動画 0
全21件 (21件中 1-21件目)
1
物部神社(もののべじんじゃ)石見国一ノ宮島根県大田市川合町川合1545物部神社公式ホームページ■御祭神 宇摩志麻遅命(うましまじのみこと) 相殿神 右座 饒速日命(にぎはやひのみこと) 布都霊神(ふつのみたまのかみ) 左座 天御中主大神 天照大神 客座 五神主祭神の宇摩志麻遅命は、いわゆる天孫降臨の邇邇芸命(ににぎのみこと)とは別に大和に降臨したとされる饒速日命の御子神で物部氏の祖。御祭神で注目は「客座 五神」の存在です。物部神社公式ホームページによれば、「詳細は不明なれど別天津神か」とのこと。(2022年2月現在・その後のHPでは「別天津神」と明記されている)別天津神(ことあまつかみ)とは、古事記の神話で最初に登場する神々です。なぜ注目かと言えば、「客座五神」は出雲大社の本殿にも祀られているからです。出雲大社は大国主命の怨霊を封じるための神社で、別天神はその監視役だという説をよく見かけます。しかし物部神社にもあるということは、「監視役」とは言えない気がします。。。なぜかずっと憧れていた神社のひとつでした。しかし、なぜこの地に「物部神社」なのか。しかも石見国一ノ宮。大和の石上神宮、越後国一ノ宮の弥彦神社とともに宮中と同じように「鎮魂祭」が行われる神社として有名なのだそうです。それらはいずれも物部氏ゆかりの神社です。。本殿は島根県では出雲大社に次ぐ大きさで、春日造の社殿では日本一大きなものだとか。なぜこれほど立派な神社がここにあり、なぜ「物部神社」なのか。神社の御由緒では次のように伝えられています。神武天皇即位後、宇摩志麻遅命は美濃、越国を平定し、石見国に入って死去した。なるほど、そういうことか。と、言いたいところですが、そうは行きません。日本書紀や古事記にそういう記述はありませんし、そうだとしてもこの地が物部氏の拠点となった理由が不明です。。。社殿裏手から「御神墓」へと通じる登り口。今回はそこまでは行けませんでしたが、宇摩志麻遅命の墓と伝わる円墳があるそうです。社殿が創建されるまでは、この「御神墓」のある八百山を神体山として崇めていたそうです。社伝によれば、宇摩志麻遅命は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。とのこと。神武天皇の勅命により、この地を平定したとも伝えられる宇摩志麻遅命。しかし、この地に降臨した神のような伝承も混在しています。。考えられるのは出雲国との関係。出雲に関しては、古事記に神話として記されているだけですが大和に勝るとも劣らない王国があったことは確かだと想像します。大和に前方後円墳が造られる前の時代のものとされる四隅突出型墳丘墓。そして弥生時代中・後期のものとされる加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡。それらが出雲王国の存在を証明しています。記紀に出雲王国の存在は記されていませんが、気になる記述はあります。垂仁天皇紀に、物部十千根に詔して出雲の神宝の検分させた記述。妄想の域を出ませんが、出雲に西から睨みを効かす存在として石見国に物部の拠点が築かれたのかも知れません。。神社境内については、別記事にしたいと思います。。
2022.02.27
コメント(0)
椿大神社(つばきおおかみやしろ)伊勢国一ノ宮三重県鈴鹿市山本町1871椿大神社公式HP御祭神 主神 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ) 相殿 瓊々杵尊(ににぎのみこと) 栲幡千々姫命 (たくはたちちひめのみこと) 配祀 天之鈿女命(あめのうずめのみこと) 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 前座 行満大明神(ぎょうまんだいみょうじん)当社社伝によれば倭姫命の御神託により、猿田彦大神の墓の近くに社殿が造られたのが創始。全国の猿田彦大神を祀る神社の総本宮とのこと。ただし、内宮の近くにある猿田彦神社をそれとする説もあるようです。猿田彦大神は天孫降臨神話で、ニニギノミコト一行の道案内をした神。そのため「みちびきの神」として信仰されています。参拝日にも、多くの車が車祓を受ける順番を待っていました。猿田彦大神の墓とされている高山土公神陵手水舎では蛙が参拝者を迎えてくれます。同じく猿田彦大神を祀る伊勢市の神社、二見興玉神社の手水舎にもたくさんの蛙像がありました。ちなみにここ椿大神社は、三重県で伊勢神宮、二見興玉神社に次ぐ参拝者数を誇っているそうです。参拝は昨年9月。ここは2度目の参拝。前回の参拝は大雨だったので、今回の参拝を楽しみにしていました。まだまだ残暑厳しい時節でしたが、境内は神聖で心地よい気がただよっていました。「静謐」と、言いたいところですが実はけっこうな数の参拝者で賑わっていました。御船石座(瓊々杵尊一行の御船が到着した場所と伝わる)参道右手に、別宮・椿岸神社があります。公式サイトを始め、いろいろ調べてみましたが「読み方」が不明でした。ただ、公式サイトの椿岸神社を紹介するページのURLを見るとhttp://tsubaki.or.jp/tsubakikishi/ となっています。おそらくは「つばききしじんじゃ」と読むのだと思います。境内には赤い灯篭がたくさん並んでいました。前回の参拝時は、悪天候で暗かったせいか全ての灯篭に灯りがともっていました。別宮 椿岸神社■御祭神 天之鈿女命(あめのうずめのみこと)天孫降臨の神話では、瓊々杵尊と共に降臨した神。天の岩戸神話の場面や、天孫降臨の場面でも(官能的な)踊りを踊ったことから、芸能の神として信仰されています。天之鈿女命は瓊々杵尊一行からはなれ猿田彦大神の妻となったと神話には書かれています。また夫婦円満の神、縁結びの神としても崇敬をうけておりここでは神前結婚式も行われているそうです。椿岸神社社殿の右にある「かなえ滝」良縁・開運などの御利益があるそうです。「この画像を『待受け』にすると願いが叶う」とどこかで聞いたことがあります。前回の参拝では悪天候のため、なかなかいい写真が撮れませんでした。今回はいい条件ではあったのですが、参拝者が多く苦労しました。撮影に気を取られたわけでもなかったのでしょうが、今回も摂・末社をちゃんと回ることが出来ませんでした。体力的に奥宮は無理かも知れませんがせめて珍しい松下幸之助社だけでも参拝しておきたかったです。一ノ宮 No.20ここには書けない龍水のホンネ 「龍水御朱印帳・裏ばなし」「本殿へまっしぐら!」前回参拝時の記事(2011).
