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羽柴秀長は、豊臣政権のもとで、大和郡山城を居城として所領を統治しました。 豊臣政権下における羽柴家一門衆の領国大名である、豊臣一門大名として活躍しました。 ”羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟”(2025年9月 KADOKAWA刊 柴 裕之著)を読みました。 秀長は天下統一を果たした兄・秀吉の名補佐役として知られ、豊臣政権の構築と運営に深くかかわり豊臣政権を支えつづけた羽柴秀長の生涯を紹介しています。 羽柴(豊臣)秀吉は、尾張国の百姓の家に生まれ、放浪生活を経て織田信長に仕えました。 才覚で織田家の重臣に出世し、主君の信長が討たれた後、政局を勝ち抜いて天下人へと飛躍しました。 そして、天下一統といわれる国内の諸勢力の統合を成し遂げました。 秀吉の飛躍は一人だけでなされたのではなく、家臣とともに秀吉を支えた羽柴家一門衆がいました。 その筆頭に位置したのが、秀吉の実弟の秀長でした。 所領は、大和・紀伊(和歌山県下)、和泉国(大阪府下)の大部分、伊賀国(三重県下)です。 そして、秀吉を支え、時には代行を務めて、有力諸大名との折衝や軍事活動を行いました。 秀長の存在は、秀吉が天下人に登り詰めていくにあたり不可欠なものでした。 秀吉に比べて、秀長の史料は発給文書が少ないうえ、活動の多くは秀吉の活躍に隠れています。 知名度に比べ不明なことが多く、家族や家臣にも目を向けて秀長の実像にせまりたいといいます。 柴 裕之さんは1973年東京都生まれ、1999年に東洋大学文学研究科 日本史学専攻修士課程を修了しました。 2002年に同大学院日本史学専攻博士後期課程を満期退学しました。 文学博士文学 (東洋大学)で、専攻は日本中近世移行期政治・社会史です。 2005年に千葉県史料研究財団嘱託、2007年に東洋大学文学部非常勤講師となりました。 2014年に早稲田大学エクステンションセンター講師、2015年に愛知大学文学部非常勤講師となりました。 2017年に木更津市史中世部会委員、2020年に世田谷区中世史編さん委員会専門委員となりました。 現在、東洋大学文学部・駒澤大学文学部の非常勤講師を務めています。 「謹んで泰山府君に上る都状」での記載から、羽柴秀長の実名、年齢、生年などが分かるといいます。 都状とは、陰陽道の祭祀である泰山府君祭の際に使用された祭文です。 泰山府君祭は、中国古代からの人間の寿命と福禄を司る神である泰山府君の祭祀です。 そこに、「天正十八年十月吉曜日羽柴大納言豊臣朝臣秀長五十一歳謹啓」と記述されています。 天正十八年は1590年であり、この年は安土桃山時代に当たっています。 1590年に秀長は、大和郡山にあって体調が悪化していました。 小田原征伐には出征せず、留守居役を務めたのでした。 この都状を捧げて、祈願主は無病息災・病気平癒を願いました。 秀長の都状もまた、重篤の病状にあったため平癒を期したのです。 作成したのは、秀長本人またはその周辺の人物からの依頼を受けた人物でしょう。 都状での記載のうち、実名、年齢、生年は、原則として黒字で記すことになっています。 しかし、秀長がこの時重篤の状況にあったため、近い人物が代理人として記した可能性もあります。 それでも、史料の性格から同時代史料であることは間違いないといいます。 「羽柴大納言豊臣朝臣」の記述から、苗字は羽柴であり氏姓は豊臣でした。 したがって、今後は豊臣秀長ではなく、羽柴秀長と呼ぶべきです。 「五十一歳」の記述から、1590年10月時点で年齢が51歳であったことがわかります。 当時の年齢は数え年で、年が改まると年齢を1歳加えていました。 したがって、翌天正19年1月22日に死去した秀長の享年は、通説の通り52となります。 逆算すると、生年も天文9年となり、江戸時代以来の伝来が間違いなかったことになります。 一方、秀長が3月2日の生まれというのは、いまのところ『系図纂要』のみで確認されます。 ほかに史料がないため、正否の判断をくだすことはできません。 秀長の幼名について「小竹」が知られていますが、『太閤素生記』では「是ハアダ名」と記しています。 この書は、江戸幕府の旗本土屋知貞によって、1625年~1676年の間に編纂されたものです。 したがって、「小竹」は渾名であって幼名ではありませんので、秀長の幼名はわからないといいます。 秀長は兄の秀吉および姉妹とともに、尾張国中村で生まれたとして知られています。 現在、同地の豊国神社がある中村公園は、秀吉・秀長兄弟の生誕場所とされます。 その敷地内や周辺には、多くの出生地伝承があります。 しかし、同時代の古文書や古記録などの史料では、兄弟の生誕地について記したものはみられません。 1626年の小瀬甫庵の『太閤記』には、「尾張国愛智郡中村」と記されています。 『太閤素生記』には、「尾張国愛智郡中々村」と記されています。 中村は上中村・中々村・下中村より構成され、中々村は、名古屋市中村区中村中町付近とされます。 これらの情報源から、中々村誕生説は可能性が高いでしょう。 秀長は1575年に羽柴長秀に改名し、翌年に藤堂高虎が仕官し家臣となりました。 