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私は50歳になるまで「愛」って何かわかりませんでした。本当に自己中心的な考えしかできない人間だったようです。しかし、今やっと少し「愛」というものがわかってきたようです。 愛 = 慈悲 =道(キリスト教) (仏教) (儒教) すべての宗教の中心は「愛」なんですね。 もっと簡単に言うなら、「愛」=「やさしさ」=「思いやり」なんですね。 人間は「生きとし生けるもの」すべてを思いやり、やさしくする心を育くまねばならないと思っています。といってもなかなか簡単にできるものではありません。最初に、私の妻(親子ではない他者である存在)に対し、私のできるかぎりの思いやりを与えていきたい、と思っています。そして、その思いやりの心が、妻以外の人間、またすべての生きとし生けるものに広がっていけばと願っています。 これからの人生は、妻の喜ぶことをして生きていこうと思う。 食後の後片付けをしよう。 室内の清掃に気をくばろう。 ゴミ出しも私の仕事だ。 庭の手入れもしよう。 二人の時間をたくさんもとう。 妻の話をよく聞こう。 「こんなことをしたらいいよ」っていう意見があれば教えてください♪
2009.08.02
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なぜ生きる「人はなぜ生きる」という呪縛からやっと開放された!人は愛するために生きる!そして今を生きる!「人は愛するために生きる」 瀬戸内寂聴「人類の使命はコスモスの進化を促すことです」 アービン・ラズロ「真の宗教とは真に生きること、つまり、自分の魂と善良さと正義の ありったけを込めて生きることである」アルベルト・アインシュタイン
2009.07.26
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「あなたの体は今このぬいぐるみのさなぎのようなものです。死によってあなたの魂は今の体を離れて、この蝶々のように美しく飛び立って天国にいくのです。死は決して終わりではありません」エリザベス・キューブラー・ロス博士は、子どもたちに死を説明する時、よく蝶の幼虫のさなぎのようなぬいぐるみを使います。さなぎのお腹のジッパーを開けると、中からきれいな蝶々のぬいぐるみがでてきます。 母が死んだ翌日の納棺の時に、私は上記に引用したように、母の体は魂の抜け殻以外の何物でもないと強く感じた。母が人口透析を受けるようになってから、私は週に三回母を病院に送っていく役目を請け負った。約二年の間、いつも車の中で母を見ていてこう思った。この二年間で確かに母の体は弱っていった。それははっきりと感じることができた。しかし、母の精神というか心はどうだったであろうか。肉体の衰えと同時に口に出す言葉などはぎこちなくはなったが、考えていること、特に心に思っていることが、肉体と同じように衰えているとはとても思えなかった。それどころか、夫や娘(私の家内)や三人の孫を思う気持ちなどは日毎に強くなっていったように思う。肉体の衰えと平行して人間の心も衰えるものなのだろうか。このことは、自分のことを考えてみるとよくわかると思う。私は今年で54歳になる。実際、肉体的にはすごく衰えを感じる。物覚えも悪くなり、物忘れも目立つ。しかし、このことが自分の精神=心が衰えているとは考えることはできない。物覚えが悪くなったり、物忘れが激しくなることはあくまでも肉体の衰えの結果であり、決して精神の衰えではないのだ。 人間は「考える葦である」という言葉で有名なパスカルはこのように言っている。「もし、人が死後の生命の存在を信じていたのに、実はそれが存在しなかったとしても、別に何も損したことにはならない。しかし、死後の生命が存在するにもかかわらず、それを信じなかったために、手に入れそこなったとしたら、もう取り返しがつかない。その人は、永久にすべてを失うことになる。信じればすべてを手に入れることができ、そのことで失うものは何もないのだから、死後の生命を信じる決断に賭けるべきだ」と。パスカルが言うように、死後の生命すなわち魂の存在を信じ、その魂こそが真の存在であり、その魂の成長こそをこの現世で求めるべきであると思う。人生という道のゴールが茫然とした無だとしたならば、人生の旅は目標を見失ってしまいます。現在の社会は今まさにこの目標を失った状態のように思います。ですから、その目標を物や金を置き換えているだけではないでしょうか。これは真の人間としての存在を無視した社会に他ならないと思います。今こそ私たちは、死のかなたに人生の旅の本当の目的地があることを認め、苦しみの多い人生にも深い意味があることを見出さなくていけない時代に来ていると思います。如何に死ぬかということは如何に今を生きるかにつながってくるのです。 母の遺体は、死はあくまでも肉体の最後であり、肉体はあくまでも魂の入れ物であることを教えてくれたように思う。私もいずれ母の許へ旅立つ身。それまで自己の成長を目指し生きていこう。
2008.08.16
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今晩、THE世界遺産という番組を見た。アマゾンの源流の一つ「マヌー国立公園」というタイトルだ。森林の美しさもさながら、この森に生きている動植物の多様さに驚いた。しかし、この森の中でも絶滅の危機に会っている動物が10種類以上いる。その原因は、すべて人間の乱獲、すなわち人間の欲望である。この番組を見ていて、次のような話を思い出した。 南アメリカの熱帯雨林にデサナ族という先住民がいる。彼らの見るところ、世界には決まった量のエネルギーしかなくて、それがすべての生きものの間を流れているという。したがって、何かが生まれれば必ず何かが死に、何かが死ねば何かが生まれることになる。それで世界のエネルギーの総量は保たれるわけだ。 デサナ族は、狩をして動物を殺せば、その分、霊の井戸に穴が開くと考えている。その穴は、デサナの狩人が死んだときにその霊魂で埋められる。人間が死ななければ、鳥も魚も生まれない。ぼくはこの考えが好きだ。モリーもそう。モリーはさよならが近づくにつれ、ますますわれわれはみな同じ森にすむ生きものだという感じを強くしているようだ。取ったものは、埋め合わせをする。 「それが公平っていうものだよ」 モリー先生との火曜日 (ミッチ・アルボム) より 現在、世界のいたるところで絶滅の危機に瀕している動物たちがいる。反面、人間の数は凄い勢いで増えている。
2008.07.27
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母(義理の母)が亡くなってはや二カ月と少し経とうとしている。私にとって初めての親の死であった。母の死に当たりいろんな経験や思いを記憶のうせない内に書き留めておくことにする。母はかなり前から糖尿を患い、三年前からさらに腎臓も悪化し、人口透析を受けることになった。そのときに主治医の先生から良くてあと三年の命という宣告を受けていたので、母が亡くなったことに対しそれほどの大きいショックがあったわけではない。 五月六日(火)、ゴールデンウイークの最後の日のことである。この日は、私は午前中だけ勤務のため会社にいた。ただ、会社には私一人だったので、他愛もない要件だったのだが家内に電話をした。そのとき家内は「母がたおれた」というひと言を残して電話を切った。私は一刻も早く病院に駆けつけたかったのだが、あいにくと社内は私ひとりだったため空にするわけにもいかなかった。すると、その日勤務でもない社員が残業のため出社してきたので、彼女に理由を話し、勤務の交代を願いでた。早速、病院に駆けつけた。集中治療室に家内とベッドに横たわった母がいた。医師は私に向かってこう言った。「すでに脳死の状態です」と。そのことは家内にはすでに伝えられており、治療方法、要するに延命についての話がされていた。家内は積極的な延命治療は不要と医師に伝えていた。私も同様の意見であった。すでに脳死の状態であり、人口透析の患者であればどれだけ延命処置を施しても、結果はさほど変わらないからだ。しかし、ベッドに横たわる母の姿を見ていると、呼吸をし、脈も正確に刻んでいた。今まで脳死という言葉そのものは知ってはいたが、実際患者がどのような状態であるのかは知らなかった。まるで普通の病人患者のようであった。この姿を見ていると、「脳死すなわち死」という状態であることを信じるわけにはいかなかった。肉親としては、もっと生きていて欲しい。一分でも一秒でも長く生きて欲しいと思った。先ほど医師に対し、積極的な治療は必要ないと言ったが、はたしてそれで良かったのだろうかという思いが湧いてくる。もし、今ベッドの横たわっているのが、妻であったり、若い子供であったら、脳死だからといって、積極的な延命治療は必要ないと申し出ただろうか。母には申し訳ないが、多分そんな言葉は出ていなかったように思う。肉親にとっては「脳死」は決して「死」とは認められないものであることを母の死を通じて初めて理解した。また、その日の一日について少し述べてみたい。母が倒れたのは早朝であった。母が危篤という知らせは親戚中に連絡が行き、お昼前から親戚の人たちが見舞いに来てくれた。交替で母の様子を見に行った。しかし、夕方近くになると、見舞いの人たちにも早くも疲れが出てきた。また、夜になると自分の家のことも気になりだした。これはもちろん当然のことである。母の容態がいつ最悪の状態になるかわからず、時間だけが過ぎていった。一人二人と帰る人たちが出てきた。もちろん私たちにしてもあまり親戚の人たちに長居を強いるわけにもいかず、「夜も近づいてきたので今日のところはお帰りください。もし、急変すればお知らせします」からと言わざるを得ない状態であった。このときの親戚の人たちの心理状態について少し述べてみたい。大変不遜な思いであるが私はこのように感じた。親戚の人たちは自分たちが病院にいる間に母の容態が悪化し、自分たちが見守る中で母が死に至り、母のベッドの周りで全員が泣き悲しむというシナリオを描いていたように思う。しかし、母の容態がいつ悪化するかわからないまま時間だけが過ぎていくので、まわりの人間がどのように取り繕えばいいかわからなくなり、疲れが出てきたのだと思えてならない。 実際、私も家内と夜をどのように母を見守るかを相談した。とりあえず交替で家に帰りシャワーでもしようということになり、私と三男(長男・次男は県外に在住)が家に戻った。父は母が倒れたショックからか、少し様子がおかしかったので夕方から家に戻してあった。私がシャワーを浴びているときに、壁にかけてある石鹸ボックスが外れて落ちた。この家に住み二十年経つがこの石鹸ボックスが外れたのはそのときが初めてだった。そのときに、何か嫌な感じがした。その数分後に息子が風呂場に来て、今「おばあちゃんが亡くなったという電話があった」と告げた。早速、シャツを着て病院に戻った。病室に入ると、家内と叔母の二人だけが病室にいた。母は今看護師さんによって死に化粧を施されているそうだ。わずかな時間が経ったあと、看護師さんがどうぞといってベッドに横たわった母のところへ案内してくれた。ベッドの母の姿を見ると母の顔には白い布が掛けられていた。(この白い布のことをなんと呼ぶのでしょうか?知っている人がいたら教えてください。)その布をとって母の顔をみたとき、私は「あっ、仏様」だと思った。昔から人間は死者を仏様と呼んでいたそうだが、このときは私も本当にそう思った。仏像をつくる人たちは生きている人の顔はもちろん、死者の顔を参考に作ったのではないかとこのとき思ったほどである。 この母が病院で亡くなるや否や、次は葬儀に向けて怒涛(と呼んでいいくらい)の忙しい時間を迎えることとなる。この久しぶりの投稿にあたりこのような実験をしてみた。この投稿は数ヶ月ぶりの投稿となる。今まで私のブログにコメントいただいた方に、強い念を送った。もし、何かそのようのものを感じて、私のブログを見た方がいらっしゃたらコメントいただけませんか。7月21日 18時5分
2008.07.21
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第二には、私は他人に愛することのできる人、愛をあげることのできる人だと思います。十数年前のことですが、実話です。アメリカでトラブルを起こした飛行機が氷の浮いた冷たい川に不時着したことがありました。乗客の数名が沈む飛行機から脱出して川に逃れ、泳ぎながら救助のヘリコプターを待ったのです。やがて救助のヘリコプターから、ひとりの男性のところに縄ばしごが降ろされました。ところが、その男性はいったん手にした縄ばしごを、2度も他の人に譲ったあと、最後は力つきて沈んでしまったのです。その様子は橋の上からたくさんの人が目撃していたのでした。 私はこの男性の行為は素晴らしい愛をあげた人であると思います。先ほどの性格の良い人、そして、このような愛をあげることのできる人たちは、お葬式のときには大勢の人たちが悲しみ、涙を流すことでしょう。 さて、先ほどの飛行機のお話に戻りますが、あなたはこの男性の行動についてどのように思いますか。「まず、自分が助かることが大事だ」と、男性のとった行動を愚かなことだと感じましたか? あるいは、「立派な行為だ。しかし、自分にはできない」と思いましたか? それとも「当然、自分もそうしただろう」と即座に言えますか? それでは、「自分が助かることが大事だ」あるいは、「立派な行為だ。しかし、自分にはできない」と思った人にお尋ねします。その事故の際、あなたの隣にいたのがあなたの子どもだった場合はどうでしょう。それでも、あなたは自分が助かりますか?「いや、それは別問題だ。子どもだったら当然譲るさ」と答えますか。おそらく、「当然譲る」と答えることでしょう。それではなぜ子どもであれば譲ることができるのでしょうか。「生命の本質は他の命を生かすことにある」と言われます。これは無償の愛です。私たちすべての人間はこの無償の愛を持っています。なぜなら、子どもには譲れるからです。自分の子どもではありますが「子どもという他の命を生かすこと」ができるからです。「あなたと子どもはつながっている」ことをあなたは実感しているからです。しかし、よく考えてみてください。私たちすべての人間の魂と魂はつながっているのです。ですから、先ほどの事故で他者にロープを譲ることのできた人は、すべての人間はつながっていると日ごろから感じている人なのです。ですから、わが子を助けるのと同じように、他者をも救うことができるのです。そして、他の命を生かすことは、実は自分の魂を成長させることであることを知っているのです。 つづく
2008.01.10