2018.05.03
コメント(0)
大神神社(おおみわじんじゃ)尾張国一ノ宮愛知県一宮市花池2-15-28■御祭神 大物主神 (おおものぬしのかみ)御祭神は神社名でもわかるように言わずと知れた奈良県桜井市の大神神社の神。ただしもうひとつの尾張国一ノ宮・真清田神社の御祭神、天火明命(尾張氏の祖神)の十世の孫である大美和都禰命(オオミヤツネノミコト)とする説もあるようです。住宅街の中にひっそりと鎮座する小さな神社。宮司も常駐していないようで、御朱印は郵送でいただける旨の案内がありました。境内に一宮市指定有形文化財の木造狛犬の案内板がありました。境内をくまなく探索するも見当たらず。あとで調べてみると、他の神宝と共に博物館で保管されているそうです。ちょっと個性的な色の拝殿。知らずに立ち寄っていたら、ここも尾張国一ノ宮だとは想像もつかないかも知れません。木造狛犬が気になったせいで、肝心の真清田神社よりも丁寧に境内を回った感じです。とは言え、それほど広い境内ではありませんが。本 殿神社では真清田神社と当社は対の宮であり、ともに一ノ宮になったと称しているそうです。真清田神社で会った朝の散歩をされていたおじさんが「一ノ宮なら、もう一社あるよー」とおっしゃっていました。当社は忘れられた神社というわけではないようです。一ノ宮 No.19ここには書けない龍水のホンネ 「龍水御朱印帳・裏ばなし」「例によって駆け足の旅」.
2018.05.01
コメント(0)
真清田神社(ますみだじんじゃ)尾張国一ノ宮愛知県一宮市真清田1-2-1真清田神社公式HP■御祭神 天火明命(あめのほあかりのみこと) 天火明命荒魂(別宮・三明神社)初参拝(2017/9/15)の神社。市街地に鎮座する神社なので、早朝に参拝。先の大戦での空襲のため、戦後の再建ではあるもののさすがは風格を感じさせるお姿。神社名の由来は、「清く澄んだ水によって形成された田」とも。鎮座地である一宮市は長野県の山岳地帯から流れる木曽川と岐阜の南アルプス方面からの飛騨川が合流した木曽川流域。正に「清く澄んだ水」の土地であったのでしょう。境内には御神水もありました。画像右手に見えるのは「おもかる石」です。しかし事前準備を全くしていなかったため(いつものことですが)境内で見逃してしまったものがたくさんあります。またの機会にゆっくりと参拝しなくてはいけません。早朝のため、社務所は閉まっていました。先を急ぐ旅でもあったため、とりあえずは「ご挨拶だけ」と言った感の参拝となってしまいました。もう少し本殿が見える場所もあったようですが、この程度の写真しか撮っていません。なんだか心ここにあらずといった感じの参拝となって残念です。もうひとつの一ノ宮、大神神社に参拝のあと再訪したのですが御朱印がいただける時間にはまだ早かったようです。とりあえず「初参拝」みたいな感じですが私の場合伊勢でも熊野でも初参拝はこんな感じでした。今回はとりあえず「一ノ宮巡り」の参拝記録ということでご容赦を。一ノ宮 No.18ここには書けない龍水のホンネ 「龍水御朱印帳・裏ばなし」「例によって駆け足の旅」.
2018.05.01
コメント(0)
白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)加賀国一ノ宮石川県白山市三宮町ニ105-1白山比咩神社公式HP■御祭神 白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冉尊(いざなみのみこと)御祭神の白山比咩大神は、菊理媛尊(くくりひめのみこと)と同一神とのこと。当社は全国にある白山神社の総本社。2004年の秋ごろ、神社巡りを始めて以来ずっと憧れていた神社です。加賀国一ノ宮でありながら、鎮座地の住所が「三宮」…不思議に思って調べてみると、幾度かの遷座をした後に摂社・三宮があった現在地に遷ったのだそうです。表参道 手水舎参拝は昨年8月11日の午前9時頃。さすがにこの季節の9時だと、早朝という雰囲気ではありませんでした。そんなことより、目論見がすっかり狂ってしまいました。実は参拝前までこの神社の鎮座地に関し、白山市→霊峰・白山→山地→田舎 をイメージしていたのです。なので午前9時頃でも、ゆっくりと人影まばらな境内を堪能出来ると想像していました。確かに市街地からは離れた場所なのですが、さすがは白山比咩神社。多くの方が参拝されていましたし、参集殿でなにか催しがあるらしく境内と北参道は大勢の人であふれていたのです。表参道をゆっくりと歩いて参拝しようと思っていましたが、完全に予定が狂ってしまいました。もちろん参拝はゆっくりさせていただきましたが、境内の撮影は「ゆっくりと」とは行かず残念でした。境内で見逃してしまったものもあるし、またいつか再訪させていただかねばなりません。奥宮遥拝所静かで神聖な境内を勝手にイメージしていたのですが、授与所の前にも御朱印待ちの長蛇の列。境内の撮影はあきらめて、神事の師匠から言われていた禊場に向かいました。禊社 禊場ここは平成18年に造られたのだそうです。滝は白山の伏流水を引いたものだそうです。白山の伏流水と聞けば黙っていられません。自他共に認める「水フェチ」なので、どこに出かけても「名水」「御神水」「湧き水」には目がないのです。イメージしていた「山間の静かな境内」とは違いいったい何台の車が停められるか見当もつかないくらい広い駐車場。門前町というほどではににしろ、周辺には多くの飲食店等もありました。境内の撮影は満足のいくものではありませんでしたが、白山の名水はたっぷりといただくことが出来ました。この「白山霊水」の水汲み場は、北参道駐車場から境内への入口付近手水舎の近くにあります。水汲み場の前にも駐車スペースがあります。一ノ宮 No.17ここには書けない龍水のホンネ 「龍水御朱印帳・裏ばなし」その1 弾丸「マル秘大作戦」ツアー(加賀国編)その2「日本は良い国だ!」.
