マックの文弊録

マックの文弊録

2006.01.02
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カテゴリ: 小言こうべえ
◇1月2日(月曜日);旧師走三日 辛卯; 初荷、初夢、書初め、皇居一般参賀

ランの仲間
東地方は今朝も曇天で明けた。その内雨まで降り出した。秩父宮ラグビー場での同志社 vs. 関東学院戦も、箱根駅伝のレースも雨に濡れて寒そうである。
元旦をゆっくり休んだ二日目の今日は、年の初めに色々な事を始める日でもある。冒頭に掲げる「初」の字を、昔は気持ちも新たに体験したものだ。しかし今では僕自身もそうだが、こういうことをちゃんとやる人は少ないのだろうなぁ。

くべきは伝統の継承というものの実情である。国や国民をまとめる力、或いは我々が日本に帰属意識を持つよすがは、敵国の存在や軍事力ではなく、本来その伝統にあると言うのにである。以前にこのブログでも取り上げた、女系天皇に関する議論も、この「伝統」を軽んじるところに、僕としては異議を唱えるのである。

旦、どこかの大新聞に「幼稚園の義務教育化を政府与党が検討」という記事があって、ブログの世界での我が畏友である、釈迦楽教授が嘆いておられる。因みに我が家では父の代から「伝統的に」朝日新聞だが、この新聞にはそういう記事は無かった。
教授は、「元来子供は家庭で親が躾け、教育すべきものである。」として、「学校はもともと様々な教科を教えるだけの場所であって、基本的な礼儀作法だとか、人間としての人格形成だとか、そういうものは親が責任を持つべきもんです。それをやらないから、いずれ『他人任せ』で大きくなった子供から手痛いしっぺ返しを食うことになるんですよ。」とおっしゃる。
また続けて、猫も杓子も高校に進学し、同年代の50%もが大学にまで行ってしまうことにも怒っておられる。「大学という名の施設に在籍している学生の6割くらいは、大学に来る必要もなければ、それだけの学力もない連中と言っていい。」ともおっしゃるのは、現役の教官として大学の現場で教鞭を取っておられるお立場からの実感であろう。

も釈迦楽教授のご意見には同感である。と、いうより教授のお怒りの源泉は、全く僕自身のそれと同じであると云い得る。
大体において、幼稚園や小学校における「悪しき平等主義的教育」には、かねてより我慢がならない。運動会から騎馬戦が消え、リレーでも徒競走でも「皆勝て」などという馬鹿な事をやっている。校庭に茣蓙を敷いての、家族とのお弁当の時間は無くなり、児童は教室で、親は親で別々にお昼を食べる。これらは全て、子供に優劣をつけることなく、親のいない子や、離婚して片親しかいない子が寂しい思いをしないようにとの、「配慮」のせいだという。余計なお世話だろう!

うやって、幼稚園や学校の中だけ、幻想としての「平等」の世界を作っておいて、卒業となると実社会の現実の中に、無防備なままの子供を放り出してしまうのである。実社会は、熾烈な競争社会であり、勝者と敗者の差が歴然と示されるところであるのは、周知のことである。そこに、何の訓練を受けていない、温室育ちの子供達を放り込むのが教育だというのであろうか?
思えば、こういう戦後平等主義の悪弊は、本来社会や人間において多様であるべき価値を集約してしまい、均質化してしまった。それが「一億総中流化」というおかしな社会を作り上げてしまい、そういう環境が今の子供の「親の世代」を育み、ひいては現在のすさんだ若者世代を作り上げたのだといえる。

かし、だ。
幼稚園の義務教育化という具体的な話となると、僕には釈迦楽教授とはいささか意見を異にするものである。

ず、教授のおっしゃる「躾や教育は本来親が家庭ですべきもの」ということである。
これは正論ではあるが、その為には親の実力が問われることになる。しかし、問題は実は「親の世代」にあるのである。親自体が、躾や教育を子供に施す能力を持たないどころか、むしろそういう躾や教育を受けねばならない様な状況にあるのである。
だから、教授のおっしゃる極く真っ当な主張を実践しようとすれば、先ず概ね昭和50年代以降に生まれた親の世代、つまり「真正団塊ジュニア世代」約一千万人の再教育から着手しなければならないということになる。これは、甚だ現実的ならざることである。こんなに大勢のしかも既に考え方の固着してしまった連中の再教育など、自ずと不可能であるし、これに費やす税金の無駄である。
であるなら、親の世代など見切ってしまって、変化成長の可能性のある幼少の子供達を対象に、日本人としての基本的な躾や基礎教育を施す方が、効果的であるし未だ希望が持てるのである。

二に、少子化の流れの中で、現在全国の公立小学校の設備にはかなりの余裕が生じている。教師も余剰化の傾向にあるという。そういう設備や人材を転用することで、幼児教育の環境を作るための予算は僅少に抑えることができ、国や地方自治体の負担増は少なくて済むであろう。地域によっては、伝統ある懐かしい小学校の統廃合の流れを食い止める効果もあるかもしれない。

三に、高齢者の生きがいの問題である。
今のまま行けば、増加する一方の高齢者層は国の負債になってしまう。こういう高齢者をして、幼児教育の講師として積極的に参加してもらうのである。彼らは二世代以前からの伝統を受け継ぐ人たちである。こういう人たちに、親の世代の代わりに、わが国の伝統や、小市民としての躾を伝授してもらうのである。幼い子供達と日常的な接触を持つことによって、高齢者の方々も積極的な生きがいを感じることが出来、ボケや寝たきりの状況も相当に改善されることであろう。何より、子供達は彼らに接することで、親の世代では死滅してしまった、古来の遊びを再体験し、日本の伝統を改めて学び、自ずと長幼の序を身に着けることになるであろう。
少し年長の子供達には、農作業や、鍛冶、陶芸、木工などの体験学習をさせるのも良い。のみならず退官した老教授に、数学や理科の本質や面白さを易しく説いてもらうのも、大いなる効果があるはずだ。

うやって考えると、上手い仕組みさえ作れば、幼児教育の義務化は、あながち悪いことではない。いずれにしても、国は法制化さえ終われば、後は余計な口を出さぬことである。幼児教育のカリキュラムなど、文部科学省などという夜郎自大が仕切ることは断じて許さない。
国は大方針を定めるのが役割だ。今この国には、国民の一人ひとりが日本人としてのアイデンティティを自覚できるほどの方針が無い。国を統べるものは、わが国の将来を正しい方向に導くべき目標を模索し、国民に問い、一旦これが定まり、その運営を負託されれば、その推進に粉骨すべきものである。個々の細部においては、市井の識見ある者に委ねられるべきであり、前例主義に囚われた官僚などの容喙を許すべきではないのだ。

なわち幼児教育においてもその細目は、第三セクターなどの形で、権力や体制に依拠しない識者によって決め、運用されるべきである。何れにしろ、ジュニアとシニアの間を繋ぐ事によって、シニアを国の資産に転換でき、小国民の間に価値の多様化、伝統というものの意義、社会における序列・儀礼というものを根付かせることが出来れば、この国も暫く先になれば少しは良くなってくるであろうと思うのだ。

の幼少年の親の世代、つまり真正団塊ジュニア世代を作ってしまった親の世代であり、いささかの責任を実感する団塊の世代の一員としては、かような趣旨で幼稚園の義務教育化については、賛成なのである。





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最終更新日  2006.01.02 15:30:01
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