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□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 思考の基準□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■最低限、世界レベル。地球規模。世界標準じゃないよ。そんなものに、いちいちあわせていれられない。常に、地球規模で考えるということ、最低限。まだ、宇宙のことはわからないことだらけだから、月、太陽系、銀河系、宇宙全体なんて視野に入れられない場合も多いよね。実際。だから、まあ、最低限、地球規模。それを、やっていない人の主張を聞くと、結局、みんな、我田引水。まあ、もっとも、思考の基準をここに置くと、何年か後、あなたが、世界標準に、なっていますよ (*^-^*)
2008.01.19
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□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 法と正義□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■私には、金と力がない。それでも、この私が、今の世では、何とか幸せに生きている。法が弱者を保護し、その法は民主主義に守られているからだ。ありがたい話である。しかしながら、法とは、正義を元に構築されるものであるゆえに、どうしても社会の後追いでありがち(特に日本は)だ。よって、社会を円滑に運営させるためには、法令化されていなくても守るべき(むしろ護るというべきか)正義が、どうしても、必要となる。金と力のないものにとって、法と正義がわが手にあるときほど心強いことはない。でも、自分の信じる正義と現行法の間に歪みが生じている状況になったら、どうする?私の行動規範としては、「危機のとき以外は、まず、『法』に従って行動し、かつ、その『法』が『正義』沿うていないことを静かに請願する。」である。危機のときは、『法』を捨て、『正義』を採る。なぜならば、『法』とは、過去(かこ)数百年の常識の集大成であり、『正義』とは、今、この地における良識の集合体であると信じているから。これによれば、『法』が『正義』を追い越すことは稀で、多くの場合、『正義』に置いてけ堀にされる、と考えるべきだ。社会が複雑化すればするほど、この乖離は大きくなりがち、と考えるが、人間の叡智により、両者が遠距離恋愛にならないことを信じたい。では、『危機』とはなんぞや。危機の時とは、当該事項に関して、特段の知識があるわけでもない一般市民でさえも「このままではまずいことになるぞ。」と感じる時である。『待ったなし』の状態である。学者や専門家が、「このまま何も対策を打たなければ大変なことになるであろう。」などとマスコミのインタビューに答えているうちは、まだ『危機』ではないのである。『危機』の際にまで法律論をぶつ輩がおる。責任逃れ体質の極みと言えよう。弊社(私が社長を務める会社)では、責任者の事前許可なしに社用車の助手席に人を乗せてはいけないことになっている。もちろん、最高の自動車保険には加入しているが、万一の際、『金』なんかでは、取り返しのつかないものを失う危険を孕んでいるからだ。しかし、目の前で人が倒れていて、「このままではまずいだろう。救急車よりも自分で動いたほうが医師に見せるまでの対応が速やかである。」と信じたときには、助手席に乗せて病院へ走れ。というルールになっている。もちろん、責任者の許可など要らない。結果として、車に乗せずに安静にしていたほうが良かった、と、責任を追及されるかもしれない。が、かまわない。私は責任者として責任を取りましょう。世の中には私の骨を拾ってくれる人がきっといる。運転者が、この批判を受けることだけは、許さない。『おたくの車は、前を通り過ぎていってしまったのよね。』だけは。
2008.01.17
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□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 父が玲子に願うこと、父が淳子に願うこと□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■2001年3月19日私の手帳から父が玲子に願うこと、父が淳子に願うこと父があなたに願うことは、あなたが幸せになることです。あなたが一人前の大人になった時にもっている、あなたの夢を、あなたが、かなえることです。努力しても失敗をし続けて、そのうちのいくつかはかなわないかもしれません。でも、その失敗をちゃんと自分の肥やしとして身につけて、幸せになってもらいたい。もつ夢すべてをかなえられる人などいません。でも、これだけは譲れないというものはもっていてください。父があなたの幸せのためにしてあげられることは、その姿をみせることだけです。*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆『玲子』『淳子』は私の娘、今は、中学校3年生と小学校6年生になりました。
2008.01.08
