『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』100万部?日記

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2011.10.08
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カテゴリ: 歴史の話
昨日のブログ のつづき)


「以仁王の乱」の原因が、前年の「治承三年のクーデター」にあったわけですが、

なぜ「治承三年のクーデター」を清盛が起こしたのかというと、

それにはいくつかの原因が挙げられています。



朝廷の最高権力者・後白河法皇との平家VS院近臣の人事における対立、

娘・盛子の死去により実質的に平家が預かっていた“摂関家領”の後白河による強奪、

後白河との間の調停者になっていた嫡男・重盛の死去、

重盛の長年の知行国・越前国の取り上げ、

など数々あります。



治承三年のクーデターは基本的には、 後白河法皇と平清盛との権力闘争 なのですが、

その翌年の以仁王の乱以後の「治承・寿永の乱」(源平合戦)では、

後白河に関係のある武士や寺社、そして頼朝や義仲ら河内源氏以外にも、

摂津源氏の多田行綱、近江源氏の山本義経、美濃源氏の土岐光長、熊野別当の堪増、

伊予国の河野通清、土佐国の夜須行宗、豊後国の緒方惟栄、肥後国の菊池隆直などが

叛旗を翻していることからわかるように、

単なる2者の権力争いが原因だったわけではありません。

全国的に不平不満が溜まっていた時代 だったといえます。




では、なぜ不平不満が高まっていたのか?

それは2つの社会的変化が与えた影響が大きかったのだと思われます。



一つ目は全世界的な 寒冷化 の到来です。

気候変動による寒冷化は、何度も繰り返し起きているのですが、

1100年後半から始まった寒冷期は

グリーンランドにいたバイキングが寒波により消滅したり、

モンゴル草原で草原が育たなくなってきたことでチンギス=ハーンが南へ侵攻するなど、

歴史にも大きな影響を与えています。


日本では、平安時代は全体的に暖かい気候で農作物もよくとれたのですが、

平安時代末期からたびたび飢饉が起きます。

芥川龍之介が『羅生門』で描いた世界もまさにこの時代です。

飢饉が起きれば当然、社会は不安定になります。

争乱が起きやすい社会でもあったのです。



そして、もう一つの大きな社会的変化が 「宋銭の普及」 です。

宋銭の普及により、多くの貴族や武士が困窮する事態になったのです。



10月11日のブログ つづく)








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最終更新日  2011.10.11 11:13:58
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