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「不幸によって不具にされた人間は、誰かに救いを求め得る状態にはなく、求めようという欲求すらほとんど抱き得なくなっている。だから、不幸な人間に対する共苦の情(コンパッション)は不可能事である。それがほんとうに生ずる場合は、水上の歩行や病人の平癒や、さらに死者の復活よりもおどろくべき一つの奇跡である」(シモーヌ・ヴェイユ「神を待ち望む」「シモーヌ・ヴェイユ著作集」大木健訳、春秋社)病気が治ったとか、使者が生き返ったとか、修行の結果水の上を歩けるようになったとか、空中浮遊とかの「奇跡(●)」をブッダは行ったのではないのです。ブッタが行ったのは、聞こえない「声」をしかと聴き届けるという、同苦の「奇跡(●)」なのです。いまも、教室の片隅で、機械の音のしなくなった町工場の事務所で、北海道のアイヌ・コタンで、重病の療養の施設で、沖縄の戦闘機のタッチ・アンド・ゴーの爆音の下で、東ティモールの山の中で、サラエヴォのコソヴォで、ルワンダで、チベットで、人々が、殊に、女性と子どもたちが、「声にならない声」を上げています。この「声」をしかと聴き届ける「奇跡の耳」を持ちたいと、いつも願っています。ちなみに、仏教の観音菩薩。敬愛する仏教学者辛島静志氏が最近、観音の語源についての画期的な論考を発表されましたが、信仰の次元からは、これは「観世音」つまり「夜の中の人びとの声を聴く」という意味に解釈されるでしょう。ぼんやりと聞くのではなく、まるで眼前に存在するのを「観る」ように、聴くのです。そのような心の態度、位相を「観世音」の語は示しています。神様みたいな観音さんがどこかにいるのではないのです。われわれの心に「声にならない声」を聴く態度、「観音の位相」、「奇跡の位相」を築かねばならないのです。 【ブッダは歩む ブッダは語る】友岡雅弥著/第三文明社
March 4, 2013
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認識においての楽観主義者は、事態を甘く見たり、他人をあてにしたりして「別に自分がしなくてもいいだろう。誰かがやってくれるだろう」「別に今しなくてもいいだろう。いつかやればいいだろう」と、たかをくぐります。こういう人は、実際の行動場面では、むしろ消極的、悲観的で、「いざ行動」という段になると、不安でいっぱいです。いい意味の楽観主義者は、認識においては悲観主義者です。事態を真剣に考えます。時には、「深刻」に考える場合もあるかもしれません。様々な事態を想定しながら、行動を開始し「大丈夫、いつか必ず成功する。だから今は大変だけれどがんばろう」と、行動を続けるのです。ブッダは、現状認識を曇らせる甘い幻想を排除します。私たちと幻想との蜜月関係は存在しません。幻想の破壊者としてのゴータマ・ブッダにできるだけ迫りたいというのも、この本の目的です。「幻想」を破壊し、「希望」を与えるブッダです。【ブッダは歩む ブッダは語る】友岡雅弥著/第三文明社
April 9, 2012
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瞑想に絶対的な価値を置くことにより、社会的、歴史的な存在としての自らの責任を忘却してしまった仏教の歴史について、最後に述べたいと思います。ドイツのヴァイツゼッガー元大統領が来日してとても残念がっていたように、戦後五十周年を経ても、日本は変わりませんでした。変わるどころか、自由主義史観という「開き直り」『忘却』「記憶の暗殺」が、まさに戦後五十周年という時期に堰を切ったようにあふれ出したのです。その流れに対抗するかのように、アメリカで二つの書物が出版されました。一冊は“ザ・レイプ・オブ・ナンキン”。いわずもがな、自由主義史観論者たちがやっきになって、もみ消そうとしている日本軍による南京大虐殺を、女性に対して加えられた性暴力の観点から描き出した大著です。(自由主義史観の人々の言説は、フェミニズムの立場から批判しうるものではないでしょうか)。出版を妨げようとする動きが日本でありました。記述に勇み足的な部分もありました。しかし、無視はできない問いかけでした。もう一冊は“ゼン・アット・ウォー”。日本の禅仏教が兵隊に「死の哲学」を教え、殺人を賛美したという歴史的事実を、膨大な資料で論証したものです。