2010年11月28日
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カテゴリ: 秋山好古伝記
 秋山好古(1859年-1930年)は、1887年(明治20年)7月から1891年12月までの約4年間フランスに留学しました。

 その目的は、旧藩主久松定謨(サダコト、1867年-1943年)がフランスのサンシール士官学校に入学するので、その補導役を務めることでした。


 久松定謨は正岡子規と同じ年の生まれで、6歳の時15代松山藩主「久松定昭」の遺言により久松家の家督を相続しました。

 廃藩置県により、旧藩主達は家来を養う必要が無くなり家計が潤うようになったので、本人またはその子息たちを海外留学させることが流行りとなり、定謨も1883年17歳の時フランスに留学したのです。


 定謨(伯爵)は維新時の賊軍としての汚名を晴らし、華族としての本分を尽くすために、留学は単なる遊学ではなく、最初から軍人になることを目的としていたのかもしれません。

 当時の日本陸軍はフランス式であり、1885年頃からフランス式からドイツ式への変換が始まったのですが、今さらドイツへの再留学というわけにはいかなかったのでしょう。


 好古の留学は閣議により認可されたようですが、表向きの目的には定謨の補導とは書かれていません。

 「陸軍に必要な軍事上の研究、修学のため、本当であれば官費にて留学させたいところであるが、私費にて留学したいという申し出があり、この熱心さを受け入れてやりたいし、人物も確実であるので、留学を認可してもらいたい」

 参謀総長の合議と陸軍大臣の決裁により、閣議にふされました。


 私費留学のためか、旧松山藩14代、16代藩主で定謨の祖父にあたる「久松勝成」から陸軍大臣あて『海外留学ノ保証状』が提出されています。

 「軍事上の研究のために秋山好古の私費留学を許可して頂けるのであれば、本人の留学中の学資はもちろんのこと、どのような事件を起こしたとしても、私がお引き受けいたします。」


 1887年7月23日、好古はフランスに向け横浜港を出発しました。

 その船上で同航者と撮影した写真を見ていると、29歳の好古(右端)はすでに風格さえ感じられ、何の迷いもないように見えます。

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最終更新日  2010年11月28日 13時37分16秒
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