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今あなたは車を運転している。時間は夕方の6時30分。「服装はOKだな」「数珠は持ったな」「香典は」そう、あなたは友人の通夜に行くところなのだ。「さあ、ついたぞ」「15分前だな」「しかし、彼もあんなに若く逝ってしまうなんて、さぞや無念だろうな」「たしかオレより2つ下だから45か」「あの美人の奥さんもこれから大変だろうな」「二人の子供は高校生か中学生じゃなかったのかな」受付を済まし、会場に入る。もうすでにかなりの人が参列していた。「一応、家族の人に一礼して、焼香を済ませておくか」奥さんに一礼し、祭壇へ向かった。焼香をし、手を合わせ祭壇の写真を見た。なんと、そこにはあなたの写真があるではないか・・・「ええ~~」「うそだろ」「なんでオレの写真が」あなたは恐る恐る右側の親族の席を見た。そこにはあなたの奥さんがいるではないか。そして、二人の子供も。「裕貴・・・、由梨・・・」「ええ~~」「本当にオレのお通夜かよ~~」後方の席を見た。「社長、専務・・・」「先輩、部下もたくさんいるぞ」もう一度、写真を見た。「やはり、オレの写真だな」しかし、ちょっと待てよ。「妻は悲しんでいたか?」妻の方を見た。「あれ、うつろな表情だが涙はないな」「子供たちはどうだ」「あれ、二人で話ししてるじゃないか。全然悲しそうじゃないな」後を振り向いた。「社長・・、これまた専務と話し中か」「例のプロジェクトの件か・・・」「後輩のAは廊下でタバコを吸ってるぞ」「誰も悲しんでいないじゃないか・・・」「オレが死んでも誰も悲しんでくれないのか・・・」ここで夢が覚めた。さて、あなたに質問です。あなたが死んだ時、あなたは奥さんや、子どもたちからどう思われたいですか?親戚の人たちや友人からどう思われたいですか?会社の上司や同僚また後輩からどのように思われたいですか?私は父から聞いた言葉を思い出します。「息子よ、お前が生まれて、まわりの人たちが喜んでくれているあいだ、お前はずっと泣きっぱなしだったのだ。お前が喜んで天国へ行くとき、まわりの人たちが泣いてくれるような人生をおくりなさい」やはりあなた方も同じように思われるのではないでしょうか?それでは、あなたが亡くなったとき、周りの人たちが悲しんでくれる、惜しんでくれる、泣いてくれるためにはあなたは一体どのような人生を送ればいいのでしょうか?私は次の二つを答えとして用意します。まず、第一は「性格のいい人になりなさい」ということです。それでは性格がいい人はどういう人でしょうか。その答えの一つをビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則という本の中から引用してみます。この本は全米で飛躍的に発展を遂げた企業の原因を調査した本ですが、その最大の原因は指導者(トップ)にあると指摘しています。素晴らしい指導者は成功を収めたときは窓の外を見て、成功をもたらした要因を見つけ出します。ようするに、部下が良くやってくれただとか、環境に恵まれたと考えます。(具体的な人物や出来事が見つからない場合には幸運だったと考えます)。また、結果が悪かったときは鏡を見て、自分に責任があると考えます。運が悪かったからだとは考えない人たちです。反対に飛躍できなかった企業の経営者はちょうど逆の思考様式を持っています。結果が悪かった場合には窓の外を見て、だれかに責任を押しつけますが、成功を収めたときは鏡の前に立って、自分の功績だと胸をはる人たちです。面白いのは、窓と鏡が客観的な現実を映してはいないことです。窓の外にいる人たちはみな、中にいる素晴らしい指導者に視点を向けて、「指導者がカギになった。指導者の指導と指針がなければ、これほどの企業にはなれなかった」と話しています。ところが素晴らしい指導者は窓の外に視線を向けて、「見てくれ、このすばらしい人々と幸運がなければ、何も達成できなかった。私は幸運に恵まれている」と語ります。私はこういう人こそが性格がよく、人から好かれる人であり、その人のお葬式の時にはまわりの人たちは大いに悲しみ、涙することでしょう。つづく
2008.01.06
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明けましておめでとうございます。上の写真はJR金沢駅の改札口に飾られている「迎春」用のデコレーションです。その写真にある『謹賀新年』の字をご覧いただけますか。なんと、私の家内の字です。昨年暮れに広告会社より依頼があり家内が書いたものです。JRよりパソコンの書体より肉筆の方が良いということで、なぜか家内に白羽の矢が・・・今年も良い年になるよう家族全員で頑張ります。今年もよろしくお願いいたします!
2008.01.02
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それではベスト5の発表です。第5位生けるブッダ生けるキリスト ティク・ナット・ハン著 春秋社 奇妙なタイトルのように思われるかもしれませんが、著者のティク・ナット・ハン師はキリスト教と仏教は同じひとつの深い地下水脈から汲みだされた兄弟姉妹であると考えています。この本ではキリスト経の教え、仏教の教えをわかりやすく説いてくれます。そして宗教の本質は「神についての観念」を学ぶことではなく、「美しく生きる」ことだと師は訴えます。現代人に癒しを与える名著であると思います。第4位人生の扉をひらく「万能の鍵」 ラルフ・ウォルドー・トライン著 サンマーク出版 この本は今から110年前にアメリカで発行された本ですが、今も世界中でなお読み継がれている本です。 神とは宇宙全体を満たす「無限のスピリット」であり、本質的には神の生命と人間の生命は同じひとつのものであり、わたしたちが自分をただの人間だと考えて生きている限り、人間としての力しか持つことはできない。自分が「神の人」であると気づき、そのとおりに生きれば、わたしたちは「神の人」のパワーを持つことになる。と言っています。 ようするに、宇宙と私たちはすべてつながっており、その宇宙の無限のパワーを利用すればどのようなことも可能になるというものです。 第3位世界を救う13人のおばあちゃんの言葉 キャロル・シェーファー著 ゴマブックス世界を救う13人のおばあちゃんの言葉 2004年10月に世界中から集まった先住民のグランマザー、太古から自分の種族に伝わる教えを守り続けている人々の、史上初の歴史的な会合が開かれました。そのグランマザーたちは、環境破壊や、戦争、テロ、核兵器の恐怖、気候変動などの人類存続の危機にさらされている今こそ、古代から受け継がれている人類の知恵を大切にし、自然をとりわけ森を、そして地球を大切にしていかねばならないと説いています。第2位創造する真空(コスモス) アーヴィン・ラズロー著 日本教文社 私は子どもの頃から星を見ることが大好きでした。宇宙はどうしてできたのだろうか、将来どのようになるのかなどといつも考えていました。これは突き止めれば、自分はどこから来たのか、そしてどこへ行くのかということを考えていたのだと思います。 この本を簡単に説明することはなかなか難しいのですが、この本は宇宙だけでなく、物質の本質、生命とは何か、心とは何かについても書かれており、非常に興味深い科学エッセイです。宇宙に興味のある方にはお奨めの一冊です。さて、いよいよ今年の第1位です。第1位愛への帰還 光への道「奇跡の学習コース」 マリアン・ウイリアムソン著 太陽出版 私たちは「神」の中にあり、「神」とは「愛」そのものである。私たちは宇宙=神とつながっており、私たち自身が神そのものであり、「愛」そのものなのだと著者は言います。最近、この感覚が少しわかるようになりました。私たちは愛を持って生まれて来ましたが、この世で恐れを学び、本当の愛を忘れたようです。私たちはこの恐れを放棄し、恐れを忘れて元の状態にもどることが大切であり、愛を再び自分の心に受けいれなければいけないのだと思います。来年はもっともっと「愛」を発信できればと思っています。今年一年間大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします。 それでは皆様 「よいお年を!」
2007.12.31
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今年も残すところあと2日になってしまいました。恒例の今年の読んだ本ベスト10の発表をもっと早くと思っていたのですが、私の怠慢でとても遅くなってしまいました。 昨年は「死」という文字で一年を表しました。今年を一字で表すとそれは「愛」です。今まで私は「愛」というものがどういうものであるかわかりませんでした。もちろん、妻や子どもたちを愛しているのは当然ですが、「無条件の愛」という言葉に代表されるように、巷間では「愛」「愛」・・・・って言われているのに私自身「愛」ってなんなのか本当にわかりませんでした。しかし、最近「死」を考え、それを乗り越えたところに「愛」があることに気づきました。といってもまだうっすらとですが。しかし、「愛」のかけらでも見えたことはひじょうに嬉しく思います。これからももっと「愛」を知り、分け与えることのできる人間になれればと思っています。さて、今年の読んだ本ベスト10の発表です。第10位不都合な真実 アル・ゴア著 ランダム・ハウス講談社不都合な真実 これはよくご存知の本かと思います。今や新聞でも地球温暖化の記事がない日は一日たりともない時代になりました。人類全体が抱えた大きな問題です。第9位病院で死ぬということ 山崎章郎 文春文庫 末期ガンを専門にみている著者が12名のガン患者についての治療経緯や死を間際にひかえた患者の生き方をつづっている書です。その中から一人の父親の手紙を紹介します。子ども達に対する親の愛がひしひしと伝わる文章です。<前略> ああ、それにしても、お父さんの死がお前たちの夢の可能性を奪うかもしれないと思うと、心が痛む。許してくれ。でもお父さんは愛するお前たちと一緒に生きている時間を少しでも長くするために頑張ってみるからな。どうか、お父さんの人生最後の闘いぶりを見ていてほしい。そして、お前が困難に直面したときに、お前の体の中にお父さんの血が流れていることを思い出してほしい。 いま、お前たちの寝顔をのぞいてしまった。お前たちの寝顔を見るのも、これが最後かもしれないと思うと、どうしても見ておきたくなったのだ。つい、のぞき見してしまったことは許してくれ。それにしても皆、いい顔をして眠っていた。お前たちの寝顔を見ていると、お父さんがどれだけお前たちを愛していたかがよくわかる。そして死ぬかもしれないことが、少しも怖くない理由がよくわかった。お父さんがお前たちのことを命も惜しくないほど愛していて、そしてお前たちも同じぐらいお父さんのことを愛してくれているのを感じるからだ。 そうなのだ。死を乗り越えることができるのは勇気でもあきらめでもない、愛なのだ。愛していること、愛されていること。愛されていることを感じ合えたときに、すべての恐怖は消え去っていくのだ。やがて、いつかきっとお前たちにもわかる日がくるだろう。 さて、名残りは尽きないが、そろそろ旅立ちの準備に入らなければならない。最後の闘いの準備だ。この辺で、この手紙も終わりにしよう。その前に、もうひと言。お前にはまだ荷が重いかもしれないが、男なのだから、お姉ちゃんとお母さんのことをよろしく頼む。 お父さんは心の底からお前たちを愛していた。 さようなら 父より第8位心に迫るパウロの言葉 曽野 綾子著 新潮文庫 愛を考える場合、どうしても宗教なくして語れないような気がします。今年は仏教やキリスト経に関する本も少し目を通しました。その中でも心に残った本が曽野綾子さんの本です。その中から私の気に入った一節をご紹介します。「知識は人を思いあがらせ、愛は人を造りあげる」とは何という素晴らしい言葉であろう。私たちは今でも常に、知識の積み重ねをたくさん持つ人になろうとして狂奔している。しかし世の中の学者たちが、すべて人格者ばかりではないどころか、むしろかなり幼稚でいい加減な人もいることを思えば、知識というものは決して人を造らないということは明らかである。 しかし今これほど教育の議論が盛んであっても、教育の基本は「ほんとうに人を愛することのできる人を造ることです」と定義する人にはまだ会ったことがない。 <中略> トマス・アクイナスは「誰でも、知識があっても、その用い方を知らなければ、不充分な知識を持っているに過ぎない」と言った。パウロによれば、「真の知識は、いかに自分が無知であるかを人間に悟らせるもの」なのだから、自分はものを知っている、自分は知的だと思う人は、そのまま無知の証拠である、という言い方さえ成り立つのである。 このような概念もまた、神のない人には持ち得ないものである。なぜなら、その社会で一番いい学校をでていれば、人間社会の評価では自分は利口な人間だと思いあがるのも当然だろうから、比較するものが違っているのである。そしてそのような人々は恐らく愛がすべてに勝る力を持つなどということを承認しないどころか、愛の深い人は知的ではないかのような先入観さえ持っていると思う。 しかし、パウロはそういう見方に猛烈に批判する。神の前の人間の知識などというものは全く取るに足りないものではないか。自分が知っていると思う人でも、知っていなければならないようにはまだ知っていないのだ、とやっつける。パウロの愛するのは、知的な人物ではない。人間を見ることのできる謙虚さを持つ人たちである。第7位ガイアの復讐 ジェームズ・ラブロック著 中央公論新社この本の要点は以前に記事にしていますので、そちらをご覧ください。ガイアの復讐 ただ、この記事に対して私の長男がはじめてコメントしてくれました。非常に嬉しい出来事でした。第6位無条件の愛 ポール・フェリーニ著 ナチュラルスピリット この本はブックオフで書棚を眺めているときに、目に入った本です。帯をみると、「『これは私が今までに読んだ中でもっとも大切な本です。私はこの本を聖書のように精読し、学んでいます』エリザベス・キューブラー・ロス」とあります。ロス博士は非常に尊敬している方ですので、中身も見ずに買ってしまいました。そう考えますと帯って大事ですね。その中から気に入った一節を紹介します。 どうか次のことを理解してください。あやまったことをすれば「悪人」なのではなく、正しいことをすれば「善人」なのでもありません。もしそうなら、あなたがたみなは一日のうちで何百回もその両方になることでしょう。ここに来る旅において、正しいことをしたり、あやまったことをしたりする回数を数えることは意味がないのです。 この世界は学校であり、あなた方は学びにきました。学びとは、過ちをおかし、修正するということです。学びとは、いつでも正しいということではありません。いつでも正しいとしたら、なぜ学校にくる必要があったのですか。 もっと謙虚に考えてください。友よ。あなたは学生としてここにきたのであり、課程を学びたいのなら、そのことを受け入れてください。あなたが過ちをおかしたことを認めなければ、私が手を貸して修正することはできません。 過ちを認め、修正することはゆるしとともに起こります。それはわたしがあなたのために用意した小径です。 友よ、完全であろうとはしないでください。それはゴールとしてふさわしくありません。長くつらい苦しみを選ぶ人だけが、完全であろうと願うのです。そんなことを願わずに、過ちをおかしたときにそれから学べるよう、その過ちに気づくことができるように願ってください。これを読んで、「私たちの一生は死ぬまで学び」なのだと痛感します。次はベスト5の発表です。しかし、年内に発表できるのかな??