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□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 食品会社不祥事により、 撤去、回収された製品の取扱いについて□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■まったくもって、日本の消費者の『客となったときの、異常な強さ』!!これをもって、『エコノミックアニマル』と言われていることが、未だにわからないらしい。日本人として、誇りを持っているつもりなので、本当に、嘆かわしい。下記は2002年8月19日読売新聞東京本社生活情報部へ私が、投稿したものです。もちろん、『うんともすんとも』言ってきませんが!*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°私は菓子食品卸売業の代表者です。食品会社不祥事により、撤去・回収された製品の取り扱いにつき、意見申し上げます。弊社では、3年前より、下記内容に準じた社内ルールで有事に対応しております。結論健康被害が発生する可能性がある場合は直ちに公示して回収、無毒化して焼却。表示義務違反の流通滞留商品は、公示した後、正規表示シール等を貼り付け、ディスカウントなどして自由市場に問い、最終責任は製造者として負う。製造者滞留在庫については『顔の見える寄付』を行なう。理由すべてのルールの作成基準は、善良な消費者の価値感に基づくものでなければならない。未だに『世界がもし100人の村だったら』という本の訴求点を理解しないような身勝手な消費者は、もはや『善良な消費者』の範疇には、はいらない。『善良な消費者』にとってもっとも恐ろしいのは、一般知識を以ってしても、不具合のある食品を発見できずに、口にしてしまい、結果、健康被害が発生することである。知識及ばぬ子供らが口にして、健康被害が発生する場合はそれに準ずるものだ。しかし、『供給側に嘘や未必の故意があること』、『法規違反』、『現在の常識を鑑みての管理基準の不届き』、などだけでは、地球環境に負担をかけ、飢餓に苦しむ人々に思いを巡らせるとき、不買運動以上の行動に出る消費者や消費者団体は『罪』なことしていると言わざるを得ない。もちろん、『善良な消費者』にとっても不快ではあるけれど。食品衛生法にしても、不衛生食品と、使用量的に認められない量の指定添加物混入、ないしは、使用の認められていない物質の混入の場合、状況を判断して回収対象とすることができる、とするだけのものである。他の国と違う安全基準であることは大いに結構。日本の安全基準は実に細やかで、蛋白質への添加物と炭水化物への添加物で規制が違うなど、供給者にとっては煩わしいかもしれないが、消費者が少しでも添加物を口にせず、かつ、病気にもならずに済むように配慮されている。立派なことだ。ただし『フェロシアン化物』の規制緩和(貴紙夕刊2002年7月12日記載)のような、なし崩しがまかり通るのならば、法律の運用が社会にどう影響するかを読めない役人の面子で、回収命令(先般の香料問題がこれだ)など出していただきたくない。健康被害が発生することが予想される場合とそうでない場合に明確に分けるべきだ。健康被害が発生することが予想される場合なら、流通業も含めて、業界全体が速やかに消費者のために動くべきだ。その際、誰に過失があるかは関係ない。そうでない場合に、地球環境に大きな負担をかけて速やかに回収する必然性はない。日本の消費者は、納得して買う権利と、納得できなければ買わない権利を行使できる環境にあるのだから。どこかに寄付をすると、その後まで責任を負えないとあったが、寄付をするなら、責任を持って、寄付する側と寄付される側が顔をつきあわせて、その食品が、人を含めた生物の糧となるのをきちんと見届けなければならない位のルールがあってよい。感謝される寄付をしなければならない。小切手外交は愚だ。健康被害が発生しない事件に関わる流通滞留在庫については、製造者は、姿勢を正して、過ちを直し、その行方を自由市場に問い、最終責任は製造者として負う。製造者滞留在庫については『顔の見える寄付』を行なう。髪の毛や小さな虫などの混入やカビの発生など、無菌室でなければ製造できないような精度を消費者は食品製造に求めるべきでない。『善良な消費者』は製造物責任法によりきちんと守られているのだから。何を考えるにも、有効数字の概念が必要だ。ただ細かければいいという考えは間違えだ。細かいことができていれば、大きなことは、もちろん、きちんとしているというのは、希望的推量に過ぎない。むしろ、有効数字の概念のないほど細かい業者は『智慧不足の消費者』相手の、悪徳業者の確率が増す。*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆読売新聞東京本社生活情報部は、その後、『うんともすんとも』言ってきませんが、東京都の『回収報告条例』の中の表示義務違反の製品への対応で、上記意見が、導入され、『条例』に反映されたことを知る人は、私の知己数人と、私のブログやメルマガの読者様だけです。民間人では。『東京都』と、かけあったのは『私』です。自慢話になっちゃた (*^-^*)*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°零細企業の社長の私。社会を『力』じゃ、渡れない。法と正義を引っさげて、渡ってみせよう、世の中を!
