2002/05/04
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 短篇小説再発見シリーズを読み出す前に、大江健三郎「ピンチランナー調書」を読んでいた。以前途中で放り出したやつだ。読み覚えのあるところはスラスラ読めた。何を放り出す理由があったのだろうと思った。しかし、240ページくらい読んだところでふと虚しくなった。ただもう字面を追っていくだけになり、快感も面白さも何も感じなくなっていた。「大江作品でまだ読んでないやつだし」「一部では変に評価高いようだし」「買ってあるんだし」では、読み進める理由として足りなくなった。「何故読むのだろう」「こんな荒唐無稽な作り話の何が面白いのだろう」「読書ってこんなにつまらないもんだったのか?」と思い始めると、本自体への嫌悪感があらわれた。
 短篇小説再発見シリーズにおいても、素晴らしいものに出会えた時もある、それなりに好きなものもある、だが、「何故こんな程度のものをわざわざアンソロジーに入れるのか」というのもあった。短篇だし、初めて触れる作家だし、最後まで読まなきゃ判断は出来ないしと、読んでみたはいいが、つまらなかった場合、少しずつ、少しずつ、「小説/虚構をわざわざ読むことへの疑問」が貯まっていった。
 私はこれまでほとんど、自分の好きなものしか読んでこなかった。嫌いなら最後まで読まない。義務感で読書をすることはない。趣味に義務を持ち込むことはない。~をもっとよく知るためには~~を読んで(聴いて、観て)おいた方がいいなどというのは、一切無視しても構わない。人生は好きなことだけしていけるわけじゃないから、趣味では好きなことだけを選びとればいい。何かのスポーツをよりよく楽しむために体を鍛えるのと、好きな作家ではあるが興味のない作品を義務的に読むことには、大きな差がある。
 結局本離れを起こし、数日本を手に取れなかった。大体、次に読む本を選ぶ時は、自然にスーっと何かを読みたくなって、スーっと手が伸びて、スーっと読み出すのがこれまでの常。それが止まれば無理に本を読むこともない。
 結局、困った時の風太郎頼み。大好きな北斎も登場する。
 ところで、各地に散らばった犬士たちを探す旅、犬士発見の旅と、八犬とはかかっているのかしらん。



「それじゃ、お前さんはどうして絵をかくのだ」
「おいらは絵が好きだからさ。子供のころから、ただもう、絵をかくのが好きだったからさ」(北斎)
「そうだろう。ところが私は。──」
 と、馬琴は首をかしげた。
「まさか子供のころから戯作をかこうなど思うわけがないが──いま、こういう商売をやってきて、一応世間に認められるようになっても、どうも好きじゃない。これは虚名だ、物語ばかりじゃなく、自分自身が虚の世界に生きているのだ、こんなことをしてるのは、自分本来の暮らしじゃない、という気持ちがどこかぬぐえないのだよ」


「もし、あたしの怪談がほんとうにこわいなら、そりゃさっき申しましたように、あれが実の世界をかいたものだからでございましょう。あたしは、この浮世は善因悪果、悪因善果の、まるでツジツマの合わない、怪談だらけの世の中だ、と思っておりますんで。──」(鶴屋南北)
 馬琴はうめくようにいった。
「ツジツマの合わん浮世だからこそ、ツジツマの合う世界を見せてやるのだ」
「しかし、それは無意味な努力ではございますまいか?」
「お前さんの世界は有害だ」
 空中の声が笑った。
「あたしは、有害のほうが無意味より、まだ意味があるのじゃないかと考えているんで。


馬琴は、思いきった怪異の着想家であった。その怪異は、荒唐無稽であればあるほど人を面白がらせる。しかしこれは一歩あやまると、ばかばかしさに失笑させる。面白がらせるのと失笑させるのは紙一重である。


 この苦しみの中に、しかし馬琴ははじめて、自分が「八犬伝」をかきつづけるのは、生活のためでも孫の未来のためでもなく、人に頭を下げずに生きるためでも現実から逃避するためでもなく、それどころか小説を完結させようという目的のためですらなく、ただおのれの内部からあふれてくる物語自体のためであることを知った。



 山田風太郎が自身を滝沢馬琴になぞらえて書いてると言いたいのではない。むろんそういう部分もあるだろう。だが全てではないだろう。おおいに感情移入するところもあるだろうが、馬琴と風太郎ははっきりと別物である。
 虚構を読むことは無意味なことか? 実際、現実には虚構ではない物語が溢れている。分かりやすいオチがつくわけでも、めでたしめでたしで終わるわけでも、ない。途中でプツンと切れるのはあるが。だがそれらを知る、特に深く知るのは、親しいものであっても不完全に終わる。自分は他人ではなく、他人の物語に自分は点景でしか干渉出来ない。自分にとっての他人でもそうだ。親しいものが死んでしまえば深い悲しみに襲われるだろう。だが、それで自分まで死ぬわけではない。結局一人の人間が持てる物語は一つだけなのだ。
 八犬伝自体のストーリーは、ダイジェスト版の漫画、吾妻ひでお「贋作ひでお八犬伝」などでおぼろげながら知っていたので、最初「虚の世界」の方は退屈で、早く、北斎と馬琴らの登場する「実の世界」パートを読みたかった。
 北斎と馬琴が語らう場面、杉浦日向子「百日紅」にあった気がするが、探しても見つからなかった。上村一夫「狂人関係」の方だったか。文庫が出ていた。
 小説に、物語に、虚構に、あまり意味はない。なくても人は生きていける。「文学は高尚」などという認識も、根本に誤りがあるので今では通用しない。漫画より読むのに時間がかかる分、より価値のあるものだと思いたがっているだけの部分がある。一人称で語られる場合、感情移入がし易い分、身近に感じることがある。主人公と自分の姿を重ねて「自分が本当は言いたかったこと」を発見することもある。
 だが、それらは真実ではない。
 事実が根としてあったとしても、虚構として書かれた以上は、私は虚構として読む。虚として創られたものを虚として受け入れる。そこに実はない。本作中の北斎のように仕事を実、家庭を虚、馬琴はその逆、そのように分けるならば、私にとっての読書は虚である。実とするには足りない何かが、名付けられないままに、ある。「義務的な読書」に嫌気がさしたにもかかわらず、すぐにまた本に手を出すのは、それが面白いからでもあるが、また、自然なことであるから、特別に意味を持たせなくてもしてしまう、出来てしまう行動であるから。生きることに理由や意味がなくても、人は生きる。生きなければならないという義務は、ない。読みたくない理由があれば読まないが、特別に読む理由がなくても私は本を読む。それが虚であれ実であれ、大した違いはない。


山田風太郎 「八犬伝(上)―山田風太郎傑作大全〈20)」廣済堂文庫(お取り寄せ)
同上、(下)





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Last updated  2002/05/04 04:52:45 PM
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