2007.12.29
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前回のつづきです。地球に無尽蔵の資源があるならば、人間の英知によって物質主義文明は素晴らしく発展することは簡単に予想できます。しかし、今や人間は、第二次世界大戦後の60年間で、それに先立つすべての時代を合わせたよりも大量に地球の資源を消費してきています。石油や材木の生産、そして漁獲などの主な資源の生産量は、とうに頭打ちになっている。世界の森林の約半分と、サンゴ礁の25%がすでに失われており、なおも毎年940万ヘクタールの森林が消失している状態です。このように地球の資源は危機的な状況にあります。タイプ2文明の恒星間旅行は、人間にとっての夢とロマンだという考え方はありますが、反面、他の星にある有益な物質を求めてという、人間の欲望を満たすための行為だと思います。例えば、ある星に人間にとって有益かつ貴重な資源があったとします。その星にはアメーバのような下等な生物が存在するだけです。だからといって、私たち人間がその資源を搾取していいものでしょうか。地球でも下等な生物から人間のように進化してきたように、その星でも将来高等な知性を持つ生命に進化するかもしれません。その星の資源は、その星に生きる生物の資源であり、我々が搾取してはいけないものだと思います。 今、国会でUFOは存在するか?ということが話題になっています。UFOについては別の機会にコメントをしたいと考えますが、仮にUFOで地球にやってくる高等生命は、地球の資源を搾取したり、私たち人間に危害を加えたりすることは絶対ないと信じます。地球にやってくるほどの技術、能力のある生命体は、人間にはおよびも付かないほどの素晴らしい倫理観を持っているはずです。もしも私たち人間の前に姿を現すならば、それは私たち人間に対する警告を発するためだと考えます。 最近、「世界を救う13人のおばあちゃんの言葉」<キャロル・シェファー著/ゴマブックス>という本を読みました。その中の一節を引用します。世界を救う13人のおばあちゃんの言葉母なる地球は、何万年ものあいだ人類を育み、守り、私たちが必要とするすべてのものを提供してきました。私たちが口にする水は、彼女の血液であり、私たちの薬局である森林は、彼女の肺であり、私たちが使う石は、彼女の骨なのです。それなのに、ほとんどの人間はその恩に報いるどころか、感謝の念さえ抱こうとしません。<中略>100年足らずのあいだに、物質的豊かさと快適さへの欲求に駆られた私たち人間によって、膨大な資源が使い果たされ、この星の繊細な自然のバランスが壊されてきました。人間は、自然との「持ちつ持たれつ」という関係をまるで尊重しないばかりか、生きとし生けるものに対する謙虚さもすっかりなくしてしまったのです。私たちは地球から生まれた子どもです。それなのに、あまりにも多くの人間が傲慢で貪欲で無頓着だったために、生き生きと暮らしていた時代は終わりを告げ、存亡の危機に瀕したサバイバルの時代がはじまった。<中略>私たちは目先の利益に目がくらんで、未来の世代の繁栄を犠牲にしてしまいました。地球は、私たちに十分な食べ物と十分な水、そして植物と美しい動物たちと、多くのすばらしい人々を与えてくれました。貪欲な人々が蔓延することを食い止めることができれば、誰も貧困に苦しまなくて済むようになります。そうなれば、誰もがすでに豊かであることにきづくでしょう。 上の写真をよくご覧いただきたいと思います。月から見た地球です。私たちはこの地球に住むひとつの生命体なのです。この地球上で特別な存在でも何でもないのです。地球とは地球に住むすべての生命の棲家なのだということが、この写真をご覧いただくとよくわかると思います。 最近、人間社会では母親殺しという事件が珍しくないご時勢になってしまいましたが、私たちは今や母なる地球をも殺すことができる力を持ったようです。しかし、地球を殺すことは私たち自らの命を絶つことでもあるのです。もっともっと母なる地球を大切にし、地球と共生していきながら、人間の幸せを考えなければいけない時代になったのではないでしょうか。 私は東京での凄い高層ビルや地下街などを見て、また新幹線などの技術を体感して、これらは地球にある資源を本当に有効に活用しているのだろうかとふと疑問に思ったのです。今のこの文明を推し進めていくことが、人間をはたして真の幸福に導くのでしょうか?
2007.12.23
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三田祭見物の翌日、新宿の東京都庁へ行ってきました。上の写真は都庁を下から見上げたものです。2枚目の写真は都庁の展望台から眺めた、新宿の超高層ビル群です。私たちはエレベーターで簡単に地上200mまであがれますが、しかしこのビルを造った人達は本当に凄いと思いました。このような建造物を何人の人で設計しているのか全然検討もつきませんが、このような建物をイメージするだけでも大変だと思います。 また、今回のこの旅行ではJRの上越新幹線を利用しました。これにしても、およそ千人近い人間を乗せて250kmほどのスピードで走るのですから、科学技術というものは一体どこまで発展するのだろうか?と驚愕するばかりです。 先日、ミチオ・カク著(現代理論物理学者の第一人者)の「パラレルワールド」<NHK出版>という本を読みました。その中で人間の文明というものは3つのタイプに分類されると書かれています。タイプ1文明は、惑星規模のエネルギーを利用している文明。ちなみに現在の我々の文明はまだ1までいたらず0.7文明だそうで、あと100年から200年でタイプ1にいきつくと予想しています。タイプ2文明は、一個の惑星エネルギーでは足りず、一個の恒星のエネルギー、地球でいうなら太陽のすべてのエネルギーを利用できる文明だそうだ。テレビ番組の「スター・トレック」の世界がおよそタイプ2文明だそうだ。ここまで行き着くのにあと1000年から5000年かかるそうです。タイプ3文明は一個の恒星エネルギーでも足りず、それが所属する銀河の大部分に入植している。そのような文明は、百億個の恒星エネルギーを利用できる。このような文明の世界は一体どのようなものなのか想像もつきませんが、人間はそのような文明に向かって進んでいるのでしょうか。 また、著者は次のように言っています。タイプ0からタイプ1への移行には大変な危険も伴う。人類はまだ、かつて森から出たころのような野蛮さを持ち合わせているのだから。タイプ1文明への歩みが、これまでにない平和と繁栄の時代を約束してくれるかもしれない。だが、他方エントロピーの作用(温室効果、環境汚染、核戦争、原理主義、病気)がわれわれを分裂させる可能性も依然としてある。これらの脅威は、人類が直面する最大級の試練である。現代生きている世代は、これまで地球上で暮らしてきた人類の中で最も重要な世代なのではなかろうか。今までの世代と違ってわれわれは、自分達の種の運命を自ら握っているタイプ1文明の実現へ向けて高く舞い上がるのか、それとも、混沌と汚染と戦争の淵に沈むのか。われわれの決断が、今世紀全体に影響を与えるであろう。 東京都庁や新幹線などの技術を見て、「人間は一体どこへ向かっているのだろうか」。「これらの科学技術が本当に人間を豊かに幸福に導いてくれるのだろうか」。「われわれの目指す文明は本当にタイプ1文明なのだろうか」。・・・・という思いが頭をよぎった。 つづく
2007.12.08
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先月の23、24日に家内と三田祭(慶応大学の学園祭)へ行った。来場者が4日間で20万人という日本でも最大規模の学園祭だそうだ。今年三年生になる長男の所属ゼミの論文発表を見に上京した次第である。学内に一歩足を入れると評判どおり人、人、人の渦。それも学生さんを中心に若い人ばかりである。私たちのように50歳過ぎの熟年世代は少し場違いなところに来たように思えた。三田校舎は想像していたより広くなく、そのため構内は人でごったがえしている感もある。ひととおり模擬店や音楽コンサートの会場を見物したあと、息子の論文発表の教室に足を運んだ。昨年このブログに「大学やめようかな」という記事を投稿したことがある。長男は、昨年までは大学生活や勉強に目的意識が持てなかったようであったが、三年生になって希望のゼミに入れたことが、彼にとって幸いしたようだ。ゼミの指導教授や先輩また同輩に恵まれ、大学に入ってから一番充実しているという声を聞き、私たちも安堵していた。今回の論文発表では彼がリーダーとなり、まとめあげたらしい。写真にあるように掲示物の作成と論文発表が主な内容であるが、掲示物は内容についてもかなり考察が加えられており、立派なものであったように思う。また、発表についても、パワーポイントなどを駆使し、発表姿勢も若者らしく好感がもてた。大学三年生ということを割り引いても、なかなか大したできばえであったと思う。今まで子どもだと思っていた子供が、社会に出てもまがりなりにもやっていける、と思わせるほど成長したことが本当にうれしく思った。 ここで、子育てについて少し考えてみたい。私のブログは子育てについて書いてきたものであるが、最近では子どもが大きくなり、子育てをしているという実感がほとんどなくなったため、子育てについての記事は必然少なくなった。 私は、人間にとって子育てという経験は何事にも変え難い体験であると思う。子育てを一言でいうならば、「楽しみ」ではないかと思う。子どもと一緒に生きていく「楽しみ」、そして子どもが成長していく様を見ることができる「楽しみ」である。そして、子どもが成長するのと同時に、親自らも成長することができる「楽しみ」だと思う。子育てほど人間の成長を実感できるものはないと思う。今回の三田祭での子どもの成長を見て、子育ての素晴らしさをあらためて認識させていただいたことに心より感謝したいエリザベス・キューブラー・ロス博士も次のように言っている。「成長こそ地球というこの惑星に生きることの唯一の目的です」
2007.12.05
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詩ってどうしてかけばいいのだろう考えすぎなのかそれとも才能がないのか努力がたりないのかやっぱり書けないどうすればいいのだろう誰か教えて欲しい!最近、河野進さんの詩集を読んでいる。難しい表現などは何もない。ただ思ったことをストレートに表現しているだけだ。しかし、心を打つものがある。 「使命」 まっ黒いぞうきんで 顔はふけない 真っ白いハンカチで 足はふけない 用途がちがうだけ 使命のとおとさに変わりがない ハンカチよ たかぶるな ぞうきんよ ひがむな <河野進詩集より>もうひとつ私の心を打った詩。 「みじめ」 あの人は まだお礼を言わない 忘れたのとちがうか ふと思った瞬間 きたないみじめな自分にあきれた誰しもこんな考えを抱きながら生きているのだな。私だけでないので「ほっと一安心」・・・
2007.11.22
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人生は心一つの置き所ある朝、いつものように自宅の前を掃いていると、(なんで、うちの家の前ばかり落ち葉が吹きとめられるんだ。風の野郎め、たまにはよその家の前に吹き留めてくれたらいいのに)とついつい愚痴がこぼれた。ところがその瞬間、別な思いが走った。(待てよ、そうじゃないぞ、掃かなくてもいいように、風が一カ所に吹き溜めてくれているんじゃないか。ありがたく思うべきだぞ) 落ち葉が散らかることを愚痴るか、それともそれに感謝できるか・・・・、受け止め方次第で、まるで心持ちが変わってしまうのだ!。 <鍵山秀三郎>金沢の紅葉ももう終わりに近づいている。最近、街路樹の紅葉が本当に美しく素晴らしいと思うようになった。そんな中、上にご紹介した鍵山秀三郎さんの言葉を聞いてから、会社前の落ち葉掃除は修行のつもりでありがたく受け入れていた。また、街路樹のきれいな紅葉を見ながらの掃除はそれほど苦にならなくなっていた。しかし、今朝のことだ。車の中から会社の前の駐車場をみると、なんと一枚の落ち葉もない。一体どうしてなんだ?だれかがもう掃除したんだろうか?と思ったが、まだ誰の車も到着していない。どうしてだ?不思議だな?と思いをめぐらすと、昨晩の強い風を思い出した。ああ、そうか!昨晩の強い風がすべての落ち葉を吹き飛ばしてくれたのだ。ちなみに道路の向かい側に眼をやるとすごい落ち葉の山。思わず笑みがこぼれた。しかし、そんなことを喜ぶなんて、「まだまだ人間ができていないな」と反省至極の朝であった!