2018.04.27
コメント(0)
水無神社(みなしじんじゃ)飛騨国一ノ宮岐阜県高山市一之宮町5323水無神社公式HP■御祭神 水無神(みなしのかみ) (御年大神・みとしのおおかみ) 他参拝は2016年11月13日。常緑樹の多い境内で、神門内のイチョウが黄金色に輝いていました。「何が?」と聞かれると答えられないのですが、関西の神社とは違った雰囲気が漂います。.明治の初めに島崎藤村の父が宮司として仕えていたことがあったそうです。その宮司は有名な藤村の小説「夜明け前」のモデルだと言われています。また、第二次世界大戦終盤の空襲などのため、熱田神宮の御神体が一時この神社に疎開されたこともあるそうです。これを「御動座」と言うのだそうです。旧社格は国幣小社ですが、その社格以上に重要な神社ということなのでしょう。.境内に入ってすぐ目を引かれるのは杉の大木。樹齢はおよそ800年と伝えられ、県指定天然記念物だそうです。枯れたまま保存されているのはネジの木。普請のために伐採しようとしたところ、一夜のうちにねじ曲がったという謂れのある木。..境内社・白川神社は、ダム湖に水没した二つの集落にあった白山神社をここに遷して合祀したもの。..一般参拝者は神門からの参拝となります。上の写真はその神門から見た拝殿。神門からは本殿は見えませんが境内を出ると、垣間見える場所もあるようです。拝殿前にある境内社のことなど、社務所でいろいろお尋ねしたいことがありました。しかしご神職も巫女さんも七五三の対応で忙しく、御朱印をいただくのがやっとでした。またいつか再訪出来る日が来ればよいのですが。一ノ宮 No.16 ここには書けない龍水のホンネ「龍水御朱印帳・裏ばなし」飛騨国は遠かった~憧れの南アルプスや高山ラーメンなど~.
2017.03.07
コメント(2)
宇倍神社(うべじんじゃ) 因幡国一ノ宮 鳥取市国府町宮下字一宮651 宇倍神社公式HP■御祭神 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)御祭神は第十二代景行天皇から成務・仲哀・応神・仁徳天皇の五朝に仕えた「大臣」と言われ、360余歳で因幡国のこの地で終焉を迎えたと伝えられています。そのため、長寿の神として信仰されているそうです。実際に360年も生きたわけではないのでしょうが、ここでは理由は省略しますが、五朝に仕えていたというのは本当かも知れません。 現在の社殿は明治31年に造られたものだそうですが、翌明治32年に神社では初めて御祭神像と共に社殿が紙幣の図柄に採用されました。以降、昭和初期にかけて何度か紙幣の図柄になりそのため金運・財宝・商売繁盛の神としても信仰されているとか。紙幣に載った社殿の図柄は、上の画像のようなデザインでした。社務所で実際に紙幣を見せていただきながら宮司さんからいろいろと丁寧なお話をお聞かせいただきました。 社殿は小高い場所にあります。下に駐車場が見当たらず、案内に従って山道を登りましたがかなり上の方まで駐車場が点在していました。最も便利なのは鉄筋コンクリート製の授与所・参集殿下の駐車場。私は最初、神社は山の中腹にあるのかと思いかなり上の方の駐車場に停めしばらく山道を登ってしまいました。実際の高さは上の画像程度の位置でした。 式内社で名神大社に列せられ、旧社格は国幣中社。高い社格を誇るだけあって、立派で風格のある社殿です。ちょうどそれまで使っていた御朱印帳が満杯となっていたので授与所でお尋ねしたところ、宮司さんが方々探して持って来ていただいたのがなんと「全国一の宮御朱印帳」でした。昨年から期限を決めずにゆるーく始めた「一之宮巡り」ですが、本気でやれよと背中を押されたような気分になりました。 手水は稲葉山中腹の湧き水で「七宝水(しっぽうすい)」延命長寿、美人になるなど七つの効能がある御神水だそうです。水にはチョットうるさい私ですが、なぜだかここのお水の感想は覚えていません。 境内と周辺にいくつかポケストップがありますが、神社境内でのポケモンの捕獲はやめておきましょう。一時のようなブームは去ったようですが、今でも駅前などでスマホの画面を指で「ピンピン」やってる人を見かけます。ちなみに私はポケモンGOはやめました。スマホからアプリも削除しています(どうでもいい話ですね)。 この日は体調がすぐれず本殿裏の上にある武内宿禰命終焉之地と言われる亀金岡の「双履石(そうりせき)」には行けませんでした。この日の鳥取の旅では、ほとんど観光らしいこともできなかったため再度チャレンジしたいと思います。 一ノ宮 No.15 ここには書けない龍水のホンネ ミスターイトウの誘惑 衰えたか「神社巡り」の情熱.
2017.03.02
コメント(0)
大神神社大和国一ノ宮奈良県桜井市三輪大神神社公式HP ■御祭神 大物主大神 配祀 大己貴神 少彦名神 三輪山を御神体とし、本殿を持たない神社・・・とまぁ、今さら解説の必要もないでしょう。日本最古の神社とも言われ、記紀にも記された古社。 二の鳥居をくぐると神聖な空気に包まれます。数ある関西の神社の中でも、やはりここは別格の雰囲気。「ざしゅ ざしゅ」参道を歩く足音に、身が浄められていく。 差し込む朝陽に迎えられ頭を下げながら神さまの前へと歩む杜。 多くの参拝者が訪れる三輪明神も平日の早朝だと人もまばらで静かです。昨今の「パワースポットブーム」により、三輪山登拝にやって来る若者も多いとか。10年ほど前にお山に登らせていただきましたが、あの日が今の私の原点だったのかも知れません。 あの日ここで撮った1枚の写真がとあるサイトで絶賛されました。そのときの写真は恥ずかしくてここではご紹介出来ませんが気を良くした(と言うか「勘違いした」)私は神社や聖地の撮影にのめり込み、このブログ開設へとつながったのでした。 来年あたり、大神神社の摂末社を全て回ってみようかと思います。伊勢神宮125社巡りとは違った趣がありそうです。いったい何社あるのか知りませんが、久しぶりに三輪山にも登拝してみたいですし。撮影することは出来ないでしょうが、三ツ鳥居も見てみたいと思います。 一ノ宮 No.14 ここには書けない龍水のホンネ大神神社・早朝参拝龍水夫婦の悲劇「マル秘大作戦で大失態!?」.
