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動物実験で、母猿から直接授乳されて育てられた子猿と、人形の胸に仕込んだ哺乳瓶から授乳されて育っ子猿では、遊戯室に同時に入れると、前者は伸びのびと楽しそうに遊び回りますが、後者は隅っこでブルブルと震えています。これは、母親の柔らかく暖かい感触に包まれて育つことが如何に大切か、ということを教えてくれます。心理学では「原信頼感の獲得」といいますが、成長後のすべての対人関係の基礎となるものです。ここから「私は私でいいのだ」という確固たる実存感が生じます。英語で言えば「I am OK」という自己肯定感ができるのです。 ところが、カウンセリングに来る子どもたちの多くは、「I am not OK」という感じを持っています。自己肯定感がないんです。こういう子は、自分を傷つけたり他を害する「自傷他害」を起こしやすくなります。手首を切る(リスト・カット)、一度に多量の薬物を飲む(オーバー・ドーズ)、シンナーを吸う、暴力を振るう、などの症状が出ます。
July 18, 2007
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文化や価値観は、本質的に多様である。ある部分は、先鋭的に変化し、ある部分は変化しない。どの時代においても、価値観の衝突は生まれ、また新しい価値観が生じることを繰り返している。現代の価値観は、当然、重層的であり、共通の価値観を探すことは困難である。しかし、こうした価値観の対立は個人間で葛藤を呼び、現代のように葛藤を避けることが優先される文化においては必然的に価値の相対化がはかられることになる。現代の青年が、争いや論争を避けることは新人類研究が盛んになった80年代の終わりから90年代にかけて随所で指摘されるようになった。青年は、かつての青臭い人生論を語らなくなり、妙に物分かりがよく、反抗しないが、決して組織には従順ではなく、もはや金や地位は彼らの価値ではなく、自分らしさを発揮できること、自分らしく生きること、自由な時間を使えることに魅力を感じる世代となりつつある。こうした価値観の変化は、77年頃を境に顕著になった。価値観の相対化は、こうした背景から理解することが出来る。価値観の相対化は、絶対的な価値をもはや信じることが出来なくなったことを意味する。また、絶対的価値を主張することや保持することは、対人関係の葛藤を先鋭化し、ヤマアラシのジレンマを再現することになる。特定の政党を支持するよりは、政治には無関心でいることや支持政党なしの方が、対人葛藤を回避することに有効である。その根底には、他者からの批判や攻撃を怖れ、傷つくことを怖れている、という心理がある。明確な価値基準を持つものは集団の中で浮いた存在になる危険性が高くなる。「出る釘は打たれる」のが、日本社会である。これらの変化は「まじめの崩壊」と同時期に起こり、これまで社会で共有されてきた、正しいとされ、行うべきだと考えられ、あるいは禁止されてきた規範がもはや絶対的な規範や価値観ではなくなりつつあることを示している。「万引きは、誰でもやっている。万引きしたって大金じゃないし、店も大して困らないだろ・・・」「援助交際は、相手に喜んでもらって、自分はお金をもらって欲しいものが買えるし、sexも好きだし、誰にも迷惑をかけていないじゃない。どこが悪いの?・・・」「授業中は好きなことをやってもいいだろ。好きな生き方をするのは当然の権利だ・・・」・・・と公然と言う子どもたちが排出されている今日である。他者にとって価値のあることと、自分にとって価値があることは、別なことであることを前提にした価値観であり、それは本質的には重要なことであるが、ここで例示したように、現実に進行している価値観の相対化は自分なりの基準であり、万引きや売春、授業妨害が非倫理的行為であることが相対化され、自由に伴う責任と義務の視点が見事に欠落している。こうした価値観の相対化に呼応して自我拡散を示す症例が、臨床の場で増えてきたのである。問題は、彼らが納得するような新しい価値体系を、未だ大人が示すことが出来ないことであろう。「なぜ勉強をしなくてはならないか」「売春はなぜいけないのか」「万引きはなぜしてはいけないのか」というような身近な問題に対しても現代の親や教師は答えることができない。戦後から現代まで生き残った唯一の倫理基準は「人に迷惑をかけない」ということである。価値観の相対化によってそれさえも、自分に都合のよい解釈が成り立ち、内的価値観が崩壊してしまったのが現代である。
September 7, 2005
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