著者は、ニュージーランドのオークランド大学助教授のブライアン・ヴィクトリアさん。ヴィクトリアさんも紹介している禅僧の語録を紹介しましょう。近代日本を代表する知識人として、内外に知られている鈴木大拙氏は語ります。「敢へて敵人を屠らんとするにあらず、敢へて財宝をうばわんとするにあらず、坦々正義のため不正を代表する国民を懲らさんとするのみ」(『新宗教論』)大拙氏の師、釋宗演氏は語ります。「我々の勇ましい兵士に仏の崇高な思想を説くことによって生気をたぎらすのです」(『住職のお説教』)戦後も、禅を名僧としてマスコミでももてはやされ続けた沢木興道氏も負けてはいません。「法華経の三界は皆是れ我が有なり…ここから出発すれば……世界も我が有の中で秩序を乱すものを征伐するのが即ち正義のいくさである。ここに殺しても殺さんでも不殺生、この不殺生戒剣を揮(ふる)う。この不殺生戒は爆弾を投げる」(『禅戒の本義を語る』)「爆弾投げる仏教がどこぞにあんねん!」とツッコミたくなります。戦時下の禅宗では「戦禅一道」という言葉がよく使われました。戦争と禅定(瞑想)は一つの道というのです。「参禅一体」つまり「戦争に参加することは、禅定と同じ」とも言っていたのです。しかも、ヴィクトリアさんが憤(いきどお)るのは、この禅僧たちが海外の講演などでは、まったくこのような事実を隠し、「仏教とは慈悲の宗教であり、長い歴史のなかで戦争を行ったことがない」と語っていたことです。瞑想――禅定――自体には、正負の価値はありません。それを価値づけるのは、どのような心をもっているかです。どのような行動をしたかです。瞑想を絶対視することは、偏狭なエゴイズム、ナショナリズムに通じるのだということを、歴史の事実は教えてくれるのです。それこそブッダが批判した邪禅定なのです。偉大なチェコの作家ミラン・クンデラは瞑想に通じる、「忘我(エクスタシー)」の価値を、それが日常性を打ち破るものであるかぎり、認めつつも、普通の人生の重みをこう言います。「生きるとは自分自身を見失わず、つねに断固として自分のなかに、自分の立場のなかに存在するための、たえざる重苦しい努力である」(『裏切られた遺言』西永良成訳、集英社)。ブッダは、またその弟子たちは、重苦しい努力を絶やすことなく続けたのです。対して、安直な瞑想絶対視は、小さな自己の立場を固着し、かえって自分自身を見失うことになるのです。【ブッダは歩む ブッダは語る――ほんとうの釈尊の姿 そして宗教のあり方を問う】友岡雅弥著/第三文明社
January 10, 2009
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仏教の思想的特徴を現す言葉として、「諸行無常」という言葉がよく使われます。すべての「行」は「無常」である、というのです。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」です。でも、いつも言いますが、インドには日本的な梵鐘はありません。このむなしい、わびしい響き。これが日本的仏教に流れる通奏低音です。いつのまにか、「諸行」は「すべての行為」となってしまったのです。厭世的に、すべての人間の行為はむなしいという響きを「諸行無常」は持つにいたったのです。しかし、もともと「行」を表す言語、サンカーラ(サンスクリット語ではサンスカーラ)には、すべての人間の行為ではありません。実は、ヴェータ・ヒンドゥーの伝統では、まさにもろもろの現実の願望達成のために行われる慣習的祭祀が、「サンカーラ」と呼ばれるのです。「サンカーラ」とは、「完成すること」と言う意味のパーリ語です。人生の節々、季節の節々に種々の慣習的な祭祀を満足に行うことができて、人間は財産・子孫・長寿という願望を達成できる人間として完成されていくというのです。しかし、ブッダはその世間的慣習の背後、いや基底に儚(はかな)き「今の自分」への執着、「今の自分」を象徴するうつろう富や長寿への欲望、「今の自分」と異なるものへの言われなき嫌悪を見たのです。それが「諸行無常」の意味するものです。今までにも述べたように、サンカーラは、サンサーラ(輪廻)の激流で漂流しながら漂流物を掴もうとするものなのです。祭祀の根底には、行う側、行ってもらう双方に、自分を呪縛する「欲望」があるのです。それをブッダは発見したのです。それは人類の歴史上の一大精神革命だったのです。