全7件 (7件中 1-7件目)
1
ティーガー2の砲塔側面の貫徹痕。不気味に穴が開いている。90ミリクラスの砲弾痕だろうか。脇に置かれている砲弾は、このティーガー2の88ミリL/71の徹甲弾と思われる。M36やM26パーシングに搭載されたTシリーズ50口径90ミリ戦車砲は、砲口初速1020m~820mの各種砲弾があるが、パンターやティーガーの側面装甲に対しては充分な威力を持っていた。T15E1砲弾(HVA弾)を使用した場合、距離900メートル傾斜30度で220ミリの装甲を貫徹したという。前面装甲を打ち抜かれたティーガー2は一輌もないというが、市街地で前面の重装甲を生かせず近距離から側面をまともに撃たれればこの様になるのだろう。今年は私的には大切な人と死別するということがあった。この写真のティーガー2の乗員も亡くなった方がいるかもしれない、冥福を祈りたいと思う。
2013年12月30日
コメント(0)
久々にブログを更新です。画像の掲載は日々行っています。12/31現在約8000枚近くに達していると思います。アップロード数が8500になったらこのサイトの掲載数を正式に8000枚と表示したいと思います。日々増やしてゆきます。今後ともよろしくお願い申し上げます。下写真はドイツ陸軍が中隊レベルで標準装備していた背負い式携帯型無線機Torn.Fu.d2 。無線機本体、バッテリー、ヘッドフォン、マイク、アンテナ、ケーブル類などを3名が1組で運び運用していた。有効距離は音声( telephony mode )では3~6.5km、モールス信号で16km。タミヤ 1/35 テントセット ドラゴン 1/35 WW.II ドイツ軍 降下猟兵 w/ロバ
2011年12月31日
コメント(2)
去年の末になるが日光市に住む叔母が亡くなった。母の姉で享年88歳、米寿だった。元気な優しい人で100歳ぐらいまで生きるのではと勝手に思っていた。12月30日、従兄から電話があり、亡くなったと告げられた。死因は転んで頭を打ち、頭蓋骨陥没によるくも膜下出血だった。叔母はその日、従兄と一緒に昼食をとり、その後近所の知り合いの家に遊びに行った帰り、家の前の石段で躓いたという。従兄の話によると。家の中に叔母が「鼻血出た」と言って入ってきた。庭の水道で鼻血を洗ったらしく、顔が水で濡れていた。顔に傷があったが気にするでもなく、絆創膏を貼って十数分は何もなかったかのようにしていたという。暫くして気分が悪いと言い、横になった。そしてそのまま意識が無くなり、救急車で搬送したが、車中で死亡したという。病気ではなく事故死ということになるのだろうか。そのときは何ともやりきれない気持ちに包まれた。優しい小柄な叔母が、ころんと突然消えてしまったような孤独感と、何でこんなことでという理不尽さが混ざったような気持ちだ。年が明けて1月3日と4日に通夜、告別式があった。叔母との最後の別れ、スポーツマンで男らしい従兄は泣いていた。従兄は母と子二人で暮らしていた。私は去年の秋、鬼怒川と日光に一泊二日の短期旅行に行った。そのとき叔母の家に寄るべきだった。今となっては生きている叔母に会える最後の機会だった。後悔している。最後に叔母が家から出てきて道で迎えてくれた光景が思い出される。写真:戦闘終了後、放置されたティーガーの88ミリ砲に跨り遊ぶ子供。
2010年04月02日
コメント(3)
『木を見て森を見ず』という諺をGoogleで検索してみた。67,800,000 ヒットした。・『故事ことわざ辞典』ココによると【意味】小さいことや些細(ささい)なことに気を取られると全体を見失うこと。【ゆらい】森に入って一本一本の木に、気を取られると森全体の姿は分からないこと。You cannot see the wood for the trees.木を見て森を見ることはできない。・『コトバンク』ココによると小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ。個々に気をとられ全体が分っていない。気をつけねば。元帥の視点で。シミュレーションジャーナル ゲームジャーナル88号 激闘ロンメル&マッカーサー写真:前線で指揮をとるドイツ軍高級将校(ヴァルター・モーデル元帥 Walter Model )