高虎は秀長に仕えると、次代秀保が死去するまで大和豊臣家の維持発展に尽くしました。 1577年に手取川の戦いに参戦しましたが、秀吉が柴田勝家と対立し無断で撤兵しました。 続いて秀吉が織田信長に中国地方の平定を命じられ、竹田城の戦いに参戦しました。 この戦で太田垣氏の竹田城を攻め攻略し、秀長が竹田城の城代となりました。 1582年に明智光秀の謀反により本能寺にて信長が自害しました。 本能寺の変前までの秀長の活動は、史料は極端に少なく、わからないことが多いといいます。 そのため、この時期の記載は秀吉また主君の信長の活動を通じてみていくことになります。 秀吉は中国攻めより引き返し、明智光秀と戦い勝利しました。 信忠の嫡男秀信が織田家家督を継ぎ、秀吉が織田家家臣の実質的な筆頭となりました。 1583年に秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し、織田家の実権を握って大坂城の築城を始めました。 1584年に秀吉が小牧長久手の戦いで織田信雄、徳川家康と戦い、信雄と単独講和し家康とも講和しました。 1585年に秀長が四国平定の総大将として、長宗我部元親と戦って降伏させました。 秀吉は近衛前久の猶子となり、藤原秀吉と改名して関白宣下を受けました。 1586年に秀吉が正親町天皇から豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉と改名しました。 1586年から87年まで、秀長は秀吉の九州平定に従い、九州東岸の総大将を務めました。 1587年に、秀長が九州の東岸より侵攻して島津義久の軍を破り、豊臣氏が九州を平定しました。 秀長は権大納言に任官しましたが、このころから体調が悪化しました。 1590年の小田原征伐には出征せず留守居役を務めましたが、1591年に大和郡山城にて死去しました。 秀長は天下人秀吉の弟として知られ、兄を支えた補佐役として関心が寄せられてきました。 しかし、秀吉研究は枚挙に暇がありませんが、史料に基づいた秀長研究はあまりなされてきませんでした。 本書は、同時代史料を可能な限り蒐集して、検討を通じて秀長の実像に迫ることを目指したといいます。 ただし、これですべての謎が解明されたと思ってはいず、あくまで一試論であるといいます。 なお著者は、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を、黒田基樹氏と共に担当しています。はじめに/第一章 生い立ちと父母・きょうだい/第二章 織田信長と羽柴秀吉・長秀兄弟/第三章 本能寺の変後の政局と飛躍/第四章 豊臣政権の成立と秀長/第五章 秀長の妻と子/第六章 一門筆頭の執政として奔走/終章 秀長の死去とその後/あとがき/主要参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]
2026.04.25
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藤堂高虎は、1556年に近江国犬上郡藤堂村に藤堂虎高の次男として生まれ、幼名を与吉と言いました。 ”藤堂高虎 侍は討ち死に仕り候が本義ニ候”(2026年1月 ミネルヴァ書房刊 藤田 達生著)を読みました。 織豊期に7人の主君に仕え豊臣秀長に見出されて大名となり、徳川家康・秀忠の側近として生涯を幕藩体制確立のために尽くした、高虎の生涯を紹介しています。 1570年に浅井氏に仕え、姉川の戦いで初陣を飾りました。 1573年に磯野丹波守員昌に仕え、80石を与えられました。 1576年に木下秀長に仕え、300石を与えられ与右衛門と称しました。 1578年に羽柴秀吉の山陽・山陰攻略に従い、秀長旗下として戦いました。 1580年に秀長に従い丹波に入り、戦功により3,000石加増され3,300石となりました。 1581年に但馬養父郡大屋村の栃尾祐善の媒酌で、一色修理太夫の女と結婚しました。 1582年に秀吉の山陽・山陰攻略に従い、秀長旗下として戦い、本能寺の変後、山崎の戦いに従いました。 1583年に賤ヶ岳合戦に戦功し、秀吉より1,000石、秀長より300石の加増を受け4,600石となりました。 1585年に紀伊国平定のため秀長に従い、根来衆・熊野攻略に向かい四国長曽我部氏と戦いました。 戦功により5,400石加増され1万石になり、大名格の身分となりました。 秀長の和歌山城築城に際して、築城奉行となりました。 1586年に秀吉が家康と縁を結び、家康の上洛に際して家康の京都邸造営を担当しました。 1587年に秀吉の九州への出陣に際し、秀長軍の先鋒となり島津氏と戦いました。 戦功により従五位下の佐渡守となり、1万石加増され紀州粉河2万石の大名となりました。 1590年に秀長軍を率い北条氏と戦いましたが、翌年に秀長が死去し領地を受けて嗣子秀保の後見役となりました。 1595年に秀保が急逝し、嗣子がないため主家廃絶となり高野山に入りました。 秀吉に請われて下山し、5万石加増され伊予宇和島7万石になり宇和島城を築きました。 1596年に朝鮮出兵して水軍を指揮し、1598年に戦功により1万石加増され8万石の大名となりました。 