血塗られた20世紀を分析したアノルドとホルクハイマーの視点との類似に思いを馳せてしまいます。「人間の行う犠牲の行動(筆者注=供犠のこと)はすべて、計画的になされるときは、その捧げる相手である神を瞞着(同=騙して従わせる)するものである。それは神よりも人間の目的を優先させ、神の力を解消させてしまう。そして、神に対する瞞着は取りも直さず不信心な神官が信心深い信者たちの前に執り行う瞞着に移って行く。詭計(同=策略)は儀礼に由来する」(マックス・ホルクハイマー、テオドール・アノルド「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」『啓蒙と弁証法』徳永恂訳、岩波書店)【「ブッダは歩む ブッダは語る」ほんとうの釈迦の姿 そして宗教のあり方を問う】友岡雅弥著/第三文明社
January 9, 2009
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さて、よく「俺は無神論者だ」という人がいます。「無神論」という言葉が、例えばヨーロッパではどのような戦いの中で、勝ち取られてきた言葉か――自称「無神論者」の人たちは理解しているのでしょうか。「神」の権威を振りかざす王や権力者との間で行われた戦いの熾烈さを、想起しているのでしょうか。少なくとも、「真の無神論者」は、真剣に信仰に生きている人をバカにしたりはしません。おそらく「真の無神論者」がもっとも嫌悪するのが、年中行事として形骸化した祭式でしょう。それこそが、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのですから。しかし、日本の自称「無神論者」はしっかり、初詣には行くのです。神殿の前でしっかり「本年一年無病息災、商売繁盛」と祈るのです。言葉の厳密な意味で「真の無神論者」が最も批判するのは、日本的な「仮称無神論者」かもしれません。「初詣は宗教じゃない。みんなやっている習慣なんだ」。しっかり神だのみしている事実を覆い隠すように「仮称無神論者」は言います。この「習慣」というのが曲者なのです。「習慣」とは、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのです。ミシェル・フーコーが「権力のまなざし」として感じ、ヴァルター・ベンヤミンが「勝者の歴史」と見抜いたものに通じるのです。そして、まさに仏教が疑問を投げかけた、サンカーラ(輪廻)そのものなのです。祭祀の時祈願されるのは、自己の何面の深化にかかわる問題ではありません。富、健康、長寿など、そこで祈られるのは「今の自分」を延長することにしか過ぎません。神社などに初詣に行って「心豊かになりますよう」「人の痛みをわからせてください」とか「世界の平和」や「核兵器廃絶」を祈っている人は、あまりいないでしょう。そのような信仰の形からは、「今の自分」「今の社会」に対する反省や疑問はなかなか出てこないのです。プンナカという弟子の「何故、世間では儀式は行われるのですか」という質問に、ブッダはこう答えました。「人々が儀式を行うのは『今の自分』に執着しているからである。老いなど『今の自分』と異なるものに不安と嫌悪を抱くから儀式を行うのである」(『スッタ・二パータ』、V)「今の自分」は「今の社会の仕組み」「今の世間の常識」に複雑に呪縛されています。「今の自分」「今の境遇」の延長に対する欲望は、「今の社会の存続」を何の疑いもなく、受け入れることになるのです。【ブッダは歩む ブッダは語る】友岡雅弥著/第三文明社
January 3, 2009
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「歓待者はあくまでも、自らが放浪者、亡命者たることを知っており、またそれを望むからである」と、ルネ・シェレールは述べています。(『歓待のユーピア』安川慶治訳、現代企画室)。シェレールはフランスのラジカルな実験大学であったヴァンセンヌで、ミシェル・フーコーの後輩だった哲学者ですその時彼は、少年愛者というレッテルを貼られ、スキャンダルの渦中にありました。その時、フーコーが彼を教員にしたのです。シェレールだけではなく、様々な理由で、行き場のなくなっていた人々がここで、フーコーによって職を得ました。そういうフーコーの姿を想った上で読むと、この言葉はよく理解できます。