マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2010.10.22
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カテゴリ: 日本史全般
 峠と街道 

 自転車を押しながらさらに山道を登ると、舗装道路と交差するように昔の街道が突然目の前に現れた。幅は5mほどだが大きなU字溝のような形のため、道路の部分は2mもない。私にとっては初めて見る街道だが、その清々しい佇まいに驚いた。これが昔、実際に人が歩いていた道か。えも言われぬ感動が私の胸に湧き起こった。

 夏の笹谷峠越えマラニックで初めて知った四方峠。その後「みやぎ県政だより」の10月号の表紙に載った「いにしえの面影を今に残す峠道」として紹介された「旧羽前街道保存地区」の存在。もしこの2つの出来事が無かったら、私は今ここに立つことはなかったろう。古くは平安時代から使われ、江戸時代には参勤交代や出羽三山参りにも用いられたと言う街道にようやく来ることが出来た。

 文治5年(1189年)源頼朝による奥州藤原氏征伐(奥州合戦)の際は、この周辺が戦場になった由。攻める頼朝の鎌倉軍は28万騎。それに対して守る藤原泰衡側は17万騎。最前線の阿津賀志山(現在の福島県国見町)で敗れた藤原軍はここまで退いて7度にわたる激戦を展開するも敢え無く敗退。結局4代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏は滅亡し、この3年後に鎌倉幕府が誕生する。

 四方峠の頂上付近には物見櫓が造られていた。そこからは蔵王町方面と背後の川崎町方面が望めた。四方が良く見えるというのが峠の名前の由来。物見櫓のある小山ともう一つの小山の間を街道が通っている。ここが古来交通の要衝であることが一目瞭然だ。石標には「江戸へ百里 笹谷へ五里」と刻まれている。

クール この背後に「盗人森」がある。きっと悪党が旅人を襲って身ぐるみ剥いだのだろう。これでは物騒と、慶長7年(1602年)に猿鼻宿が開かれた。先刻通った小さな集落がその名残で、今は花町集落と名を変えている。宿場開設以降最大で13の藩が参勤交代に用い、1日300人ほどの往来があった由。だがあまりにも厳しく冬季は多くの死者が出た笹谷峠に代わって、標高の低い七ヶ宿街道の2つの峠(金山峠、二井宿峠)が開かれると、諸大名はこぞってそちらを使うようになる。

 峠からは再びマウンテンバイクに乗った。だがかなり厳しいアップダウンが続き、砂利や泥の悪路。それでもオフロードに強いのがマウンテンバイクの良いところだ。途中には「毒清水」、「黒滝不動尊」、「一字一石一ノ宮」など旧街道の面影を残す場所があった。麓近くで標識を発見。急ブレーキをかけた途端に転倒。幸い倒れたのが草の土手で、怪我はなかった。標識は「水上一里塚」に関するもの。少し離れた旧街道の横に、高さ3mほどの一里塚が残されていた。

 朝も通った川崎町経由で帰宅。全行程は87kmに及んだ。膝や脚に故障はなかったものの、体重が2kg減っていた。そしてこの夜は一度もトイレに起きなかった。それだけ疲労が激しかったのだろう。いずれにせよ今回のツーリングで、私は「旧笹谷街道」を踏破したことになる。蔵王町宮から川崎まではマウンテンバイクで。そして川崎から山形まではマラニックで。ふとしたことがきっかけで始まった峠越えと街道探訪。2つともなかなか面白い冒険だった。これは案外癖になるかもね。<完>





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Last updated  2010.10.22 21:35:33
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