2011年11月30日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 明治38年5月25日、戦艦「三笠」艦上に、

 第2艦隊司令長官以下各司令官が集められていました。

 この説明会で、連合艦隊の方針が示されたのです。


 その方針とは、

 「26日正午までに新たな情報が得られない場合、同日夕刻津軽へ向けて出発する」

 というものであった筈です。


 (連合艦隊司令部の方針は、25日中に津軽に向けて出発、というのが通説になっているようですが、

 26日としたのは、僅かながら理由があって、それは明日にでも書くことにします。)


 この方針に対し、それでは遅すぎるので、

 今日(25日)の午後にでも出発すべきであるという発言が出たはずです。

 というか、このような発言が大勢を占めたのかもしれません。


 それに対し、第2艦隊参謀長藤井較一(コウイチ)大佐は、

 より長く対馬に留まることを主張し、

 第2戦隊司令官島村速雄少将も、藤井と同じ考えだったようです。


 しかし、これは説明会であって会議では無いのです。

 連合艦隊司令部の方針が覆るはずもなく、

 藤井を除く参加者がこれを了承して散会となりました。


 そして、密封命令が発せられたのです。

 『1.今に至るまで、当方面に敵影を見ざるより、敵艦隊は北海方面に迂回したるものと推断す。

 2.連合艦隊は会敵の目的をもって、今より北海方面に移動せんとす。

 3.から9.(省略)

 10.本令は、開披(カイヒ、開封)の日をもって、その発令日付とし、出発時刻は更に信号命令。』


 (密封命令とは、

 作戦機密の保持目的から一定時間経過後の指定時間、

 あるいは指定場所で開封することを義務づけられた封筒入りの命令書のことで、

 各艦船は基地港をとりあえず出た後、

 それをみて初めて命令・任務を知ることになる。

 もともと英国海軍でおこなわれてきた手法という。)

 (木村勲著、日本海海戦とメディア 秋山真之神話批判、株式会社講談社、2006年より引用)


 これと相前後して、

 連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、

 軍令部長伊東祐亨(スケユキ)大将宛て、次のように打電しました。

 『明日正午まで、当方面に敵影を見ざれば、

 当隊は明夕刻より北海方面に移動す』と。


(以下は、かなり想像が入っています。)


 この決定に、憤まんやるかたなかったのは、藤井であったはずです。

 海軍兵学校同期の気楽さからか、

 いつものように連合艦隊参謀長加藤友三郎少将に直談判しようと、

 参謀長室に向おうとした時、

 これを止めたのは同期のヘッドクラス(首席卒業)の島村でした。


 加藤がこれから山ほどの煩雑な業務を処理しなければならないことを、

 前参謀長の島村は痛いほど判っていたからです。


 といって、このまま「三笠」を去ることは、藤井が承知しないことも判っています。

 島村は、藤井を伴って、司令長官室を訪ねたのです。


 『閣下はバルチック艦隊はどの海峡にくるとお思いになって居るか』

 島村が尋ねると、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は

 島村と藤井の顔を交互に見てから、

 『それは対馬海峡よ』

 と答えたのです。


 追い打ちをかけるように藤井が何か言おうとするのを、島村が押し止めて、

 『ああ、そういうお考えならば何も申し上げることはありません』

 そう言ってから、藤井を促して去っていったのです。





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最終更新日  2011年11月30日 23時37分30秒
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