マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.10.30
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カテゴリ: 日本史全般
≪ 鶴岡八幡宮と頼朝の墓 ≫

 雅楽が聞こえる。それに大変な人混みだ。着物姿の子供がやけに目につくのはなぜ?七五三のお参りは11月15日なのだが、親の都合で予定が開いている週末に行うのが、最近の流儀なのだろう。先ず本殿に向かう。神門の両側に武者姿の神像が2体。さすがは源氏の守り神だけのことはある。

 平安末期の前九年の役の際に源頼義が、東北の古代豪族安倍氏を討つべく戦勝祈願するため、京都の石清水八幡を勧請した若宮八幡が神社の起源とか。康平6年(1063年)の時だ。それを治承4年(1180年)に頼朝がこの地に遷移し、社殿を中心に鎌倉幕府の中枢施設を整備したそうだ。

 本殿の中では七五三詣での親子が大勢、お祓いを受けていた。出口に向かいながら懸られた絵馬を見る。あれれ?何と言うことだろう。日本語の絵馬に混じって、外国語で書かれた絵馬もたくさんある。英語、フランス語は分かるとして、中にはロシア語のキリル文字や、東南アジアの文字も散見。結構色んな国の人が参拝してるんだねえ。それも宗教を超えて。

 舞殿では神前結婚式の最中。それが外からも丸見えなのだ。妙なる雅楽の音は、ここから聞こえていたのだ。石段では写真を撮る老若男女の姿。そして石段の右側には根元から切られた大イチョウ。それは2年前の強風で倒れたもの。三代将軍実朝が、イチョウの木陰に隠れていた甥の公暁に暗殺されたと言われる伝説の樹だ。今は元の位置から7m離して育成中みたい。

 境内には源氏の氏神である白旗神社や鎌倉国宝館があるみたいだが、先を急ぐ。2つの池は平家池と源氏池。平家池に浮かぶ4つの島は「死」を意味し、源氏池の3つの島は「産」を意味する。これは頼朝の妻政子の発案だった由。平安から鎌倉初期にかけては、そんな迷信がやたらと信じられていた。それだけ世の中が不安定だったのだろう。太鼓橋は本来赤く塗られていた由。鎌倉幕府最後の執権赤橋氏の姓は、この橋から来ているそうだ。

 境内を出て向かった先は頼朝の墓。次男も行ったことはないらしい。地図を確かめながら金沢街道を東に進む。やがて「雪の下」の地名。路地を左に入ると正面に小高い丘が見えた。路地の四つ角に「鎌倉幕府跡」の標識。んんん?これは予想外。こんな所に幕府の政庁が置かれていたとは。ところが頼朝の墓が貧弱なのには二度ビックリ。それもそのはず、江戸時代の初期、薩摩の島津藩が再興したものだとか。鎌倉時代のものなら、五輪の塔もそれらしい形をしているものだ。

 そう言えば「私本太平記」には、鎌倉を攻めた新田義貞が頼朝の墓を徹底的に破壊したことが記されていた。なぜ同じ源氏の血を引く義貞が、源氏の統領である頼朝の墓を暴く必要があったのかが不思議。あの時代にはそれほどの憎しみが存在したのだろう。

 帰路「雪の下」で思い出す。吉野山で捕らわれた義経の愛妾静御前が鎌倉まで連行され、頼朝と政子の前で舞を舞ったのが確かこの地「雪の下御殿」だったはず。その時静は義経の子を身籠っていたようだ。こちらは「新平家物語」の話。しずやしず しずのおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな だったかな?<続く>






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Last updated  2012.10.31 03:04:16
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