2003/05/02
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 前を行く仕事帰りの若いサラリーマンが時折激しく横にブレるので酔っ払いかと思ったが、看板や金網を蹴り出した。「くそっ!」と叫んだりもしていた。怒りながらも器物破損を恐れていた。彼は点滅を始めた信号機を見ると「あっ」と軽く呟き、小走りに横断歩道を渡っていった。しっかりとした足どりで。

「なにを言ってんのよ。あなたのは十年このかたのことじゃないの。十年このかたの不正がたったの三日間でどれだけのことを証明できますか。たわごとも休み休み言ってちょうだい。だからあなたはにんげんのことに無責任なのです。あなたの仲間があなたのことをどう言っているのか知っていますか。とんまとかうすのろとか言っているのですよ。じぶんの小ささを知らないで、あなたのきたない生活を文学的探求のつもりがきいてあきれるじゃないの。あなたの小説などどれひとつとしてにんげんの真実を描いていないじゃない。うすよごれたことばかりに細密描写をしているだけでしょ。だからいつまでもうだつがあがらないのだわ。それであなたそのときよかったの」「よかった」「ちきしょう」そう言うと妻はがばとふとんの上に起きあがり、目をつりあげた形相で私をにらみつけた。


 文学的生活なんてはた迷惑なものでしかなく、そういう言葉で自分を誤魔化せば浮気も遊びも自殺もまるで高尚なものであるかのような、勘違いを起こさせるが、世間には通用せず、身近な者には物狂いを憑かせることにもなり、火が付けば消せず、燻り続け、止まらなくなる。
 何度も、何度も、何度も何度も同じような話が繰返される。蒸し返される。妻が夫の過去を追及し始め、夫は耐えきれず狂った振りをし、子供たちが悲しみ、自殺未遂は留められる。猿に似た顔の天下人がそこそこの実力とそこそこの外見だけの地味な主役の男に、長年の友情を忘れたような非道なことをするが、そこそこの男に怒られ、あれは本心ではないと涙ぐむ、いつかの大河ドラマのように。そうして子供に飽きられる。


「あなたはあたしたちと別居をしたいといつも言っていたけど、別居してどうするつもりだったの」
 ときかれてもうまく答えることができない。はなしがもつれてくると、私はいらいらしてきて昼間の行為を思い出し、物も言わずに立ちあがって障子に頭を突っこんだ。張り替えたばかりの障子は、桟がばらばらにくずれてとび散ったが、私は満足できず、六畳に立って行ってたんすに突進した。しかし今度はどうしてか妻はとめに来ない。崖から突き落とされたように寂しくなるが、そのままやめるのも恰好がつかず、喊声をあげて二度三度突っこむと、頭の地肌がみみずばれになり、血もにじんだようだ。たんすのほうは一向壊れず、頭蓋骨のなかは痛みがひびき合い、耳のそばで破れ鐘を叩かれるようなのでおそろしくなり、畳に両足を投げ出し、いきをととのえたが、たかぶりは少しもおさまらず、そのへんのこわれやすい物を思いきり叩きつけたい荒れた気になっている。それにしても、自分がどこか適当に傷ついて妻があわてるのでなければなどと思い、でも指先のかすり傷ひとつでさえ、すぐ化膿して直りにくい体質だと思いかえすときもちがくずれ、食卓の前でだまって今の愚行を見ていた妻とこどもをうかがうと、伸一父の目をたじろがずに見据え、
「おとうさん、きらい」
 と言ったあとで、母のほうをムキ、
「おとうさんのこと、ぼうや、もうあきちゃった。ほんとのこと、言っちゃった。
 とつけ加えた。


「文学的行為」も「深刻な自殺未遂」も、子供に飽きられ呆れられれば滑稽な一人芝居でしかない。暗い暗いcryと思いつつ読んでいてもこうして時々笑いもするのでどうにか耐えられる。時々「もういいや」がやってくるが、長編であるだけに、途中で放り出すのも惜しく、後半になり、いくらか繰返しが薄れ状況が転がり出してからは苦しまずに読めた。情が移り、他の作品に手を出しにくくなる。それでいて一向に読書ペースは早まらない。夫の狂いの発作も、自嘲気味で描かれるそれらにこちらも次第に本気で感じ入ることをしなくなっているので、暗さ一辺倒という風な読む前の印象とはやや違ってくる。
 今もまだそういう人がいるかどうかは分からないが、いわゆる「文学的生活」とやらが格好いいと思っているような輩には──孤独を好み、家庭を顧みず、友人に蔑まれていても、それは自分には仕方がないという風な、文学者と呼ばれる人たちの悪いところだけを寄せ集めたような──、そのような馬鹿げた迷妄の勘違い宇宙に住んでいるような人には効果のある一冊だ。
「想像力」を武器にする人がそれを身近な者へ使えない。幸い島尾敏雄はそのことを作品として書き上げることが出来た。しかし、それを出来ない者の方が多いので、世の中には想像力の貧困により苦しみ続ける人たちがなくなることはない。

島尾敏雄「死の棘」(新潮文庫)





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Last updated  2003/05/02 10:48:29 PM
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