マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2009.06.24
XML
 マラニックで郷土史を学ぶ 

原っぱのような公園に形の良い松が一本。そこでB班が休んでいた。傍に大きな石碑と案内板。どうやらそこが「野蒜築港(のびるちっこう)」の跡のようだ。B班の香さんが私に説明してとご用命。突然の指名に戸惑いながらも簡単に謂れを説明する。

幕末の維新戦争で官軍に敗れた奥羽越列藩同盟は、家臣団が北海道へ渡って開拓に従事するなど悲惨な運命を辿った。一方戦に勝利して明治新政府の要人となった大久保利通がヨーロッパへ視察へ行った際に、伊達政宗が約300年も前に使節を送ってスペインと通商を結ぼうとしたことを知り、その先見性とスケールの大きさに驚嘆して自らの東北蔑視策を恥じ、政宗の領地であった野蒜に我が国最初の近代的港湾建設を命じたのがこの場所だった。

そこまで話した時、「それで利通が関係した理由が分かった」の声。福島のT木さんだった。彼女はこの周辺を4度ほど訪れているとか。明治11年、「お雇い外国人」の手によって先ほど走った「北上運河」から着工し、次いで鳴瀬川などから流入する土砂を防いで港の突堤を築き、下水道やガス灯を設置した街づくりを進めた。だがせっかく完成した突堤は明治17年秋の台風で破壊され、港は土砂で埋まり放棄された。確か横浜に新港が築かれる10年ほど前の話だ。利通が願った野蒜築港は、再び野原へ姿を変えた。まさに数奇な運命を辿った歴史の一こまだった。

東北に対する開発と蔑視の歴史は古代に遡る。この朝スタートした矢本駅の北方2kmの赤井遺跡は、奈良時代の牡鹿柵(おしかのさく)と考えられている。多賀城に陸奥国府が置かれていた頃の最前線の城だ。都から派遣された道嶋一族は原住民の蝦夷(えみし)を手なずけ、北上川の水運を利用しながら領地を拡げて破格の出世を遂げる。だが道嶋大盾は蝦夷出身の豪族である伊治(これはり)君あざ(比の下に口)麻呂を侮蔑し、伊治城で彼に討たれた。矢本の横穴古墳からは、青磁や白磁などの見事な陶磁器が出土している。都で用いられたのと同じ一級品だ。

休憩後鳴瀬川の堤防沿いに北上し、国道45号線に出てから鳴瀬大橋を渡った。そのまま河口へ出る予定が、歩道がないため裏道からJR野蒜駅を経由して東名浜近辺のコンビニで早目の昼食を摂ることになった。近く廃業予定とかでほとんどの品が2割引以上。何とビールまで2割引だったため喜んで購入。お握り2個、カップラーメン、ビールで楽しい昼食。昨年は焼いた牡蠣をつまみに、日本酒を飲んで来た強者もいたっけ。大崎のT田さんがようやくここで合流。

目の前の東名運河も、野蒜築港と併せて掘削された掘割だ。これで旧北上川河口から阿武隈川まで、日本で一番長い運河がつながったことになる。政宗が命じて作らせた「貞山堀」から数えて約300年後のこと。当時は太平洋の荒波を避け、内陸の運河を利用して関東まで米などを運んだのだ。<続く>





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009.06.24 19:40:52
コメント(6) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR


© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: