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昨日の夜、大学時代の友人から、「広告企画会社のインタビュー受けたのが、 今日アップされるんで、見てね」というメールがありました。彼女は大学時代、同じ研究室で卒論を一緒に書いた仲。体育会系のバスケット部でも選手とマネージャーという関係でした。今、主婦業をこなしながら、フードコーディネーターとして活躍中です。いつも、今年は会おうねといいながら、もう何年も会えてない。学生の時の友達というのは、何年経っても変わらず、いいもんですよね。頑張っている友達がいる。そう思うと、力が湧いてくる感じがします。 「マザール」HP kakeruインタビューはこちらです
2009年05月29日
今日は、18年ぶりにお会いする先輩たちとランチしましたそれぞれに違う道を歩んで18年。一人は現役の方です。そして、去年一人が癌のため他界されましたもう一人の方もやはり癌というお話を聞きました時の過ぎ去るのは早いですね。でも、古きよき時代の話に花が咲き、時間はあっという間に経ちました。ホテルのランチだったのに、大声で笑ったこと反省しています時間も忘れ、1時間半ですと言われたのに3時間もいたこと反省してます最後は私達のグループだけ。そしてお掃除が始まってしまいました女の世界でもまれたこと、今の自分には心の支えです。おねえちゃんは、もしこの先呆けてしまったらきっと、皆さんにコーヒー配って回ると思います。それくらい、実は昔の仕事を誇りに思っているんですその後カラーの講義に出て、充実した一日でした着物のリメイク:来楽暮
2009年01月29日
ニュースでご覧になった方も多いと思いますが、JALの鶴丸が完全になくなる日が来てしまいました。すっごい寂しいですあの鶴丸に憧れて、入社試験を受けた遠い昔を思い出します。誰も受かるとは思っていませんでした。(本人はもちろん)大学の研究室では、9回裏逆転満塁さよならホームランと言われました。今、冷静に考えると、人事の方は本人よりずっと、接客の適性を見抜いてくださっていたのかもしれません。その後、訓練を終え、初フライトから半年くらいは、成田空港の会社の鶴丸が見えてくると、気持ち悪くなり(まあ、一種の出社拒否症、ほんとに吐き気がした)鶴丸は私にとっての憧れや、辛さや、懐かしさや・・・いろんな感情が混ざるJALのシンボルでした。今のロゴは嫌いです。刀でばっさり切って、血が出てるみたいロゴとデザインは会社のイメージを決める大事なものだと思うのですが、鶴丸には、気品と温かみがあった。今のは、冷たい。シャープで洗練されたイメージを出したかったのかもしれないけど、トップの誤解ははなはだしいと思います。あのロゴとデザインを見て、外国からお帰りになる日本人の方がほっとされるでしょうか?答えはNOです。外国の方が日本を感じてくださるでしょうか?やはり答えはNOです。なんでそんなことがわかんないのかな~?だから、JALはだめなんだ。自分の出身の会社だし、同期もまだいっぱいJALにいるから、頑張ってほしい。だけど、多くの国がらみの会社で民営化された会社がそうであるように、つぶれるわけない、たとえつぶれても会社更生法だと思ってるのが見え隠れします。老舗の名の上にあぐらかいて、廃業になった女将のあわれ・・・学ぶべきものはいっぱいあるのに。皆さんはどう思いますか?おねえちゃんはすごい寂しいです言葉だけが踊ってます、お客様第一、安全第一。でも会社のシンボルであるロゴから、それを裏切っています。来楽暮の商品も一緒。実物かサービスを提供してるかの差です。でも自分たちには見えないひとりよがりがあるかもしれない。だから沢山の方のアドバイスを聞き続けたい・・・そんな思いで創ってるホームページです着物のリメイク:来楽暮