2007.11.20
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私の長男 慶応大学 経済学部 三年生 次男 東北大学 理学部 物理学科 一年生 三男 金沢工業高等学校 機械科 二年生 です。 三男の学校も将来のエンジニアを目指す優秀な子どもたちまた先生の集まった学校ではありますが、世間的に見て、両兄の学校に比べると差があるのは事実です。しかし、私はこの三人を見て、人間として差があるのかと申しますと決してそうは思わないのです。ただ、巷間で取り上げられる学校の成績に差があるだけなのです。それも一部の学科(主要五教科、主要三教科とか言われる)の・・・人間の感性をはぐくむ音楽や美術や体育(運動)等々は蚊帳の外に置かれているのが今の日本の教育の実態ですね。このような現代の教育は「人を育てる」という意味においてはいかがなものかと思います。 元京都大学総長の平澤興氏の著書の中で子どもの教育について気、私たちが気をつけなければいけない一節がありましたのでご紹介いたします。 子供は学校へはいり、上に行くに従って子供には優等とか、普通とか、劣等とか、いろいろの札が付けられます。ちょうど果物に値札をつけるように。だが、これは本人に対しては、いつのまにか強い暗示になり、また親もそんな風に思うようになり、うっかりすると、先生までもそんな風に思ったりする恐れがあるのであります。現在の実際の教育現場においては、完全にこれを避けることはほとんど不可能かと思います。だから、私は、今すぐそれを改めよというような無理なことは申しませんけれど、もっと教育というものをゆとりをもって考え、これに対処してもらいたいと思うのであります。いわゆる劣等児が世界的巨人になった例は決して少なくないのであります。できるとかできないとか言うよりも、頭にはいろいろな型がございます。速い頭、遅い頭、広い頭、深い頭などいろいろの型がありますので、子供や若者が勉強をするのに張り合いが無いような状態にするということが、一番恐ろしいのであります。「人間 その無限の可能性」(下)より この一節は、子どもにレッテルをつける怖さを物語っています。冒頭に述べたように、私自身の子育てで、上の二人は学校の成績という点では優秀な子どもに育ちました。しかし、三男は上の兄弟と比べて、かなり見劣りのする子でした。私たち親はこの三男に対して、勉強のできない子、すなわちダメな子というレッテルを貼ってしまったのかもしれません。そのため、彼の性格が少しゆがんでしまった恐れも否定できません。これは人を育てるという意味ではひじょうに怖い話です。このレッテルはすべて私たち親の、ひいては今の社会の流れにそった損得の観点でのレッテルなのではないでしょうか。もう少し、子どもの立場にたって考えてあげるべきだったと反省しています。 親が、また先生が、子どもに対して見かけだけで簡単にレッテルを貼るということがいかに危険であるかという話をご紹介します。小学校で5年生の担任をしていた教師の話です。その先生は、小学校5年生の担任になった時、自分のクラスの中に一人、どうしても好きになれない少年がいました。服装が不潔でだらしなく、好きになれなかったのです。先生は、中間記録に、少年の悪いところばかりを記入するようになっていました。ところが、ある時、少年の1年生からの記録が目に止まりました。1年生の時は、「朗らかで、友達が好きで、親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」と記録されていました。「間違いだ。他の子の記録に違いない。」と、先生は思いました。2年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と記録されていました。3年生では、「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」3年生後半の記録では、「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」4年生になると、「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」先生の胸に激しい痛みが走りました。ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間だと感じられたのです。先生にとって、目を開かれた瞬間でした。放課後、先生は少年に声をかけました。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない? 分からないところは教えてあげるから。」少年は初めて笑顔を見せました。クリスマスの午後、少年が小さな包みを、先生の胸に押しつけてきました。あとで開けてみると、香水の瓶でした。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねました。一人で本を読んでいた少年は、先生に気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫びました。「ああ、お母さんの匂い!きょうは素敵なクリスマスだ!」6年生の時、先生は少年の担任ではなくなりました。卒業の時に、少年から一枚のカードが届きました。「先生は僕のお母さんのようです。 そして、今まで出会った中で、一番すばらしい先生でした。」それから6年が経ち、またカードが届きました。「明日は高校の卒業式です。 僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。 おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます。」さらに10年が経ち、またカードが届きました。そこには、先生と出会えたことへの感謝と、父に叩かれた体験があるから患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていました。「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。 あのままダメになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のよう に感じます。大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生の 時に担任してくださった先生です。」そして1年後、届いたカードは結婚式の招待状でした。「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていました。(月刊「致知」より) このお話はかなり極端な話であったかもしれません。しかし、コミュニケーション力の不足している小さい子どもたちに対し、私たち親や、先生、また子どものまわりにいるすべての人たちが、如何に子どもたち自身の気持ちに踏みこみ、真剣に考えてあげる必要があるかを、この話は物語っているような気がします。 もう一度我家に戻りますが、中学・高校と全然勉強をしなかった三男が今、突如として勉強をはじめました。なぜなら、彼は自分の進路、すなわちエンジニアという進路(これは私たち親がひいてやったレールです)から、自ら選択した進路に方向を転換したいと言い出したのです。今の学校をやめて別の進路にすすみたいと言い出したのです。彼がどこまでできるかわかりませんが、できるかぎりの応援はしてあげたいと思っています。このように人間というものは常に変わるものであること。成長するものであると思います。子どもに決してレッテルをはってはいけません!
2007.11.18
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他人の幸せを増やすことができたことに比例して、自分の幸せも増す(ベンサム)。愛されることは必ずしも幸福ではなく、愛することこそが幸福だ(ヘッセ)。幸福になろうと願うなら、自分を捨てて他人の幸福を願うことだ(ラッセル)。幸福になりたければ、人に尽くす喜びを生きがいにせよ(カーネギー)。受けるよりも与えるほうが幸いである(聖書)。古来より賢人たちは、自分が幸せになるためには他人を幸せすることが一番だと言っています。「世のため、人のため」っていいますよね。このことを子どもたちにもわかりやすく教えていきたいものです。前回の記事でご紹介した奥先生の講演会で次のような話がありました。小学校で道徳の教材にも使われるようですが、なかなかいいお話でしたのでご紹介します。 ブラッドレーの請求書日曜日の朝、ブラッドレーはお母さんに一枚の紙切れを渡した。それには、 ブラッドレーの請求書 おつかいちん・・・・・1ドル おそうじちん・・・・・・2ドル 音楽のけいこにいったごほうび・・・1ドル 合計・・・・4ドル と書かれていた。お母さんはにっこりと笑って何も言わなかった。お昼の時、お母さんはブラッドレーに4ドルのお金を置いておいた。ブラッドレーはそのお金を見て喜んだが、そのお金と一緒に一枚の小さな請求書があった。 お母さんの請求書 親切にしてあげた代・・・・・0ドル 病気の時の看病代・・・・・・0ドル 服や靴、おもちゃ代・・・・・・0ドル 食事代、部屋代・・・・・・・・・0ドル 合計・・・・・・・・・・・・・・・・・0ドル と書かれていた。これを読んだブラッドレーはお母さんの所へかけて行き「お母さん、このお金はお返しします。そして、お母さんのために何でもさせてください」と言った。小さなお子さんをお持ちの方は一度このお話をして、親子のコミュニケーションを図られてみてはいかがでしょうか。
2007.11.17
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今晩、講演会に行ってきました。元金沢市の教育長の 奥 清氏の講演会です。演題は「親と子」ユーモア溢れたとっても素晴らしい講演でした。要約すると「できる子よりできた子を!育てて下さいという内容でした。そのためには親が自分の姿を変えねばならないというお話です。そのお話の中でとっても素敵な詩を紹介いただいきました。ひとつの言葉ひとつの言葉 で けんかして ひとつの言葉 で 仲直りひとつの言葉 で 頭がさがりひとつの言葉 で 笑いあいひとつの言葉 で 泣かされる。ひとつの言葉 は それぞれに ひとつの 心 をもっている。きれいな言葉は きれいな心優しい言葉は 優しい心。ひとつの言葉を大切にひとつの言葉を美しく。私もつねに気をつけるよう頑張っているんですが・・・言葉って難しいですね。
2007.11.15
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皆さんは、祈りが人間の身体に効果をおよぼすとことがあると思われますか?祈りが有効であるかどうか、アメリカで次のような実験が行われました。 カリフォルニア大学の教授だった心臓外科医ランドルフ・バードは、祈りを使って、意図的な遠隔身体作用が集団に及ぼす影響を確かめた。まず、彼はサンフランシスコ総合病院の冠疾患集中治療室(CCU)に入れられた患者を対象にした。また、バードは被験者(祈る人たち)を一般人から募った。この人たちの唯一の共通点は、合衆国内のカトリックやプロテスタントの集会で定期的に祈りを捧げていたことだけだった。選ばれた被験者たち(祈る人たち)は、192人の患者の回復を祈るよう求められた。一方、対象群には誰からも祈られることのなかった患者210人を選んだ。実験にあたっては厳格な条件が設けられた。患者の選択は無作為に行なわれ、また、患者のうちの誰が祈祷群(祈られる人たち)で誰が対象群(祈られない人たち)かという情報は患者や医師や看護婦にも知らされない二重盲検法が用いられた。 被験者たちにはそれぞれの患者の氏名と心臓の状態についていくつかの情報が与えられ、患者のために毎日祈りを捧げてもらった。被験者に与えられた説明はこれだけである。一人の被験者に数人の患者の回復を祈ってもらうことができたので、患者一人あたりでは5~7人の被験者が祈りを捧げた。こうして得られた結果は統計的に有意なものだった。祈祷群の患者では対象群に比べて、抗生剤の使用を必要とした割合が五分の一(対象群16人に対して祈祷群では3人)、肺水腫を起こした人の割合が三分の一(18人対6人)、気管内挿管が必要だったのが0人(対象群では12人)に減り、死亡者数も少なかった。祈りを捧げた人と患者との距離の長短は結果に無関係だったし、どんな祈り方をしたかも関係なかった。祈りが誰に向けてどこで行なわれたかに関係なく、集中して繰り返し祈りを捧げたという事実だけが有効であるように思われた。上記の実験をみて、皆さんはどのように思われますか。昔の私なら、このような一種の超常現象は信じなかったと思います。しかし、今はこのような現象は当然ありうるものだと強く信じます。 私は、その理由について次のように考えています。今私たちが住んでいる宇宙は(=この世=子宇宙=物質宇宙=3次元の宇宙)は大宇宙(あちらの世=親宇宙=精神的宇宙=高次元の宇宙=神=愛)の一部であると思います。今も私たちの生命は、大宇宙とつながっています。この世のすべての生命が大宇宙とつながっているわけです。 祈りとは、本来あちらの世のものではないかと私は思います。この世のすべての生命はあちらの世を通じてつながっていると考えれば、私たちの祈りはあちらの世に届き、祈られる人たちに届くのではないかと思います。 このように考えれば、私たちが「本当に困っている人たち」や「素晴らしい社会の創造」のために祈りをささげることは本当に大切なことですね。この世で不思議な現象はたくさんあります。しかし、大宇宙の存在を信ずれば多くの不思議な現象は説明できるのではないでしょうか。 今回はあの世とか宗教的な感覚を与え、そのようなものに違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。言い訳ではありませんが、現代の最先端の物理学は、この高次元宇宙の謎を解明する方向にすすんでいます。この高次元宇宙こそ私たちがどのようなものか想像できない大宇宙であると思っています。ワープする宇宙リサ・ランドール異次元は存在する今日の「祈り」の実験のお話は「創造する真空」からの引用です。創造する真空(コスモス)
2007.11.11
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『足跡』 ある夜、私は夢を見た。私は、神様とともに砂浜を歩いていた。振り返ると、砂浜には二人分の足跡が残っていた。一つは私のもので、一つは神様のものだった。これは、これまでの私の人生の足跡であった。足跡を見ていると、私の人生の様々な場面が、走馬灯のように思い出された。よく見ると、これまでの私の人生の中で、足跡が一人分しかないときが、何度もあることに気づいた。それは、私が辛く悲しい思いをしていた時期ばかりだった。ああ、あの時は、信頼していた友だちに裏切られた時だ。ああ、あの時は、失恋して落胆していた時だ。ああ、あの時は、事業で失敗した時だ。私は神様に尋ねた。「神様、あなたはずっといっしょにいてくれるものと思っていました。しかし、私がもっとも辛かった時期には、一人分の足跡しか残っていません。あなたを最も必要としていた時に、どうして私をお見捨てになられたのですか?」すると、神様は答えておっしゃった。「いとしい大切な我が子よ。私は、愛するお前を、決して見捨てたりしない。お前をひとりぼっちにはしない。一人分しかない足跡は、お前の足跡ではないよ。その足跡は、私の足跡なのだよ。悲しみに打ちひしがれるお前を背負って歩いた 私の足跡なのだよ。」ここ数回、聖書や禅僧のティク・ナット・ハン氏の引用をいたしました。私自身まだ洗礼を受けたわけではなく、仏教に帰依したわけでもありません。しかし、最近宗教は人間にとってなくてはならないものであるように思います。神父の粕谷甲一も次のように述べています。日本人のインテリ・ムードを批判して「日本人はどの宗教にも入らないことが自身の優位性の象徴のように思い込んでいるが、実は信仰への決断を下さないことも一つの決断であり、しかも最低の決断であることの気づいていない」と。今の日本では、なによりも個人主義が優先し、「所有」こそが幸せになる唯一絶対のもののようにふるまっています。フランスの哲学者ガブリエル・マルセルは「真の人間としての価値は、何を『持つ』かよりも、いかに『ある』かによって決まると言っています」。マルセルの言うように、いかに「ある」かに価値を求めると、この世は私一人で生きているのではなく、私もあなたもこの「大宇宙=神=愛」の一部であり、つねにつながった存在であること。そしてそのつながりをわかりやすく説いてくれるのが宗教であるのではないかと思います。最初に引用させていただいた「足跡」のように、私たちは常に神様といっしょにいるのだ、一人ではないのだ、支えてくれているのだと思うだけでどれだけ心が落ち着くでしょうか。