2015.11.10
コメント(2)
出雲大神宮・本殿「出雲大神宮 その1」に続き、今回は境内社と磐座のご紹介です。 磐座(いわくら)の多い境内です。元々は国常立尊の鎮まる御神体山の御陰山を奉斎していたとのこと。その御神体山にも磐座があります。ここのところ体力に自信がないため、ここ数年は御神体山への登拝はしていません。 古くは大八洲国国祖神社と呼ばれていたという伝承もあります。また、神社では現在の出雲大社は明治以前は「杵築大社」と呼ばれておりそれまでは「出雲神社」と言えば当社のことだと称しています。伝承と言えば、先の記事「出雲大神宮 その1」でご紹介した※「丹波国風土記」逸文についてですが、どうやらその逸文の出所は不詳で当社々伝でのみ残っている伝承のようです。(※元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す) ここの「真名井の水」は名水として知られています。確かにまろやかないい水だと思います。手水舎の裏に水汲み場があります。 大国主命と言えば「縁結び」ですが、この夫婦岩に赤い紐を結んで良縁を祈願する「えんむすびまつり」が毎月第四日曜日の午後2時に行われているそうです。ただしこの神社の「縁結び」は他とは違い大国主命と三穂津姫命の結婚に由来しています。三穂津姫命は日本書紀・葦原中国平定(国譲り)の場面において、「一書にいう」の第二にのみ登場する神。高皇産霊尊の娘であり、その結婚は大国主命の天孫への忠誠を誓わせる意味があったようです。神社では二神を「天地結びの神」と称し「即ち縁結びの由緒は叉ここに発するもの」と主張しています。 春日社 崇神天皇社 稲荷社 御蔭の滝 本殿東の小高い場所にある「上ノ社」 上ノ社の御祭神は素戔嗚尊と櫛稲田姫尊。創建は文化10(1813)年と言われています。境内に素戔嗚尊を祀る神社は配するのは、出雲大社の素鵞社(そがのやしろ)に倣ったものでしょうか。 なぜか今まではあまり足が向かない神社だったのですがことしは何のご縁か既に3度も参拝しています。次回は御神体山への登拝もしてみたいと思います。 「龍水御朱印帳・裏ばなし」閲覧注意・毒舌と偏見ここでは言えない龍水のホンネ「磐座などの撮影の賛否」.
2015.10.08
コメント(4)
出雲大神宮丹波国一ノ宮京都府亀岡市千歳町千歳出雲出雲大神宮公式HP ■御祭神 大国主命 三穂津姫命 出雲大神宮のHPによれば(「丹波国風土記」逸文)「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。とのこと。つまり、出雲大社(明治以前は「杵築大社」)の御祭神・大国主命はこの出雲大神宮からの勧請だということ。私を含めて「信じられない」と言う方が多いと思いますが、よく考えるとそう思える根拠は希薄です。記紀神話によれば、出雲大社創建の起源は「国譲り」であり神代の時代の神話は歴史上で「いつ」と語れないのです。 また、もう一柱の御祭神・三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)は后神ですが大国主命の神話が詳しく語られる古事記には登場しません。日本書紀の葦原中国平定(国譲り)の場面の「一書にいう」の第二に名前だけ出てくる神で高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の娘とされています。正妻とされる須瀬理姫命(すせりびめのみこと)ではなく、なぜ三穂津姫命なのか気になるところです。三穂津姫命は島根県の美保神社に事代主命と共に祀られています。しかし三穂津姫命は事代主命の母ではありません。 先にご紹介した「丹波国風土記」逸文によればここは「元出雲」ですが、少なくとも鎌倉時代末期には、「定説」通り御祭神は出雲大社からの勧請と認識されていたようです。 徒然草・第二百三十六段 丹 波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。 御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。 意訳丹波出雲という所に、出雲大社から神様を勧請した立派な神社がある。聖海上人など多くの人々を招いたところ、狛犬が背中合わせになっていたことに聖海上人はひどく感動された。聖海上人は涙を流して「このすばらしさが理解できないわけはない」とも言った。その謂われを知ろうと聖海上人が神職に尋ねたところ、「けしからん。近所の悪ガキの仕業です」そう言って、狛犬を元通りに据え直した。聖海上人の感涙は無駄になった。 上記のように、徒然草(吉田兼好)には「丹波の出雲は大社をうつした」と書かれています。ところで徒然草に書かれた狛犬ですが、子供の悪戯で逆さまに向けることが出来たのかどうか疑問ですね。しかし、狛犬が石で造られるようになったのは比較的新しく古くは木造のものが多かったのだそうです。 本殿の扉の前に置かれた木製と思しき狛犬。これくらいの狛犬なら「悪戯」出来そうです。ただし現在は一般人はここに入ることは出来ませんが。一ノ宮 No.13 「出雲大神宮 その2」磐坐・上ノ社につづく 龍水御朱印帳・裏ばなしここでは言えない龍水のホンネ(?)「出雲大社は8世紀(奈良時代)の創建か」やっぱり出雲大社は古くなかった? . .
2015.10.07
コメント(0)
そろそろ汗ばむ季節になった5月末。 久しぶりに住吉大社に参拝しました。 鎮座地は大阪市ですが、堺市に近い場所ということもあって 大阪・北摂に住む私にとっては意外と参拝機会のない神社なのです。 住吉大社 摂津国一ノ宮 大阪市住吉区住吉町 住吉大社公式HP 住吉大社の表の「顔」とも言える太鼓橋は「反橋(そりばし)」と呼ばれています。 石の橋脚は淀君の奉納と伝えられています。 夜にはライトアップされているそうです。 手水舎のウサギ。 これは神功皇后によって住吉三神がこの地に祀られたのが 卯年(うどし)の卯月の卯の日であったことが由来。 反橋を渡ってここまで来ると、 こってこての大阪から神聖な領域に入ったような気がします。 ここは地元の人たちからは「すみよっさん」と呼ばれています。 神門前の鳥居は柱が四角形のため「角鳥居」と呼ばれています。 拝殿と本殿の間にある木造朱塗りの鳥居が原形なのだそうです。 題額は伊万里焼で有栖川宮幟仁親王の筆によるもの。 住吉鳥居とも言われています。 本殿は四つあります。 第一本宮から第三本宮まで住吉三神が祀られ まるで船団のように東から西に海に向かって一直線に並んでいます。 神功皇后を祀る第四本宮は第三本宮の南隣にあります。 第四本宮の千木のみ、水平削ぎになっています。 一番奥にある第一本宮から順に参拝します。 (写真は第二本宮と第三本宮) 第一本宮 ■御祭神 底筒男命(そこつつのをのみこと) 第二本宮 ■御祭神 中筒男命(なかつつのをのみこと) 第三本宮 ■御祭神 表筒男命(うわつつのをのみこと) 第四本宮 ■御祭神 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后) ここは参拝者の少ない早朝だと逆光になるので いつも撮影には苦労します。 一ノ宮 No.12 龍水御朱印帳・裏ばなし「どこでもみそーぎ」ここでは書けない裏ばなし住吉大社でのアヤシイ行動とは・・・ .