2008年06月01日
楽しくも重い話題が続きました気分を変えて、時々はUPしてほしいと言われております昔話ですだいたい、真面目なことが大の苦手機内でもこんなことして遊んでましたひょえ~、もう20年以上前だ~もう時効でしょ。これは、お客様が乗ってらっしゃらない便です、念のため。フェリーと言って、飛行機と乗員が移動するだけのフライトです。正月早々、ふざけてますこちらはホノルル線お客様が乗ってらっしゃる直前だったかな~?リゾート路線では時々こんな衣装も着たんですね。なつかし~私がせっかく営業スマイルしてんのに、このコアラそっぽ向いて、撮影に協力する気がない・・・もっとも、夜行性のコアラにとっては、迷惑千万ってとこでしょうね。今日は休日モード・・・といきたいところですが、サイトの引越し、空港の商品入れ替えの準備、決算のこと頭が休まる暇がありません。まあ、ぼけなくていいかこれ以上はぼけたくないからな~
2008年02月24日
みなさんのご両親は、ご健在ですか?うちは、もうご存知のように父がいません。おとといの日記を見て、ひとつ大事なことを書き忘れました父が最後の電話をしてきた時、最後の最後に「気をつけて来いよ。」と言いました。行く予定もなかったのに、何言ってんだろうねと母と話しました。父は私達が来るのを待っていたんだと思いますそれから、一週間ほどしておねえちゃんは不思議な夢を見ました。父が血を流して死ぬ夢です。生々しくてごめんなさいとても胸騒ぎがして、母からの毎日の病状報告からしても帰ろうと思いました。昏睡のように眠っていた父が、私達が帰ると目を覚ましました孫の手からいちごも食べました。このいちごは、弟のお嫁さんの実家で作ってる、それはそれはおいしいいちごです。舌の肥えたわが息子は、どんなに高いいちごを買ってやっても、Yいちごにはかなわないと言います。(Yは彼女の名前)この世の最後の食べ物が、優しい優しい弟のお嫁さんが持って来てくれたいちごで、心から感謝しました。私達が帰ってから、わずか1時間で容態が急変。次の日の夕方、還らぬ人となりました。やっぱり、待ってたんだと思います。看護師さんが、遠くから来る人を待ってこうなることはよくあるんですよと教えてくれました。で、長々と書いてしまいましたが、何が言いたいかというと、親御さんがご健在の方・・・是非お元気なうちに後悔のないようにしてあげてください。特別なことはいらないと思います。特別なことは、やるとかえって悪がります。そうそう、妹はいい子だったので、父に一番かわいがられていたと思いますが、そういう虫の知らせは全くなかったそうです。やっぱ、天然だわ~
2008年01月19日
昨日、姉が父のことを書いたので、私も。父は、破天荒な生き方をした人でした。わがままで、自分勝手。母に相談することなく、祖母との同居も、独立して事業を興すことも、事後承諾。正直、子供ながらに「こんな人とだけは結婚したくない」と思ってました。実際、夫は、父とは正反対の人です。でも、子供である私は、本当に可愛がってもらったと思います。特に、大学を卒業して結婚するまで、父の仕事を手伝っていたので、密度の濃い時間を過ごすことが出来ました。夫が結婚の挨拶の来たとき、「子供には子供の人生がある」が持論だった父は、一言も反対することなく、(反対することが出来ず)遠く長野に嫁ぐことを、賛成してくれました。でも、結婚式の時には、ずっと下を向いて、泣いていました。今なら仕事の大変さも、父の経営者としての孤独さも、何となく理解できます。震災のニュースを見ると、新幹線が不通になって、東京で姉と待ち合わせ、飛行機で広島に帰ったことを思い出します。妻と、千葉と長野に嫁いだ娘、息子夫婦、孫5人に囲まれて、安心したかのように、翌日旅立ちました。あれから13年。