伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2021年08月09日
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波多岐神社 伊賀市三之宮神社


『式内社調査報告』には
昔、境内に、真っ直ぐな樫の木があり、
これを朝廷に献上して、旗木(ハタキ:旗竿)にしたという話が載っています。
波多岐神社の名前の由来です。

秋の例祭では特殊神事として神事相撲が行われるそうで、
拝殿前の4本柱が土俵です。
拝殿内部には相撲の絵馬が掛けられていました。

神事相撲では村一番の大男が小さい男に負ければ、
豊作の祈願が適うとされたそうです。



式内社とは『延喜神名式』927年(延長5)(『延喜式神名帳』ともいう)に登載された当時の官社3132座(一社で複数の祭神が登載された神社もあり、社数では2861社)のことで、したがって1000年以上の歴史的生命のある宗教施設となる。

境内社は、宇都可神社、府中神社、英霊殿があります。



伊賀三之宮
伊賀一之宮、二之宮、三之宮は全て東西南北3,km位の府中地区内にあります。
次の国庁跡も同地区です。



伊賀国庁跡
三重県伊賀市坂之下(さかのした)字国町(こくっちょ)
 史跡名勝天然記念物

平成元年の県営圃場整備事業の際に掘立柱建物の遺構が発見され、國厨(くにのくりや)と記された墨書土器が出土したことから、伊賀国庁跡と断定されました。

国府の所在地については、柘植川対岸の沖積地が推定されていたましたが、三重県埋蔵文化財センターと上野市教育委員会による発掘調査で判明しました。
それまでは、数百m南西の「さしがね」という地名の場所と推定されていました。

しかし国庁は大化の改新の詔(みことのり)645年で建立されたとされていますがこの国庁建立は発掘調査では百年位後になりますので最初は言い伝えの「さしがね」だったのかもしれません。

伊賀国庁に建てられた建物は、当初は掘立柱建物でしたが、10世紀になって礎石立(そせきだて)に変化しています。

伊賀国庁の存続時期は8世紀末〜11世紀中頃で、字名の国町(こくちょう)は、国庁の転訛と推定できます。

伊賀国は、天武天皇9年(680年)に伊勢国から分立して誕生。

国庁跡の真南、5kmに伊賀市西明寺に伊賀国分寺跡があり、その東にある国の史跡「長楽山廃寺跡」が伊賀国分尼寺跡だと推測されています。
国司が築いた総社は不詳ですが、伊賀市一之宮の敢國神社(あえくにじんじゃ)が伊賀国一之宮です。





木津川の支流、柘植(つげ)川右岸の段丘上に位置する国庁跡。

遺構については変遷があり、東西約41m、南北も同程度の掘立柱塀で区画された政庁域の中に、正殿・前殿・脇殿等が配される。主要建物は当初は掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)であるが、10世紀前半から後半にかけて礎石立(そせきだて)建物に建て替えられる。出土した墨書土器(ぼくしょどき)の中に「国厨」(くにのくりや)と書かれたものがあり、遺跡の所在地に「こくっちょ(国町)」と称する地名が残ることから、検出された建物群は伊賀国府の中枢部分である伊賀国庁を構成するものと考えられました。

このように、伊賀国庁は主要な施設の配置関係がほぼ判明し、遺構の残存状況も良好です。存続時期は8世紀末から11世紀中頃で、下国(げこく)「伊賀国」の国府中枢である国庁の造営と変遷の実態を良く示すとともに、古代伊賀の政治情勢を示す上でも貴重です。



現在の状態は史跡としての保存整備に入っています。




保存整備工事中
完成予定は令和6年度(2024)となっています。























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Last updated  2021年10月21日 11時57分51秒
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