2015.09.03
コメント(0)
籠神社(このじんじゃ) 丹後国一ノ宮 京都市宮津市字大垣 430籠神社公式ホームページ ■御祭神 主祭神 彦火明命(ひこほあかりのみこと) 相殿 豊受大神 天照大神 天橋立の西詰に位置する丹後一ノ宮・籠神社(このじんじゃ)。古くは「天橋立」を参道とする、元伊勢として知られる社格の高い神社です。 御祭神の彦火明命はまたの名を、天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命とも。神社では「極秘伝」として、彦火明命は上賀茂神社の御祭神、賀茂別雷神と異名同神との言い伝えもあるのだそうです。 籠神社の社名は、主祭神である彦火明命が籠舟に乗って竜宮に行かれたという伝承から。 籠神社の狛犬は鎌倉時代の作。「日本一の名品」とも言われ、重要文化財の指定を受けています。あまりの出来の良さからか、天橋立に夜な夜なこの狛犬が出没し参拝者たちを驚かした為、伝説的豪傑・岩見重太郎が前足を切ってからその出現が止まったという伝承が残っています。阿形の右前足の傷がそのときの刀傷と伝えられています。 その顔は犬や獅子と言うよりはゴジラっぽいです。 この狛犬の写真は、事情があってiPhone6で撮ったものです。 私がブログを始めた頃(2004)の携帯での写真は ブログに貼りつけると切手ほどのサイズしかなく、 しかもその画像は油絵みたいなもので、時には抽象画みたいなものでした。 携帯電話はたった10年ですごく進歩したものですね。 今回の参拝日は平日ということもあってか、駐車場には車は1台のみ。時間は朝の7時ちょい過ぎ。籠神社での早朝参拝は初めてですし思う存分、撮影するつもりでおりましたが・・・。 ところが、残念ながら撮影が出来るのはここまで。神門内は撮影禁止となっておりました。パワースポットブームのせいか、真名井神社の磐坐が立入禁止になったことは聞いていました。しかし、神社側がここまで過敏に反応しているとは想像していませんでした。確かに私自身も含め、神社境内や聖地でのマナーに関しては反省すべき点が多々あります。特に一部の宗教系のグループや、スピ系と思しきグループの行動にはこの私でさえ眉をひそめることもしばしばありました。しかしマナー違反は今に始まったことではありません。若い人たちにとっては意外かも知れませんが、団体旅行の年配者の中には「手水の作法」も「参拝の作法」も知らない人が多く見られます。手水舎で「ガラガラ、ぺっ!」とうがいをする人や、柄杓に直接口を付けて、ごくごくと水を飲んでのどを潤す人までいます。そういう参拝者は、籠神社に限らず京都や奈良など、観光地の神社では昔から日常茶飯事の光景でした。ある程度は仕方ないことだったと思うのです。 これほどの反応、制限がされたということは 真名井神社や籠神社でのマナー違反が相当ひどかったということなのでしょう。 一ノ宮 No.11 龍水御朱印帳・裏ばなし「マル秘大作戦 ~ 神社ブロガーのウラ話(2)~ 」ここでは書けない裏ばなし貧乏暇なしのマル秘作戦早朝参拝の「前のり」とは・・・ .
2015.08.22
コメント(0)
伊雜宮(いざわのみや) 皇大神宮別宮 志摩国一ノ宮 三重県志摩市磯部町上之郷 ■御祭神 天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま) 伊雜宮は瀧原宮と並んで「天照大神の遙宮(とおのみや)」と言われています。皇大神宮の別宮では荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ社格を誇っていますが過去には伊雜宮神官が「伊雜宮が本来の内宮」と主張するなど、内宮との関係が悪かった時代もあったそうです。 近鉄・上之郷駅から徒歩5分。上ノ之郷駅は普通電車しか止まらない無人駅。トイレが併設された大きな駐車場もあり、車での参拝も楽です。鳥居をくぐると左手に衛士派出所、右手に宿営屋があり宿営屋では御朱印もいただけます。 遷御の儀が斎行されたのは、昨年(2014)11月。上の写真は遷御前、昨年の9月23日に撮影したものです。2005年から毎年この伊雜宮に参拝していますが、旧社殿は撮影が難しく、まともな写真がほとんど残っていません。こんもりとした木々に囲まれた狭い敷地のため、明るい部分と暗い部分の差が激しく、なかなか「見たまま」の風景をカメラに収めることが出来ませんでした。早朝や曇天だといいのかも知れませんが、年に一度の参拝ではいい条件で撮れるかどうかは運次第なのです。遷御直前にやっと、なんとか撮影させていただけた感じです。このブログでも過去に何度か記事を書いていますがあまりいい写真がありません。 「伊雜宮」「伊雜宮」2010/6 「伊雜宮」2010/9 「伊雜宮」2014 伊雜宮は唯一「神田」を持つ別宮です。伊雑宮の御田植式は、香取神宮、住吉大社のお田植とともに、日本三大御田植祭とされています。2枚目の写真の右手に見える森は、伊雜宮の社叢です。 不謹慎な表現かも知れませんが、今回この伊雜宮を参拝した感想は「かっこいいお宮さんだ」でした。改めて伊雜宮の風格と大きさを感じたのです。別宮はどれも同じに見えるかも知れませんが、社格によって大きさが異なります。今回この伊雜宮は、その大きさ以上に威風堂々とした大きさを感じました。新しい社殿は撮影がしやすくなりました。背景に空が入らないこともあるのですが、社殿が新しく明るいせいでもあるのでしょう。 こちらは境内・宿衛屋の近くにある「巾着楠」と呼ばれるクスノキ。金運を授かるとも言われているそうですが、ここに限らず神宮所管の神社ではそういった案内板は一切ありません。 瘤が出来る木と言えばイチョウというイメージがありますがクスノキでは初めて見ました。境内はそれほど広くはありませんがこの他、すばらしいクスノキがいくつかあります。 ここに参拝したら、 伊雜宮所管社の佐美長神社もお薦めです。 国道沿いに志摩方面、約700mの小高い丘の上にある神社です。 国道を挟んで向かい側に志摩市役所・磯部支所跡があり 短時間の駐車なら問題ないようです。 そして伊雜宮へ車で行ったなら、外せない場所「天の岩戸」があります。 (電車・バスでも訪問可能 → 「裏ばなし」ご参照ください)伊勢神宮125社巡りとは関係ない場所なのですが、私にとっては色々な意味で大切な場所でもあります。 一ノ宮 No.10 龍水御朱印帳・裏ばなし 「天の岩戸(三重県志摩市)」 伊雜宮に参拝したら絶対に寄りたい場所猿でもわかるアクセス解説付き .
