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久しぶりの日記。とりあえず鬱の底から這い上がってきました。進展はしてないけれどなんとか平常を保っています。明日(今日)から4月。年度替りですね。きりもいいので新しい気持ちでなにか始めたいなと思っています。バイト、教習所、勉強…。どれも今までチャレンジしたけれど続かなかったもの。けれど今何を一番やりたいかといえば断然勉強なので勉強、始めたいです。けれどこの前のように目標もなく学校のように締め切りやテスト、発表する場などもなくただ漠然と一人で部屋にこもって勉強していてもちっとも達成感がないし、今やっていることが有意義なのかもわからなくなってしまうので良い勉強の環境を作らなければなりません。なのでこの間、母に相談の手紙を渡しました。これがなんらかの進歩につながればいいなと思っています。
2005年03月31日
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私はこの数ヶ月間夢を見ていたことに気がついた。夢から醒めてみると、ここは残酷な現実。私は騙されていた。成績はがたがたで、ギリギリで卒業した高校、なにも進歩はないまま無駄に過ごした1年間。今、無職。この事実はいくらもがいたって変わらない。こんな私に、世の中の目は冷たい。途中まではみんなと変わらず生活してきたのに今までなにも悪いことなんかしてないのにどうしてみんなだけ夢を現実にできるチャンスがあって私にはないのか。なんで?…くやしい、みんなずるいよ。励ましの言葉なんか嫌いだ。そのせいで私は変な夢をみてしまった。一人でいるよ。さよなら。
2005年03月15日
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今日なんとなくテレビのチャンネルを回していると画面上に暗闇のなか青白く光るイカが横切り思わず手を止めました。それは巨大イカを特集した番組で周りに大きさを比べるものがなかったので気づかなかったのですが大の大人と同じぐらいの大きさがあるそうです。その番組によると、巨大イカは食用とされているのですが「人食いイカ」として漁師さんから怖れられていたそうです。ところが今回撮影されたものからは全くそのような様子は感じられずむしろカメラやダイバーなどに興味深深といったようで離れていったかと思うとカメラの前を横切ったりその巨体からは想像できないようなかわいらしい姿がうかがえました。そして一通り観察を終えたダイバーさんからこんな言葉がこぼれました。”巨大イカはもともとは人を無差別に殺すような性格ではない、本当は穏やかで友好的な部分もあるのではないか。考えてみれば漁師を襲うのももっともである。なぜなら船の近くでは何匹、何十匹と仲間が殺され、つかまれば自分も殺されてしまうのだから。”と。私はこの言葉を聞いて目から鱗が落ちました。そして、宮崎駿さんの作品「風の谷のナウシカ」のあるシーンを思い出しました。・・・毒をもった植物でできた森「腐海」に飲み込まれたナウシカ。そこはマスクをつけていないとすぐに肺が腐ってしまうはずだったが森の底ではなぜか空気は澄んでいた。そしてナウシカは思う。腐海は今や人に怖れられているがそもそも人間が汚したこの世界をきれいにするために生まれた、と・・・このシーンとダイバーさんの言葉が共鳴して私の心の中に響いてきました。巨大イカに限らず、去年話題になった熊が各地で人里に出没した事件、あれもいかにも人間が被害者のように報道されていたけれど元はと言えば人間が自分たちの為にやってきたことが結果、野生の熊のえさがなくなってしまったり里山がなくなってしまったりということを引き起こしたのですよね。私も人間ですしこんな偉そうなことを言えた立場ではないのですが自分たちに被害をもたらすものをすぐ悪者呼ばわりする前に相手の立場になってみるということが大事だということ、改めて思いました。そしてこれは人間同士でも同じことが言えると思います。最近増えている凶悪犯罪。特にその動機が曖昧なものが目立ちます。私の両親はニュースを見るなり「こんなやつ生きている価値はない、死刑だ」と軽く言いますが私にはその犯人の過去にこのような犯罪を犯してしまうなんらかの理由が必ずあったんだと思います。例えちょっとしたことでもその人本人にとっては大きなことかもしれません。私も今まで何度もそのような経験をしてきました。人は深く傷つくとちょっとしたことでも敏感に反応してしまいます。普通の人にとってはなんでもないことがその人にとってはとても大きなことであり、引き金を引く原因にもなりかねません。難しいことではありますが、相手が人であれ動物であれ植物であれ相手の立場を考え尊重することでこの世の中の望むべき姿、「共存」がいつか達成できるのではないかと、少し希望を持ちました。余談ですがこれを教訓に、いつも吠えられている友達の家の犬に「私はあなたに被害を与えない、安心して」と心をあたたかくして近づいていったら思いっきり飛びつかれて噛まれました笑。なかなか難しいですね。
2005年03月13日
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「これと同じ髪型にしてください」と雑誌まで持っていって頼んでいるのに「この写真ではこのへんボリュームあるけどちょっと軽くしましょうねー」とか言ってまるっきり違う髪形になってしまったのはなぜだろう…。前髪も「こういうふうに」と念をおしたのに違うのはなぜだろう…。似合う似合わないはこっちで判断するからとりあえず雑誌の通りに素直にやってください。…といまさら言っても遅い。髪をばっさり切ったケヰでした。でも彼がとても気に入ってくれたのでよしとするか。
2005年03月10日