乳飲み子だった弟と私の子供は中学生に、昨日の写真の初孫は大学生。父が亡くなった後に弟夫婦は、もう一人男の子に恵まれ、孫は6人になりました。母は3日と明けずお墓参りをしています。毎日行っていたら、近所の人から、「毎日行くと、成仏できない」と言われ、回数を減らしたとか。生前は仲が良かった訳じゃないのに、不思議なモンです、夫婦って。久しぶりに父のことをじっくり思い出しました。こんな形で、文章に綴ってみるのも、たまにはいいかな~と。きっと、その辺りにいて、「変なこと書くないや」なんて言っているような気がしてなりません。【 追記 】私の時には、事前の打ち合わせで、もったいぶるようにと言ってあったにもかかわらず、最初はよかったんですが、酔っ払うと、だんなになる人に向かって「ほんとにこんなんで、いいんですか~?」と、のたまい、結婚式では終始笑顔でした。なんでやねん(おねえちゃん)
2008年01月18日
阪神大震災からもう13年ですね。昨日のニュースで、仮設住宅で孤独死された人は500人以上いると伝えていました。おねえちゃんは、正直、そんなに多いんか~と思いました。阪神大震災で、必ず思い出すのは、父の最後の電話です。当時、父は広島県の病院に入院していました。点滴のスタンドを引きずり、母や看護師さんになんとか支えられながら公衆電話のところまで移動し、「おまえんとこは、大丈夫か?」それが、父の最後の電話でした。神戸からは千葉より広島の方が近いでしょ。何言ってんのよと思いましたが、肝臓を患っていたこともあり、夢も現実もよくわかってなかったのかもしれません。どんな時でも、親は子供が心配なものなんですよねその10日後、父は母と3人の子供に見守られながら、亡くなりました。父は孫の前で一番いい顔をしていたと思います。よく、性格がそっくりと言われますが、おねえちゃんはこんなに身勝手で、ワンマンで、わがままではないと思っていますただ、意地っ張りで頑固、よく吠えるとこは似てると思います。父の前では、子供の頃から、ごめんなさいもありがとうも言えませんでした。薄れいく意識の中で、二人っきりになった時、今しかないと思い、「おとうちゃん、ありがとう。」と言ったら、父はこっくりうなづきました。自分も大病をして思うのは、人には寿命があるということです。今日ある命に感謝して、人にも自分にも、悔いのない一日を送ることしかできません。天国からか地獄からか知りませんが、今日も姉妹の悪戦苦闘を心配しながら見てるに違いありません。「わしのようになるなよ・・・」ってね
2008年01月17日
一月三日に山口で行なわれた同窓会。地元で頑張っている同窓生が作ってくれた、パンフに載っていた詩です。この詩の通り、外見も、内面も、それぞれの歴史を重ねていました。大阪人の友達に、「あんた、あたしらよりおもろいわ~」と言われるほどの、ネイティブな関西弁を操る親友のMいつも教室の後ろで、斜めに座り、ちょっと怖かったのに、すっかりいいお父さんになっていたS君。変わらないバスケのみんな。(ちょくちょく会ってるからか。)「ほっ」と語尾に必ずつくS先生。初めてお話した同級生もいっぱい。そんな同窓会の集合写真が出来ました。幹事の人が、もう半年前からブログを立上げ、準備の様子、幹事会、住所不明者への呼びかけをしてくれていました。そのおかげで、海外在住者も、地元にいない組も始まる前から参加できたんです。本当に幹事さんと、いい時代になったことに感謝。その中で、「集合写真が出来たけど暗くて~」と呼びかけると、すぐに「修正するよ~」とコメントが入り、見事に修正の施された写真がアップされてきました。なんと、数枚の写真を合成し、笑顔率をアップさせてくれて、画像も明るく修正されていました。そんなこと出来るんだ~。みんないろんなジャンルで、頑張っています。主婦、学校の先生、自営業さん、住職さん、銀行員さんなどなど。新しい年の幕開けに、最高に素敵な時間でした。みなさんも、同窓会、出掛けて見ませんか
