であった意宇郡にある、出雲国造と関わりの深い神社のこと。熊野大社、神魂神社、眞名井神社、六所神社、八重垣神社、揖夜神社の6社。 日本書紀には「言屋社」、出雲国風土記には伊布夜社と記された古社。特に日本書紀、斉明天皇5年(659年)の条では出雲国造に神の宮の修繕を命じる場面に記されておりその「神の宮」が出雲大社ではなく熊野大社だと想像できる点で重要。 是歲、命出雲國造(闕名)修嚴神之宮。狐嚙斷於友郡役丁所執葛末而去、又狗嚙置死人手臂於言屋社。(言屋、此云伊浮瑘。天子崩兆)(現代語訳)この年、出雲国造に命じて神の宮を修造させられた。狐が葛(宮造りの用材)をかみ切った。また、犬が死人の腕を揖夜神社に置いて行った。天子崩御の前兆である。⇒≪参照≫「出雲大社創建は8世紀頃???」~「龍水御朱印帳・裏ばなし」~ また、古事記で伊耶那岐大神が黄泉の国から戻られた場面には「黄泉津比良坂というのは、今の出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)である」と書かれています。伊耶那岐大神が大石で塞いだ黄泉の国との出入り口といわれる黄泉津比良坂。その比定地が揖夜神社から車で5分ほどのところにあります。 黄泉津比良坂への案内図が、揖夜神社社務所にあります。近くには案内板も設置されており、迷わず行くことができました。黄泉津比良坂には数台分の駐車場もあります。 三穂津姫神社 韓国伊太氐神社 本殿の左右にある境内社。出雲の神社で多く見られた形態です。 本 殿 本殿は大社造。ただし内部の造りは出雲大社と逆なのだそうです。これは出雲大社の「男造り」に対し「女造り」と呼ばれるそうです。揖夜神社と同じ伊弉冉命(イザナミノミコト)を祀る神魂神社も「女造り」だそうです。 恵比須神社恵比須神社天満宮(左)と荒神社(中央) 社殿正面に、なぜか恵比須神社が二社。そして藁蛇が巻かれた木と多数の御幣がある荒神社。この地方に多く見られる荒神社は農耕の神とされ揖夜神社の宮司さんによれば、御祭神は地元では「荒神さん」であり「強いて言えば須佐之男命になるのでしょうが・・・」とおっしゃってました。 出雲の旅龍水御朱印帳・裏ばなし「意宇六社」「たまには普通の旅もする」 .
2016.04.01
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