マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2007.06.21
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<話の付け足し>

 「エンジョグinみちのく」の翌日、熊野那智神社からゆり上浜までの14kmを歩く催しがあった。この神社ではかつて「お浜降り神事」と言うのが行われていたようだ。ゆり上の浜に打ち上げられた仏像を遥々運んで安置したことに因むものだ。明治になって神仏が分離されるまで、我が国では仏教と神道が一体となった山岳信仰が盛んだった。いわゆる「本地垂迹説」に基づく思想だ。東京の浅草寺は昔海の傍(浅草海苔の名前が残っている)で、ここの観音も浜に流れ着いたのを安置したと伝えられている。

 それはともかく、今回の「お浜降り神事」を模したハイキングがニュースで伝えられた時、熊野那智神社の標高を204mと話していた。私はエンジョグのスタート地点で、海抜0mから300mまで登ると説明したが、あれはF田さんの受け売りで地図を確かめてのものではなかった。慌てて地図を見ると神社の標高は203mだった。「立山登山マラニック」の僅か15分の1しかない。立山の厳しさを改めて感じた。

 ついでに幾つかのことについて補足しておこう。まず「十三塚」についてだが、私達がもらった名取市作成の資料によれば、公園の近くに「十三塚遺跡」があると書かれている。素直に考えれば13の古墳があったのだろう。古代の朝鮮半島には伽耶国と言うのがあった。大和朝廷と関係が深いとされる「任那」の付近だ。伽耶国の王は9つほどの密集した円墳に葬られている。愛媛県伊予市の伊予津彦神社の裏手にも9つほどの円墳があり、ひっそりと寄り添っているのを見たことがある。

 道祖神社の祭神の一人であった猿田彦は元々日本列島に居た神(国つ神)で、天孫族(天つ神)が到来した時に道案内したとされる。これが後世の人に旅の安全を守る道祖神と同一視される基になったようだ。天皇の祖先である天孫族は中国か朝鮮半島から稲を携えて日本列島に来た集団の頭であろう。つまり猿田彦は原住民である縄文人の代表で、天孫族の天鈿女(あめのうずめ)は後から渡来した弥生人の代表。この二人が結婚して東北にも稲作を広めて行ったと見ることが出来ないだろうか。

 初めは縄文人が狩猟のため主に山野に、弥生人は稲作のため主に平野部の湿地帯にと、「棲み分け」ていたのだろうが、稲作が広まるにつれ戦闘も行われたと考えられる。だが縄文人が稲作による安定した暮らしに憧れるようになると、民族の融和と結婚に因る混血が加速度的に進んだのではないか。猿田彦と天鈿女の夫婦神の誕生は、きっとそのシンボルのような伝説なのだと思う。

 恐らく雷神山古墳東麓付近を通っていたと思われる古代の官道が廃れたのは、源頼朝が武家による幕府を鎌倉に開き、奥州藤原氏を武力によって討伐して以降、国府多賀城に行く必要が無くなったからではないだろうか。東北の地が治まって地頭が置かれると、税を納めるべき国の出先機関である多賀城は存在意義がなくなるし、関東武士団が駆けつけた広い官道を維持し続ける必要性がなくなったとも考えられる。

 高館山一帯にあると言う200基もの板碑は何のためのものなのだろう。梵字が刻まれているものは仏教としての供養のためだろうが、頼朝時代の合戦時のものか、北条氏時代のものか、それとも南北朝時代の合戦による死者を弔うためのものか。十三塚遺跡もそうだが、「名取市史」を読めば疑問は解けるはずだ。

 いずれにしても今回のマラニックコースが、郷土の歴史へのさらなる関心と新たなる謎を抱く基になったことは間違いない。太古(雷神山古墳)から現代(仙台空港)に到るまで、悠久の時を巡る32kmの旅は、私にとってとても貴重なものだった。もし自分に能力があるのなら、今回訪れた旧跡を舞台にして壮大な歴史ドラマでも書きたいくらいの心境だ。最後に今回のマラニックをお世話してくださった皆さんに感謝しつつ、合計11回に及ぶ膨大なレポートを閉じたい。<完>





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Last updated  2007.06.21 18:09:40
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