路傍 〜メインは「桜隊原爆忌」

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2012年04月03日
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カテゴリ: 桜隊原爆忌

9 死の気配ごまかした日=広岩近広
≪記事≫
          (毎日新聞 2012年4月3日 大阪朝刊)

 神戸港は夏の落陽を浴びて光っていた。沖合には擬装空母が放り捨てられてあった。付近の船舶はことごとく米軍の空襲で沈没させられたが、子どもだましのおとり船は見向きもされていない。

 終戦から4日後の1945(昭和20)年8月19日に桜隊の演出家・八田元夫が、海に開けた六甲山麓(さんろく)に建つ中井志づさん宅の2階から目にした光景である。八田のそばでは、舞台監督兼俳優の高山象三が片息をついていた。

 高山は、やっと往診してくれた医者から、法定伝染病のジフテリアと診断された。誤診であるが、急性原爆症とわかる開業医はまずいなかった。

 桜隊を率いた丸山定夫をみとった八田だけは、ジフテリアに異を唱えた。しかし、ここは医者の診断に従い、高山を隔離する病院を探した。だが見つからず、高山と一緒に広島から逃げてきた園井恵子を、やむをえず隣の部屋に移した。

 ほどなくして園井の部屋から、高熱にあえぐ息遣いが聞こえてきた。8月20日を迎えていた。

 宝塚時代の後輩、内海明子さん(91)は中井家で園井に付き添った。園井の本名・袴田トミから「ハカマちゃん」と呼んだ内海さんが、当時を振り返る。

 「8月19日までは少し歩けたハカマちゃんですが、20日にはすっかり弱られたので、ずっとそばにいて看病しました。すると中井のおばさまから呼ばれて--象ちゃんが亡くなったの、ハカマちゃんに知られたらいけないので注意してね、と言われたのです。隣の部屋が静かになったのに気づいたハカマちゃんから、象ちゃんはどうしたのと聞かれると、眠っているみたいよと答えて、夢中でごまかしました。あのときは、とてもつらかったです」

 八田が珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんに託した手紙を読んだ高山の両親が中井家に着いたとき、一人息子は火葬場に送り出された後だった。志づさんが「追いかければ間にあうかもしれません。お供します」と両親の背を押した。

 だが両親は、息子の顔を見ることができなかった。炎の向こうに幻の息子がいたにすぎない。高山象三、享年21だった。

 この間も内海さんは園井のそばにいた。高山の死はふせられたままであった。高山の遺体を納めた座棺を担いだ志づさんの夫らは、園井に気づかれないように静かに階段を下りた。

 園井は低声で、内海さんに頼んだ。「阪大病院に連れて行ってくれない」

 阪大病院に園井が思い至ったのは、体験したことのない症状に不安をおぼえたからに相違ない。当時、24歳の内海さんは「大好きで、尊敬するハカマちゃん」を助けてあげたいと痛切に思う。

 だが園井の容体と当時の状況からして、いかんともしがたかった。

 「お熱が下がったら行きましょうね」

 太く腫れた園井の腕を、内海さんは何度もさするのだった。(次回は10日に掲載)

毎日新聞連載09PHO





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最終更新日  2012年05月31日 14時53分29秒
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