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出口王仁三郎の気付かれざる「出生の因縁」 当ブログにお越しの皆様、お待たせしました。 本日23日は、以前から告知している通り、 熊本県所在 幣立神宮「五色神祭・大祭」でした。 参列された方がいらっしゃれば、お疲れ様でした。共に「平和への祈り」を捧げられた事に感謝します。今年の五色人になられた代表者は、御皇室の伏見宮殿下、安倍総理大臣の妻、昭恵夫人が5年ぶり2度めの代表を務められました。御縁のある方は、やはり引き寄せられるものです。 それでは、「出口王仁三郎の気付かれざる出生の因縁」を公開します。 出口王仁三郎には誕生日が2つあります。「キャバ嬢の営業用誕生日でもあるまいし」「某皇室の御落胤説」等の軽い話ではありません。来訪される方の貴重な時間をさくのですから、内容は深く、証拠資料付きです。 誕生日の一つは、前回ブログで公表した通りです。数多くの資料が・1871年8月27日(明治4年旧7月12日) (ウィキペディアより)としているので、多分、この日が、一般的だと思います。 次に、王仁三郎自身は、自らの誕生日について何月何日と言ったと思いますか? 旧7月12日(新の8月23日)(出口王仁三郎聖師の玉言集『新月の光(カケ)[上巻]より) 本日は、8月23日 です。「印刷ミスだろう」と思われた方もいるかもしれません。何よりも私、喜四郎の陰謀だと思われたかも知れませんね。 しかし、肝心なことは王仁三郎の高弟・木庭次守が蒐集編纂した書籍ということです。ここには、王仁三郎自身が自ら生まれた日の情景について「句」を残しています。大本の神器「御手代」と聖師日和 大正12(1923)年8月、聖師は熊本県阿蘇郡小国町の杖立温泉で湯治された。 この時、誕生日の旧7月12日(新の8月23日)夜の月を仰いで、杖立名産の竹の杓子の裏に この杓子我生れたる十二夜の月の姿にさも似たるかな王仁 (此杓子吾生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな王仁) 御手代歌碑「万物の 身魂を救う この杓子 心のままに世人救えよ」表側「此杓子吾生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな王仁」裏側 本日、当ブログに来訪された皆様と、出口王仁三郎の生誕144周年を心から祝ってあげられるだけでも良いのですが、それでは私の予告「出口王仁三郎の生誕の因縁」が完成しませんので、もう少しお付き合い下さい。「此杓子吾生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな王仁」 上記の句は、 熊本県小国町「杖立温泉郷」で読まれました。以前、紹介したhttp://plaza.rakuten.co.jp/kisirou/diary/201504080000/http://plaza.rakuten.co.jp/kisirou/diary/201504120000/です。王仁三郎は、約1ヶ月滞在したそうです。http://www.h2.dion.ne.jp/~sakurait/kyuushuukennshuukaihoukoku.htmlより 当ブログを以前から閲覧された方なら、ここで疑問が浮かぶと思います。「九州で数々の霊場を開き、色々な神示を世に示した王仁三郎ほどの霊能力者が、九州の臍(中心)、ゼロ地場地点の幣立神宮の存在に気付かなかったのか?」 公式の大本教関係の資料を見る限り、「幣立神宮へ参拝」の記録は、私には発見できませんでした。 8月23日 幣立神宮「五色神祭」=出口王仁三郎生誕の日(私以外、誰も気にもしなかった) 私の推測を提示します。1 幣立神宮は、先代、故春木秀映宮司が、昭和7年神職を継承し、平成7年に「五色神祭」を世に公表。 それまでは、田舎の神社で地元の人しか知られていなかったようです。参照2 出口王仁三郎の熊本巡礼は、「弥勒最勝妙如来像」「関東大震災の予言」等、入蒙への壮大な下準備だったと言えます。入蒙とは、第一次大本事件の後、責付出獄の身で満蒙に渡り、御神業を行い、弥勒の世へ以降を断念、日本の建替になりました。 つまり、 8月23日 誕生日説にも隠された意味があるはずです。歌碑の表裏にわざわざ句を刻んだのですから。3 幣立神宮は、先代宮司が御神命を受け、独力で広めた事で、独自性と中立性が保たれ、現、春木伸哉宮司の御尽力により、ご発展されました。4 もし、出口王仁三郎が幣立神宮に参拝したら、 存在は、たちまち世に広まった事に違いないでしょう。そうすると、大本教色が入り、今日の幣立神宮が持つ、独自性と中立性が確実に薄れます。 だから、王仁三郎は、幣立神宮に気付かぬフリをしたのでは、ないでしょうか。後世に託すために。5 王仁三郎の熊本巡礼は、日本の建替が中心だと私は記しました。 8月23日誕生説=幣立神宮「五色神祭」の隠語または暗号であったと推測します。