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『ルーヴルの怪人』(2001年、フランス、ジャン=ポール・サロメ監督、ソフィー・マルソー主演)今日TVで放映していましたが、久々にソフィー・マルソーをみました。彼女は1966年生まれですから35歳ということになりますが、結構上手く年をとっているという感じです。あのどこか頼りなげな庶民的な美貌は顕在ですし、気の強さもちょっと覗かせており、なかなか大人っぽくなりました。とっぽかった演技力も、歳とともに少し厚みが出たようです。しかし、この映画の主役には無理があるでしょう。古代エジプトのミイラから霊が蘇るという怪奇ものですから、主役には神秘性やある意味の残酷性が求められるのですが、彼女にはちょっと無いものねだり。原作といいますか元ネタは、ミイラから蘇る怪人「ベルフェゴール」なんですが、「ベルフェゴール」はパリの都市伝説みたいな怪談で、1926年に映画化されていますし、1965年にはジュリエット・グレコ主演でTV化されフランスで大ヒットしています。その有名な怪談を、『オペラ座の怪人』の向こうをはったような題名にして、ルーヴル美術館で完全ロケを行っています。ですから、映画で登場する絵画なんかは全て本物だそうです。この映画はフランスで大ヒットし、その年の興行成績No.1となったそうです。ソフィ・マルソー、ベルフェゴール、ルーブル美術館と揃っているのですから、ヒットしたのも分からないことはないのですが、私個人としては作品自体にはそう魅力を感じませんでした。私にとってこの映画の最大の見どころは、(ソフィ・マルソーを除けば)画面の色彩構成です。全てのシーンで”緑”が基調となっています・・・・そう、あの『アメリ』(2月26日の日記参照)と全く同様の色彩構成なのです。それで、製作スタッフの名前を確認してみたのですが、両映画に共通する名前は即座には見当たりませんでした。「ええ? そんなことはないはずだ。『ルーヴルの怪人』で出てくる居酒屋も、色彩はもとより、店の構造といい、雰囲気といい、『アメリ』に出てきたそれと瓜二つではないか」と思いながら調べましたら、捜査線上(笑)にアラン・カルスという人の名が。アラン・カルスは、ジャン=ピエール・ジュネ監督と組んで『エイリアン4』や『アメリ』のVFXを担当しています。VFXとは特撮のことで、「各素材の合成(=撮影)」や「デジタル上でのエフェクトの追加(=特殊効果)」などを担当します。『エイリアン4』、『アメリ』と共通する『ルーヴルの怪人』の”緑”の世界は、もしかしたらこのアラン・カラスの影響が大きいのかもしれません。
May 17, 2004
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『バスキア』(1996年、アメリカ、 ジュリアン・シュナベール監督)27歳の若さで「急性混合薬物中毒」で急逝したジャン=ミシェル・バスキアを描いた作品です。バスキアは、1960年、ハイチ移民の息子としてニューヨークで生まれ。8歳のとき、路上でボール遊びをしていて自動車にひかれ、腕を骨折し脾臓を摘出するという大怪我をおっていますが、この後遺症が死因だとする説もあります。【グラフィティ・アーティスト】バスキアは印象派とも表現主義とも称されますが、出自はグラフィティ・アートです。グラフィティ・アートとは、壁面にスプレー塗料で描くアート作品のことで、70年代末から80年代初めにニューヨークに生まれた文化です。別名は、「落書き芸術」ですね。私も当時、映画や写真で、ビルや地下鉄駅の壁に描かれたこれらの作品を観ましたが、えらいセンスがいいな、と感心した憶えがあります。ヒップ・ホップという分野がありますが、それを構成するのがDJ、ブレイクダンス、ラップ、グラフィティアートの四要素です。バスキアの作品は、当時の芸術シーンに衝撃を与えましたが、私も衝撃を受けた一人です。とにかく普通ではない、どこかズレていて、どぎつい彼の作品を観て最初に頭をよぎったのは、(同じく麻薬中毒によって急逝した)ジミ・ヘンドリックスの「紫の煙」でした。