歓待――他人の存在そのものを、喜ばしいと感じ、自分のなかに受け入れること――そこには、自分と他の上下関係は一切存在しません。「歓待」については、また第一部で詳しく述べましたが、ブッダこそ「歓待者」でした。どのような身分の人であっても、「ようこそおいでくださいました。こちらへ、どうぞ」と、敬語で語る人であることが種々の経典に出てきます(例、不浄物を清掃するスニータの受戒の時、『テーラ・ガーター』620以下)。また、ブッダとその弟子たちのライフスタイルであった托鉢も、他者の「歓待」に生死を委ねるものなのです。他人の善悪が自分の生を維持してくれる、という確信に生きるのです。つかれたでしょう。ようこそいらっしゃいました。つかれたでしょう。どうぞ、こちらへ。――こういう言葉が街角でたくさん語られるのが「豊かな社会」だと思います。そういう意味から言えば、日本はどんどん豊かでなくなっているのかもしれません。日経平均株価、昨日のテレビ番組、「ウザイ」「イケテル」……。こういう言葉が行きかう街。自らの心のただなかで、他者の苦しみや喜びを感じる勇気のもてる人。その人は、自分の苦しみから目をそむけない人でしょう。そして、真の喜びを知ることのできる人なのでしょう。【ブッダは歩む ブッダは語る】友岡雅弥著/第三文明社
December 30, 2008
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「自分の人生の外にいる人」……。そうなのです。人生にはさまざまなことがあります。悪もあるし、善もある。例えば、人間関係でも、良かれと思ってしたことが、人を傷つけることもあるでしょう。それを恐れて、人づきあいを避けていては、豊かな人間関係はいつまでも形成されません。もちろん、人生には悪はつきもの、だから、何をしてもいい、開き直れ、というのではありません。悪を避けるところには、善は生じないということです。精神病理学者の野田正彰さんは、現代の日本社会に蔓延する雰囲気を、「多幸(euphoria)」と分析しています。「多幸」とは、アンフェタミンや大麻、コカイン、過剰の揮発性吸入剤などの薬物中毒に典型的に見られる症状(アメリカ精神医学会の精神疾患分類、DSM-VI基準による)で、空虚な爽快感。簡単にいえば、自分がどのような状態にあろうがそれを気にせず、イケてる気分でいられることです。もちろん、多幸は自分の状態をよーく理解して、よーしがんばろうと決意して、少しの辛さを心に秘めて少し幸せな気分になるのとは、ちょっとちがいます。また、そのようなこの時代の気分を、気鋭の社会学者、森岡正博さんは、「無痛文明(雑誌『第三文明』19996月号を見てください)」と評します。傷みや、辛さや悩みがないことを幸福と考える「多幸社会」「無痛社会」。それは幸福ではないのです。【ブッダは歩む ブッダは語る】友岡雅弥著/第三文明社
December 29, 2008
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「認識においては悲観主義、意志においては楽観主義」事態を深刻に憂慮する人は、自分がいまやらねばと考えます。そして、率先して行動するのです。このような「深刻なる楽観主義者」ゴータマ・ブッダの実像をできるだけ正確に描くことも、この本の目的です。認識においての楽観主義者は、事態を甘く見たり、他人をあてにしたりして「別に自分がしなくてもいいだろう。誰かがやってくれるだろう」「別に今しなくてもいいだろう。いつかやればいいだろう」と、たかをくぐります。こういう人は、実際の行動場面では、むしろ消極的、悲観的で、「いざ行動」という段になると、不安でいっぱいです。いい意味の楽観主義者は、認識においては悲観主義者です。事態を真剣に考えます。時には、「深刻」に考える場合もあるかもしれません。様々な事態を想定しながら、行動を開始し「大丈夫、いつか必ず成功する。だから今は大変だけれどがんばろう」と、行動を続けるのです。ブッダは、現状認識を曇らせる甘い幻想を排除します。私たちと幻想との蜜月関係は存在しません。幻想の破壊者としてのゴータマ・ブッダにできるだけ迫りたいというのも、この本の目的です。「幻想」を破壊し、「希望」を与えるブッダです。【ブッダは歩む ブッダは語る】友岡雅弥著/第三文明社
December 27, 2008
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