6 五色神祭とは、 地球の安泰と人類の幸福・弥栄、世界の平和を祈る儀式 です。104頁より抜粋 口説いですが、私の推測です。「平和」を希求するのは、平和でない世の中だからです。「今の世は逆様ぢゃ。」 日月神示「夏の巻」第二帖 王仁三郎は、大峠と弥勒の世界到来を後世に託しました。 全ては、これからです。王仁三郎の生誕の因縁を 今日、8月23日というキーワードで幣立神宮「五色神祭」で結びつけました。 今日、五色神祭に参列された方は幸いです。 今日、この事実を知られた方も幸いです。 そして、これからが「日月神示」です。尚、春木宮司は、この事実をご存知ないですし、私も伝えた事がありません。理由は、幣立神宮の独自性と中立性に影響を及ぼしかねないからです。 その代わり、本日、私は早朝4時に起床して、「御手代歌碑」で「たまゆら」に今回の内容を公表するお伺いを立ててきました。
2015.08.23
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いつもご訪問下さり、誠にありがとうございます。九州パワースポットシリーズは、如何だったでしょうか?今回は終戦70周年にもあたり、パワースポットに「戦争」を絡めた場所にしました。まだ九州で御紹介できる場所はありますが、私が19日から23日まで幣立神宮「五色神祭・大祭」の出席に合わせて、九州一部地域を巡る為、しばらくの間、休止します。 そして、今回の五色人も、著名人が御役を務められ、過去にも務められた「あの方」が、再び五色人になられるそうですが、事前に公表できないので、願わくば御縁のある方は、幣立神宮で共に出席できれば幸いです。 予告 次回のテーマは、近代、日本最高の霊能力者、出口王仁三郎の気付かれざる「出生の因縁」を公開します。「宗教法人大本教」のHPより抜粋「≪出生と昇天≫明治4年(1871)、京都府亀岡市で出生。昭和23(1948)年1月19日、78歳で昇天。http://www.oomoto.or.jp/japanese/outline/founders.html」ウィキペディアより抜粋「出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年旧7月12日) - 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。もう一人の教祖(肩書きは「開祖」)は、出口なお(直)。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8Eと公表されています。ただ出生に関しては、本家本元の大本教が示しているから、「これだ」と固定観念がある為、 私、喜四郎以外、誰も気付けません。 私も、戦後70年にして、「幣立神宮・五色神祭大祭」の今年に、少しだけ、格好付けたいと思います。 尚、「幣立神宮・式年行事」は全て撮影が禁止ですので、行事中の内容はブログにアップしませんので、あしからず。ご縁のある方は、↓↓↓幣立神宮で会いましょう。
2015.08.18
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パワースポット 福岡県1 本日は戦後70周年目の「終戦記念日」です。この大戦により犠牲になられた多くの御霊に、御冥福を御祈り致します。 今回ご紹介するのは、福岡県です。パワースポットというより、 日本人として知っていて、いやそれよりも 知らなければならない場所です。 私はこの存在を知った時、最初に感じた事は 日本の女性は真に強いです。次に感じた事は 今の大韓民国、中華人民共和国とは、永久に真の友好などあり得ないです。以下の文は、初めて知る方には、嫌悪感を抱いたり、私の感覚を疑うかも知れません。しかし、筆舌し難い苦しみを味わった日本人女性の尊厳と、手術を担当した医師の葛藤・無念さを思えば、私は「喜」が「鬼」にもなります。「二日市保養所(ふつかいちほようじょ) 福岡県筑紫野市二日市町にあった厚生省引揚援護庁の医療施設。ここでは、レ△プ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行った。開所に至る経緯終戦直後より在満・在朝日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は、朝鮮人やソ連兵、中国人[1] 等による度重なる強カンを受けた末、心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいた。そして強カンにより妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が少なからず出た。釜山日本人世話会による1945年(昭和20年)12月 - 1946年(昭和21年)3月の調査では、調査対象者885人のうち、レ△プ被害者70人、性病罹患患者19人、約1割が性犯罪の被害に遭っているという数字が示された。