平成二十九年三月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より)
後藤瑞義(人徳)
原 明男
一病も病みそこないか五年目のあそび心がふと 過 りたり
(評)「そこなう(損なう)」は本来マイナス(悪い)の意味で使われる言葉です。しかし、この場合は、「病みそこない」ですから、むしろプラス的な意味で使われています。そこが面白く思いました。作者は持病があり定期的に検査をしていると聞いています。癌なども、五年経過しますとひとまず安心するようですが、作者も同様の心理が働いたようです。つまり「あそび心が」よぎったということです。
渡辺つぎ
仏壇に供え眺めるアマリリス直径二十二糎みごとに咲けり
(評)まず、「仏壇に供えたのでした」、それはアマリリスでした。この歌はただ仏壇にアマリリスを供えたというのではなく、それを「眺める」としているところに特色を感じました。「直径二十二糎」と具体的な大きさが示されています。確かにこれはすごい、すごい大輪です。それが、ただ供えるだけではなく、眺めることに通じたのでしょう。仏様もびっくりして眺めているかもしれません。
鈴木菊江
透析のない日は畑にいそいそと育てし野菜にふる涙雨
(評)
今年の一月二十八日未明に急性心不全で亡くなりましたわたしの妻への挽歌五首有難うございました。まさにこの歌のように、彼女は透析のない日は、待ちかねたように畑仕事に精を出していました。野菜作りが趣味の様な妻でした。今畑は白菜も何も皆菜の花畑のようになっております。
黒田幸子
久方の春の光は満つれども野は荒涼の枯草の色
(評)「久方の」は、枕詞で「光」にかかります。古典的なしらべを用いて優雅に歌い出しています。問題は「春」でしょう。立春という言葉があります。二月の四日頃ですからまだ寒い時期です。ただ、伊豆では早咲きの河津桜が開花を迎える時期でもあります。まさに春の光が満ちているという表現が当たるでしょう。しかし、野はいまだ「荒涼の枯草の色」なのです。その対照的な光景が心を打つのです。
順天堂長岡病院呼吸器科悪天候の今日も満席
藤井美智子
(評)漢字の多い歌です。齋藤茂吉の歌に、「電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場 塹壕
赤羽
の鉄橋隅田川品川湾」という歌があります。初めて飛行機に乗っての歌であることを知ると納得します。この順天堂の歌もなにか遠くから見下ろしている、俯瞰しているような感じを受けました。ご本人は悪天候を押して病院に来たのですから、そんな余裕はないように思うのですが。なにわともあれ、悪天候をめげずに病院に押し掛けるのは、自分だけではないのだという驚きがあるようです。
小池美恵子
耳遠き喜寿なる夫の検査済み年相応と言われ安堵す
(評)「耳遠き夫」と「喜寿の夫」、どちらかに絞るのではなく、並列したところにおかしみと特色を感じました。多分ご主人の耳の遠いことを心配されて検査をしてもらったのでしょう。それに対しまして、医師の言葉は「年相応ですよ」と言ったのでしょう。それで作者は安堵したというわけです。喜寿という目出度いことと耳が遠くなる年齢でもあるという相反することをたくみに一首に詠み込んでいるのが良いと思いました。
鈴木きみ
我武者羅に働いた母しのぶいま同じようには出来ない私
(評)「我武者羅」という漢字から男勝りに働いたお母さんの姿が浮かびます。そうしたお母さんを作者は偲んでいます。「いま」が微妙な感じを与えます。「しのぶいま」なのか「いま同じようには出来ない私」なのかと迷うのです。「今同じように出来ない」というのであれば、お母さんは作者のいまの年齢も一生懸命働いていたことになります。「同じように出来ない私」と現在形になっていますが、過去の同年齢のときも「同じようには出来なかった私」でもあったのでしょう。「同じようには出来なかったわれ」と過去形にすれば、「いま」は「しのぶいま」になるでしょう。
土屋文恵
波寄するごと眼裏に母浮ぶ巡る爪木の穏やかな午後
(評)「波寄するごと母浮ぶ」とは、どういうことでしょうか。まず波は大波もありおだやかな波もあります。下の句に「穏やかな午後」とありますから、波もおだやかだったことが想像されます。おだやかな波が繰り返しくりかえし寄せてくる、なにか眠くなるような、幼児を寝かしつけているような母親の姿を思い浮かべたりしました。「海」と母ではなく、「波」と母を結びつけたところに特色を感じました。