[Stockholm syndrome]...be no-w-here

2024.06.29
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よく、韓国は『恨(ハン)=うらみ』の文化だと言われるが、それに照らして言えば日本は『ねたみ』の文化だろうと、常々感じていた。
そんな中、最近読み始めた【西部邁 最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」】に、僕の長年の仮説(笑)を裏付ける興味深い解説が載っていたので紹介したい。
一部を抜粋する。


十七条憲法の14条には、「群臣百寮(天皇に使える役人)、嫉妬あることなかれ」 と書いてある。憲法に「嫉妬するな」と書き入れること自体、相当変わっている。なぜだろうと思わされますね。結局、嫉妬ばかりして政治が停滞したからでしょう。「和」どころではない。

ここでまた、19世紀明治維新期との類似を考えてみると、福澤諭吉の言葉が思い出されます。 福澤は人間社会を実によく観察しており、例えば、悪徳も美聴も、要するに内容と程度問題と状況問題だと。美徳も行き過ぎると悪徳になり、悪徳もある程度は美徳的な役割をするのだ、と述べています。その福澤が、これだけは状況と関係なくダメだと、百害ばかりで一益もないと珍しく断罪しているのが怨望(えんぼう)です。ねたみ・そねみという負の感情は何も生み出さない。そんなことに耽っていては文明の世に取り残される、というわけです。この怨望批判が7世紀の「嫉妬するな」につながっているように、私には思える。

論吉が怨望を「人間最大の禍」としているのは『学問のすゝめ』です。学問を勧めているかと思いきや、こういうことばかり書いてある。怨望が言路、つまり言葉の道を塞ぐ。日本人はねたみ・そねみが強すぎるから、言葉が素直に闊達に出てこない、と。「学問のすゝめ」の中心部分で諭吉先生は、聖徳太子と同じことをおっしゃるわけです。

となると、日本人は嫉妬ぶかさという負のエネルギーで千年以上、ずっと変わらなかった、となってしまいますね。



日本人の嫉妬深さは、何と聖徳太子の時代から既に始まっていた…。
それが千年以上も受け継がれて来たとなれば、これはもう立派な「文化」と呼んで良いだろう(笑)。
有名な1条「和を以て貴しとなす」に対する西部邁の洞察も鋭く、手厳しい。


日本人は「和」だと言われるけど、源平の対立から南北朝、延々と続いた応仁の乱などを見ても、 内紛の多い民族でないはずはない。「和」を保てない現実が数多あるがゆえに、「和」を大事にせよと冒頭に書いたとも言える。

「和を以て貴しとなす」には、日本人の現実のありようを踏まえたうえで、ケンカばかりするなという意味がこめられていたはずです。そのあたりの認識が消えて、我々は元来「和」の民族である、とされると、まさかと思ってしまう。



僕もSNS等で「日本人は賢く、民度も高い」といった言説を見る度に、まさかと思ってしまう(笑)。
試験の点数が高いだけで主体性はまるで無く、戦後80年間も米国に騙され搾取されて国家が内部崩壊しようとしている事にも気付かず、自分達は醜い足の引っ張り合いを繰り返すしか能がない国民のどこが賢く、どこが民度が高いと言うのか。
馬鹿を言うな、と思ってしまう。
勘違いも甚だしいとはこの事だ。

劣等感の裏返しなのか知らないが、とかく日本人は自分達を美化し過ぎだ。
こうした安っぽい自惚れを捨て、謙虚さを身に付け、みっともない自画自賛を止める事から始めなければ、日本にまともな未来は来ない。

と、西部邁なら言うんじゃないかな(笑)。
読了したら、また何か書いてみたい。



これが平均的な日本人(笑)。↓





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Last updated  2024.06.29 22:48:51
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