2011年07月30日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 秋山好古は、薩摩あたりで風雲急を告げる動きを知り、

 『松山藩の維新以来の恥辱を晴らす』

 ために、陸軍士官学校に入学したのではないのか、

 ということを昨日書きました。


 そして、好古が何故「騎兵科」を選んだかについては、 昨年の11月22日のブログ に以下のように書いたのですが、これも一部修正が必要のようです。


 『好古が何故騎兵科を選んだのかは良く判っていません。

 士官学校入校時に「兵科は、なにを選ぶかね」と聞かれて「あしは騎兵にしますらい」と言ったという話は、明治の創業期のこととはいえ、少し安直すぎる気がします。

 士官学校は1年目は数学と科学しか教えず、専門科目は2年目から教えたので、兵科選択には半年ぐらいの猶予があったのではないかという気がします。


 また、好古が騎兵を選んだのは、「年限が3年で早く少尉になれて給料を早くとれる」からだという話もありますが、これは多分間違っていると思います。

 修学期間は、確かに歩兵と騎兵が3年、砲兵と工兵が4年でした。

 しかし、全ての兵科の少尉任官日は同じであり、歩兵と騎兵は任地に赴任し、砲兵と工兵は士官学校に残って後1年修学するだけのことであったからです。


 いずれにせよ、出世の可能性のほとんど無い騎兵を選んだ好古は、ちょっと普通では無かったと言えるかもしれません。』


 今考えてみると、好古が出世の可能性の少ない騎兵科を選んだのは、ちょっと普通では無かったのではなくて、よくよく考えての決断であったろうと思うのです。

 当時、軍隊も官僚機構も藩閥で固められていて、陸軍は山縣有朋も頂点とした長州閥で固められていました。

 好古としては、『松山藩の維新以来の恥辱を晴らす』ために活躍する場が必要であり、そのためには、誰も見向きもしない「騎兵」を選択することが、その確率を高めると考えたのだと思います。


 秋山真之は、好古とは世代が違いますから、好古のように『松山藩の維新以来の恥辱を晴らす』ことを第一義とは考えていなかったでしょうが、

 優秀な頭脳を持って生まれたがために、それに見合った活躍の場は欲しかったはずです。

 しかし、どこもかしこも藩閥が幅を利かせていることは好古の時と同じであり、賊軍藩出身というハンデも同じであったことでしょう。

 そこに、青年真之の苦悩があったのだと思います。

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最終更新日  2011年07月31日 00時28分59秒
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