在外同胞援護会救療部では、引揚船に医師を派遣し、引揚者の治療に当たったが、殊のほか女性の性的被害が多いことに愕然し、早急に専門の治療施設を作る必要があると上部に掛け合った。こういう経緯で、1946年(昭和21年)3月25日に「二日市保養所」が開設されることになった。医師は在外同胞援護会救療部員(旧京城帝国大学医学部医局員によって構成)が担当した。」ウィキペディアよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%97%A5%E5%B8%82%E4%BF%9D%E9%A4%8A%E6%89%80 二日市保養所跡に残る水子地蔵と記念石 「医は仁術(意味:医術は単なる技術ではなく,人を救う道である)」という諺がありますが、終戦後間もない全ての物質が不足の中で、患者の身の上を知り、当時、違法とされた手術を行わなざるを得ない医師の精神的苦痛(女性の尊厳を守るため、臨まれない生命を奪う手術)は、はかり知れません。 ただし、戦後生まれの私が意見するのは恐縮ですが、この件は全てが被害者であり、加害者(国策であったとしても、中国大陸や朝鮮半島に移住しなければ、回避できた被害であり、移住された側にして見れば占領としか見えない)でもあると思います。自称従軍慰安婦、金福童 自称従軍慰安婦、黄錦周 慰安婦像 上記のような、たかり行為(慰安婦は、吉田清治のねつ造)をする人間がいなくなれば、互いに歩み寄れると思いますが・・・ この石の裏には 二日市保養所の経緯が彫られています。私がこの場で、鎮魂法を行っても「たまゆら」を感じられませんでした。この石碑、建立に関わった人達の「残留思念」のような極僅かな「想い」だけでした。 「後世、このような悲劇が繰り返されないように、この石を語り継いで欲しい」という想いでした。そこで、本来はここの正確な住所を掲載して、心ある方に巡ってもらいたいのですが、お隣の国には、靖国神社に放火したり、池に放尿したり、対馬で仏像を盗んだりと、竹島を占領したりと自分達の都合で行動する輩が多く、ここも破壊の標的になりかねませんので掲載しません。 ヒントは済生会二日市病院周辺です。
2015.08.14
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パワースポット 長崎県1 はじめに、70年前、太平洋戦争で一般市民の方々が、米軍の国際戦争法を無視した大虐殺で犠牲になられた事に、ご冥福を御祈り致します。 今回ご紹介するのは、前回の続きで長崎県です。パワースポットというより「因縁の地」です。本日は「長崎原爆の日」です。ここまで記せば、場所の推測がつくと思います。 その前に、気の利いた人なら「長崎原爆の日」に合わせて、「平和」「非戦」「核兵器廃絶」、それに光の反射と疑わしい光を「オーブ」と称し 美辞麗句(びじれいく)うわべだけ飾った内容の乏しい、また真実味のない言葉の意。(goo辞書より)で書き綴ると思います。 私には、そんな事できませんし、これから記す内容は、一部で不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「長崎原爆の日」の別な見方のため、ご了承下さい。 それでは、参拝地は「平和記念公園と像」「浦上天主堂」です。・平和公園 長崎県長崎市松山町9 平和記念像・平和公園の北端に建てられた像。・長崎刑務所浦上刑務支所は、原爆投下時、平和祈念像が建っている地点にあった。刑務所内で爆死した人々を追悼するため、1959年、有志により設置された。 (ウィキペディアより)3体の画像のポーズが似ているのは、偶然かそれとも何かのサインか?私が「平和祈念像」を悪魔像と同列視して、侮辱しているのか? 出口王仁三郎聖師は、かつて次のことを語られました。「人を殺したからというて死刑に処すると、その人の霊がまた人にかかって人を殺さしめ、死刑になるような事をしでかす」(機関誌「神の国」昭和5年2月)刑務所跡地に建設された像と悪魔像のポーズ、正解はありませんので、判断は各自で願います。 続いての参拝地は「浦上天主堂」です。 ・長崎県長崎市本尾町1-79 ・正式名 カトリック浦上教会。・投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡。・江戸時代における異教禁制による隠れ隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地であった。 (ウィキペディアより) 豊臣秀吉が1587年に発した「バテレン追放令」をご存知でしょうか。キリスト教と南蛮貿易に関する禁制文書です。発令した理由は・当時、アジア各地で宣教師の布教後、キリスト教に改宗した農民層がクーデターを起こし、後に本国のキリスト教(白人)による植民地支配が始まるため。・キリスト教改宗者(大名から農民まで)による、神社仏閣の破壊活動行為。・キリスト教国のポルトガル商人が日本人(主に若い女性)を奴隷として売買していたのを中止させるため。 