また、コラージュ的に多様なアイテムの配置、多用される断片的な言語、無骨でいて統合性が失われていない作品は、ダダ(とりわけベルリン・ダダ)の作風を連想させるものでした。ただし、色彩はバスキアのほうがずっと派手ですが。彼はソーホやMoMA(ニューヨーク現代美術館)の近辺で手書きのポストカードやTシャツ、そして絵画などを売っては小銭を得ていましたが、やがて見出され、アートの世界に存在しなかった黒人のスターとして君臨することになります。その後、アンディ・ウォーホルと知り合い親交を深め、ハワイで静養して一度はドラッグの世界から脚を洗ったとされたのですが、ウォーホルが87年に死去すると、その後を追うようにして88年に死去しています。映画『バスキア』の凄いところは、脇役陣の顔ぶれですね。ウォーホルを演じるデヴィット・ボウイをはじめ、デニス・ホッパー、ゲイリー・オールドマン、クレア・フォーラニ、テイタム・オニール。さらに、音楽の担当はジョン・ケイルです。監督のシュナベールは、実際にウォーホルやバスキアと付き合いがあったそうですが、彼らの実像をどれだけ正確に描写しているのか不明です。ストーリーは凡庸ですが、映像はポップ・アート満載で、アンチ・モダン的ないしはカオス的な作品、さらにはドラッグ・アートが好きな方はそれなりに楽しめるでしょう。
Aug 3, 2004
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『ボディ BODY』(1992年、アメリカ、マドンナ主演)ストーリー、プロット、アイテムは俗っぽいものが多くーーーーストーリーはワイルダーの『情欲』のパクリ、マドンナ演じる「レベッカ」、ドラッグ、弁護士と被告の情事、SM、ポルノヴィデオ、殺人、莫大な遺産、愛人、三角関係、裏切り、悲劇的な結末、等々ーーーー、一応、法廷を舞台としたサスペンスものということになるのでしょうが、作品自体の出来はお世辞にも「良い」とはいえないでしょう。**************心臓病を患う富豪の老人マーシュは、愛人レベッカ・カールソン(マドンナ)との情事の後、死体で発見された。地方検事ギャレットは、現場に残されていた2人の過激な性行為が収録されたヴィデオテープを証拠物件に、レベッカを殺人罪で告訴した。マーシュの秘書、ジョアンも犯人はレベッカだとほのめかした。レベッカの弁護士フランク(ウィレム・デフォー)は、彼女の無実に疑問を抱きながらも、次第にその魔性の魅力に魅きつけられていき、遂にレベッカの住むボートハウスで、激しく愛し合ってしまう。裁判が始まり、フランクは見事にレベッカの弁護をこなしていく。しかしその一方で、2人の関係はますます過激さを増し、フランクの変化に気づいた妻は家を去る。事件の真相を追ううち、フランクは、ジョアンが、レベッカの前の被害者の愛人であり、かつて重度のコカイン中毒だったことを突きとめる。裁決の日を迎え、レベッカは無罪となるが、彼女を信じきれないフランクはボートハウスを訪ね、レベッカと彼女の(元)愛人が仕組んだ殺人であることを耳にする。フランクと2人は格闘になり、(元)愛人は銃の暴発で死に、レベッカは窓から落ち、水中に沈む。**************マドンナの主演映画は、映画自体は駄作が多いといっても過言ではありません。最大の作品は『エピータ』でしょうが、いかんせんマドンナの歌唱力が劣っており、残念。駄作といえば、ゴールデン・ラズベリー賞というのがあります。毎年3月、アカデミー賞授賞式で盛り上がっているさなか、その前夜に1年間を振り返って最低の映画を決めるという冗談半分に設定された映画賞のことです。 世界8ヶ国の評論家やジャーナリスト、約500人によって選ばれ、受賞者には、その名の通り、金色のラズベリーをかたどったトロフィーが授与される事になっていますが、受け取りに来る人は滅多にいないということです。 初期の頃と比べ、近年はウケ狙いで、大物俳優などに授与するようになり、より風刺色が強くなっているようですね。2002年、マドンナ主演の『スウェプト・アウェイ』が、見事にこの栄冠に輝いています。ちなみに、過去の受賞作品は以下のとおり。