1600年に、関ヶ原の戦いで東軍に属して勝利しました。 12万石を加増されて、伊予今治に封ぜられ20万石となり今治城を築きました。 藤田達生さんは1958年愛媛県新居浜市生まれ、1981年に愛媛大学教育学部中学校教員養成課程を卒業しました。 1987年に神戸大学大学院博士課程を修了し、学術博士の学位を取得しました。 専門分野は、日本近世国家成立史の研究です。 同年に神戸大学助手、1993年に三重大学教育学部助教授、2003年に教授となりました。 2015年に、三重大学大学院地域イノベーション学研究科教授を兼任しました。 2017年に織豊期研究会会長となり、2021年に三重大学副学長、2024年に特任名誉教授となりました。 藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名です。 伊予今治藩主となり、後に伊勢津藩の初代藩主となりました。 藤堂氏は、近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県犬上郡甲良町在士が発祥です。 戦国時代に藤堂高虎が出て、江戸時代に津藩を領する外様大名となり、維新後は華族の伯爵家に列しました。 高虎は藤堂家宗家であり、津藩藤堂家の初代です。 高虎は、黒田官兵衛、加藤清正と並び、築城三名人の一人とされます。 江戸城をはじめ、駿府城・伏見城・犬坂城など数多くの築城の縄張りを担当しました。 高虎は、層塔型天守や高石垣をシンボルとする近世城郭と、開放的な近世城下町を建設しました。 石垣上には、多聞櫓を巡らす築城が巧みでした。 そして、それらが有機的に配漑される近世都市の規範を示しました。 大名が建築家であり都市プランナーであるというのは、築城ブームだった江戸時代草創期らしいです。 1606年に江戸城修築で、天守閣築造の設計、二の丸・三の丸を増築し2万石加増されました。 1608年に伊賀・伊勢へ転封となり、伊賀、伊勢・一志郡、伊予国に渡る223,950石余の石高となりました。 1615年に大坂夏の陣に従軍し、戦功により、伊勢の内で5万石加増され、273,950石余となりました。 外様大名でありながら、徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する立場にありました。 たとえば、関ヶ原の戦いの恩賞の調整に、井伊直政とともに関与しました。 犬坂の陣では、井伊直孝とともに先鋒を任され譜代大名を率いました。 高虎は、外様大名という範躊には収まらない存在でした。 公儀普請のために現地逗留した以外は、駿府の大御所家康や江戸の将軍秀忠のもとに伺候していました。 幕府の重臣会議にも参画し、本多正信・正純父子や以心崇伝や南光坊天海とも懇意でした。 1616年に家康が死去し、日光東照宮造営にあたりました。 家康没後も、秀忠の覚えめでたい側近としての立場を築きました。 晩年においても、大御所様衆として認識されていました。 1617年に、伊勢国田丸5万石加増されて323,950石余りとなり、津藩の石高が確定しました。 1630年に眼疾により失明し、10月5日に享年75歳で死去しました。 徳川家譜代の家臣筋でもない高虎が、なぜかくも天下人から信頼を獲得したのでしょうか。 本書は、高虎が戦国時代に誕生し江戸柳原の藩邸で死去するまでの、75年に及ぶ足跡を追います。 そして、天下人とともに人生をかけて取り組んだ新たな武家国家建設の道程を詳しく見てゆくといいます。 多様な人材が歴史の表舞台で躍動した時代にあって、高虎は代表的な先覚者の一人であったということです。 高虎は、戦時には一流の参謀であり戦巧者でした。 平時には、都市プランナー・行政官・外交官など多彩な顔をもっていました。 特に活躍したのは、朝廷や西国の外様大名と大御所・将軍・幕閣との取り次ぎ役としてです。 高虎は、関ヶ原の戦いや大坂の陣などの大規模戦争において、徳川方の勝利に大きく貢献しました。 次に、大規模な馬出を配置する新型城郭を確立し、数々の天下普請に中心的に関与しました。 次に、幕府の要請により、熊本藩や高松藩などで、後の国目付の役割を果たすことがありました。 次に、駿府と江戸を往復して、家康と秀忠が一丸となって政権運営することを側面から支えました。 次に、公武融和のために自ら京都に乗り込み、幕府と朝廷や西国諸大名との関係の円滑化に貢献しました。 そして、重要事項決定に際し意見を求められたり、幕府の重臣会議に出席したりすることがありました。 著者は、当時は、朝廷や外様大名たちの意志を幕府につなぐ交渉役・斡旋人が不可欠だったといいます。 その役どころをしっかりと担つたのが、高虎その人だった、と理解しているといいます。はじめに/第一章 大和豊臣家/第二章 家康側近への道/第三章 最前線の藩/第四章 徳川公儀を創る/第五章 藩士群像/第六章 寛永政治への参画/参考文献/おわりに/略年表 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]
2026.04.11
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