女性と戦争の道具である「火薬」が取引されていた。 一体、当時のキリスト教は、誰を救う宗教なのか、宣教師は何なのか、疑問だらけです。「教会の上で、原爆が炸裂し大勢の人が不慮の死を遂げられた」とは、聞こえは良いですが、因縁めいたものを私は感じます。 長崎に投下された原爆は「ファットマン」と言います。 この原料となった「ウラン鉱石」は、どこから産出された物か、ご存知ですか?答えは「フォーコーナーズというホピの住む土地にはウラン採掘所があり、広島市・長崎市に投下された原子爆弾の原料となったウランは、ここから採掘されたものである。」(ウィキペディアより) ホピ族は、アメリカの先住民族で、白人キリスト教により迫害を未だに受け続けて、人種としての存続の危機に立たされている、「平和の民」です。(https://youtu.be/zgUlTSaguSs) そして、ホピ族の代表2名は、5年前の8月23日、幣立神宮「五色神祭」に五色人の代表として来日されました。こちらにも「因縁」を感じます。 最後に、今回は「たまゆら」でなく日月神示で締めさせて頂きます。「区別と順序さへ心得て居れば何様を拝んでもよいぞ。」日月神示「月光の巻」・第23帖ホピ族を知りたい方のために↓・《徳間書店》フランク・ウォーターズ 林陽訳ホピ 宇宙からの聖書 神・人・宗教の原点・ ホピ 宇宙からの予言 神・人・宗教の原点 超知ライブラリー/ルドルフカイザー(著者),木原悦子(訳者)
2015.08.09
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パワースポット 熊本県8 今回も熊本県のパワースポットをご紹介です。前回は、パワースポットとしては本物ですが、ニビル星アヌ神が影響している場所でした。宇宙とチャネリングを専門にされる方には、丁度良いかもしれませんが、日本人として、今回は私がオススメする場所のご紹介です。場所は不動岩 別名をみろく岩です。所在地は熊本県山鹿市三玉地区蒲生 556-25 、山鹿市のHPによれば「不動岩は、5億年以上も前の古生代(オルドビス紀)の『変はんれい岩』からできたもので、まだ日本列島の形すらできていない時代のものです。この変はんれい岩が気の遠くなる年月をかけて崩れて海に流され、海水に洗われ丸い小石や砂(さざれ石)になり、そのさざれ石が海底に厚く積み重なって強い圧力を受け岩磐となり、その周囲が削り取られていわゆる国歌「君が代」の歌詞にある「さざれ石の巌(いわお)」となったものが不動岩です。」 http://www.yamaga-kankoh.hinokuni-net.jp/spots/detail/107画面中央の岩この岩を見て、出口王仁郎は「みろく岩」と名付けられました。 そして、「みろく岩」のふもとに、「弥勒最勝妙如来」(みろく さいしょう みょう にょらい)」像が安置され、この付近を「瑞霊院」と言います。「弥勒最勝妙如来」像「三玉村を訪問された聖師は、地元の凡導寺に安置されていた石造りの観音像と対面された。高さは5尺3寸で聖師の身長と同じであった。聖師が鎮魂をされるとその石像が動いたのであった。早速この観音に「弥勒最勝妙如来」(みろく さいしょう みょう にょらい)と名付けられ」大本HP(http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=60)瑞霊苑「聖師は大正14年この観音像の安置された地を“瑞霊苑”(ずいれいえん)と命名された。」大本HP(http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=60)これだけ説明すれば、どんなに凄いパワースポットかは、普通に理解できると思いますし、ちょっと知識がある人なら、誰にでも書けそうな内容です。 ですが、ここからが私のブログの真髄です。「弥勒岩」は、修験道の地で、とても殺伐とした大地のエネルギーを感じました。不動岩の中腹には、「不動神社の拝殿」があります。不動神社 また、この時は修験道者みたいな方が何やら鍛錬されていたので、暗くなってから再度、参拝に来ました。画面下に鳥居の上部があり、画面中央の光体を確認出来ますでしょうか? 鳥居の上部から鳥のような、たまゆら出現 そして、いつものように鎮魂帰神法を行い、たまゆらの意味を確認すると、鳥の後を追えという事でした。鳥のたまゆらが飛んでいった方向とは、長崎県でした。今回は、次の霊場を示された結果となりました。宿で菜食主義の私も食べれました、おすすめ品熊本 郷土料理 名物 からし蓮根
2015.08.06