2001年 第22回 「Freddy Got Fingered」 2000年 第21回 「バトルフィールド・アース」 1999年 第20回 「ワイルド・ワイルド・ウェスト」 1998年 第19回 「アラン・スミシー・フィルム」 1997年 第18回 「ポストマン」 1996年 第17回 「素顔のままで」 1995年 第16回 「ショーガール」 1994年 第15回 「薔薇の素顔」 1993年 第14回 「幸福の条件」 1992年 第13回 「嵐の中で輝いて」 1991年 第12回 「ハドソン・ホーク」 1990年 第11回 「フォード・フェアレーンの冒険」 1989年 第10回 「スター・トレック5/新たなる未知へ」 1988年 第9回 「カクテル」 1987年 第8回 「ビル・コスビーのそれ行けレオナルド」 1986年 第7回 「ハワード・ザ・ダック」「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」 1985年 第6回 「ランボー/怒りの脱出」 1984年 第5回 「ボレロ/愛欲の日々」 1983年 第4回 「The Lonely Lady」 1982年 第3回 「Inchon!」 1981年 第2回 「愛と憎しみの伝説」 1980年 第1回 「ミュージック・ミュージック」 なんか、「ええ!それはないだろう」という作品もありますが・・・。『スウェプト・アウェイ』は、マドンナの旦那のガイ・リッチーが監督で、無人島に流されて上流と下流の立場が入れ替わるというものですが、内容は74年の『流されて』のリメイクです。また、『流されて』の前には、1919年に『男性と女性』という(無人島に流されて立場が入れ替わる)同様の作品もありましたが。マドンナは、ウエィト・トレーニングで鍛えた肉体とビキニ・スタイルで登場しまくりなのですが、どうもその辺が不評だった、とも。マドンナ主演の映画、内容的には駄作(ダメ映画)が殆どですが、それにしては人気があります。もちろん、これは、マドンナ個人の魅力におうところが大きいわけです(脇を固める連中が意外としっかりしている、ということもありますが)。その魅力は映画を実際に観ないと分かりませんし、映画を観ても全く魅力を感じない人も多分多いでしょう。私は、『ボディ』を観て、はじめてマドンナの雰囲気に魅力を感じはじめた者の一人ですーーー私だけかもしれませんが(笑)。
Apr 24, 2004
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監督はデレク・ジャーマンですが、彼はロンドン大キングズ・カレッジで美術史を学んだ後、60年代半ばから画家として活躍しています。その後、衣裳デザインに進出し、ケン・ラッセル監督の『肉体の悪魔』の美術監督として映画界で活動を始めるとともに、同時に演出にも興味を抱き、76年に『セバスチャン』をポール・ハンフレスと共同監督して長編デビューを果たしています。以後、ゲイを題材に長編や短編を手掛ける一方、ビデオ編集処理を駆使した独自のヴィジュアル・アートを得意としていました。代表作は『エドワードⅡ』の他に『テンペスト』、『BLUE』。監督自身ゲイで、生前HIV感染を公言しており、94年にAIDSによる合併症にて死亡しています(享年52才)。ジャーマンはサブカル系といってよく、難解なものが多いのですが、『エドワードⅡ』は比較的理解しやすいです。映画ではサブカルに不釣合いな気取ったセリフが多いのですが、シェイクスピアと並び称される英国の劇作家クリストファー・マーロウの戯曲を映画化したものです。マーロウの人生は謎めいており、29歳の時、ロンドン近郊の料亭で食事中、喧嘩がもとで刺され死亡しています。ジャーマンによれば、マーロウもゲイであったということですが・・・・。ジャーマンは美術に詳しいだけあって映像技術は卓越しており、70年ー80年代イギリスの前衛芸術的な雰囲気ですが、その色彩の毒々しさは退廃的ですね。ですから、映画自体、どうしても暗いものになってしまいます。この辺が、当時のイギリス前衛にほぼ共通してみられる限界ではないでしょうか。