Welcome to the Mentor’s world

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2013.10.03
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今日のお昼は両親と母屋のダイニングキッチンで食べました。

今夜も貸しスタジオがあるので、夕食は僕ひとりでダイニングキッチンで食べました。

で、テレビはちょうどニュースの時間。久しぶりにニュースを見ました。

先行きが暗くなるようなニュースばかりでチャンネルを変えたのですが、悲しいかな、地デジのみしか映らない液晶テレビでは、他に見たい番組もなく、結局、ニュースを見続けました。やっぱり、2階で、録画したお気に入りの番組を見ながらの食事が一番ですね。それとも、ここにも、HDDレコーダーを設置するか。

飲み込んだままでは堪らないので、この日記で吐き出すことにします。

まず、汚染水漏れのニュース。

漏れの原因はバカバカしいくらいレベルの低いものでした。どうなっているんでしょう。東電といえば一流企業でしょう。その社員が、この程度のレベルということは、日本の知的レベルの低下はどこまで進んでいるんでしょう。たまに外国との比較で低い評価がされても、すぐに忘れてしまいます。もう少し、レベルアップに本腰を入れないと、とんでもないことになってしまうのでは。

原発事故の処理はまだ終わっていません。これから、こういう問題が起きると、今に日本には住める場所がなくなってしまうのでは。五輪どころじゃないと思いますけど。

以前、日本沈没という小説について、この日記に書きました。子供の頃はスぺクタルものの娯楽小説という感じで読みましたが、大人になると、日本とはどういうものかを考えさせられました。沈没する日本を逃れた日本人は、他の土地で、日本人としてのアイデンティティを保てるのか、日本列島で生きていたから日本民族となったのかという問題を提起していました。

今、僕はそのときの気分で決めようと思っています。今の土地への愛着もあります。もし、暮らせないくらいの放射能レベルになっても、どうせ、長くない命なら、住み慣れたこの地で死んでもいいと思っています。でも、他の人が避難してしまって、物資が手に入らず、警察も病院もなくなってしまったら、さすがにここでは暮らせないでしょう。

他方、僕は土地に縛られるのは嫌いです。ポール・サイモンは「コンドルは飛んでいく」の中で、「土地に縛られた人間は、この世で一番悲しい音を奏でている」と書いていますが、僕も同感です。もちろん、今住んでいる土地への愛着はありますが、いざ、引っ越すとなれば、それは、ひとつの思い出として、他の地へ移るでしょう。

僕は自分の住む部屋を居心地よくすることが得意です。ですから、大学時代の府中のアパートにいるとき、実家の1階の一部を囲って部屋を作った時も、もう、この部屋から離れたくないと思ったものです。でも、新しい環境で、新しい住処を見つけると、また嬉々として住処作りをする自分を知り、縛られる感覚から解放されました。今、庭作りに夢中ですが、それは将来を見据えてではなく、あくまで、今をよくしたいという気持ちからです。いずれ、海外移住もいいなあと思っていますからね。

政府は、防衛関係の秘密書類を処分してしまいました。秘密にすることが必要でなくなったときに、それを秘密にしたことの是非についての評価をされないように。ということは、秘密にする必要がなかったか、それとも、ある種の利益供与などがあって、バレると困るからでしょう。

こんな疑いをかけられるのは、今の政府が信用できないからです。国民が自分の政府を信用できない。こんな不幸な政治はありません。信頼を取り戻す努力をとかいいながら、こういうことを続けている限り、信用は戻りません。その信用のない政府が、秘密保持法を作ろうとしている。この法律が妥当するのは、信用ある政府のみです。今の政府に、この法律を作る資格はありません。断固反対ですね。

なおかつ、同じ法律を持ちながら、その運用を監視する機関をもつアメリカと比較されたとき、そういう機関を作るのは難しく、内閣が厳格に監視するとか。信用できない政府に監視させても、誰も納得しないでしょう。それを、いかにもという表情で発言する方の品位を疑います。

人を救おうとして命を落としたというニュースも見ました。

憲法は個人の尊厳を最高の価値として、それに奉仕するための国家機関のあり方を定めています。個人の尊厳の中で一番大切なのは命です。つまり、命が最高の価値になっています。でも、それは、何が何でも命が大事ということではないと思います。自分の命をどう扱おうと、それは、その人の自由であると思っています。もちろん、判断能力のない子供はともかく、是非弁別の能力をもった大人であれば、その命をどう扱おうと自由だと思うのです。他人からみればバカバカしいことやつまらないことに命をかける自由があるわけです。

池波正太郎さんの作品をある著名な哲学者が大好きで、その理由のひとつが「つまらない死を描いていない」というところにあったとか。今の時代からみると、戦国時代の武将の命のかけかたはバカバカしいと思うかもしれません。でも、僕はその心情を羨ましく思います。

仕事に追われ、過労死する人が今でもいます。まさか命を失うとは思っていなかったでしょうから、本人は無念でしょう。でも、中には、その仕事に命をかけている人もいて、そのために死ぬのなら本望だという人もいるでしょう。でも、その仕事は、他の人からみれば命をかけるようなものではないかもしれません。それでいいんだと思います。

目の前に倒れた人がいる。自分なら助けられると思って救助に向かったが、助けられずに命を落とす。その人の心情を推察するのは不謹慎なのでしません。でも、助けられると思うのに、それをせずに、目の前で人に死なれたら、その人は一生トラウマを負うことになるでしょう。

浅田次郎さんのエッセイで、相談事をたかりと思い断ったその夜に自殺された経験から、その店にもいけず、相談事というたかりを断れなくなったという話も読みました。

例えば、自分の大好きな人、家族、友人、自分の信条、仕事、芸術のために命をかけるというのは素晴らしいことだと思います。命をかけてもいいと思えるものを見つけられる人は幸せだと思います。僕にもあります。それは、時を経ることで変わると思いますが、常に、命をかけられるものを持つようにしています。それが平穏な心を保つのに必要だからです。そして、それは、他人からみれば多分バカバカしいものでしょう。でも、それでいいんです。明日、交通事故で死ぬかもしれないんですからね。

さて、非常に長くなりました。おつきあいありがとうございました。

貸しスタジオが始まりました。僕は打ち込みをしようと思います。






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Last updated  2013.10.03 20:17:15


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