マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2018.10.02
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カテゴリ: 日本史全般
~墓参りの帰りに寄ったのは~



 父母、姉の墓参りをした秋のお彼岸。その帰路に立ち寄ったのがこの龍雲院。実は卒業した高校がこの付近にあり、歴史上の人物が近くの寺で眠っていることだけは知っていた。当時は半子町と呼ばれた地区が、その後「子平町」(しへいちょう)と名を変えている。町名の元となったのは林子平(はやし・しへい)。幕末の政治経済思想家なのだが、仙台市民以外ではほとんど名を知られていないだろう。



 門前の掲示板に、境内の案内があった。1番の万城目正は作曲家で、戦後すぐに流行した『リンゴの唄』で名高い。5番から8番までが私が訪ねようとした林子平関係のもの。そして9番の地蔵と4番の住職が案外面白い人物に関するものだった。



 真ん中の石標には、「前哲 林子平墓域」と刻まれている。左側の石碑が顕彰碑で、右側のお堂の中に彼の墓石が鎮まっていた。

         林子平肖像  

 林子平は元文3年(1738年)に書物奉行岡村良通の次男として江戸に生まれた。だがまだ幼少の頃に父が職を捨てて出奔し、叔父で医者の林従吾に預けられる。その後姉が伊達家の江戸屋敷に奉公し、六代藩主宗村の側室「お清の方」となり、叔父は仙台藩の雇いとなる。その死後、実兄の林友諒が仙台藩士(150石取)となる。

  六角堂

 宗村公の逝去後兄は仙台に転居し、子平も仙台藩士として取り立てられる。英才の子平は経済政策や教育政策を藩に進言するが採択されず、落胆して碌(ろく)を返上する。その後、北は蝦夷が島(北海道)の松前から南は九州の長崎まで行脚して学び、日本の現状を知る。

  六角堂の木像  

 この旅でロシアの脅威を感じた子平は、2つの大著を著す。『海国兵談』は国防の重要性を訴え、『三国通覧図説』は海外の事情と日本の現状を説いた。共に出版してくれる版元が無く、『海国兵談』(16巻、3分冊)は自分で版木を彫ると言う苦労の末に生まれた私家本だった。



 ところが世に問うた啓蒙の書は幕府によって発禁となり、版木も没収される。そしてその身は仙台の兄宅へ蟄居(ちっきょ)預かりとなる。発禁となったこの本が今日まで伝わっているのは、子平が書写していたため。その想いの深さには、驚嘆すべきものがある。

  「六無斉」の碑文   

 自由を奪われた子平は、自ら「六無斉」と号す。碑文にはこうある。「親もなし 妻なし子なし版木なし 金もなければ死にたくもなし」。「無し」が6回出て来るので「六無斉」。彼の悲痛な叫びが聞こえて来そうだ。



 墓に刻まれた「六無斉友宜居士」の戒名が哀しい。さて日本近海にはその後、欧米の黒船が大挙して押し寄せる時代が来る。ロシア、アメリカ、イギリス、フランスなどが通商と開国とを迫り、あわよくば中国に続いて日本をも支配すべく、虎視眈々(たんたん)と狙っていたのだ。

               子平銅像   

 子平の悲劇は「早過ぎた英才の悲劇」だろう。彼が時代に先駆けて感じた列強の脅威は、やがて現実のものとなる。浦賀への黒船来航以来幕府は列強と協定を結び、二百数十年も続いた「鎖国」は終焉を告げる。そして近代国家の誕生に向けて、戊辰戦争へと続いて行く。安政5年(1793年)、世をはかなみ悲憤のうちに死んだ子平。享年56歳の惜しまれる死だった。

  細谷十太夫の像

 林子平の墓域の横に、とても不思議な石像があった。一体これは誰なんだろう。それで色々と探し回り、ようやく細谷十太夫だと分かった。直ぐ隣には「細谷地蔵」の標識があったが、この像が地蔵には見えない。さて、彼は知る人ぞ知る、幕末から明治にかけて活躍した仙台藩士で、戊辰戦争の際に散々官軍を悩ませた張本人だった。

     僧侶姿の十太夫   

 細谷家は仙台藩大番士の家柄で、下級武士に当たる。彼は藩から京都詰めを命じられるが、喧嘩沙汰を起こして帰省。石巻の鋳銭場の役人や探索方(スパイのような仕事)を命じられる。ところが幕藩体制が危うくなり、東北の諸藩の多くが越後の長岡藩と共に「奥羽越列藩同盟」を結んで、薩長主体の官軍と戦うことになる。



 官軍の快進撃に後退した仙台藩は、最後の戦いを挑む。その先鋒となったのが十太夫が率いた「からす組」。これはゲリラ戦を得意としたならず者の集団で、正式名称は「衝撃隊」。最新鋭の軍備を誇る官軍を相手に、30連勝したとの逸話も残されている。最後の戦いは県南部、福島との県境にある丸森町旗巻峠。ここで初めて敗走した。新政府発足後は陸軍少尉として、西南戦争にも従軍した。

      細谷地蔵  

 その後石巻で開墾に当たり、一時は北海道へも渡った由。日清戦争では千人隊長として従軍。歴戦の経験を駆使した軍人だったはず。帰国後は仙台に帰り、僧侶となった。当山、龍雲院の第八代住職がこの人。いかつい容貌が、その後丸顔の地蔵となって祀られた。歴史とは不思議なもの。そして人間とは実に面白い存在だ。たまたまの寄り道が、私に郷土の歴史を学ばせてくれた。これも奇しき出会いとして感謝したい。





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Last updated  2018.10.02 07:31:16
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