2007.11.07
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ここ数日、守屋前防衛事務次官へのバッシングがメディアで続いている。この一連の経緯をみて次のような聖書の一節を思い出しました。「ヨハネによる福音書8・7」には「あなたがたのうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石をなげなさい」という言葉が出てくる。姦淫した女は当時、石打の刑に処せられる筈であったが、イエズスはそれに対してこう答えられたのである。すると彼女をひき立てて来た律法学者やパリサイ派の人たちは一人また一人と出て行き、最後に女とイエズスだけが、人の気配もない早朝の神殿に取り残された。「『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを処罰すべきとみなさなかったのか』。彼女は『主よ、だれも』と答えたイエズスは仰せになった。『わたしもあなたを処罰すべきとはみなさない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはいけない』」 (ヨハネ8・10~11)さて、あなたは守屋前次官に石を投げるでしょうか? 「正しい人はいない、一人もいない。悟る者はいない、神を求める者もいない。皆、道を踏みはずし、役にたたない者となった。善いことをするものはいない、一人としていない」(ローマ3・9~12)聖パウロの言葉である。私だったらどうするか?私は投げない。いや、投げれない。人間とは過ちをおかしながら成長していくもの。過ちは学びの機会だと思います。自分が完全無欠でもないのに、過ちをおかしたといって人を責めることはできません。しかし、彼に誤った行為をしたということを気づかせる必要はあります。彼が心から誤った行為をしたと気づけば、悪い行為を変えることができます。ですから、その人をそちらの方向に導くことは社会の利益になります。しかし、もしそこに処罰が持ち込まれたら、その人の誤った考えにはさらに拍車がかかり、さらに罪悪感が増し加わることでしょう。「悪事をふたつ重ねても、ひとつの善事にはならぬ」前回、相互共存(インタービーイング)という記事を書きましたが、相互共存の考え方からすれば、実は守屋前次官は私でもあり、そしてあなた自身でもあるのです。
2007.10.31
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二十世紀の後半、私たちを取り囲む環境で大きな特徴となったのは、個人主義という考えです。最近はこれがますます顕著になり、個人責任の追及や個人情報保護という言葉が氾濫する時代になりました。個人主義という考え方に現代人はマインドコントロールされているようにも見えます。個人主義とは自己のためだけにという願望です。個人主義の下での幸せを求めるなら、それは必然、他者との競争に打ち勝ち名声や富や権力を求めることや、他者より多くの物の所有を求めるようになり、またセックスや快楽主義への刹那的な願望に支配されるようになります。 現代人は、体は自分だけのものであり、自分の所有物であるから自分が好きなように使うことが許されると考えていますが、はたして本当にそうなのでしょうか。相互共存(インタービーイング)という言葉があります。 ここで少しインタービーについてご紹介します。 聖書の詩篇に「鎮まりて、私が神であることを知りなさい」(詩篇46章10節)という言葉があります。「鎮まりて」とは心を安らかにして集中するということです。仏教の言葉では、シャマタ(止。とどまり、鎮まり、集中すること)といいます。「知る」とは、智慧、洞察あるいは理解を獲得することを意味します。仏教用語では、ヴィパシャナー(観。洞察、深く見ること)といいます。「深く見つめる」とは、外界の対象物や他人に集中力をはたらかせ、注意ぶかく観察することによって、見るものと見られるもののあいだにある区別が解消することです。その結果、物の本質への洞察力が生じます。一輪の花を深く見つめていたら、雲や陽光、鉱物、時間、大地、そして宇宙の中にあるすべてのものさえ見えてきます。雲がなければ、雨は降らず、雨が降らなければ、花は咲かないでしょう。もしも時間というものがなければ、花は開花することができません。実際、花は花以外のすべてからできているのです。この世にそれ自体で独立して存在しているものはひとつもありません。この花は宇宙に存在する他のすべてのものと「インタービー(相互共存)」してるのです。 このインタービーの考え方ですと、私たちの体は、私たちだけのものではなくなります。私たちの体は祖先や両親や子孫、さらに、あるとあらゆる生きてあるものの総体なのです。木や雲にいたるまで、この世にあるすべてのものが寄り集まって、今の私たちの体をつくっているのです。 私たちは個人主義が広がるままにしてきましたが、率直に言って、そのおかげで二十世紀はめちゃくちゃになりました。二十一世紀に向けて、私たちはふたたび一から始めなければなりません。新しい別の方向が必要です。私たちと私たちの住む地球をこのまま壊しづづけるわけにはいきません。決意さえあれば、個人主義と自己への盲信は捨てられます。そして調和のうちに暮らし、インタービーの精神で行動することが必要な時代に突入したように思います。「世界には、すべての人々の必要を満たすに十分なものが存在しているが、たった一人の人間に対しても、その欲望を満たすにはたりないのだ」。 ガンジー参考文献「生けるブッダ、生けるキリスト」 <ティク・ナット・ハン著 春秋社>「禅的生活のすすめ」 <ティク・ナット・ハン著 アスペクト>
2007.10.28
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うしろ姿の美しい人になりたい 自分で見えないところが 美しい人になりたい 牧師 河野進氏の詩です。 私もこの詩のように美しい人になりたいと願っています。50歳を過ぎてから人生観が変わり、己自らの魂の成長を望むようになりました。しかし、私が望む善なる自己が存在するが、その反面、善なる自己をあざ笑うかのような怠惰かつエゴである悪なる自己が、大きな壁となって立ちはだかる。私は、今この葛藤の中で生きているといっても過言ではない。いつ私が目指す美しい人になれるのだろうか?いやそれとも生きているうちになることは不可能なのだろうか、と思い悩む。そんな折、先日「心に迫るパウロの言葉」<曽野綾子 著 新潮文庫>を読み、聖パウロですら、私と同じような悩みを持っていたことを知った。安心すると同時に、私のような思いはおそらくすべての人が、思い煩いながら生きているのではないだろうかと思った。しかし、このことに安堵することなく、これからも「うしろ姿の美しい人」をめざして生きていきたい。 人間パウロの嘆きわたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。・・・・・わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。・・・・・このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。(ローマ人への手紙7・15~25)この話を家内にすると家内はこうつぶやいた。「お父さんのうしろ姿はまだ美しくないけれど、けっこうまぶしいよ!」「後頭部が・・・」心に迫るパウロの言葉新装改訂版
2007.10.24
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今 年のノーベル平和賞が、ゴア元米副大統領とIPCCに決定したことに対し心より賛辞を送りたい。ただ、私はこの受賞は選考委員会からの人類に対する警告とも言えるメッセージを含んでいるのだと思う。なぜなら、地球温暖化はもはや取り返しのつかないところまで来ている可能性があるからだ。今の地球を人体に例えてみよう。人間の場合では、異常をはっきりと感じてからでも、病院に行き治療を受けて治癒するときもある。しかし、異常を感じることができないが、体内では病魔が進行し、異常を感じたときにはすでに手遅れという場合もある。今の地球の場合、異常な気候や温度変化をはっきりと感じることができるようになった。この事態は、前者であることを願うが後者である可能性も否定はできない。もう私たちは待ったなしの時期であることを、今回のノーベル平和賞は訴えているのではないだろうか。 実際、私の住んでいる金沢でも今年の一月には初めて積雪がゼロであった。二月にほんの数センチ降っただけである。こんなことはかつて無かった。そして、なによりも今年の冬の太陽の陽射しは異常なほど強かった。「強い」、「とにかく強い」。北陸の冬の太陽ではないと肌身で感じた。これはなんとかしなければ地球は危ない、人類は大変なことになるのではと直感した。今年、私は地域の区長理事という立場を与えられ、地域としてチームマイナス6%に参加し、地域でのCO2削減の啓蒙に取り組んできた。実際、少しずつではあるが、啓蒙がすすんできたように思う。そして、うれしいことに同じ地域にも温暖化問題に積極的に取り組んでいる方が大勢いることを知った。今この方達と力を合わせ、少しでも温暖化防止のために行動していきたい。 ゴア氏も言っている。「これはわれわれが直面する難問に対し、世界的な意義を高める好機だ。」
2007.10.20
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前々回、県民エコライフという記事を投稿しました。今日はその結果がでましたのでお知らせいたします。私の住んでいる地域は11町、727世帯です。今回、このエコライフ大作戦のチェックシートを提出された世帯は114世帯でした。回収率は15.7%でした。チェックシートの回収方法をもう少し積極的にすればもっと回収率は上がったと思うのですが、今回は各町内会長の玄関先に回収箱を設置し、活動後三日以内に回収箱に入れてもらうという方法をとりました。この方法ですと、高い回収率は見込めないのではと危惧していたのですが、私の想像以上に15.7%という参加率を得てとてもうれしく思いました。それだけ地球の温暖化に関心を持っている人が多いということになるのでしょうか。 ちなみに参加率の一位は28.2%(我が町内)、二位は27.0%、三位は18.5%・・・。ブービーは7.3%。最下位は6.9%でした。結果として、このような大差がつきましたが、取り組み方、周知の方法などをしっかりすれば3割くらいは楽にいくのではないかと思います。ちなみに削減できた量は527kgで、一世帯あたり4.6kgでした。 本日の日経新聞に「CO2削減、目標達成危うく」という記事が掲載されています。「京都議定書」で約束した日本の目標達成がこのままでは困難なようです。排出量の多い産業部門(工場など)は省エネ努力の成果が出て、1990年比で10%近く減る見通しですが、オフィスや家庭、運輸(自動車)が12~30%増えるそうです。 1968年、米国の大統領候補指名に立候補したロバート・ケネディは、「世の中のありさまを見て、『どうしてこんなことになったんだ』といぶかる人がいるが、わたしは、これまで実現したことのないようなすばらしい世の中を思い描き、『どうしてこうなっていなんいんだ』と問いかける」と語ったそうです。今、私たちのなすべきことは、未来を悲観することでもなく、予測することでもなく、すばらしい世の中、未来を思い描いて行動すべきときのようです。
2007.09.30
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前回、私たちの身体は、摂取する食べ物の分子の入れ替わりで存在しているとお話しました。ならば、摂取する食物に有害な物質が含まれていれば、その有害分子を含んだまま、身体を構成することになるわけです。そうしますと、身体に危害を与えたり、異常をおこす原因となることは明白ですね。摂取する食べ物には充分注意をする必要があります。また、私たちは他の命をいただいて生きている罪深い存在でもあります。過剰な食物の摂取も、私たちの身体に危害を与えたり、異常をおこす原因ともなります。さらに、過食は私たちの運命にまで影響を及ぼすようです。今日は「節食で運命を切りひらく法」についてお話します。 江戸時代に水野南北(1757年生まれ〕という人がいました。南北は、10歳頃から酒を飲み、喧嘩ばかりしていた不良少年でした。18歳で酒代欲しさに悪事を働き、牢屋に入れられます。牢屋で南北はあることに気づきました。周りの囚人の人相が、娑婆で普通の生活を送っている人たちとは明らかに異なることである。これがきっかけで観相学に関心を持つようになります。 牢屋を出て南北が真っ先に訪ねたのは、大坂で評判の人相見でした。自分の相が知りたかったのである。すると、南北は稀に見る悪相凶相で、険難の相があり、あと一年の命と断じられた。 助かる方法はないかと尋ねると、出家以外にないと言われた。そこで、南北は禅寺へ行き、入門を請う。しかし、禅寺は南北の悪相を警戒したのだろう、向こう一年間、麦と豆だけの食事を続けたら入門を許そう、と告げた。体のいい門前払いである。 しかし、助かりたい南北は、今で言う港湾労働者として働きながら麦と豆だけの食事を続けた。一年後、南北は禅寺に向かう前に、人相見を訪ねた。 南北を一目見て人相身は驚きの声を上げた。険難の相がきれいに消えていたのだ。麦と豆だけの食事をしていたことを話すとそれがよかったのだろうということだった。 ともかく、一年の命でなくなった、南北は禅寺に入る必要はなく、観相家を志した。三年間は髪床屋で働いた。多くの人相に接するためである。次の三年間は風呂屋で働いた。人体の相を観察するためである。それからの三年間は火葬場の人夫になった。骨の相を研究するためである。 このような実践研究によって人相見としての技量を磨き、高い評判を得るようになった。しかし、南北には悩みがあった。確かに彼の人相見はよく当たる。しかし、百パーセントというわけにはいかない。いい人相の人が不幸な目にあったり、悪相の人が意外な幸運に恵まれたり、ということが時々ある。この見誤りはなぜなのか。意志堅個で徹底しなければ気がすまない南北は、さらに研鑽を続ける。だが、この悩みを克服できないままに時は流れ、50歳になった。 ある時、南北はお伊勢参りに出かけ、五十鈴川のほとりで21日間の断食と水垢離(みずごり)の行を行った。そして夢うつつの中、外宮で豊受大神の声を聞くのである。「人の運は食にあり」 そうか、と南北は雷に打たれたように悟った。自分は食事を麦と豆だけにすることで険難の相を消した。食は人相を変えるのだ。ということは、食のあり方で運命を切りひらけるのだ。 これを契機に南北は食のあり方を研究し、節食開運説に到達する。それは南北の感相学の完成でもあった。以後、南北の観相は「百発百中」といわれるまでになり、悪相の人には食のあり方の改善を指導し、多くを幸せな運命に導いたという。【月刊 致知 2007年9月号より】 私たちは生きるために他の命をいただいている。これはいたしかたの無いことです。しかし、贅沢をするのではなく、節食すなわち他の命をいただくことを少しでもすくなくするよう心がけること、が大切なのですね。しかし、禁欲的な食生活をすればいいというわけでもないようです。南北は、節食開運説を唱えて、禁酒したのかというと、そうではなく、生涯飲み続けた。しかし、一日一合と限って、これを守ったそうです。私たちも、あまりストイックな考えに陥ることなく、昔から言われるように、 「腹八分目」を毎日実践することが大切なのですね。 最後に、南北はこのように言っています。「(食を節すれば)小さい願い事なら一年で、普通の願い事なら三年で、そして、大望なら十年でかなう」
