マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2021.12.12
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~「貝の道」そして「謎の文字」~

  紅型の袷(びんがたのあわせ)

 何日か前、自分が持っている沖縄関係の本と、古代史関係の本を改めて調べてみた。すると気になる資料がたくさん見つかった。結局収集はしたもののまだ読んでなかったのだ。いわゆる「積ん読」(つんどく)。買っただけで満足し、その後手にしてなかったのだ。その中から数冊選んで手元に置き、そのうちの1冊を読んだらとても面白かった。

 また沖縄の地図帳には、沖縄勤務当時にコピーした資料や新聞の切り抜きが挟まっていた。当時訪ねた離島の聖なる場所に関するもの。改めて読むと、興味深い事実が分かった。本は出版された時点での最新の情報だが、現在の最前線の研究成果はyoutubeで確認出来る。このまま自堕落に過ごしていてはいけない。まだ認識出来るうちに、少しでも本を読もう。そんな風に思った。さて、今回は図録の中から気になった写真を幾つか載せようと思う。年代順でもテーマ別でもなことを先ず断って置きたい。




 左は葛飾北斎が描いた「琉球八景」の一部。勿論北斎が沖縄へ来て描いたわけではない。右は琉球王朝時代に描かれた那覇港。たくさんの船に混じってひと際目立つ船が中央に見える。黒と赤の船で、舳先に「目」のようなマークがある。これが現在も沖縄県のシンボルマークになっている。これは当時の貿易船で、日本、朝鮮、中国(明、清)、東南アジアにまで出かけた。

 北斎が描いたのは那覇港で、右の図の上方に見える部分を参考にしたのだろう。都城のある首里は小高い丘の上にあり、港のある那覇はその外港。当時は小島の多い磯で、小島と小島を橋で繋いで港にし、その後徐々に干拓地を広げた。北斎の描いた船や家は和風で、実際の沖縄の風景ではない。ただ、小島と小島を繋いだ長矼(ちょうこう=堤)は当時の那覇らしさを感じさせる。



 これは飛鳥時代の日本と近隣諸国。朝鮮半島では百済と高句麗が滅び、新羅が統一した。九州の南にある多禰(たねは現在の種子島)、西隣の島は現在の屋久島、その南方の阿麻弥(あまみは現在の奄美)で、さらに阿児奈波(あじなわ=沖縄)、久美(くみ=沖縄の久米島)、志覚(しかく=石垣島)の名が古い文献に残っている。わざわざの朝貢ではなく、難破したための挨拶ではなかったか。



 これは北海道伊達市の有珠10遺跡出土の装飾品。貝そのものや貝で作った製品が多いが、大半は南方産のものと思われる。北海道では縄文時代の後「続縄文時代」が長く続き、沖縄では縄文時代の後「貝塚時代」が長かった。それにしても沖縄から北海道まで渡った南方産の貝。丸木舟でリレー式に日本列島の各地に届ける「貝の道」があったと考えられている。



 これは韓国慶尚南道出土の貝製腕輪。貝の名はスイジガイ。漢字では「水字貝」と書く。角が出た特徴ある貝は韓国では産しない。それを切って腕輪に仕上げたのは貝の形に呪術性を感じたからだろう。5~6世紀の遺物で、日本の南島産の貝が対馬半島を渡ったものと思われる。



 沖縄県具志川市地荒原貝塚出土品で、紀元前2千年~400年。左はイモガイ製の腕輪で、右は貝製の釣り針、鏃(やじり)と穴を開けた装飾品。同じ貝が北海道伊達市の有珠10遺跡出土品にも見える。韓国から出たスイジガイ製の腕輪も具志川市出土のイモガイ製腕輪も、日本の古墳時代には形を真似た青銅製のものに代わる。なお腕輪のことを考古学では「釧」(くしろ)と呼んでいる。



 鹿児島県種子島広田遺跡出土の貝符(かいふ)で、紀元前1世紀~紀元2世紀。白くて立派な貝を加工して模様を刻み、穴を開けて紐を通し装身具にしたのだろう。この貝も種子島よりずっと南方産と思われ、同遺跡が貝符の製造地なのか、中継地なのか、それとも使用地なのかは不明だ。



 鹿児島県奄美諸島の沖永良部島神野貝塚出土の深鉢で、紀元前3千年~2千年の縄文後期前半のもの。これと同様の土器が沖縄本島中部の遺跡からも出土している。縄文土器が宮古島からも出土してることからも、南方の島々と日本列島との間に人的、文化的な交流が古くからあったことが分かる。まだ丸木舟しかなかった時代、縄文人は果たしてどんな気持ちで大洋に漕ぎ出したのだろう。



 最後に謎めいたものを紹介したい。これは沖縄本島中部の嘉手納(かでな)町や北谷(ちゃたん)町から出土した刻画石版で、制作された時代も制作の意図も判明していない。中にはこれを「ムー大陸」文化の証拠とか世界の各地で見られる「神聖文字」だと主張する人もいる。



 ところがである。沖縄本島から何千kmも離れた北海道の小樽市の海岸にある「フゴッペ」洞窟からも、似たようなものが発見されている。絵なのかそれとも特殊な字なのか、また岩に刻まれた時代も不明。沖縄のは石版、小樽のは直接洞窟の岩に刻まれたことが異なる点。世の中には摩訶不思議なこともあるのだ。そしてかつて日本に原人がいた証拠とする「葛生原人」や「明石原人」の骨が、いつの間にか消えて、行方不明になった。今日は不思議な話で終わりとしたい。





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Last updated  2021.12.12 00:00:09
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