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パワースポット 熊本県7 なるべく早く更新するつもりが、8月になってしまいました。ご訪問下さる方には、申し訳ありません。 今回は、パワースポットであり、「親神様の因縁の話」でもあります。場所は、熊本県阿蘇郡南小国町にある押戸石(おしといし)です。NPO法人 押戸石の丘 南小国町観光協会のHPによれば、押戸岩とは「ユネスコ岩石芸術会をはじめアメリカやカナダの岩石芸術学会、日本ペトログラフ協会等の国際学会で先史時代の巨石文化遺跡であることが認証されました。」とあり、巨石に古代文字(ペトログラフ)が刻まれているそうです。平成22(2010)年8月23日=幣立神宮「五色神祭」と同日に行って来ました。 「日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆人民の食ひて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ、日本人には肉類禁物ぢゃぞ。」日月神示「ウメの巻」第14帖以上の理由で私は菜食主義です。 時は遡り2009年頃、千葉県T市で玄米菜食料理を出すレストランHの女性オーナーから「間もなく閉店して、今度は千葉県T市C区で別の事業を開きます。正式に決まったら連絡したいので連絡先を教えてくれませんか?」と言われ、アドレス交換をしました。後日、開業案内のメールがあり、オープン日に行くと、 ヒーリングサロン 名称「R・A」というグリーン色2階建の建物がありました。 実はこの女性、リーディングとヒーリングでは、元のT市で有名人だったらしく、御弟子さんも十数名、開業祝に駆けつけ、宴は夜まで続きました。21時を過ぎた頃、私を含め全員で円形に座り、両隣の人と手をつないで、チャネリングを開始、ご本人達にとって重要な秘密の結成式が行われました。チャネリングの相手から・この女性はニビル星アヌ神の霊的なフィアンセで、2012年地球アセンションに向け、秘密のミッションをする。私達はその為に選ばれ、全国の封印を解除するのが目的。・メンバーは全国で50名、名称は『A~50』。・この事は公言禁止とする。以上のような意識交流だったと記憶してます。この内容を読んで、私の事を「凄い存在」と勘違いされた方はいませんよね?1.2012年アセンションは、デマ2.ニビル星アヌ神は、メソポタミヤ文明で天から降りてきた神様。中東は一夫多妻制で、シュメール神話でも神は一夫多妻。親神の行為は人に反映します。よって、日本にアヌ神のフィアンセと名乗る女性は多くいます。3.私は国祖、国常立大神様の御霊統であり、御神業の二股はできません。 この人達とは付かず離れずで交流していましたが、2010年6月頃に、国常立大神の御霊統から「ニビルの御姫様の手伝いをしてくれよ」と伝達されました。当時、ニビル連中は「熊本」で封印解除をやりたがっていました。つまり、「手伝い」とは、私が「封印解除期間中、姫様と付き人の計二人分の全てを補助をせよ」という意味でした。これには、すんなり了承できず、私は自分の霊媒を通して国常立大神様に意義を申し立てると、次の出来事を伝えられました。 シュメール時代に日本の東北に封じ込められていた(国常立大神様)が、一時的に封印を解除したのがアヌ神であり、「敵に塩を贈られた」借りがあるから、代役として「借りを返してくれ」という事でした。(神代の話は、いずれ詳細記す予定) 物証はこちら「吉田信啓先生により、天明も気づかなかった痲賀多大権現の塚が発見されたことにより、日嗣神(ヒツグノカミ)とは、古代シュメール時代の肉体を持ってこの国を治めた方であったことが分かり、一層その実在が確認されました。「至恩通信」1990年8月20日第185号 この史実を示されたので、承諾し「熊本」でニビル神の封印解除ミッションを手伝うことになりました。2010年8月22日の夜、ホテルでチャネリングを行い、ミッションポイントが断片的に伝達されました。その一つがお・し・とでした。キーワードを手かがりにポイントを探しを女性陣は行い、私は翌日の運転のため先に自分の部屋へ戻りましたが、女性陣に気付かれぬようにチャネリング状態を維持しました。私単独では、アヌ神とコンタクトが出来ないためです。 自室で、アヌ神に対し「国常立大神様から、外宇宙から来た複数の生命体が地球の統治権を奪取し、自分達を神と呼ばせたヴィジョンは見せられた。今回は何が目的で、こんな事をさせるのか、教えて頂きたい」と尋ねると「(少し沈黙)宜しく頼む」と回答されチャネルダウン。一蹴されました。翌早朝に、ホテルのロビーに集合し、正式なミッションポイントを教えられ出発しました。長くなりましたが、ここまでが「押戸岩」の経緯です。 そして、押戸岩で封印解除ミッションを行いました。 私には見えず感じませんでしたが、この岩のこの部分にシュール文字が刻まれているとのこと。 今回は、私の「たまゆら」でなく、アヌ神のパワースポットでした。押戸石についての詳細はhttp://www.oshitoishi.com/index.html我々が宿泊したホテル天然温泉 六花の湯 ドーミーイン熊本屋上に大浴場があり、ワンランク上のビジネスホテルでした。
2015.08.02
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