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実は、PCが最近。。。バージョンUPの為のインストールをしていたときにだめになってしまい^^;しばらくPCを使えない状況でありました^^;弟がPCにくわし為、HDを入れ変えてもらい、今日やっとこさ!復活しました。HDディスクを送ってくれた方に、だい感謝です。いろんな 情報は会社でみていたものの。。帰ってきて、PCが使えない状況はなんだか。。つらくて、寂しいものがありました。ブログも かけないし。。。うちは、新聞をとってないから、ニュースを見るための情報源にもなっているPCくん。いやはや、復活 大喜びです。なにもかも、はじめから入れなおしですが、がんばりまーす。
2011年05月22日
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妻が娘に託していた愛用の小銭入れを「お守り」にする熊川さん。「唯一の形見」という=福島県二本松市の遺留品掲示所で2011年4月18日、大場弘行撮影 東日本大震災の津波で数百人の行方不明者が出たにもかかわらず、福島第1原発の事故に伴う避難指示で1カ月以上捜索が実施されなかった福島県浪江町請戸(うけど)地区。津波に遭い、九死に一生を得た男性の耳には、50年近く連れ添った自分への感謝の言葉とともに波間に消えた妻の声が残る。「一刻も早く見つけてほしい」。男性は14日に始まった捜索による発見を祈るように待ち続けている。 「真っ黒い波が数十メートルの高さに立ち上がり、一気に倒れてきた」。海岸から数百メートル先に住む無職、熊川勝さん(73)は目前に迫る大波に度肝を抜かれた。妻洋子さん(73)の手を引いて2階に駆け上がったが水位はみるみる上がり、洋子さんを抱えて顔を出すのがやっとになった。死を覚悟し「これまで、ありがとな」と呼び掛けると、洋子さんはうなずいて唇を動かした。「お父さん、ありがとう」 もう一度、熊川さんが「2人で孫3人の名前を呼んで終わりにしよう」と声を掛けた直後に強い衝撃があり、洋子さんが沈んだ。必死で手をたぐったが、渦巻く波に引き込まれていった。熊川さんは着ていたジャンパーが偶然浮袋代わりになり、天井と屋根の隙間(すきま)で息ができた。引き波で家ごと沖に向かって流されかかったが、橋桁に飛び移って助かった。その間、ずっと洋子さんの名を叫び続けた。 その後、身を寄せた県内の親族宅も原発事故の深刻化でいられなくなり、横浜市の長女(42)の元へ。だが、原発から約5キロの請戸地区には捜索が入らないままで「原発内で(復旧の)作業している人もいるのに、何で警察も自衛隊も助けに行かねんだ」。もどかしさが募った。 今月14日。警察の捜索がようやく始まり、熊川さんはすぐ福島に戻った。洋子さんが最後までつかんでいたジャンパーを着て、日々、遺体安置所や遺留品写真の掲示所を回る。もし、捜索が打ち切られたら自分で捜しに行くつもりだ。「女房は『金婚式の時は、日光の紅葉を見たい』と楽しみにしていた。秋には骨つぼ抱いて紅葉見に行ぐんだ」 【大場弘行】 沢山の涙を 思えば、今に生きる私達は何をすべきであるのか、何が良いことで何が悪いことなのか、わかるはずですよね。GWで支援に行かれた方々の気持ちは皆 同じ心のかよう人間としての気持ちで行かれたのでしょう。。。ホントに えらいです、そして 支えあいがすばらしいと思いました。
2011年05月06日
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