2008年01月12日
久しぶりの同窓会のお知らせが来ました。地元にいる方達が幹事をかってでてくれて、500人近い同級生の居場所を調べ、発送してくれました。感謝、感謝です。高校時代、それぞれの思い出があります。バスケットに明け暮れ、勉強もそこそこに。青春時代は後から思うものなんて歌ありましたが、本当に、懐かしくもあり、ほろ苦くあり。こうして故郷を離れていればこそ、故郷への思いは募ります。なんにもない、コンビナートの町。かすかな海の香り。(長野には海がないので余計思います)広島駅で在来線に乗り換えるとそこには広島弁が行きかい、途中、瀬戸内海が見えてくると、つい、海が見えるよとつぶやいてしまう。私が死んだら、ショパンの遺作をピアノで弾いてねそして、ちょっとだけでいいから、瀬戸内海に骨蒔いてね。いつも酔っ払ったときに、言うのでまた始まった~と子供たちは笑ってますが。ちょっと脱線しましたが、お仕事の話。今日もやっちゃいました。商品を納品するのに、昨日姉のところに荷物を送り、やれやれと思ったのもつかの間、「帯がな~い!」どぇ~どうしても必要な柄の帯。製造部長のTさんに泣きつき、早急に作ってもらうことに。「いいよ」と快く引き受けてくれて。足向けて寝られません。これから受け取りに行き、発送します。いつも綱渡りで、ぎりぎり。余裕をもった行動をと、お子達に言っているのに。反省、反省の日々です。
2007年11月22日
お題目を書いて初めて気づきました。なんでふざけ・・・にぼうずがつくんかな?中近東はバーレーンでの一こま。スークと言われる市場の一角で、おふざけ。しかし、これは宗教的なからみもあるので、ひんしゅくでした。外国の文化を冒涜?したように、現地の人には見えたかもしれません・・・反省猿しかも、もちろん購入には至ってません。これは南の島、フィジーでのハネムーンごっこ後ろの方とは、全く関係ありません。こんな夢のような仕事も、昔はあったんですね。古きよき時代でした。いつから、こんなに馬鹿をやるのが好きになったのか、自分でもわかりません。根っから馬鹿という説は濃厚です。そんなおねえちゃんが、昨日はちょ~真面目な(当たり前)企画書を商社の方に提出しました。最初、聞いた時は、は~?企画書?びえ~ん書いたことない。3秒間の間に苦手なワードとエクセルの画面が頭の中をぐ~るぐる専用フォームを送ってもらって、なんとか書き上げました。ぜ~、ぜ~商社のお兄さん、ご迷惑ばかりかけてごめんなさい。今日は、そのお兄さんが九州の業者さんのとこに、企画書とサンプル持って出張してくれます。どうか、うまくいきますようにみなさんも、気のご協力をおねがいします。神様、仏様、ブログの皆様・・・この際なんでもいいからよろしくおねがいします。おねえちゃん、失礼でしょ(妹)全然反省してないし・・・。
2007年09月20日
昔話を聞くのがお好きな方が多いので、COFFEE BREAKあ、まちがった・・・おねえちゃん、わざとまちがえて~(妹)仕事の話が続きましたので、リクエストの多い昔話です。こちらは、ブラジル帰りのロスの空港にて。私の指をよ~く見て!全部色付き、或いは透明のキラキラ光もんブラジルは、宝石が豊富にありまして、皆さんお買いになるわ、お買いになるわある先輩曰く「男は裏切っても、宝石は裏切らないでしょ。」ううう・・・悲しい響きそれで、みんなが買った指輪を借りて、記念撮影。ちなみにおねえちゃんのは、一個もありません。一応、お店は回ったけど、何回行っても買いませんでした。なんでって?おねえちゃんの欲しかったものは、買ってもらった宝石と、裏切らない男お後がよろしいようで・・・それにしても、眉毛太~・・・こんなとこに時代を感じます。石原真理子を思い出すあなたは、まちがいなく同世代