その雰囲気を宮廷や貴族という中世イギリス上流階級に持ち込んでおり、それはそれで面白いのですが、色彩の鮮烈さと相まって下手をすると「成金趣味」的なセンスに堕しかねませんが、ジャーマンがそのような愚を犯すことはありませんでした。私としては、こういった映像センスは、アレハンドロ・ホドロフスキーの映画(『エル・トポ』、『ホーリー・マウンテン』、『サンタ・サングレ』)などや、ジャーマン自身の『テンペスト』や『カラヴァッジオ』で既に十分堪能したという印象です。つまり、その手のものには、もはや食傷気味なのです(前衛というのは、飽きられやすいんですね)。『エドワードⅡ』の製作は1991年イギリスですが、以上のようなことを考えると、ちょっと古めかしいという印象をどうしても抱いてしまいます。ストーリーは、父エドワード一世の死後、王位についたエドワード二世(1284~即位1307~27)の生涯を追ったものです。彼は同性愛者(恋人はガルヴェストンという人物)で有名ですが、統治者としては、父王エドワード一世と比べて数段劣るどころか、むしろ愚王の範疇に入るというのが後世の彼に対する評価です。エドワード二世が批判されるのは、彼が同性愛者だったからでなく、彼のなりふりかまわぬガルヴェストンへの寵愛が度を越したもので、ひいては国政を誤ったからだというのが一般的な見方でしょう。映画では、エドワード二世の優柔不断ぶりや無能ぶりが強調されるとともに、王の側近として宮内大臣、国務長官、コーンウォル伯爵号、マン島の総督といった高い地位を難なく手にいれたガルヴェストンの品の無さや傍若無人ぶりが殆ど「猿」なみに描写されています。そして、夫王の性癖のため処女の女王として愛されることを知らぬままに暮らすイザベラ王妃や、ウェールズ辺境伯モーティマーを中心とした貴族が、これに反発し争いを繰り返すというものです。『エドワードⅡ』は、ゲイバッシングに対する抗議の為につくられた社会的な映画だということですが、本当にそうだとするとちょっと理解に苦しみます(むしろ、ジャーマンは、当時のゲイカルチャーに対する批判をこめていたようにも読めます)。権力をかさにきて、理不尽な行為を繰り返すのは、明らかにゲイの側(エドワード二世、ガルヴェストン)なのですから。だから悲劇なのだというのでしたら、倒錯しすぎでしょう。エドワード二世は芸術に造詣が深く、この辺はワーグナーや美貌の俳優に入れあげたルートヴィヒ二世を彷彿させるものがありますね。ちなみに、十字軍で有名な白マントに赤十字の「聖堂(テンプル)騎士団」の影響を受けて、エドワード二世はゲイに走ったとのことです。男ばかりの「聖堂騎士団」が男色の習慣をヨーロッパにもたらしたのは事実のようで、フランス国王フリップ四世の三王子にまで及んでいたようです。もっとも、エドワード二世は、フィリップ四世の要請もあり、「聖堂騎士団」を攻撃するわけなんですが(フィリップ四世は、自分の息子たちがゲイであることを知らなかったとのことですが)。「退廃美の限界」および「ゲイ・カルチャーの限界」を否応無くさらけ出してしまったのが、この”時代遅れ”の『エドワードⅡ』という映画である、と評したら酷にすぎるでしょうか。
Jan 3, 2004
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『華氏451度』(1966年、イギリス、フランソワ・トリュフォー監督)原作はレイ・ブラッドベリーの同名小説。『マタ・ハリ』(1965)のコンビ、ジャン・ルイ・リシャールとフランソワ・トリュフォーが共同で脚色し、撮影はニコラス・ローグ。==========未来のある国の話。すべてが機械化されたこの国では、あらゆる知識や情報はすべてテレビによって伝達され、人々はそのとおりに考え、行動していれば平和な生活ができるのであった。そこでは読書は禁止されており、反社会的という理由で、書物という書物はみつけ次第、消防士(fireman)たちによって焼きすてられた。現在のfiremanは火を消すのが仕事だが、耐火建築技術が進んで火事というものがなくなったこの国では、firemanは逆に火焔放射器で書物に火をつけるのが仕事ということになる。