2008.01.03
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□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 『敵を篤く葬る』□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■2004年11月14日歴史街道平成16年12月号『中国から見た日本 日本についての二つの発見』の中の『第二の発見』について所見申し上げます。として、著者たる王敏さんへ、手紙を書きました。彼は、とても、よく日本をご存知だそうです。だったら、日本人が、根回しせず、臆せずにもの申すということが、どれほどのことか、わかってもいいですよねぇ!!あなたには、わかるでしょ!かなり、すごいことだって。これに、返事もしないんだから、大した『日本通』だこと (失笑)さて、そのときの手紙を公開します。*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆日本人にとって『敵を篤く葬る』ことは普通のことですが、中国ではそうではないとのこと。まず以って、私はそれを知らず、私の不勉強とともに、世界に存在する価値観のとてつもない広さに驚嘆いたしました。この感情は多かれ少なかれ世界中のすべての文化に宿るものと感じていたからです。王敏さんは、この日本人の感覚を日本の神道と結び付けて書いておられます。特に『多神教』『神の降臨』を以ってこの価値観を説明なさっています。しかし、それでは『一神教』の文化や『神』が世界に『君臨』する文化の下では、この価値観は、その文化の固有の価値観とはなり得ないこととなります。これはいささか無理があると言わざるを得ません。スポーツの世界で、『ファイナリスト』という価値観があります。たとえ、圧倒的な力量により、優勝は間違いないと思われている人がいる競技種目でも、その人が直接対決をして、敗北を認めさせなければならないだけの力量がある人たちは、敗者であっても十分尊敬に値する、という価値観です。つまり、必ず直接対決をし、雌雄を決することなくては、その勝敗を決められないような場合、たとえ敗者であろうとも、尊敬の対象であるという価値観です。日本人にとって、過去、この価値観はあまり強くなく、『騎士道的』、または、欧州封建制における君臣間の『契約』に根差すものと思われます。ときに彼らは『契約』により戦場へ赴きます。『契約』により、前の戦争では、我が身を救ってくれた戦友にまでも、手をかけねばならぬ事態に陥ります。通常、『騎士道的な精神』と『契約』により、これは履行されましたが、相手の力量を直接知るだけに、心に傷を残すものであったでしょう。敵たりといえども、『契約』により、その時、たまたま、『敵』、となっただけなのですから、尊敬できる敵はたくさんいたはずです。従って、敬愛する『敵を篤く葬る』心は、『一神教』や『君臨』の文化にも存在します。中国的封建制度が『天』と『天子』との信仰的結びつき、『天子』と『諸侯』の半信仰的半世俗的結びつき、に立脚するものであったとしても、勝負の現場では、多くの、心傷つく戦いがあったものと思われます。この現象はいかなる文化の下であっても、『争い』と『保身』がある限り存在します。従って、この心は、いかなる文化の下でも存在するものと思っておりました。王敏さんは、これが中国にはない、というので『驚嘆』した次第であります。日本の君臣の結びつきは、過去、現人神と称された『天皇』を頂点とした階層社会の中で、多くは血縁により、宗教的ともいえるほど私的に結びつき、戦国時代を除くと、形式的にはすべての時代でこれが貫かれています。『百姓といえども二君を戴かず』という言葉があるくらいです。従って、朝廷が意識されて以降、『昨日の味方は今日の敵』となることは少なく、『ファイナリスト』の価値観は、日本で『強く』は育ちませんでした。(もちろん他の文化と同様で、全くないわけではありませんが)では、なぜ日本人は『敵を篤く葬る』のでしょうか。これは、仏教の輪廻転生を、民の統治に利用した政治体制に起因します。世界中のどの国の民衆も、ほんの数百年前まで、飢餓と共生していました。日本も同様でした。日本の政治体制は、民衆の不満を政治に向けないようにするため、仏教の輪廻転生を利用しました。この生まれ変わるという価値観は日本土着の宗教にも存在しますので受け容れられ易かったのでしょう。民衆は『働けど働けど、わが暮らし楽にならず』でありました。しかし、これで諦められたり、暴発されたりしては国が滅んでしまいます。体制は民をこう諭しました。懸命に働きなさい。