マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.01.30
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カテゴリ: 日本史全般
司馬遼太郎著「最後の将軍」を読み終えたことは既に書いた。ただし、この内容については記してない。20冊ほど読んだ本で、幕末から明治に至る時期の状況については以前よりかなり分かった。だが凡人の悲しさで、どんどん忘れてしまうのが辛いところ。

司馬の「花神」は後に討幕軍の総司令官となる大村益次郎(村田蔵六)の半生を描いた歴史小説だった。これによって幕末の緊迫した情勢が理解出来たが、同時にあの時代を生きた人間の精神構造が良く分かった。自分の信念を貫き通す人があの時代には確かに存在した。大きな目的を達成するためには、他人の評価は全く気にせず、死すら恐れてはいなかった。

花神(かしん)とは花の精の意味。だが、中国語だと「花咲爺」なのだそうだ。司馬が何故タイトルを「花神」にしたのか、説明は無い。ひょっとして、幕末期は価値観が混沌とした枯れ木みたいなものと考えたのだろうか。蔵六が自分の生死を賭けて播いた「灰」が樹木の肥料となり花が咲くのは、明治と言う新しい時代に入ってからのことだった。

その後読んだ司馬の短編小説「斬殺」は、官軍の奥羽征伐隊の責任者である世良修蔵の話だった。彼はわずか200人の官軍を率いて会津藩を攻めに来るが、人格の粗暴さが仇となって奥羽の各藩に離反される。中でも仙台藩は朝廷から「錦の御旗」を与えられる立場だったようだが、やがて白石城で米沢藩と謀議し、奥羽列藩同盟を結成して世良を斬殺する。この結果東北地方は朝敵として、明治に入って暫くの間冷遇される

同じく司馬の短編小説「英雄児」は長岡藩の河井継之助が主人公。彼は身分の低い立場でありながら一念発起して学問を学び、長岡藩の家老に出世する。藩の経済を立て直した河井は、近代的な兵器を整備して「中立」を守ろうとするが果たさず、奥羽列藩同盟に加盟。立て籠る官軍を討つため自藩の町屋を撃破した。その結果彼の死後、その墓は恨んだ町民によって破壊された由。

佐幕や勤皇、または「尊王攘夷」とは言っても、藩によって、あるいはその時期によって、状況はどんどん変化する。それは薩長や土佐も、保守的な幕府の高官も同様だった。だがほとんど変わらなかったのが最後の将軍である徳川慶喜。本来なら将軍家を継ぐ資格のない水戸徳川家の出(徳川斉昭の七男)で、一橋家を継いだ男だ。

だが十三代将軍家定(最後の夫人は篤姫)が35歳で、十四代将軍家茂(夫人は皇女和宮)が21歳で逝去すると、固辞したにも拘らず将軍に任命される。だが英明な彼は密かに「大政奉還」を決意していたし、最終的には江戸城も領地もすべて朝廷に差し出した。その変わり身の早さが、幕臣には理解されなかったみたいで、3人の側近が次々に斬殺される。

慶喜がその後若くして隠居し、かつての住まいだった皇居(江戸城)へ上ったのは明治31年になってからとは驚く。それまでひたすら謹慎生活を送っていたのだ。公爵の爵位が与えられたのはさらにその4年後。慶喜が大政奉還や江戸城の無血開城に応じなかったら日本はもっと悲惨な状態になっていたはずで、本来は維新の最大の功労者だったと思う。大正2年、「最後の将軍」慶喜は77歳で逝去する。

蔵六と慶喜は立場が全く異なるし、生き方も違うのだが、どちらも「筋」が通っていた。つまり良くも悪くも「信念の人」だった。そんな人が何人もいたからこそ、列強の手で奪われずに済んだ日本。わずか100年ちょっと前の我が国には、肝の据わった人物が確かにいたのだ。1人の小説家が魂を込めて書いた本が、そのことを私達に教えてくれる。歴史の真実とは凄いものだ。





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Last updated  2012.01.30 18:57:14
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