モンターグは、将来を嘱望された消防士の一人でる。ある日彼は妻のリンダにうりふたつの若い女クラリス(J・クリスティによる二役)と知り合う。テレビのままに動く無気力なリンダの空虚な生活にひきかえ、クラリスは本に熱意を持っていて、モンターグにはとても刺激的だった。そこでモンターグは生まれてはじめて本を読み、その魅力にとりつかれてしまった。それを知ったリンダは、夫が読書をしていることを手紙にかいて密告した。隊長から自分の本を焼きすてるように命じられたモンターグは、本ばかりか自分の家そのものまで焼こうとした。そんな彼を制止し、逮捕しようとした隊長にモンターグは火焔放射器を向け、殺してしまった。殺人犯としておわれたモンターグは逃走し、淋しい空地にたどりついた。そこはいつか、クラリスが話してくれたことのある「本の人々(bookman)」が住む森の街だった。そこでは、人々は、すべての本が焼かれても、それを後世に残せるようにと本を暗記していたのだった。やっと本をよむ自由を得たモンターグはアラン・ポーの暗誦をはじめる・・・・。===========『華氏451度』のタイトルの意味は、「本のページに火がつき、燃えあがる温度」のこと。この国ではなぜ書物が禁止されているのかというと、「平等」の名のもと「衆愚」型の統治が行われているからである。「多様な考え方」や「自分の頭で考えること」を否定し、画一的で思考が単純な国民(衆愚)のほうが統治しやすいのである。この映画は、「書物への愛」をテーマとした作品ではないでしょう。何故なら、書物が燃やされるシーン(焚書)がふんだんにあるからである。「書物への愛」を訴えたいのなら、このようなシーンが登場しても痛々しいものにあるはずであるが、むしろ”豪快”に描写されている。「垂れ流しの映像情報(テレビ)に依存する社会」や「全体主義に対するレジスタンス」という見方もあるが、それのみでは表層的である。私は、メインテーマは「高貴な生き方」(ニーチェ)と考える。高貴に生きるためには、”ほんとう”の知識や思考力が不可欠である。この映画では、ニーチェ(の書物)がたびたび登場する。ニーチェは、『ツァラトゥストラ』で近代国家(ビスマルク体制)を弾劾しているが、その国家はこの映画に登場するものと瓜二つといっていい。ビスマルク時代というのは、実利重視、権力志向、不信、集団的な没個性が特徴であるが、ニーチェは、ビスマルク体制をどのように見ていたか・・・。”善い人間も悪い人間も、すべての人間が毒を飲む場所、それを私は国家と呼ぶ。善い人間も悪い人間も、すべての人間が自己自身を失う場所、それを私は国家と呼ぶ。すべての人間の緩慢なる自殺ーーーこれが『生』と称される場所、それを私は国家と呼ぶ。・・・・これら無用の人間たちを見るがいい! 彼らは常に病気である。彼らは胆汁を吐き出して、それを新聞と呼んでいる。彼らは互いに相手を呑みくだし合っているが、しかし相手を消化することさえもできない。・・・・彼らがよじ登る様をとくと見るがいい、この敏捷な猿ども! 彼らは互いに相手の頭をとび越えてよじ上り、互いに相手を泥沼の底へ引きずり落とそうとする。・・・・私からみれば彼らは皆狂人であり、よじ上る猿であり、頭がほてっておかしくなった連中である。彼らの偶像(国家)、この冷血の怪獣は悪臭を放つ。彼ら、すなわちこの偶像の崇拝者たちも、こぞって悪臭を放つ。わが兄弟たちよ。いったい君たちは、彼らの欲情の口という口から吐き出される毒気に当てられて、窒息する気なのか? それくらいなら窓を打ち破って、戸外へ出るがよい。・・・・大地は今もなお、大きい魂の持主には閉ざされていない。ただ一人の孤独者、ただ二人の孤独者のために、今なお多くの席があいている。この席のまわりには静かな海の香りが吹き渡っている。””この人生を劇務と見、焦燥と見ている君たちも、じつは生きることに疲れているのではないか?・・・・劇務を好み、スピードや新奇なものや異常を好む君たちは、こぞってーーー自分の身の始末に困っているのだ。君たちの勤勉は呪いであり、自分自身を忘れようとする意志なのである。君たちがもっと生を信じていたら、これほどにも瞬間に身を委ねることはないだろうに。しかし君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえていない。---それで、怠惰にさえもなれないのだ!””これら平等の説教者たちと私は混同されたり、取り違えられたりしたくない。なぜなら正義が私にこう語るからだ---<<人間は平等ではない>>と。そして、人間は平等になるべきでもない! ”・・・・・・・『ニーチェとの対話』(西尾幹二、講談社現代新書)を参照されたし。