2007年09月08日
出てきました~~~!大昔のお見合い写真・・・一枚も配られなかったお見合い写真女の世界に疲れて、田舎に帰ってお見合いでもしよ~っと20枚も現像した分です。今でも実家に残ってるにちがいない今配ったら詐欺だもんな~よだれ倶楽部のtomochansanがご自分のブログのTOPに載せてくださった通りって、ここですよね!恥ずかしいから、少し小さめずいぶん浦島太郎ですが、読者(?)の方からリクエストがあったので、現役時代のよもやま話を、呆けないうちに書きとめておくのもいいかなと思いました。☆★☆タイガー&乙姫さん☆★☆さん にロシアの話題をいただいたので、今日はロシアの話をしようと思ったら、こんな写真が出てきたというわけです。今はずいぶん変わったと思いますが、当時のロシアは資本主義の国から来たものにとっては、不思議な国でした。これは、川くだりから写したクレムリン?だったと思いますが、こんな立派な建物がある国なのに、庶民の暮らしは悲惨でした。街角で、長蛇の列・・・何~???何が始まるの?石鹸買うために並んでるんだよ・・・は???石鹸???生活必需品にも困るほど、物がなかったので、私たちCREWの物もよくなくなりました。そうじのおばちゃんの仕業です。いい物はUSドルでしか買えないという不思議な事情だったので、換金はやみルートがあって、007かいなという綱渡り・・・これは、時効とは言い切れないので、個人的に酔っ払ってからお話しますね。もちろん、おごってくれたらね資本主義の国とちがって、なんでもやってやってるというかんじなので、ホテルのチェックインも1時間くらいかかるのは、ざら。一番下っ端の私は、もう一人の先輩とチップの100円ライターをにぎりしめて早くしてよ~とにらんだものでした。食事も飲み物頼んでから、出てくるまでに30分くらいかかるので、夕飯なんて3時間はかかりました。 お土産に買ったこの壁掛けのモチーフは聖ワシリー寺院だったかな?これ以上きれいな寺院を建てられないように、建てた人は殺されちゃったと聞きました。仕事的にも辛いことの多かったモスクワでしたが、すばらしいこともありました。こちらは、ボリショイ劇場・・・本場のバレエや、他の劇場では、庶民の娯楽、サーカスを見る機会もありました。 何か人より秀でて、暮らしを豊かにしたいハングリー精神みたいなものも感じました。この国だからこそ生まれた芸術もうなづける・・・極寒の夜に初めてスターダストを見ながら、思いにふけったのも、もう20年以上前のことです。今のロシアは、どうなのかな~?くまちゃん、派遣してみるかなぁ~?
2007年08月27日
昨日は姉が私達兄弟の話を書いたので、今日は妹の目から見た話を書こうと思います姉と私は2歳ちょっと離れていて、弟とは年子。いつも、弟は私にくっついていたので、可愛くてしょうがありませんでした。(今はただのおっさんですが)小さい頃は毎日寝る前にお話を作って聞かせていました。幼稚園のときは「お姉ちゃん歯が痛いよ」と泣いてきたり。小学校に上がったばかりの頃、弟が心配で、担任の先生に「弟はちゃんとやっていますか?」と聞きに行ったことも。姉はとにかく怖かった。弟ともよく喧嘩していました。中学のとき、勉強を教えてと言ってきた弟を、泣かせてしまい、勉強嫌いにしてしまった経験有。今、こんなことをばらすことが出来るようになって、姉も随分丸くなったものだと思います。大人になって、子供たちが、いとこ同士楽しく遊んでいる姿を見たり、こうして姉妹で仕事ができたり、お嫁さんも交えて、お酒飲めたりするのも兄第あってからこそ。本当に親に感謝です。
2007年08月22日