2007.09.17
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爪は一体どれくらいで生え変わるのと思いますか?また毛髪はどれくらいで生え変わると思いますか?おそらく一年くらいで完全に生え変わるのでしょうか?それでは、私たちの内臓はどうでしょう?私たちの骨や歯はどうでしょうか?最近、「生物と無生物のあいだ」<福岡伸一著 講談社現代新書>という本を読みました。そこには、想像もしていなかったことが書かれています。 私たちは、自分の表層、すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつ つ古いものと置き換わっていることを実感できる。しかし、置き換 わっているのは何も表層だけではないのである。身体のありとあら ゆる部位、それは臓器や組織だけでなく、一見、固定的な構造に見 える骨や歯ですらその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返さ れている。 <中略> よく私たちはしばしば知人と久闊(きゅうかつ)を叙するとき、 「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは 一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替 わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部 であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。本当に驚愕しました。この入れ替わる原子や分子は、どこから来ているのでしょうか、それはいうまでもなく、私たちが口にする食物なのですね。「私たちは他の生き物によって生かされている」、「生命の本質は他の生命を生かすことにある」、「この地球上のすべての生命はつながっている」と、読んだりまたは口にしたりします。しかし、この生命の神秘の凄さを実感しますと、まさしく、私たちはこの地球上で決して特別な存在ではなく、あくまでも地球の一部なのであり、またすべての生命とつながっているということが否応なく思い知らされます。私たちが、今ここに存在すること、生きていることはすべての生命のお陰であることにあらためて感謝しなければいけないと思います。お恥ずかしい話ですが、私自身かなり太っています。それはとりも直さず、私が生きていくうえで必要な栄養=他の生命を過剰に摂取しているということに他ならないわけです。それを考えますと、私自身がいかに罪深い存在であり、行動をしている人間であるかを反省させられます。今から、ここからダイエットに頑張ろう・・・と気持ちははやるのですが・・・・なんという意志の弱さか・・・(笑)最後に、この本の核心<生命とは何か>にふれておきます。 生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も 低分子代謝物質もともに変化して止まない。生命とは代謝の持続的変化 であり、この変化こそが生命の真の姿である。簡単にいうならば、爪の生え変わり、すなわち身体のすべての臓器が分子レベルでの代謝、再生される流れこそが生命なのですね。
2007.09.15
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私の住む石川県では、9月10日より16日の一週間、県民「エコライフ大作戦」を実施しています。地球温暖化が叫ばれている中、CO2を削減し、少しでも良い環境を後世に残すための活動です。今年、私の住む町内会でも、国が京都議定書で約束したCO2削減のプロジェクト「チーム・マイナス6%」に参加しています。町内会としての参加は珍しいようですが、チーム・マイナス6%の活動の一環として、この「エコライフ大作戦」に町内会として参加することにいたしました。町内727世帯にチェックシートを配布し、CO2削減のためへの意識を持っていただければと思います。どの程度の家庭がこの作戦に協力していただけるかわかりませんが、このようなひとつひとつの啓蒙が、地域の方々の意識を変えていくものだと信じています。 皆さんもこのチェックシートをプリントアウトして、実践してみてはいかがでしょうか。私たちの一歩が地球環境を変えていきますよ。 世界の67億人全員が一歩踏み出せば、一瞬で67億歩進みます。一人で67億歩進もうとすれば、1秒間に2歩としても一時も休まずに歩き続けて約100年はかかります。 文化人類学者のマーガレット・ミードは次のように言っています。「少数グループの世界を変える力を侮ってはならない。これまで変えてきたのは少数の者たちなのだ」と。 今こそ、私たちがたとえ小さな一歩でも踏み出し、その輪を多くの人に広めていきたいものです。
2007.09.12
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ここにアップルジュースを飲んだことの無い人がいます。あなたはこの人にアップルジュースの美味しさをどのように伝えますか?しかし、あなたがどんなに言葉たくみに説明しても、その美味しさを伝えることはできないでしょう。その人がアップルジュースの美味しさを理解するためには飲んでみるしかないのです。山育ちの海を知らない人は、海を見なければその大きさ、凄さを理解できません。都会育ちの自然を知らない子どもたちは自然を体験しなければ、自然の素晴らしさを理解できません。生命とのふれあいを体験しなければ、生命の素晴らしさを理解することはできません。子どもたちにはもっともっと自然を体験させること、人間以外の生命とのふれあいを体験させることが、子どもたちの成長にとってどれほど大切なことでしょうか。しかし、私たちはその自然をどんどんと破壊し、また、他の生命を絶滅に追いやっています。私たちは、子どもたちのためにも、豊かな自然を守らねばなりません。そして、他の生命を守っていかねばなりません。mayuどんさんの「めだかの命」という記事を拝読してふとそう思った。
2007.09.09
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このブログご無沙汰しています。書きたいことはいっぱいあるんです。しかしなぜかそれにストップする自分がいる。生きることって本当に難しいと思う。この困難が自分を成長させるのだとも思う。明日からやろう!明日から頑張ろう!と心の中では叫んでいる。しかし・・・・この明日からを七回言えば一週間・・来週からと四回言えば一ヶ月・・・来月からと十二回言えば一年・・・来年からと数十回言えばあっと言う間に墓場・・・失敗してもいい考え過ぎず積極的に生きていこう!!
2007.08.31
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最近、私は石にも心があるのではないかと思っている。というより、この世界にあるものすべてに心があるのではないか、と思うようになった。そんなおり、平澤興(元京都大学総長)先生の「人間その無限の可能性」(上)に次のような一節を見つけた。 普通は山や石には命がないように、科学的には考えておりますが、本当にそれが正しいのかどうか、そのことには私自身疑いを持っております。<中略>宇宙にも自然にも心がないと言うほど私は大胆ではありません。しかし、そういうものがすぐあると証明しうるほど私は知識も経験も十分ではありません。 この一節を読み、尊敬する平澤先生もこのように考えておられたことを知りひじょうにうれしく思うと同時に感動もした。 私は、この世に存在するすべての物質の根源は同じものであり、その根源を正確には素粒子と呼べばいいのかどうかわからないが、その素粒子には、心の元が存在するのだと思う。その素粒子、原子そして細胞へとの組み合わせ方により、複雑化すればするほど高度な精神=心がよりはっきりと発現するのだと思う。石などは、その原子の組み合わせが単純なために、その微弱な心が人間には観測できないだけなのであろう。しかし、竜安寺の庭園の庭石などを眺めていると、その石にもなんとなく心が存在するのではという感覚も起こってくる。また、昔から、各地には霊峰と呼ばれる山が多数存在する。これなども、岩石の塊ではあるが、多量にあるため、また、複雑に存在するために、山に心があると人間は感じたのではないだろうか。 すなわち、この世にあるすべてのものと私たちは、大本ではつながっているのだと思う。人間とはこれら宇宙にあるものの一部にしか過ぎず、しかも自然界に存在するすべてのものに生かされている存在なのである。私たち人間は、おごることなく謙虚であり、常に生かされているということに感謝をしながら生きていかねばならない。
2007.07.16
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日本では少子高齢化で人口が減少しているが、世界では逆にどんどん増えている。「世界の人口」という興味深いサイトを発見したのでご覧いただきたい。これによると、世界の人口は2050年にはおよそ90億人になるらしい。しかし、最近新聞などで報道されているように、2050年には世界の温暖化ガスを1990年と比較して50%削減しようという動きがある。京都議定書で決められた日本の削減目標(2012年までに)は6%であるが、現在これすら達成できず逆に8%程度増えているらしい。このような状況の中で、2050年には世界の人口は50%近く増加し、逆に温暖化ガスは50%削減しなければならない。本当に可能なのだろうかという思いが頭をよぎる。温暖化対策として次のような構想があると聞いて驚いた。 地球と太陽の間の宇宙空間に日よけを作ろうという提案である。太陽光を屈折させる直径約11.2kmのディスクを地球と太陽の間のラグランジェ点(太陽の引力と地球の引力が反対向きに等しくなる点)に設置するというのである。ディスクは地球に注がれる太陽光の数%を屈折、あるいは分散させ、惑星を涼しくするという。その重さは100トンほどになるらしいが、組み立て式で、宇宙で広げることができるらしい・・・ 人間の英知は素晴らしいと思う。科学技術を否定するわけではない。しかし、このような素晴らしい技術ももちろん必要であるが、それ以前に人間そのものの自制心が求められると思う。 50%の削減となると、私のような素人にはどのようにすればよいのか全く見当もつかない。チームマイナス6%の6つのアクションについては、私も極力実践しているつもりであるが、はたして何%の削減になっているのか数字として見えてこない。この話を家内にすると、「各家庭の電気代やガソリン代の使用金額を6%減らせばいいのよ」。という答えが返ってきた。的を射た回答だと妙に納得した。しかし、このような啓蒙は、電力会社や石油会社の圧力があってできないのであろうか。
2007.07.03
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今、世界経済は急速に拡大している。中国やインド、またアジアの各地で。本日の日経新聞にも次のような記事が載っていた。 床面積で東京ドームの七個分の巨大ショッピングセンターに地上五十階の高層住宅、オフィスビル、高級ホテル。マレーシアの首都クアラルンプールの一等地にイスラム金融を利用した大型複合施設の建設が進む。<中略>「新シルクロードが現れた」とマレーシア中央銀行の総裁は感嘆の声を上げる。 このような開発が世界のいたるところで進んでいるのだと思う。すべての人間が裕福に幸せに生きるために、世界は良い方向に進んでいるのだと思いたい。しかし、その反面、中国では大気汚染(日本にまで影響を及ぼしている)や水不足が深刻な問題となっている。先日のNHKスペシャル「激流中国、しのびよる水不足」を見ていて、首都北京に水を送るため、水のある田舎では耕作のために水を使えず困っているのに、北京では潤沢に使っている。経済発展している地域では恵まれているが、地方は切り捨てられ構図が見て取れた。はたして、このまま世界経済が好調に拡大し、私たちの生活水準が向上しても、この地球は持ちこたえられるのだろうかと不安に思う。 ガイア理論の提唱者ジェームス・ラブロックの「ガイアの復讐」の中に次のような一節がある。 今日生きているすべての人間にヨーロッパ式の生活スタイルを提供しようとしたら、地球の環境システムは崩壊するだろう。次世紀の初めには世界人口が現在の二倍にあるというのに、生活水準をそのように向上させることが可能だなどというのはとんでもない話だ。 やはり、地球上のすべての人間を、今の私たちが享受している生活スタイルにはできないのだ。しかし、私たちが享受している贅沢な生活を、今後それを望む人たちにはやめろというわけにもにもいかない。どうすればよいのか難しすぎる問題だ。この問題について、ラブロックは次のように述べている。 人間の存在を地球はどう受け止めているのか。わかっているだけでも、その状況はすこぶる不穏だ。食糧や燃料生産のためにガイアから土地や水を収穫することを即刻中止し、大気汚染をストップさせたとしても、すでに受けてしまったダメージから地球が回復するには千年以上かかる。かなり思い切った措置をとったとしても、人類を救うには手遅れなのかもしれない。人間がこれまでに犯してきた過ちを、すべてとは言わないまでも埋め合わせるには、並々ならぬ国際的な努力と、化石燃料をより安全なエネルギー源に切り替えていくための入念な計画が必要になる。文明と人間の関係は、ドラッグと中毒患者の関係に驚くほど似ている。常用しても死ぬ。急にやめても死ぬ。 今の文明は麻薬なのだとラブロックは言う。このしかし、麻薬づけの人間すなわち私たちがしなければいけないことはなんなのだろう。 先進工業国のライフスタイルを目指す人々があまりに多いので、人間は地球上のパートナー、つまり他の動物たちを追放してしまった。温室効果ガスの排出削減は、やらなければいけないことのほんの一部だと理解しなければいけない。地表を我が物顔に使うのをやめなければならない。それは謝りだ。土地は生態系のコミュニティーに属するもので、それが地球の気候や化学組成を調節してくれるおかげで、すべての生物は生きていくことができるのだ。 重ねて言うが、ガイアは進化のシステムであり、そのシステムの中では、子孫の生存率が低くなるような環境変化を持続させる種は、人間を含め、絶滅という運命に向かう。人間は食糧生産のために大規模に土地を奪い、空気と水を汚すことによって、ガイアが地球の気候や科学的組成を調節するのを妨害している。このような状況を続ければ、人間は絶滅の危機に陥る。われわれはある意味、思いがけずガイアと交戦状態に入ってしまったようなものだ。勝つ見込みはない。われわれにできるのは、まだ力があるうちに、無力の群集となり果てる前に講和することだけである。 今の私たちにできることは何なのか。それはラブロックの言う「われわれに何よりも必要なのは、都市生活にのぼせ失ってしまった。自然への愛と思いやりを取り戻すことだ。」であり、また「ガイアの幸福は常にわれわれの幸福に優先する。われわれはガイアがなくては存在できないのだから。」なのだ。 私たちは、人間よりもガイア=地球を幸福にするために生きうことを考えねばならない時代に突入した。人間それ自らを幸せにできない私たちに果たして地球を幸福にできるのだろうか?