2006年12月17日
コメント(4)
オビラジRというTBSの番組で面白い実験を紹介していた。コオロギの生命力を試す実験で、どのコオロギが一番生命力があるかの実験を大学の研究室が行った。餌を下記の通り与えてみた。1.一生贅沢2.ほとんど贅沢、時々貧乏3.ほとんど貧乏、時々贅沢4.一生貧乏結果は3の『ほとんど貧乏時々贅沢』。一番長寿だったそうだ。写真:アンネ・フランク、こんな可憐な少女を強制収容所送りにするナチスはやはり恐いな。★アンネ フランク関連書籍★アンネの日記 増補新訂版 (文春文庫) [ アンネ・フランク ]
2006年11月22日
コメント(4)
62年前の今日、米軍がサイパン島への上陸を開始した。サイパン島玉砕戦の始まりである。当時、日本政府と軍は「サイパンは絶対に大丈夫」と国民や前線の将兵に発表していた。軍も完全装備の陸軍一個師団を中心に、陸海軍が防備を固めている、連合艦隊も決戦準備は完了している、米軍の攻勢を撃退することは可能と思っていた。6月15日米軍サイパン島上陸の報に接し大本営と連合艦隊は「あ号作戦」を発動、空母を中心とした連合艦隊の主力である小沢機動艦隊はタウイタウイ島よりサイパンに向かったが、スプルーアンスの米機動部隊に、ようやく再建された空母航空戦力の殆どをあっけなくやられてしまう。「マリアナの七面鳥撃ち」と馬鹿にされるほど、日本の空母艦載機はレーダー・グラマン・VT信管の前に餌食のように撃墜されてしまった。陸上においては米軍の圧倒的火力の前に陸軍部隊と海軍陸戦隊は次々と後退、特に戦艦からの艦砲射撃の威力は凄まじく日本軍に多大の損害を与えた。6月24日大本営は「大平洋の防波堤」と豪語していたサイパン島放棄を、米軍上陸後僅か11日後に決定。しかしこの絶対国防圏の最重要地域放棄の決定は、国民や最前線の兵士には発表されなかった。何も知らされていないサイパン島の兵士や一般邦人は「かならず連合艦隊がやってくる、増援部隊もくる」と信じていた。サイパン島北部に後退してきた装備と食料皆無の残存部隊は、7月7日万歳突撃を敢行し殆どが戦死、7月9日南端に追い詰められた民間人はマッピ岬の断崖(バンザイクリフ)より身を投げた。連合艦隊も増援部隊もサイパンにやってはこなかった。サイパンとマリアナ諸島を失った日本は、この後B29の空襲を受けることとなり、やがて惨めな敗戦を迎えることとなる。62年後の現在、我々の政府は当時の政府と違って国民に真実を伝えているだろうか。我々の日本政府は信頼にたる政府に生まれ変わっているだろうか。100年大丈夫といっていた年金制度は、あっけなく前提条件が崩れ見直しを迫られ、想像を絶する金額の借金返済のメドもたっていない。政府や日銀は、変化の激しい現代の経済の舵取りを十分やっていけるのだろうか。10年後20年後の日本に不安を感じているのは私だけではないだろう。サイパン島玉砕の教訓は、現在の我々に大切なことを教えてくれているのではないでしょうか。最後に、この戦いで亡くなられた多くの人の冥福を祈ります。写真はサイパン島に上陸する米軍上陸用舟艇と艦砲射撃する艦艇
2006年06月15日
コメント(5)
先月22日火曜早朝5時に、金町の第一病院でジャズスポット38のマスターが心筋梗塞で亡くなりました。慎んでお悔やみ申し上げます。マスター天国に逝ってしまったね。店内のゴミは俺がかたずけておくよ、心配しないで。
2005年12月06日
コメント(7)
全7件 (7件中 1-7件目)
1