Apr 15, 2004
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人気の小説家、村上春樹氏について語ってみましょう。私が読んだ村上小説は、『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥クロニクル(シリーズ)』、『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『海辺のカフカ』、あと短編・随筆を少々ですが、村上小説が格別好きだというわけではありませんし、もちろん嫌いでもありません。ただ、村上小説は、好き嫌いや評価が結構分かれるようですね。好きだという意見では、「読み出したら止まらない」、「感動的」、「癒された」などいった賛辞が多く、臨床心理学者で文化庁官(平成14年当時)の河合隼雄氏などは「将来はノーベル文学賞」と言い、「きわめて平明にもの語りながら、とても奥の深いものを感じさせる力がある」とその魅力にふれています。”これは宮崎作品の「千と千尋の神隠し」にも共通する特徴で、とても接しやすいけれど、最後には謎と余韻が残る・・・。また、両者の物語の背景となる世界は、人間の欲望や邪悪さによってどこか壊れ、何かを喪失していることが多い。そして、その世界を生きるふつうの主人公が成長する姿に「救い」を感じる人が多い。さらに両作品では、不思議な出来事や異形のものがしばしば登場し、作品世界にふれた後は、不思議の国を旅した気分になる。このため時にロールプレーイング・ゲームと評されるが、ゲーム世代の若者たちは支持する。”(平成14年10月22日読売夕刊「手帳」鵜・則)他方で、文学の”専門家”のあいだでは評判が芳しくないようです。平成14年、東京大学駒場キャンパスで開催された「文学ルネサンスをめざして」というシンポジウムでは、村上小説は「この小説を読むと、文学がなぜ貧しくなってしまうかがよく分かる」(東京大学教授、小森陽一)と批判され、また、評論家の蓮實重彦氏は「村上春樹の文学は結婚詐欺である。好んで読んでいるのは、結婚詐欺に引っかかりたいと望んでいる人たちである。それは文学を単純化し、平凡化する」とばっさり切り捨てています。さらに、東京大学教授の松浦寿輝氏も「他者としての言葉に出会い、言葉を紡ぐという困難な歩みによらず、イメージのナルシズムによって、自分はそれでいいんだよという肯定の空間を作っている、癒しの文学」と厳しく批判しています。村上小説の特徴の一つは、上で読売夕刊の鵜・則氏が述べているように、「不思議な出来事や異形のものがしばしば登場し、作品世界にふれた後は、不思議の国を旅した気分になる」ということです。つまり、小説のどこかで必ずといっていいほど夢幻的なアイテムが登場します。それは、タイム・トラベルであったり、瞬間移動であったり、予知能力であったり、霊的なものであったり、実に奇妙な人物であったり、運命的・宿命的なものであったり、小説によっていろいろではありますが。そういった夢幻的なアイテムが日常生活においてフッと登場し、自分からみた世界の様相が一変してしまう。そして、その効果ですが、アイテム自体が有する”重量感”をしのいで実に大きな変化を「世界」や「私(自我)」にもたらします。この辺の効果の良し悪しが村上小説を評価する際の大きなポイントになります。たとえば、『羊をめぐる冒険』では、羊というアイテムがちょっとくど過ぎる印象ですし(”重量”の割りに意味が希薄)、『ノルウェイの森』では、言葉というアイテムを夢幻的に上手く機能させていると思います。