マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2007.06.18
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<道祖神社から実方中将の墓まで>

 本来旅の安全を守るべき道祖神が、何故実方中将を落馬させたのだろう。下馬しないで社殿の前を通過したくらいで神が怒るものだろうか。塩竃神社付近にも下馬の地名が残り、貴人と雖も馬から降り歩いて社殿に向かったことは確かだが。手元のパンフレットには実方の乗った馬がぬかるみに足を取られたと書かれていたが、出羽国の阿古耶の松を訪ねた長旅の疲れと、急な坂道が原因で落馬したのが真相ではないのだろうか。ふとそんなことを考えながら次のポイントに向かう。

 アップダウンの多い県道39号線を北上すると、左手に「実方中将の墓」の大きな案内板が現れた。山道に向かう入口にまず芭蕉の句碑。歌人西行に憧れて「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉は、何とか実方の墓に参ろうとしたがぬかるみに阻まれて参拝出来なかったと言う。やむなく雷神山古墳周辺の植松の地から遥拝し、「笠島はいずこ五月のぬかり道」と手向けた。西行が墓に詣でた500年後のことだ。

 暗く細い山道の奥に柵に囲まれた実方の墓があった。陸奥国守の墓が実に粗末な土饅頭なのに驚くが、奈良時代には「薄葬令」が出、貴人と言えども大きな墓を造ることが禁止されていた。それにしても淋し過ぎる終末の風景だ。都を追われるように多賀城へ赴任した実方は「光源氏」のモデルだとの説もあるほどの美貌だったとか。「みちのくの阿古耶の松をたずね得て 身は朽ち人となるぞ悲しき」が中古三十六歌仙と褒め称えられた実方の最期の歌となった。

 墓の直ぐ隣には西行の歌碑。今から820年前に陸奥国の歌枕に惹かれた西行がこの地を訪れた当時、墓前には淋しげな枯れススキが茂るばかりで、さすがに哀れさが増したのだろう。「朽ちもせぬ其の名ばかりを留めおきて 枯野のすすきかたみにぞ見る」と詠んだ。その「形見のススキ」が今風に戦いでいる。

 少し道について考えて見る。芭蕉が遥拝した植松は国道4号線の旧道に沿っているが、この道は仙台藩祖伊達政宗が参勤交代のために改修したものだ。「長町や中田の馬を増田までもの言わぬ間(岩沼)に着きのき(槻木)の里」と謡われた街道だ。改修前はかなり荒れていたと言うから長く使われなかったのだろうが、その前身は「官道」だったのではないか。

 官道は都から各国府へと真っ直ぐ延び、緊急連絡のために数キロ毎に駅舎が設置され、道幅は20m近い広さだった。仙台市太白区の郡山にあった官が(「が」は行の間に吾の字)や、国庁である多賀城に行くためには、当然最短距離でかつ見通しのきく平野部を通る方が好ましい。

 一方道祖神社や実方の墓の前を通る県道39号線は、岩沼市の竹駒神社の裏手から仙台市内へ向かう抜け道で、名取川にはその昔「栗木の渡し」があった。かつては「東街道」と呼ばれ官道と同様に古くから存在した道で、官道が廃れた時期はこの山沿いの道がメインだったのではないだろうか。道無くして人も物資も動けない。道は太古から人を移動させ、文化を運び続けて来たのだ。 





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Last updated  2007.06.18 16:16:58
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