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「ただいま」英語でいう「I’m home」と比べてあたたかみを感じるのは私だけでしょうか。そもそも、日本語では様々な用途に使われる「ただいま」にぴったり当てはまる英語はないと聞いたことがあります。調べてみると、「I’m home」は家に帰ってきたのだけれど家族などが部屋にいて誰も姿が見えない時に帰ったことを知らせるために「I’m home」と言うのだそうです。家族などを目の前にして「I’m home」と言うと「わかってるわよ」となってしまうのですね。それに比べて日本語の「ただいま」はただ帰ってきたということを伝える、という意味だけでなく「帰るべき場所に帰ってきた」というあたたかいニュアンスが含まれていると思います。例えば、田舎に帰省して久しぶりに両親に会ったときに「ただいま」と言えば家族のつながりを感じることができますし、私は、病気が治り久しぶりに心から笑うことができたときに友達に「ただいま」と言いました。こんな風に、日本語の「ただいま」には「ここが私の安心していられる場所です」といったような意味もこめられているのではないでしょうか。ここからは私的なことになってしまうのですがそもそもなぜ私がこんなことを書いたのかというと私の家庭では、いつのまにか「ただいま」をのびのびと言えなくなってしまったからです。原因は祖母との同居。私の母は祖母に自分の行動を知られるのが嫌なのでどこか一緒に出掛けて帰ってきたときに「ただいまー!」なんて言うと「シーっ!!」と怒られます。そのせいで今では「ただいま」は聞こえるか聞こえないかぐらいの小声で言わなければならなくなり家に入るのですらコソコソしなければならなくなりました。日本語には、「ただいま」や「おかえり」だけでなく「いただきます」「ごちそうさま」など気軽で、何気ないけれど、とても美しい言葉がたくさんあります。今一度、この言葉の持つ本来の意味を考えて気持ちを込めて使うことが今の私たちには必要なのではないかと思います。
2005年03月04日
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今日でこのブログを開設してちょうど一年になります。そして、今日は私の同級生の命日でもあります。6年前の今日、彼は近所の高層マンションから飛び降りて自殺しました。わずか13歳。突然の出来事でした。心の病を経験した私は、その重みを痛いほど感じます。原因は「いじめ」だったそうです。遺書にはいじめをした先輩の名前が書いてありました。私も何度も自殺をしようと試みましたが自宅の2階からですら、飛び降りる勇気はでませんでした。彼が飛び降りたのは14階。あんなにも高いところから飛び降りなければならなかったほどいじめは辛かったのかと思うと、胸が苦しくなります。それからというもの、私は「生と死」について考えるようになりました。でも、まだその時はその問題が私の身に降りかかることなんて思ってもいませんでした。高校生になって半分が過ぎたあたり、家庭と学校のストレスで、衝動的に手首を切ってから私の心はどんどん弱っていきました。暗闇でもがき続ける毎日。進んでいるのか、後退しているのかもわからずいくら叫んでも誰も助けてくれない恐怖。ただ苦しみに耐えるだけの毎日…。いっそ終わりにしてしまいたいと死ぬことしか頭にありませんでした。死んだように生きていた…私はこの頃をこう表現します。「いつか良くなる」そんな言葉を疑いかけていたその時・・・突然、良くなったんです。とても驚きました。今まで、「楽しいな」と思っていても心のどこかに黒いもやもやがあったのに急にすーっとなくなりました。きっかけは私の大の友達にありました。その日もいつもと変わらず鬱々としていました。そんな気分をまぎらわせようと、友達と彼と遊んでいたのですがちょっとした事件が起きて、私は発作が起きてしまいました。誰が原因、というのはなかったのですが、私の友達が責任を感じてしまっていつも前向きだった彼が自分を責めてしまいました。あの時発作が起こらなければ、彼は自分を責めるようなことはしなかった、どうにかして私は大丈夫だということを彼に伝えて、元気になってもらわなければ。ただその一心で、私は心の中に思ったことを、素直に、自分の言葉で、一生懸命に、彼に伝えました。そんなことをしているうちにすっと、心の中のもやもやが消えていったんです。暗闇だった辺りに急に光が差して、目の前に道が現れた、まさにこんなイメージです。生きながらにしてまた「生」を受けた、そう思いました。私は人生の再スタートをきったんです。私はこの6年間で、「生」と「死」両方を実感することができました。私の人生において、とても大きなことだと思います。人生という道を歩いて行くのに「死」という落とし穴はそこらじゅうあいているといっても過言ではないくらい身近にあるものだと思います。特に暗闇の中では、落ちてしまう可能性も高いです。けれど、這ってでもいい、ゆっくりでもいい、一切飾らないありのままの自分を見つけて、その自分を信じて一歩ずつ進んでいけば例え前が見えなくてもまっすぐ歩けるものだと、私は思います。ただ、それを頭でわかってはいても現実では嫌なこと辛いことがあふれていて、綺麗事にしか思えなかったり周囲の目や学歴などがちらついて、なかなかゆっくりすることができません。実際私も、今までいろんな人にかけてもらった励ましの言葉をほとんど信じることができませんでしたし19歳にして「無職」ということが情けなく思えたり、焦りのもとにもなりました。けれど今になってやっと、みんなが言っていたことは本当だったのだと実感できましたし、みんなが学校の勉強やアルバイトで追われていたこの1年の間に私はこんな大きなことを学ぶことができて本当によかったと、病気になったことを逆に幸せに思っています。人生を変えるきっかけは「いつか」と曖昧な部分もありますが「必ず」来ます。ほんの少しでもいい、信じ、素直に受け入れることが大切です。もしここまで読んでくださった方がいたなら心から感謝申し上げます。
2005年03月03日
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