伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2019年08月06日
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現在の冨治林家之墓に刻まれている家紋
源氏車に並び矢、

西念寺
『伊水温故(いすいうんご)』には、本尊は天正伊賀の乱の混迷に紛れるようにして、佐那具の西方寺へ移されたといわれています。この西方寺が当寺の発祥といわれ、長伝という僧侶が現在地に移し、その後西念寺に改められた、とされます。当町の北に位置する徳居町の通称「墓の谷」は、廣禅寺の墓地であるように思われていますが、元来は西方寺の墓所であった、と『伊水温故』は伝えているます。もっとも、これには、異説もあり、いずれが真偽であるか定かではありません。。境内には、伊賀流忍術・藤林(ふじばやし)三武次保武(やすたけ)の墓が現存し、墓石に「光岳院歓誉道喜居士」、「享保元年」(1716)死亡という銘があります。保武は忍術書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」の著述者とされ、百地三太夫、服部半蔵とともに、伊賀流忍術の三傑に数えられています。



現在の冨治林家之墓
藤林長門守は高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わります。



冨治林一族の墓 右より正直、氏昌、4番目が保武

三代藩主藤堂高久の時、元禄14年(1701年)に保武、伊賀者に任命され城下町(忍町)に移り住みました。







中が保武の子、冨治林氏昌の墓

右が保武の孫、冨治林正直の墓 第4世冨士林正直は藤堂元甫の補佐をして宝暦14年(1763年)「三国地誌」をの伊賀編を担当した。




これが冨治林保武の墓、藤林(冨治林)佐武次保武 藤林長門守の孫、延宝4年(1676年)萬川集海を著わしました。墓石に「光岳院歓誉道喜居士」、「享保元年」(1716)死亡という銘があります。






冨治林東峽碑 東峽とは藤林長門守の現在の伊賀市東湯舟の地をさしているのでしょうか。





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Last updated  2023年11月12日 17時08分47秒
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