2015.08.20
コメント(0)
伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう) 淡路国一ノ宮 兵庫県淡路市多賀740 伊弉諾神宮公式HP ■御祭神 伊弉諾大神 伊弉冉大神 日本書紀に 「 伊弉諾尊神功既畢而霊運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者也」とあり 全ての神功を終えた伊弉諾大神が、淡路島の多賀にお隠れになったことが記されています。 その地が 伊弉諾神宮の起源であるとのこと。 そのためこの神社は「 幽宮(かくりのみや)」とも呼ばれるのだそうです。 一方、古事記には「 故其伊邪那岐大神者。坐淡海之多賀也」とあり その場所は多賀大社だと言われています。 神 門 近くて遠かった淡路島。 神社巡りを始めて約10年になりますが、なかなか行く機会がありませんでした。 理由は単純で、明石海峡大橋の通行料が高かったこと。 高速代と合わせて見ると、「これだけ払うのなら伊勢か熊野へ行こう」となってしまいました。 しかし最近、大幅なETC割引が実施されたことを知り やっと淡路島に渡る決心がついた小市民です。 拝 殿 しかしこの日は土砂降りの雨。 景色は楽しめませんでしたが、明石海峡大橋には感動しました。 さぞかし伊弉諾大神も驚かれたことだろうと思います。 人間の業も捨てたもんじゃありません。 幣殿中門 参拝した日は平日で悪天候。 参拝者はほとんどいませんでした。 ずっと憧れていた神社なので、大雨はそれほど気になりませんでした。 それより、御朱印帳を持参するのを忘れてしまったことが悔やまれます。 本殿裏 ここの参道や社殿は蒼空に映えそうです。 御朱印のこともありますし、近いうちに再訪したいと思います。 冒頭にも書きましたが、記紀に書かれた伊弉諾大神の幽宮の場所の違い。 両社に関しては興味深い共通点があります。 それに関しては「裏ばなし」の方でご紹介しようと思います。 根神社(ねのじんじゃ)・御祭神 素戔嗚命竈神社(かまど)・御祭神 奥津彦命 奥津姫命 左右神社(さう)・御祭神 天照皇大御神 月読尊 住吉神社(すみのえ)鹿島神社(かしま) 淡路祖霊社 岩楠神社(いわくす)・御祭神 蛭子命 放生の神池 龍水御朱印帳・裏ばなし「 琵琶湖と淡路島」伊弉諾神宮と多賀大社の位置関係そしてその中間地点に鎮座する神社 一ノ宮 No.9.
2015.08.19
コメント(0)
若狭彦神社福井県小浜市竜前■御祭神 若狭彦大神 (彦火火出見尊)この10年間で最も多く参拝している神社。このブログでも何度もご紹介していますが、今年は一ノ宮巡りをしています。なので、ここはやはり外せません。御祭神は彦火火出見尊(山幸彦)とされていますが、元々、若狭彦大神は遠敷大明神(おにゅうだいみょうじん)とも呼ばれる若狭土着の神の神様なのかも知れません。 一ノ宮 No.7 若狭大明神が降臨された場所と伝わる、小浜市下根来。その地には若狭彦神社の元宮とも言われる白石神社があります。すっぽりと覆い屋に覆われた神社の前に礎石が見えます。昔はここに拝殿があったのかも知れません。若狭彦神社、若狭姫神社社殿の前にも同様の礎石があります。白石神社の近くにある「鵜ノ瀬」は、東大寺二月堂のお水取りに先立って行われるお水送り神事が行われる場所です。ここと二月堂下の若狭井が、地下水脈でつながっているという言い伝えがあります。若狭姫神社福井県小浜市遠敷■御祭神 若狭姫大神 (豊玉姫命)若狭彦神社よりも後の創建だそうですが、現在はこちらが祭祀の中心となっているようです。国道27号線に近いためでもあるのでしょう。社務所も若狭姫神社にあり、両社の御朱印もここでいただきます。本殿の脇に立つ「千年杉」乙姫さま(豊玉姫命)の坐す神社だけあって、この杉は力強さと共に女性的な優しさも兼ね備えているように見えます。一方、若狭彦神社にある杉は、どれも直線的で男らしくそびえ立っています。一ノ宮 No.8◆関連記事・若狭彦神社・若狭姫神社・若狭国一之宮の神域・若狭国一宮・二月堂の守り神 ここには書けない龍水のホンネと毒舌「龍水御朱印帳・裏ばなし」.