それで、村上小説は「フェーリック」か「ファンタスティック」かと問われれば、後者ですね。前者の要素もかなり感じられますが。面白いのは、作者の村上氏自身、これら夢幻的アイテムの扱いに時として難渋しているように感じられるということです。これらのアイテムを上手く現実という場に配置できれば名作ということになりますし、コントロールを誤れば残念ながら駄作ということになります。シュルレアリスム文学の場合は、(自動記述に代表されるように)夢幻的アイテムは作中で、偶然に、自由に、作者の意図を離れて奔放に飛び回るものですが、村上小説は、世界観や個人(主人公)の自我の拡大がテーマの根幹にあり、本来のシュルレアリスム文学ではありませんので、それではちょっと困るわけです。村上氏自身は以下のように語っています。================僕がこの先小説の中で書いていきたいと思うのは、やはり悪についてですね。悪というもののかたちやあり方を、いろんな角度から書いていきたい。ドストエフスキーの『悪霊』は小説のスケール、完成度としては『カラマーゾフの兄弟』ほど圧倒的ではないと僕は考えているんだけれど、悪というものがさまざまなかたちをとって大地の底からじわじわとにじみ出てくる様子が、実にリアルに綿密に描かれている。そういうものを僕なりに腰を据えて書ければな、という思いはあります。『ねじまき鳥クロニクル』ではワタヤノボルとか皮剥ボリスといった悪の世界に属する人物が出てきます。彼らが表象する悪の領域みたいな場所も出てくる。でも今度は象徴的であると同時に、細部的にリアルでもある悪みたいなものを書いてみたいという気持ちはあります。結局のところ、多くの場合、悪というのはそれ自体で自立したものじゃないんだよね。それは卑しさとか、臆病さとか、想像力のなさとか、そういう資質に連結したものなんだ。『悪霊』を読むとそういうことがよくわかります。ささやかなネガティブの集積の上に巨大な悪がある。小説家として最終的に書きたいと思うのは、やはり「総合小説」です。総合小説の定義はなかなかむずかしいんだけど、具体的に言えば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、あれが総合小説のひとつの達成ですよね。こんなことを言うのはおこがましいけど、僕の目標は『カラマーゾフの兄弟』。ああいうものをいつか書いてみたいと思う。望みが高いんです(笑)。様々な人物が出てきて、それぞれの物語を持ち寄り、それが複合的に絡み合って発熱し、新しい価値が生まれる。読者はそれを同時的に目撃することができる。それが僕の考える「総合小説」です。むずかしいけどね。=================「悪」をテーマとして、『カラマーゾフの兄弟』のような総合小説を目指す。村上氏はそう述べているわけですが、これは、近代文学として自分の小説を完成させることを目指しているということで、(近代の超克をモチーフとする)シュルレアリスムとは根本的に異なります。それを受けるようなカタチで、文学の”専門家”たちは、近代小説の立場から村上小説を厳しく批判しているわけですが・・・・。村上小説の魅力を、私なりに分析しますと以下のようになります。近代小説をベースとしてはいますが、そこに時々夢幻的なアイテムが登場しては、世界観や自我にカオス的状況をもたらす。その不安定さが、今の社会的状況や今を生きる者たちの感覚にマッチしているので、読者にうけるのだと思います。近代小説の完成を目指しながら、実は、非近代(シュルレアリスム)的要素が、手段として作中で大きな役割りを果たしている。この辺の矛盾といいますか、ある意味”いい加減さ”が、村上小説の核となり、かえって魅力に繋がっているようです。手段たる夢幻的アイテムを、「近代小説」が上手く包摂し有効活用できれば名作となりますし、逆に、手段に喰われてしまえば駄作ということになります。村上小説を楽しむコツは、登場してくる夢幻的アイテムを見逃すことなく、作品におけるその役割りや意味をじっと見極めることにあります。
Feb 12, 2004
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