しかし、残念ながら、それでもあなたの生活は生涯良くならないかもしれません。しかし諦めてはいけません。今のあなたが懸命に働いているのに、生活が良くならないのは、あなたの前世が悪かったからなのです。今、懸命に働くことは現世利益には繋がらないかもしれませんが、来世は、この善行により、きっとよくなるはずです。だから、諦めずに働きなさい。他ならぬ、あなた自身の来世のためなのですから。為政者は、これで、ずっとやってきたわけです。ですから、生まれ変わりを感じる文化の中では、現世の中では、たまたま現世の利害対立により敵となった。しかし、自分を脅かすほどの存在とあらば、人間的にも立派で、人望もあろう。ならば我との争いに敗れれば、泣く者もあろう。我が直接手をかけねばならぬほどの者ならば、さぞや魅力のある者であろうが、その者の現世を我が手で断ち切ってしまったのだ。せめて、来世でも立派に生まれ変わっておくれ。そして,願わくは来世では味方同士でありたいものだ。と考えるわけです。蛇足ではありますが、ここでは、戦場に赴き、人を殺める者全てを人格者のように扱っています。これなしに自らを鼓舞し、人を切ることができるのは、ただの殺人鬼であります。ですから、戦場でのポジションを問わず、全ての階級に所属したものが、皆、立場なりに自分を正当化し、このように考え及ぶのです。針も馬も鰻も、我の現世利益のために利用され、役立たされ、あるいは争い、そして、この世から消え去っていったものたちだと感じています。『現世では私の役に立ったのだから、良い転生を。あるいは、何の因果か、現世では敵同士に生まれてしまったが、あなたの死の上でしか、今の私はないのだから、そういう意味で私の役に立ったのだから、これもまた良い転生を。』と祈り、日本人は『敵も篤く葬る』のです。それにつけても、広大な領地を群雄が割拠してきたあの中国で、なぜ『敵を篤く葬る』という価値観が生まれなかったのか?それこそ疑問で、にわかに信じがたく、あなたの個性ではなく、中国人全体に共通する思考なのであるとしたら、その思考の成り立ちをご教授賜りたいとさえ思います。小生の理屈も、ここを論破しないと矛盾を含むものとなってしまうことを承知しておりますので。*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆残念ながら、一言の回答もありませんでした。笑止、笑止!!
2008.01.03
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□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ お金持ちの役割(仕事)□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■世界標準で思考したとき、『お金持ち』をどう定義すればいいのだろう。私の意見をまとめてみると、自らの所有する資産の運用を、任せるに足る人に任せ、その運用益で生活している人。とでも言い表そうか。少なくとも、金を稼ぐための仕事、妥当な報酬のある役職についている人は、いくら金を持っていても『RICH』ではありませんな。2007年3月城山三郎さんが逝去なされました。『金儲けのうまいことなどホンモノと関係ない』とおっしゃっておられた方です。もちろん、そのとおり。じゃ、お金持ちの役割は?『ホンモノ』との関係は?お金持ちの役割は『ホンモノ』を見い出して、その人、その価値観に、投資することでしょう。『ホンモノ』でも、霞を食っては生きられまいて。その人の持つ『ホンモノ』の力を、世のために使うにあたり、まずは、その人の肉体を維持してやらなければなるまいて。その人の感性、頭脳を駆使し、出会いの力で、その価値を世に広めるためにも、可能な限り、肉体を維持させなくては。『ホンモノ』に権威らしきものを付与するのも『金持ち』の仕事でしょう。『地上の星』を見つける眼力と、そこへ、損を覚悟で、まさに道楽として金を注ぎ込む。これができる余裕のない人を以って、『金持ち』とは言わないね。こんな余裕のある『金持ち』だからこそ、世の中は、彼らが『金持ち』であることを許し、彼らが『金持ち』であり続けられることを望むのかもしれない。確かに西洋にはそんな人々がいると聞く。日本にはそういう意味での金持ちがいない。今は。格差社会をよしとはしないが、独断で『ホンモノ』を世に出す資金力と気概を持つ金持ちが何人か存在できるくらいの格差はあったほうがいいんじゃない。『ホンモノ』の『アナタ』のためにも。(*^-^*)
2008.01.01
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