マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2011.01.20
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カテゴリ: 日本史全般
 墓と祈り 

 「世界ふしぎ発見」の第3問は、「首里城などを久高島のあるもので清めたが、それは何か」だった。答えは砂。砂と言っても浜に打ち上げられたサンゴの破片で、これを米(よね)と呼んだそうだ。サンゴの破片を米に見立て、豊饒を祈ったのだろう。回答の場面で解説者の高良教授が立っていたのは首里城ではなく、第2琉球王統の墓陵である玉陵であった。玉陵は「Tama-udun」のように発音する。udunは御殿のことで、王の死後の居城だったわけだ。

 私が初めて玉陵を訪れたのは平成元年だが、何故お墓の庭にサンゴの破片が散りばめられているのか分からなかった。玉陵は石造りの大きな墓で、3つのブロックから成り立っている。1つは王の墓域で、残りは后や幼くして亡くなった王子の墓域。まるで倉庫のような大きさだが屋根の上には威厳のあるシーサーが鎮座し、王の墓を守っている。

 沖縄の古い墓は風葬墓である。自然の洞窟に死体を葬ったのが原型だろう。高温、高湿度の沖縄では、死体はあっと言う間に腐乱し、白骨化する。私が初めて風葬墓を見たのは嘉手納町のY集落。道端の洞窟に白骨が折り重なっていた。風葬墓は普通漆喰で塗り固められて中は見えないのだが、あれには本当に驚いた。

 玉陵は形の大きい石造りだが、基盤となる部分は岩山を刳り貫かれたもので、やはり風葬墓だ。第一尚氏王統が誕生した佐敷や、最初の王都となった浦添には、王族が眠る「ようどれ」があるが、いずれも風葬墓。「ようどれ」とは夕凪の意味。転じて死後の静謐な場所を表わしたのだろう。

 やがて冊封体制によって中国の墓制が伝えられる。亀の甲羅の形をした「亀甲墓」は、琉球王朝の船が最初に到着する福建省周辺の風習で、母の胎内を表わすと言われている。人は死後再び母の胎内へ還るとの思想だ。墓が大きいのは親族一門の共通の墓だからで、集落のごく近くにあるのは、先祖が子孫を守ると信じたためだ。先祖を敬う沖縄では墓はとても大切な場所であり、清明祭(うしーみー:春の彼岸)などには親族一同が墓の前でご馳走を食べる風習がある。

 沖縄の古来の宗教は原始神道。祈りの対象は大きな岩や樹木など自然そのもので、神社のような建物が出来たのは、明治になって正式に日本に帰属してからのこと。山の頂から海に向かって祈る老婆を初めて見た時、その荘厳な姿に胸を打たれた。海の彼方には沖縄の理想郷であるニライカナイが在るとされる。

 男女神が最初に降り立ったとされる沖縄本島最北端の辺戸御嶽に登ると、「ここは神と通信する聖なる場所です。汚さないでください」と書かれた立て札があった。360度展開が効き大海原を見渡せる山頂は、確かに自然の偉大さを感じさせる場所だった。仏教伝来以降も沖縄人の心の中には、古来の神が棲み続けていたのだろう。

 このように沖縄のことを書き始めたら切りが無い。多分30回以上は連載出来るのではないだろうか。それだけ沖縄には不思議で変わった話が多いからだ。まだまだ書き続けたいところだが今回はこれで筆を置き、いずれ機会を見つけてまた書きたいと思う。堅苦しい話に最後までお付き合いいただいたことを、心から感謝したい。<完>






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Last updated  2011.01.21 14:05:59
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