マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2021.05.22
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カテゴリ: 日本史全般
~南島の神話と民俗と歴史~

   南島の夜明け

 「日本民俗学の父」柳田國男は、「海上の道」で、日本人の祖先は稲を携え南から島伝いにやって来たと唱えたが、そんな単純なものでないことをこのシリーズでは説いたつもりだ。逆に内地から南島に伝わったことも多いのだ。神話、言語、宗教、文化、食物など多岐にわたる。追補版で記したように、内地と南島の間には古来様々な交流や物流があったことは、考古学上からも文献上からも確認されている。

   辺戸岬と安須森御嶽   

 手前の頂に聖地安須森御嶽(あすむいうたき)がある。その先の辺戸岬(へどみさき)は沖縄本島の最北端。沖縄の始祖はあまみきよ。そして奄美の始祖はあまみこ。どちらも頭に「あま」が付き、海洋民族だったことが分かる。あまみきよが最初に上陸したのが辺戸岬。やはり神は北からつまり内地からやって来たのだ。岬周辺には貝塚が多く、海中洞窟からは土器を発見。かつては陸地で、人が暮らした証拠だ。

  浜比嘉島のあまみきよの墓

 神は島の東海岸を南下し最南端まで行った。途中にカヌチャベイと言うリゾート地があるが、カヌチャに(神着)を充てているのが何とも示唆的。おもろ市の浜比嘉島には始祖神の墓と伝わる洞窟があり、沖縄勤務当時に訪れたことがある。とても不思議な雰囲気の漂う島で、倭寇伝説もある。「シヌグ」と言う名の伝統芸能があるようだが、私は「凌ぐ」=祖先の暮らしぶりを伝えたものと解していた。

  神の島 久高島

 次に神が上陸したのが久高島。ここにはクマール御嶽(うたき=聖地)やフボウ御嶽、穀物の種が漂着したと言うイシキ浜があり、琉球王朝の聖地だ。神の島からは一木一草たりとも持ち出し厳禁。二人の祝女(のろ)を頂点とする神行事が盛んで、産卵のために近づくエラブ岩でエラブウミヘビを捕獲出来るのは、のろだけだった。午年(うまどし)に行われた奇祭「イザイホウ」が絶えて久しいが、私は勤務した国立民族学博物館で動画を観た。

        受水走水    

 久高島の対岸、知念岬にある受水走水(うきんじゅはいんじゅ)は沖縄で最初に田植えをしたと伝わる。だが現場は驚くほど小さな湿地。隆起石灰岩で出来、川が短くかつ直ぐに海に流れる沖縄本島に稲作に適した場所はほとんどない。それでは穀物の栽培も無理で、採集生活の「貝塚時代」が内地の平安時代辺りまで続いたのも無理からぬことだろう。やはり柳田國男の説には無理があると思う。


  玉城城

 沖縄本島南部にある南城市の玉城城(たまぐすくじょう)。沖縄本島では11世紀ごろから各地に按司(あじ=権力者)が起こり、群雄割拠状態だった。砦(とりで)程度のものが多く、やがて北山、中山、南山の3国に落ち着き、最後は中山が統一して琉球王国が成立する。沖縄の城(ぐすく)には大抵御嶽(うたき)などの聖地があった。つまり祭政一致で、敵を負かすために祈った訳だ。



 沖縄には古くから「おなり信仰」があった。妹(女)が兄(男)を霊力で助けると言う思想。卑弥呼が「男弟」を助けたのと一緒だ。皇室の斎宮と同源だろう。沖縄では祝女(のろ)やその頂点である聞得大君がいた。国王の姉妹が聞得大君に就任し、王国の神事を掌理した。伊是名島や久米島にも有力な祝女がおり、重要な神事を執り行った。古代日本を彷彿とさせ、内地から伝わったと考えて良いと思う。



 左は祝女の装束。首には玉が掛けられ、所々に「勾玉」が見える。右は沖縄県立博物館所蔵品。先端にヒスイかメノウ製の勾玉が付いている。日本では縄文時代に始まった勾玉が、沖縄では琉球王朝が崩壊した後も重要な宗教用具として今日も使用されている。





 さて、奄美諸島の喜界島(上)の話に戻る。大城久(おおぐすく)遺跡(中)からは九州南部の陶磁器などが出土している。近辺には製鉄遺跡が存在し、奄美ではかなり異質だ。沖縄本島でも製鉄遺跡は初期の王都である浦添城などに限られる。強大な権力の象徴で、奄美を併合した琉球王国が喜界島を統治するまでさらに200年を要したのも、喜界島が太宰府や九州の有力武家と協力関係にあったと推察出来よう。

  尖閣諸島 魚釣島

 上は明治時代、福岡の商人古賀氏が尖閣諸島の魚釣島で事業を行っていた際の写真で、那覇市の歴史博物館提供。古賀氏は明治21年(1879年)那覇市に寄留。1882年に石垣島に支店を設立し、尖閣の状況を探っていた。同諸島がどの国にも所属しないことを確認、沖縄県の承認を得て1884年尖閣に職員を派遣した。1895年には自ら尖閣の久場島に赴いて現地視察をしている。

 1897年から螺鈿(らでん)の材料である夜光貝の採取、アホウドリの羽毛採取とはく製の製造、肥料となる糞を採取。鰹節の生産にも乗り出し終戦後も続いた。ところが1970年に国連が尖閣周辺の石油埋蔵の可能性を公表すると、中国が領有権を主張し始めた。尖閣諸島は国際法上も実効支配上もわが国固有の領土で論議の余地はない。日中友好協定の締結を急いだ田中角栄が、歴史を知らなかっただけだ。

  ユウナの花

 さて、奄美大島、徳之島、沖縄本島北部、西表島が世界自然遺産の候補地になることが決定したニュースを聞いて書き始めたこのシリーズ。「補遺版」と合計で9回になった。苦しみの連続ではあったが、我ながら良く最後まで書けたものだ。まだまだ検討不足や書き足らない部分、不正確な部分はあろうが、これを以て最終回としたい。



 沖縄本島および沖縄県の島々については、沖縄勤務時代及び転勤後に何度も訪れたため、懐かしい箇所ばかり。これからも訪れる機会があり、さらにブログで取り上げることがあるだろうか。長期間のご愛読に心から感謝し、結びの言葉としたい。どうもありがとうございました。亭主敬白。<完>





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Last updated  2021.05.22 00:00:09
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