2015.06.25
コメント(0)
氣比神宮(けひじんぐう)越前国一ノ宮福井県敦賀市曙町11-68氣比神宮公式HP ■御祭神 伊奢沙別命(いざさわけのみこと) -- 別名 氣比大神 帯中津彦命(仲哀天皇) 息長帯姫命(神功皇后) 誉田別命(応神天皇) 日本武尊 玉妃命 -- 神功皇后の妹 武内宿禰 日本書紀によれば、仲哀天皇が敦賀に行き、行宮(かりみや)「筍飯宮(けひのみや)」を建てたとの記述があります。また古事記には、仲哀天皇の皇子・誉田別命が新羅遠征と大和への凱旋後に禊ぎに訪れ氣比大神と名前を交換したと書かれています。氣比大神は陰陽道にも関係がある神とも言われ、朝鮮半島か大陸系の神を連想します。陰陽道と言えば安倍晴明。晴明は990年から5年間、この敦賀で修行した記録があるそうです。 氣比神宮の北東にそびえる天筒山。 神奈備とも称され、中世においても歴史的に重要な場所となった山。 敦賀は古くは「角賀」「都奴賀」と言われ、 朝鮮半島の王子「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」にちなんだ地名とも。 また古事記では海豚の血に染まった「血浦」と呼ばれた記述もあります。 江戸時代に建てられた朱塗りの両部鳥居。佐渡から流れてきた大木を用いて造られたと伝えられているそうです。高さは約11mあります。厳島神社、春日大社の鳥居と共に「日本三大木造鳥居」のひとつ。 参道の先、手水舎の横に「長命水」という湧き水があります。うっかりしていると見逃してしまうほど目立たない場所にあります。 氣比神宮は松尾芭蕉が立ち寄ったことでも知られています。社殿前に、松尾芭蕉の銅像や句碑が建てられていました。 一ノ宮 No.6 ここには書けない龍水のホンネと毒舌 「龍水御朱印帳・裏ばなし」.
2015.06.01
コメント(0)
河内国一ノ宮大阪府東大阪市出雲井町7番16号 枚岡神社公式HP ■御祭神 第一殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 第二殿 比売御神(ひめみかみ) 第三殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 第四殿 経津主命(ふつぬしのみこと) 藤原氏の氏神、春日四神を祀る神社。 全国の春日神社の総本宮である春日大社よりも歴史は古く、春日大社の御祭神、天児屋根命と比売御神はこの神社から勧請されたものです。従って枚岡神社は「元春日」とも呼ばれています。春日大社境内には、枚岡神社遥拝所(若宮十五社巡り)があります。 画像手前より順に第二殿、第一殿、第四殿、第三殿。配置に疑問を持たれるかも知れませんが、これは元々ここが第一殿、第二殿だけだったものに春日大社から勧請された経津主命と武甕槌命の本殿を「建増し」したためと思われます。ちなみに春日大社の本殿の配置は、向かって右から次の通り。第一殿・ 武甕槌命、第二殿・経津主命、第三殿・天児屋根命、第四殿・比売神。画像一番手前の比売御神を祀る第二殿の千木のみ、水平に削がれています。「国宝御本殿特別公開(2015.5/末まで)」で 春日大社の本殿を間近に見ましたが、春日大社の第四殿(御祭神・比売神)の千木は他の本殿と同じように垂直削ぎでした。 TOP画像の鳥居は、近鉄・枚岡駅前(山側)すぐにあります。そこから長く広い参道がまっすぐに社殿に向かっています。参道には花崗岩が敷き詰められているのですが、舗装道路のようでありいかにも人工的な感じがします。しかしこの参道は緑の気と御神気が渦巻いているようで圧倒的なパワーを感じます。「パワー」だとか「気」などと言うと、ちょっとスピ系っぽいのですが、初参拝のときは押し戻されるほどの圧力を感じたくらいです。社殿には参道からけっこうキツイ石段を上ることになります。 拝 殿 春日系の神社でよく見られる狛犬ならぬ狛鹿は、枚岡神社にはありません。参道にも狛犬はなく、中門前に一対だけ狛犬が配されていました。石段の下にそれらしいものがありますが、それらは「なで鹿」と呼ばれるもので「阿吽」ではありませんでした。 牡 鹿 仔鹿を抱いた牝鹿 すぐ近くには「石切さん」こと、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)があります。石切劔箭神社は、参道を歩いているとある意味「こてこて」の大阪という感じですがこちらは全く違った雰囲気を持つ、静謐で神聖な境内。 神社好きの方にはおすすめの神社です。 一ノ宮 No.5 .
2015.04.21
コメント(7)
和泉国一ノ宮 大鳥神社(正式名称)堺市西区鳳北町1-1-2 ■御祭神 日本武尊 大鳥連祖神 大鳥連は天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖神とする中臣(藤原)氏と祖を同じくしているとのこと。したがって、大鳥連祖神は天児屋命と同神とのこと。「大鳥大社」は通称で、正式には「大鳥神社」 日本武尊像 日本武尊は天皇の皇子なので、「人」なのですがその伝説は「神話」のイメージが強いですね。その墓も命を落としたとされる伊勢国の能褒野(のぼの)、白鳥となって飛来したとされる大和琴弾原(奈良県御所市)、そして河内古市(大阪府羽曳野市)の3か所にあって、何れも宮内庁管理の陵墓です。ちなみに墳丘長190mの前方後円墳である古市の白鳥陵。この地からさらに羽を曳くように(白鳥=日本武尊)飛び立ったので「羽曳野」という地名の由来になったと言われています。 日本武尊は亡くなるとき、故郷・大和を思って歌を詠んだとされています。 「倭は 国の真ほろば たたなづく 青垣、山隠れる 倭しうるはし」 白鳥となった日本武尊は、大和を通り過ぎて河内に至り、さらにどこを目指して飛び立ったのでしょうか。大鳥大社の社伝によれば、この地が最後に舞い降りた場所なのだそうです。 拝殿前にある八角鳥居 参拝した日は「立入禁止」となっていましたが、本殿の裏に小さな祠があり、そこに石柱が立っています。ずっと前、それを見たとき私はその石柱に日本武尊が舞い降りたのではないかと想像しました。あの石柱の意味を社務所で聞けばよかったと後悔しています。 この美しい本殿は「大鳥造り」と呼ばれる独特のもの。出雲大社の大社造に次ぐ古い建築様式だそうです。 「千種の森」と呼ばれる鎮守の森は緑豊かですし広い境内と立派な社殿。さすがは「和泉国一ノ宮」と言いたいところですが、ちょっと残念な一面もちらほら。日本武尊が飛来したとき、一夜にして千種万種の木々が生えたという伝説がある千種の森は青いペンキで塗られた鉄のフェンスに囲まれ 一の鳥居をくぐって本殿前までの参道を車が走り境内には無造作・無秩序に電線が張りめぐらされていました。参拝者の便宜のためなのでしょうが、神聖な神域なのだからもう少し配慮が欲しかったと思いました。「よそもん」の神社好きの勝手なわがままではあるのですが・・・。 一ノ宮 No.4.