2007.06.16
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今日、市役所の道路課へ行った。先日地域のある人から、駅前の交差点(と言っても何もない田舎の交差点なのだが)の一角に大きい家が建ったのでカーブミラーを設置して欲しい、との要望を受けたからだ。その方は自分で役所に行って、要望したらしいのだが、地域の区長理事(町内会長の連合会会長のこと。ちなみに我が地域は住民約2,400人で11町内あります)にお願いしてください、と言われたそうだ。そこで私は、申請方法を尋ねるために道路課に足を運んだ。窓口の男性に「私どもの地域にカーブミラーを設置して欲しいのですが、どのように申請すればいいですか?」と尋ねた。するとその担当者は、「そのような申請は10月に決まっています。すべての町内会長に10月に案内します」との応え。この返事にカチンときた。 私はもちろん我が地域にカーブミラーを設置して欲しいのだが、今日はその申請の方法を教えてもらいたくて、役所を訪ねたのだ。役所側でも、予算の関係や多くの陳情があるため、すべての要望に応えられないことも承知している。しかし、詳しい状況も聞かずに、ただ一言で「10月です」との答えはいかがなものか。地域住民は、地域の状況変化に応じた要望を提出するものである。その中身すら聴かずに、頭から「何月にして下さい」という返事は、あまりにも杓子定規な思いやりのない回答ではなかろうか。今の日本の行政が、すべてこのようなやりとりの中で動いているのでは日本の将来もどうなるのか、と一抹の不安を覚えた。 しかし、担当者より申請書をいただき、再度尋ねた。「申請は10月でなければいけないのですか?」と。すると彼は「いいえ。いつでも受付けます」と応えた。 最初の応対で、彼にもう少し笑顔があれば、私も感情的にならなかったのかもしれない。 いいや、その前に私の方こそ“笑顔が無かったのかもしれない”。私が溢れる笑顔で彼と接していれば、彼の対応も変わっていたのかもしれないと反省至極の一件であった。
2007.06.13
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これは先日まで販売されていた、ジャンボ宝くじのキャッチコピーです。この言葉を聞いていつも違和感を覚えていました。デラックス=幸福=お金という短絡的な考え方です。格差社会という言葉が蔓延する中、多くの人々が幸せ=お金と考えざるを得ない時代なのでしょうか。多くの子どもたちが、このようなコピーを毎日耳にすれば、彼らが大人になったときにも、すべてに優先するのは「お金」だと考えるのも無理はないのかもしれません。 イギリスの哲学者ジェームズ・アレンはこう言います。 貪欲な人たちは億万長者になれるかもしれません。しかし、彼らはつねに卑しく不幸せであり、心のなかではいつになっても貧しいままです。彼らはまた、自分よりも裕福な人間が一人でもこの世界に存在するかぎり、自分を外側においても貧しい人間だと考える傾向にあります。 いっぽう、優しく寛大で気高い心のもち主たちは、たとえ外側ではさしたるものをもっていなくても、自分自身の繁栄を明確に認識できます。 自分がもっているものに不満を抱いているとき、私たちは貧しく、それに満足しているとき、私たちは豊かです。そして、寛大な心で自分が持っているものを気前よく与えることができるとき、私たちはさらに豊かです。 私には3人の愛する子どもがいます。この子どもの一人でも、3億円と交換するでしょうか?いいえ、そんなことを考えたことすらありません。人生にはもっと大切なことがあります。今一度、アレンの言葉を借ります。心を広げることです。そして、そこを愛と寛大さで満たし、他の人たちへの奉仕を優先することです。そうすれば、あなたには、延々とつづく大きな喜びとともに、あらゆる繁栄がもたらされることになります。このような人生の真実こそ子どもたちに教えていかねばならないのではないのでしょうか。 最後に、このアレンの言葉をみごとに言い表している素敵な詩があります。 永遠の楽園はここにある 私は幸せを自分のものにしたくて追いつづけたそそり立つ樫の木や揺れるブドウの藪を横目に丘を越え 谷を渡り 野を走り 草原を抜け彼女は逃げ 私は追った私は幸せを追い 急流を必死で渡り鷲が金切り声を上げる断崖をよじ登りあらゆる大地と海を旅して歩いたしかし私は いつも彼女をとり逃した疲れ果て めまいがし 私はもはや追えなかったうらぶれた岸辺に腰をおろし、私は身体をやすめたある者が食べ物を ある者がお金を求めてやってきた彼らの痩せた手のひらに 私はパンをのせ 金貨をのせたある者が思いやりを あるものが休息を求めてやってきた私は彼らに可能なかぎり分け与えた すると見よ!愛しい幸せが神々しい姿で私のそばに立ち つぶやいた私はあなたのものです
2007.06.04
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列車通勤になってから、読書の時間がとれるようになったことが本当にうれしい。しかし、列車の中では、乗り過ごしてはいけないという意識があるためか、今はどこを走っているかわかっている。そんな折、つい夢中になり、今どこを走ってるのかわからなくなった本に出会った。それは「上杉鷹山の経営学」(童門冬二著 PHP研究所)である。上杉鷹山についてはこんなエピソードがある。アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が生きていたころ、日本人記者団と会見して、「あなたが最も尊敬する日本人は誰ですか」と質問されたことがある。その時、ケネディは即座に、「それはウエスギ・ヨウザンです」と答えという。ところが残念なことに、日本人記者団のほうが上杉鷹山という人物を知らず、「ウエスギ・ヨウザンて誰だ」と互いに聞きあったという。ケネヂィは、日本の政治家として、何よりも国民の幸福を考え、民主的に政治を行い、そして、「政治家は潔癖でなければならない」といって、その日常生活を、文字通り一汁一菜、木綿の着物で通した鷹山の姿に、自分の理想とする政治家の姿を見たのである。鷹山の改革の基本理念は「愛といたわり」であり、それは、藩政府を富ませるためにおこなうのではなく、むしろ、藩民を富ませるためにおこなうものでなければならないというものであった。この本の中には本当にたくさん紹介したい話があるのですが、今日はその中から一つを紹介いたします。鷹山は、「藩士による新田開発」を奨励した。藩士が荒地を開墾して、新しい田を拓き、あるいは畑を開拓いて農作物を植えた時は、しばらくは、その田あるいは畑からは税をとらないことにした。つまり拓いた田畑からの収穫物は、まるまる拓いた者の収入にしてよいと言ったのである。これは農民にも適用された。そこで農民は争って新田を開発し、次第に生き甲斐を感ずるようになってきた。可処分所得が増えたからだ。このような光景を見て、家臣の一部には、「せっかく拓いた田からあるいは畑から上がる収穫物を、そっくり開拓者にやってしまうのは、藩庁にとって損ではありませんか」という者も出た。しかし、鷹山は、首を振って、「私の改革は、飽くまでも民富にあると言ったはずだ。民を富ますのは、民が自ら拓いた田から得る収穫物を自分の物にするのでなければ富むことはできない。せっかく田を拓いても、今までは、皆税として取り上げてしまうから農民が土を耕す意欲を失っていたのだ。嘘をついてはならぬ。当分新しく拓いた土地からの収穫物は、拓いた者に与えよう」と応じた。「民富とは何だ、農民なんてゴマと同じで、絞れば絞るほど油が取れる」という考え方が一般的な時代にあって、なんと人にやさしいいたわりのある考え方でしょう。現代のすべての政治家、役人そして経営者の方も鷹山のような理念を持てば、今の社会から格差なんてものはなくなるような気がするのですが。この本は、経営学という名前がついていますが決して専門的なものではありません。経営に関係ない人でも手軽に読める良書です。
2007.05.26
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列車通勤になってから約一ヶ月が経った。我家から駅まで徒歩で8分の道のり。たった8分だがいろんな光景が私の目に飛び込んでくる。地域の人たちの家のたたずまい。ああ、あの人はこの家に住んでいるのだ!その人の人柄と建物の外観がマッチするから面白い。たくさんの花を植えてきれいにしている家。逆に、あまり清掃の行き届いていない家など様々だ。先日、町内をあげて街路樹の根もとに花壇を造っている人たちを見かけた。町民あげての花壇づくり。素晴らしい光景だ!また、家庭菜園に一生懸命になっている人。ああ、あの人はこんな趣味があるんだと感慨深げに眺める。本当に、目に飛び込んでくるひとつひとつの光景が鮮やかだ!車の窓からはこのような光景は実感できなかった。人間にはもっとスロウな人生、スロウな歩みが必要なのでは!
2007.05.21
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先月、南紀のバス旅行をした。世界遺産・熊野古道の視察旅行だ。その道中バスガイドさんより非常に感動的な話を聞いたので紹介してみます。 エルトゥールル号の遭難 和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。「何か大変なことが起こらなければいいが」灯台守は胸騒ぎした。 しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、 もう、何も聞こえなかった。このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員全員が;海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。「息子よ、起きなさい」懐かしい母が耳元で囁いているようだった。「お母さん」という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。「あなたのお国はどこですか」「・・・・・・」言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。「この乗組員たちを救うには人手が要る」傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。「樫野の人たちに知らせよう」灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。「一人でも多く救ってあげたい」しかし、大多数は動かなかった。一人の男が叫ぶ。「息があるぞ!」だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。「もう食べさせてあげるものがない」「どうしよう!」一人の婦人が言う。「にわとりが残っている」「でも、これを食べてしまったら・・・・・」「お天とうさまが、守ってくださるよ」女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。次のような後日物語がある。イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべて の飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」 今の日本人でこの話を知っている人は一体どれだけいるであろう。この話は、昔の日本人の心のやさしさを知ることのできる素晴らしい話だと思う。最近、道徳教育は必要ないというような記事を目にしたことがあるが、このような話や、多くのユダヤ人を救った外務省リトアニア領事の杉原知畝の話などは、ぜひとも道徳の授業で取り上げていただきたい題材である。人類愛、郷土愛、祖国愛、家族愛を大切にする人間教育こそが今一番大切な時代ではないか、とこの話を聞いて心の片隅にわいてきた。
2007.05.04
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今週から勤務先が変わり,JRで通勤することになった。今まで30年近くマイカー通勤だったので少し勝手が違う。 しかし、前回の記事「チーム・マイナス6%」に書いたように今地球温暖化が大きな問題になっている。この温暖化を防ぐにはマイカー規制は非常に効果があると思う。しかし、日常の仕事や生活を考えるとマイカーなしで生きていけないのが実情である。車を乗るたびに私を襲った心苦しい気持ちから開放されたことが嬉しい。それと、私にとって列車通勤が大きなプラスになったことがある。それは読書時間を持てることである。最近、区長理事になってから、会合や書類づくりに忙しく読書の時間が減った。片道40分、往復で1時間20分の読書時間が持てたことは何よりも喜ばしい。そこで今週最初に読んだ本はこれだ。3週間続ければ一生が変わる PART2ロビン・シャーマ 海竜社 前作が非常に素晴らしく、昨年読んだ本のベスト10に入れようかいれまいか悩んだ本であった。しかし、PART2は少し期待はずれであった。これは良かったですよ!今日からは「ガンジー自伝」に挑戦だ!
2007.04.19
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最近、テレビや新聞などでも地球温暖化のニュースをよく目にするようになった。私もチーム・マイナス6%という国をあげてのアクション・プランに参加していた。しかし、今年地域の町内会連合会会長という立場をいただいたことで、地域をあげて地球温暖化に微力ながらも取り組んでいきたいと思う。そんなおり、地元の北国新聞(3月19日付)に私の写真いりで、地域の活動が取り上げられた。CO2削減に一丸白山 加賀野地区が取り組み・月ごとに強化項目・ポスターでも啓蒙(本文) 白山市加賀野地区は四月から、地域ぐるみで地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)の排出削減に乗り出す。「電化製品の電源プラグをこまめにコンセントから抜く」など、月間の重点項目を回覧板などで周知し、家庭でできる小さなことから抑制に取り組む。同地区町内会連合会は独自のポスターを作成し、住民約二千四百人全員に活動の輪を広げたいとしている。 運動の先頭に立つのは以前から環境問題に強い関心を持っていたという同市西柏町の会社員喜多明彦さん(52)。一月に町会連合会会長に就いたのをきっかけに、地区一丸となってCO2削減に取り組もうと提案し、二月の定例会で全十一町内会長の合意を得た。 同連合会は、京都議定書の目標のために国が展開する「チーム・マイナス6%」に登録し▽車のアイドリングをやめる▽過剰包装を断るーなど日々の心がけを地区全体で実践していく方針だ。 同連合会は四月から、回覧板や公民館広報「加賀野だより」に重点項目や「チーム~」のロゴを記載する。ポスターなども製作中で、公民館などの公共施設のほか、地区内のスーパーや事業所にも協力を求め、張り出してもらうことにしている。 喜多会長は「町のあちこちでポスターやロゴを目にすることで、皆に環境意識を高めてもらい、さらに独自策を打ち出していきたい」と話した。 このような記事が、私の写真入りで大きく掲載されました。最近、このブログをご無沙汰いたしておりますが、このような活動をしております。 この温暖化は人類にとって非常に大きな問題であり、真剣に取り組まないと、将来大変憂慮すべき事態が発生すると思っています。ひょっとするともう手遅れなのかもしれないとまで思っています。 しかし、私たちの子どもたちのためになんとしてでも、この地球環境を守っていくのが私たち大人の責務であると思います。オススメのサイト地球村最近読んだ本不都合な真実 アル・ゴア著このままでは地球はあと10年で終わる! 洋泉社ガイア 地球は生きている ジェームズ・ラブロック著
2007.04.09
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久しぶりの更新です。今年から地域の区長理事を引き受けましたが、結構ハードです。昨晩も今晩も会合で今帰ってきました。(夜10時過ぎです)今日は嬉しいニュースです♪次男が東北大学 理学部物理学科に合格しました。これで三人の子どもの最終学歴は決定しました。親として一応ホットしたというのが本音です。取り急ぎご報告まで♪
2007.03.09
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金沢市内の某小学校では、毎年卒業を間近に控えた6年生に対し「大人からのメッセージ」として、保護者や地域の人たちによる育友会授業が、開催されている。私はその講師の一人として、引き受けさせていただいたのだが・・・この話を受けて、私は次の二点を子どもたちに伝えたいと思った。まず、第一点目。実は、私は旅行会社に勤務している。海外旅行の添乗員として百回以上の海外旅行また数十カ国へ足を踏み入れた経験がある。この体験をもとに子どもたちに世界の自然や文化の素晴らしさ、また、古来よりの人間の創造物の素晴らしさを通して人間の力の凄さを子どもたちに伝えよう。 第二点目は、お客様に満足していただける旅とするためには、多くの人たちのサポートがなければ成り立たないこと。例えば、パイロットや航空会社の人たち、バスの運転手、現地のガイド、ホテルで働く人たち、レストランで働く人たち、もちろんこれらを管理する旅行会社の人たちそして添乗員と多くの人たちの協力によって旅というものが成り立っていること。これらを通して「人はなぜ働かねばならないのか」また「働くことの大切さ」を少しでも子どもたちに伝えたい、と考えていた。 さて当日、私は手作りのプリントと地球儀を前にして、ヨーロッパ旅行(ギリシャ・イタリア・フランスの旅行)について話しを進めた。今日の授業は、私からの一方的な話だけではなく、子どもたちと対話をしながら進めたいと考えていたのだが・・・・「ギリシャの首都はどこですか?」「?????」「アテネでは2004年に大きなイベントがありましたね?」「??????」「イタリア料理で皆さんに好きなものは?」「??????」「アテネ」「オリンピック」「スパゲッティ、ピザ」とかいうスムーズな答えを期待していたのだが・・・反応がない!!かなり間をおいてから小さい声でやっと聞こえてくる・・・私はあせった。これでは当初描いていた授業が時間内に終わらないのでは・・・対話をしながら楽しい雰囲気の授業というものが一瞬にして消えてしった・・・・臨機応変に授業スタイルを変えながらの悪戦苦闘の一時間となった。 それでもなんとか、「働く」とは、傍(はた)を楽にするために「人」が「動く」ことであること。そして、自らの利益のためではなく「世のため、人のため」に働くことが大切なのだという、私の気持ちをなんとか伝えることができた。また、最後には子どもたちから質問もでたので安堵して授業を終えた次第である。 授業を終えてから、校長室で他の授業の講師の人たちと感想を話しあった。(今回の授業は、私のほかに、「税金ってなあに」税理士、「災害救助犬を作る夢を追いかけて」蓄犬訓練所の訓練士、「遊びと通して学ぶこと」幼稚園教諭、「病気を科学する」臨床検査技師、「陸上競技での体験、箱根駅伝より」高校教諭などの計6つの授業が行われた。) 皆さんの意見も私と同様であった。「子どもたちがおとなしい・・・」「反応がない・・・」それぞれの講師の人たちもご苦労されたらしい。しかし、よく考えてみると6年生といえば思春期で一番恥ずかしがる年頃の子どもたちである。また、私が逆の立場であったらどうであったろうか?講師の先生の質問に対して、わかっている答えであっても活発に反応しただろうか。そうように考えると6年生の子どもたちは、もうすでに私たち大人と近いのではないかと思えるようになった。まだ子どもだと思っている私たち大人の思い過ごしが、子どもたちとのギャップを作り出しているのではないかと思えるようになった。子どもたちを大人対子どもという立場でみるのではなく、あくまでも人間対人間としてみる必要があるのではないかとあらためて痛感した次第である。 そんなことを考えている折、育友会から子どもたちの感想文が、私の手元に届けられた。その中から一つの感想文を紹介してみよう。 今回、旅行についての話を聞いて、世界への旅行の楽しみや、旅とはどういうものなのかを、よく知ることが出来てよかったです。それに世界の文化や歴史、日本と世界の違いも知ることができました。そして、ツアーコンダクターとして働いている喜多さんの仕事の苦労や、働くとはどういうことなのか、旅行体験記の話を通して知りました。お金のためもあるだろうけど、「世のため、人のため」に働くということを考えさせられました。 これらの感想文を読んでみて、目頭が熱くなった。なぜなら子どもたちが、真剣に私の話を聞いてくれていたことが分かったからだ。反応がなかったように見えた子どもたちも実は反応を見せなかっただけだったのだ。私の思いが少しでも子どもたちに伝わったのかと思うと、この授業をさせていただいて本当によかったと思っている。今では、私のほうこそ子どもたちのお陰で成長させていただいたと感謝している次第である。私の話を聞いてくれた6年生の君たち!本当にありがとう!!