まだ、息子が小さかった頃の話。家族3人で、実家に行き、お土産に母特製のキムチをもらった。匂いが出ないようにと、何重にもビニール袋にいれ、紙袋に入れて持たせてくれた。空港について、手荷物検査を終え、座席に着くと「お客さまの中で、キムチをお忘れの方?」満面の笑みをたたえ、貴重品を持つかのように大事にかかえたスッチィー。「私達の他にキムチなんか持ってる人いるんだ~」通り過ぎた後、「あれ、底が抜けてる!」追いかけて受け取るのも恥ずかしかったので、もう一回横を通り過ぎるときに「う、うちのです」とお引き取り。なんだか、キムチを食べてて、ふと昔のこと思い出しちゃいました。また、天然って言われそう
2007年08月05日
いつも怒っている親が、怒られたり、失敗したりした話を聞くのが、うちの子は大好きです。特にはるか昔のCA時代の失敗談は、腹を抱えて笑ってくれますなんせ、見かけに寄らずドジなもんで、失敗談はいっぱいあります。書ききれないので、一つご紹介昔は、到着した際のアナウンスは、したっぱのCAがしたものです。サービスが始まったり、ざわざわしてる時のアナウンスはあんまり目立たないので、いいのですが、離陸と着陸の際のし~んとした時は、かんだら、もろに響くので、緊張しますそして、やっちゃいました。初めて訪れる憧れのギリシャはアテネにて・・・超~気取った高めの声で、「皆様、当機はアテネ、ヘレヘレ、ヘレニコン国際空港に到着いたしました。」隣の男性パーサーが笑う、笑うそこからが長いアナウンスだったのに・・・びえ~ん!!!その後はご想像通りです。あれほど苦しいアナウンスは・・・もう一回くらいでした。次回、こうご期待だから、会社始めて、いつ取り返しのきかない失敗するか、とても不安ではあります。
2007年07月18日
7月4日に姉が母方の祖母の話を書きましたが、今日は父方の祖母のお話。一緒に暮らしていた80歳で亡くなった祖母は、とにかくおしゃれな人でした。外出するときには薄化粧をし、香水を漂わせ、毛皮のショールをまとい・・・白髪の髪は少し紫がかっていて、若いときは何とか小町と呼ばれていたそう。そんな祖母は和裁がとても上手でした。この仕事に関わるようになって、改めて祖母の縫った着物をみるとまだまだ、自分の未熟さを感じてしまいます。本当に「いい仕事してるな~」と、思わずうなってしまう。針を持つことが好きな遺伝子(?)は、しっかり引き継いだので、後は、精進あるのみ。ちなみに、姉は引き継がなかった?いえいえ、気の強さはばっちり遺伝してますから~。↑↑↑なんだって??? 気が強くないと、突撃営業なんか、できるもんかい!(姉参入) なんとか小町が遺伝したとか、書けばいいのに・・・↑↑↑えへへっ いつも人のこと、とぼけてるっていうから ちょっと仕返ししてみたのよぉ(妹参入)
2007年07月08日
94才で亡くなった祖母との、ちょ~マジな会話です。「孫は、20人近くおるが、おまえのように、高飛びするやつは、おらんのう。」と、現役時代の私に言いました。ステイ先から、いつも絵葉書を出していましたから衝撃的なのは、この次の質問「たまにゃ~、歌も歌うんか?」「お、お、おばあちゃん、スチュワーデスはね、バスガイドとは違うから、歌は歌わんのよ。」「ほ~か~。」おばあちゃんの疑いのない質問にぶっ飛びました。乗り物が違うとは言え、スチュワーデスとバスガイドの区別が、ようわからんかったらしいです。そんなおばあちゃん、今度はまたこいつは、どえらいことをしとるのうと、天国から見守ってくれていることでしょう。そういえば初めてのバイトは、山でわらびを摘んで、おばあちゃんが束ねて市場に出してくれたんだったなぁ。
2007年07月04日
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