2015.04.06
コメント(2)
日前神宮(ひのくまじんぐう)國懸神宮(くにかかすじんぐう)紀伊国一ノ宮和歌山市秋月365 日前神宮・國懸神宮 公式HP 境内への入口からの参道は突当り、左右に分かれる。向かって左に行くと日前神宮、右へ行くと國懸神宮がある。両社はそれぞれ本殿を持つ別々の神社ですが、その御祭神、御由緒から同じ境内に鎮座する一対の神社となっています。 神社御由緒によれば日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)、國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)をご神体としそれらは伊勢神宮の八咫鏡の前魂(さきみたま)と称しています。 日前神宮 ■御祭神 日前大神(ひのくまのおおかみ) 相殿:思兼命(おもいかねのみこと) 石凝姥命(いしこりどめのみこと) 日本書紀の天岩戸神話の件で、「一書にいう(第一)」に次のような記述があります。「石凝姥を工(たくみ)として、天香山の金(かね)を採って日矛をつくらせた・・・(中略)・・・つくらせた神は紀伊国の日前神である」思兼命は天照大御神を天岩戸から出す策略を考えた神であり、知恵の神として信仰されています。 日前神宮・本殿 一説によれば、日像鏡・日矛鏡は天照大御神を映す鏡としてつくられたものでしたが神々の御意に合わず、後につくられた八咫鏡が用いられたとのこと。上記の社伝にある「八咫鏡の前魂(さきみたま)」とは、そういう意味なのでしょう。よって社伝では、「天照大御神を奉祀しております」と称し日前大神、國懸大神は天照大御神の別名なのだそうです。 日前神宮と國懸神宮を結ぶ参道(手前が國懸神宮) 参拝日は2月21日(2015)。遠くの山々は雪を頂いていましたが、境内の常緑樹は生き生きとし柔らかな木洩れ日と清々しい風が心地よかったです。 國懸神宮 ■御祭神 國懸大神(くにかかすのおおかみ) 相殿:玉祖命(たまおやのみこと) 明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと) 鈿女命(うづめのみこと) 鈿女命は天岩戸の前で踊った神。こちらも天岩戸神話に関わる神が祀られています。 國懸神宮・本殿 日前神宮と同じ造りの立派な社殿。神武東征の後、天道根命(紀氏の祖)が紀伊国造に任命され名草郡毛見郷に二つの神鏡を祀ったのが起源とされます。その後、崇神天皇の御代に浜宮に遷座、そして垂仁天皇の御代に現在地に遷ったと伝えられています。 一ノ宮 No.3 ここには書けないホンネとか「龍水御朱印帳・裏ばなし」 .
2015.03.17
コメント(0)
和歌山市伊太祈曽558 伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ) 紀伊国一ノ宮 伊太祁曽神社公式HP■御祭神 本殿 五十猛命(いたけるのみこと) 左脇殿 大屋津比売命(おおやつひめのみこと) 右脇殿 都麻津比売命(つまつひめのみこと) 御祭神は木の神。日本書紀の「神代」で、素戔嗚尊の八岐大蛇退治のあと「一書にいう」の第四、第五で登場する神。両脇殿の神は五十猛命の妹神で、やはり木の神です。 ちなみに神社名では「伊太祈曽」は「いたきそ」と読まれるが、地名や近くにある駅名では「いだきそ」と読むそうです。 元々は秋月という場所にあったが、日前神宮・国縣神宮が名草浜から移ったためこちら方面に遷座したのだそうです。 現在の地に鎮座されたのは和銅6年(713年)と伝えられています。 本殿と右脇殿。手前は摂社・氣生神社(御祭神は五十猛命の荒御魂) 木祭りで奉納されたチェーンソーカービングの干支。チェーンソー で作られたとは思えないくらい繊細な彫刻です。作者はチェーンソーカービングで世界チャンピオンにもなった城所啓二氏。今年の干支の「未」は拝殿前に置かれてあります。 同じく 蛭子神社前にある「龍神」境内で最も惹かれたのはこの彫刻でした。 祇園神社。御祭神は五十猛命の父である須佐男神(すさのおのかみ)。 御井社と「いのちの水」と呼ばれる井戸。御井社の御祭神は御井神(みいのかみ)と彌都波能売神(みづはのめのかみ)。 なかなかいいお水でした。 御井社への参道。御井社が駐車場から離れていなかったら、「いのちの水」をいただいて帰りたかったのですが・・・。 一ノ宮 No.2 .
2015.03.10
コメント(2)
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)・紀伊国一ノ宮和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230 丹生都比売神社・公式HP ■御祭神第一殿 丹生都比売大神 (にうつひめのおおかみ) 第二殿 高野御子大神 (たかのみこのおおかみ ) 第三殿 大食都比売大神 (おおげつひめのおおかみ) 第四殿 市杵島比売大神 ( いちきしまひめのおおかみ) 若 宮 行勝上人 (ぎょうしょうしょうにん) 画像手前より第一殿~第四殿。丹生都比売大神は丹(朱)の神とも水神とも言われています。高野御子大神 は丹生都比売大神の御子神で、高野山開祖に関わった神だとか。大食都比売大神と市杵島比売大神は鎌倉時代に行勝上人によってそれぞれ気比神宮、厳島神社から勧請されたそうです。 第四殿(中央)と行勝上人を祀る若宮( 向かって左)。一間社春日造では日本一の規模と言われる本殿。美しさと力強さを兼ね備えた素晴らしい本殿です。 手水舎の水は、出方が不規則だったので山の水を引いているようです。すごく「いい水」だと思いました。時折「ゴボゴボ」と響く水音が、山伏の呪術のように聞こえました。市街地から離れた山間に鎮座する神社ですが、いつ来ても遠方からの参拝者の姿が見られます。かつてはこの神社に参拝してから高野山に上るのが習わしだったそうです。 この丹生都比売神社への参拝は今回で3回目。一昨年はカメラを忘れ、昨年は危険なドライブを強いられたほどの積雪。やっとこの美しい社殿をカメラに収めることが出来ました。次回は是非、緑の濃い季節に再訪したいと思います。 一ノ宮巡り No.1 ここには書けない龍水のホンネ「龍水御朱印帳・裏ばなし」丹生都比売神社の神様の厳しい試練???.
2015.02.23
コメント(6)
全21件 (21件中 1-21件目)
1