2007.02.15
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今日は1月20日。金沢では毎年雪に悩まされるが反面、雪景色を楽しめる季節である。しかし、雪がまったく降らない!寒くない!新聞の週間天気予報を見ても雪マークはない。このままだと1月は雪なしとなる可能性が高い。おかしい!どこかがおかしい!最近、テレビでもよく報道されている「温暖化」の影響である。しかし、今年ほど顕著に現れた年はない。厳冬のニューヨークでは22℃の日もあった。熊が冬眠できない。ヨーロッパでは1300年ぶりの暖冬。北極の氷がなくなる。絶滅する生態が続出・・・などなどのニュースが聞こえてくる。今こそ、我々一人ひとりの生き方を変えるときなのだ。意識の変革を求められているときなのだ。我々が変わらないと子どもたちに明るい未来はない!世界に変化を求めるのであれば、自らが変化となれ! マハトマ・ガンジーの言葉を肝に銘じて行動したい。今年は幸いにも、町内会長、区長理事という立場をいただいた。自らができることを一歩一歩前進させていこう!
2007.01.20
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天候に恵まれたお正月も無事終わり、今年も本格的にスタートした。今年は、区長理事という大役を引き受けた年だ。私の住んでいる町は、戸数約八十戸の町内であり、同じ規模の十一町で一つの地区を構成している。住民約二千数百名の地区だ。若輩の私が、今年この地区の理事(代表)となったわけである。今年は会社の建て直しにも忙しい年でもあり、このような役は引き受けまい、と決めていたのだが、どこでどうなったのか引き受けざるを得なくなったしまった。日頃から、子どもたちには「世のため人のために働きなさい」と言っているのに、自分が行動しないでは示しがつかないと思い直し、引き受けた次第である。引き受けたからには微力ながらも全力でやり抜きたい!わが地区にも、少子高齢化の波が押し寄せている。そんな中、「私たちは幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」をモットーに、笑いの絶えない町づくり、地区づくりに汗をかければと思っている。
2007.01.06
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明けましておめでとうございます!年初めはこの詩でスタートしようと決めていた矢先、本日愛読書である月間誌「致知」が届き、詩人坂村真民先生がお亡くなりになったのを知った。坂村真民先生を知ったのは最近のことであるが、その素朴な詩の中に、よく生きねばならないことをどれだけ教えられたか計り知れない。また、私の父の名前が“信民”であり同じ“しんみん”と読めるため、より一層親しみが感じられたのかもしれない。真民先生のご冥福を心から祈るとともに次の詩を紹介いたします。鳥は飛ばねばならぬ鳥は飛ばねばならぬ人は生きねばならぬ怒涛の海を飛びゆく鳥のように混沌の世を生きねばならぬ鳥は本能的に暗黒を突破すれば光明の島に着くことを知っているそのように人も一寸先は闇ではなく光であることを知らねばならぬ新しい年を迎えた日の朝私に与えられた命題鳥は飛ばねばならぬ人は生きねばならぬ坂村真民著 詩集「念ずれば花ひらく」より本年もよろしくお願いします!!
2007.01.02
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毎年年賀状はどうしようかと苦労する。若い時は書道家の家内にすべてまかせていたときもあった。最近はパソコンで簡単にできるようになったが、どれだけ心のこもったものにするかで頭を悩ます。あれこれ考えているうちに今年も残すところあと1日になってしまった。しかし、来年は公私ともども大変な年になりそうなのでちょっと変わった年賀状にしてみた。その年賀状をひと足早く皆様に送ります。謹 賀 新 年世界に変化を望むのであれば、みずからが変化となれ マハトマ・ガンジーその思想がたとえ高潔なものであっても、人間の最終目標は思想ではなく行動である トマス・カーライルはじめは人が習慣をつくり、それから習慣が人をつくる ジョン・ドライデン心のなかですばらしい考えを育てるのだ。なぜなら、自分が考えている以上にすばらしい人間にはなれないのだから ベンジャミン・ディズレーリ困難だから、やろうとしないのではない。やろうとしないから困難なのだ セネカ運は勇気のないものにはめぐってこない ソフォクレス世の中にあって、世の中の意見に生きるのはたやすい。ひとりのとき、自分の意見に生きるのはたやすい。だが、偉大な人間とは、群衆のなかにあって、みごとに孤高を保てる人物である エマーソン最大の不運のなかに、幸せが生まれる最高のチャンスがある エウリピデス 今年はこれらの名言をつねに心の中において生きていきたい。 平成19年元旦今年も多くのコメントをいただきました。ブログを続けるうえで大きな支えになりました。また、今年も新たな友達ができたことに感謝しています。本当にありがとうございました。皆様には来年も幸多い年になられんことを心より願っております。
2006.12.30
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昨日、久しぶりの休みがとれたので午後プールへ行った。小学五・六年生くらいだろうか、男女3人が楽しそうに遊んでいた。一体何が楽しいのだろうか、本当によく笑う子供たちだった。この子供たちをみていて、こんな話を思い出した。平均的な四歳児は一日に三百回笑うのに対し、平均的な大人は一日に十五回しか笑わない。人間は何歳を境にして笑いが少なくなるのだろうか。「わたしたちはしあわせだから笑うのではない。笑うからしあわせなのだ」という言葉がある。来年は、この子供たちのように「もっと笑う」をモットーに一年を過ごそう。 しかし、楽しそうに笑っていた子供たちが、使用したビート板を片づけていかなかったことはとても残念!
2006.12.28
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今年読んだ本 ベスト10 その二第5位はここって塾!? 藤井 東 著 (春秋社)
2006.12.23
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一年の世相を表す今年の漢字は『命』に決まりました。ちなみに私の一年を漢字で表すなら、それは『死』です。今年の前半は身体の調子がよくなく、毎日「死」というものと対峙していました。しかし、それは「よく生きること」でもあり、「今を生きること」にもつながりました。そんな中で今年もたくさんの書物と出会いました。序列を付けるのはいかがなものかと思いますが、恒例の「今年読んだ本ベスト10」を発表します。さて、第10位は・・・彩花へ 「生きる力」をありがとう 山下京子著 (河出書房新社)「常懐悲観心遂醒悟」という仏教の言葉があります。字の如く、常に悲しみを懐いていると、心はいつか悟りに到るという意味です。彩花ちゃんは、神戸小学生殺人事件(酒鬼薔薇事件)の被害者です。お母さんである山下さんは、どれほど悲しんだことでしょう。また、犯人をどれほど憎んだことでしょう。しかし、悲しみに暮れる山下さんの心はついに悟りへと昇華します。本当に感動しました。若いお母さん方にはぜひ読んでいただきたい本です。第9位あなたの夢はなんですか?私の夢は大人になるまで生きることです。池間哲郎著 (致知出版社)今までで一番涙がでた本です。この本は以前に紹介いたしましたので、そちらをご覧ください。あなたの夢はなんですか?また、part2 あなたの夢はなんですか?僕の夢は人間になることです。もオススメです。あなたの夢はなんですか?PART2 その一あなたの夢はなんですか?PART2 その二第8位りんごは赤じゃない 山本美芽著 (新潮文庫)この本も以前に紹介いたしました。素晴らしい先生のお手本のような先生です。先生(指導者)によってこれだけ子どもが変わるんですね。第7位よく生きよく笑いよき死と出会う アルフォンス・デーケン著 (新潮社)ドイツ人であるデーケン氏は、上智大学の名誉教授であり、「死生学」の大家です。この本で初めて「死生学」という言葉を知りました。今の社会は「死」をあまりにもタブー視しすぎています。そのため、人生最大の試練である死に対して、ほとんどの人が何の心構えもないまま、愛する人の死や、自分自身の死に臨んでいるのが現状でしょう。これはどう考えても不思議なことではないでしょうか?「死」をみつめることによって、「よく生きる」ことを学ばねばならないと思います。第6位愛に生きる 鈴木鎮一著 (講談社現代新書)この本も以前紹介いたしました。バイオリンによる幼児教育を確立した人です。愛に生きる 才能は生まれつきではない その一愛に生きる 才能は生まれつきではない その二今日は、前回紹介できなかった引用を紹介します。三十人の工員さんの喜び 手先の仕事をするある大きな工場へ講演に招かれたときのことです。講演のあとで、そこの社長が雑談的に相談されました。 「うちの工場に、手おそい工員が三十人くらいいましてね。みんな一生懸命なんですけれど、やっぱり生まれつきですからね。赤字ですわ。しかし、これも才能教育でなんとかなりましょうか。」 「いま、手おそいとおっしゃいましたが、それは手ではなくて、頭がおそいのですよ。」 「え?手じゃありませんか。それじゃ・・・」 どうしようもないといおうとする社長に、私は、その三十人の工員の方たちに、作業時間を一時間早く切り上げさせて、工場のピンポン室でピンポンの練習をやらせてみるようにすすめました。 「いいコーチをつけてあげてください。ピンポンでは、瞬間的にからだと頭とが同時にはたらかなければなりませんから、これがうまくなったときは、仕事の能率も上がっていましょう。」 それはおもしろい、さっそくやってみようと社長はいいましたが、それから約半年して、うれしい礼状が届きました。 おかげさまで、みんなピンポンが上手になりました。おおせのとおり、その上達につれて、仕事の能率がすっかりよくなりました。わたしどもも喜んでいますが、ピンポンを楽しむとともに、ひとなみ以上に仕事ができるようになったみんなの喜びは、本当にお目にかけたいほどです。このブログをお読みの方には、幼児期また小学生のお子さんをお持ちの方も多いと思います。私の子育ての経験から言いますと、子どもには知育はもちろん必要ですが、それ以上に体育=運動が必要だと思います。運動ができるようになることは、頭をよくすることに通じます。知育と体育は同等であると考えるべきです。この引用はそれを物語っていると思います。「徳育」も必要なのは申すまでもありません。次回はいよいよベスト5の発表です。
2006.12.16
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「こんな所で何をしてるの!」。授業をさぼりトイレで化粧中の女子生徒を注意した東京都立高校の養護教諭は次の瞬間、絶句した。生徒の足元には化粧品がずらり。「トイレの床に置くなんて汚いと思わないの?」反応はなかった。「汚いとか、場所をわきまえるといった感覚が欠如している」(養護教諭)トイレで着替えた服を床に置く。休み時間のトイレはジュースやお菓子を口にした生徒で混雑。個室内には空き容器が散乱する。昼休みになれば昇降口が“ランチルーム”に一変。ゲタ箱前に座り込み、パンや弁当を床にじか置きにする。 学校の風景が変わった。当たり前だったはずの常識の規範があいまいになり、一昔前は想像もしなかった事態がおきる。
2006.12.10
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