2011年11月07日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 ロシアの太平洋艦隊と日本海軍連合艦隊の第1戦隊(連合艦隊の主力、戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻)が、

 お互いを視認しあったのは、明治37年8月10日の12時33分、彼我艦隊の距離は約23kmでした。


 この時、いわゆる黄海海戦「第1合戦」の戦場にやってきたのは、連合艦隊からは第1戦隊のみで、

 第3戦隊(装甲巡洋艦2隻、防護巡洋艦4隻)および駆逐艦隊は間に合わず、

 連合艦隊は、のっけから戦力の集中に失敗してしまったのです。




 連合艦隊がこのまま戦闘を開始すると、戦力的に圧倒的に不利ですから、できるだけ時間を稼ぐ必要があります。

 そこで、左4点(45度)に一斉回頭して、単梯陣(タンテイジン)に、

 10分後、右4点の一斉回頭を行い、単縦陣に戻したのです。

 12時48分、彼我艦隊の距離は約14kmになっていました。


 これより2ケ月前、太平洋艦隊は旅順港から出撃したのですが、

 連合艦隊が一挙押し寄せてきたのを見て、さっさと旅順港内に逃げ帰ったことがありました。


 また同じように戦闘もしないで逃げ帰られては困りますから、

 『できるだけ敵を洋中に誘致せんと』したと、連合艦隊の戦闘詳報に記載されているようですが、

 「戦力集中失敗の言い逃れ」という気がしないでもありません。




 太平洋艦隊は、敵の戦力が薄いのですから、

 これを幸いに敵艦隊を撃滅しようとしたかというと、もちろんそうはしませんでした。


 なぜなら、太平洋艦隊に戦うための戦法が初めから無かったからです。

 あるのは、ウラジオストックへの回航、ただそれだけでした。


 敵の戦力が薄い事を幸いに、直進して、第1戦隊をやり過ごそうとしたのです。


 第1戦隊は、13時頃、左8点(90度)に一斉回頭を行い、

 単縦陣から一時的に横陣になって、南南東に向かいました。


 しかし、第3戦隊も駆逐艦隊も戦場に姿を見せてくれません。

 ついに、第1戦隊だけでの戦闘を覚悟したのか、

 さらに左8点の一斉回頭により、針路は東北東、単縦陣に戻って、試射を開始しました。


 13時15分、彼我艦隊の距離は約10,000mになっていました。

 これにより、第1戦隊は例の「丁字戦法」を開始したと見てよいのかもしれません。




 ちなみに、この黄海海戦の記事については、主に次の図書を参考にさせてもらっています。

 吉田恵吾著、創出の航跡 日露海戦の研究、株式会社すずさわ書店、2000年

 外山三郎著、日露海戦史の研究上 戦記的考察を中心として、株式会社教育出版センター、1985年





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最終更新日  2011年11月16日 16時25分22秒
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