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実はライフパートナーでもある主人が東京出勤。 来る2月13-14日、厚生労働省パソコンセミナールームにおいて、長年、ICTを駆使して「チャレンジドの在宅ワークの推進」に取り組んできたプロップ・ステーションが、「遠隔教育システム(TV会議システム)を使って、チャレンジドが官僚・企業人にIT講習を行う!」という、日本で初めての事業を実施することになった。彼はこの仕事にせいいっぱいだ。 この仕事で主人は東京、私は息子とお留守番してたんですが、 実は私もこの仕事のイラスト作成の仕事にかかわっていた。 このイラストの拡張子がwmfなのだ!げげげ、私 この拡張子のイラスト作成したことがない・・・ gif、jpg、ai、pngなら慣れてるけど、 これを透過にしてwmfに保存がうまく行かない。 ひえええええええええええ! というわけで昨夜はパソコン漬けだった。 結局????しながら、朝を迎えてしまった。 いつもなら彼がフォローしてくれるけど、 こんな大切な日に彼にメールなんかできない! 大変なときに「助けてくれ」だなんてできない! いやだ!私はひとりでもできるわ!彼がいなくても できるよ!!!うぇ~ん!!! というわけでひとりで頑張ったけど、結局闇の中。 がぁ~ん!今、泣きながら担当者にメール。 結局相談中。本日中にできあがるように頑張ります、 と伝えて今、落ち込んでます(T_T) 主人のありがたみがよくわかりました(T_T)
2007年01月31日
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西宮北口パソコン体験教室は順調に申し込みが入ってくる。http://www.prop.or.jp/topics/2007/0217/070217paso.pdf2007年2月17日(土)3時~4時半「障害のある子のパソコン体験会」が、兵庫県西宮市男女共同参画センター ウェーブ 413、414会議室で開催されます。実は、2月10日が定員に達したので追加開催される。・・・といっても2月17日も定員に達しそうである。ひとりひとりにアドバイスができるようにいろいろ工夫中。MIKIMIMIKIMIKIはかつて、パソコンの講師になるとは思ってもみなかったことでした。きっかけは、ゆとり教育のために学校が土日休になり、(・・・といってもこれは来年なくなるらしいが)学童保育所が3年までということもあり、息子が4年になったある日、私は衝撃を受けた。会社は残業だらけ。学童保育所がないので息子は夜遅くまでひとりで待ってた。時々親戚の助けを借りてなんとかやってたけどテレビを見てた息子の目がチック症になってたのをきっかけに、私は仕事を辞める決心をした。前、息子がチック症になったのは3歳のとき。そう、私と生き別れになったときだ。嫌な思い出が呼びかえってきた。「今だけや、一成、もう我慢しないでや。もうお母ちゃん、仕事を頑張るのをやめる。今までできなかったことをしばらく親子二人ですごそう、なぁ?」あっさりやめてしまった私。貯金もあるから、なんとかなるで。今の社会は誰も私とカズのために守ってくれるものはない。だからしばらくおかあちゃんも考えてみたい。あんたを一人で育てると決めたなのに、あんたがチック症になるほど我慢させたくないで。仕事はまた見つかるからええで。なんとかなるで。そういいながら私は5年頑張った仕事をやめた。しかし、やめた会社からは仕事の依頼が来る。「アルバイトでもいいから戻ってきてくれ」、だ。こんないい会社はない。そういっていただけるのは有難い。(今もなお、アルバイトとして3年続行中)けれど、社会は母子家庭に冷たい。だから、普通の会社で働くことはもう少し考えさせてほしい。と私は考える時間を作り続けた。いわば「自分探し」だ。そのとき、障害児の母親から相談された。「うちに来て息子にパソコンを教えていただけませんか?」これがきっかけだった。息子を思う母親同士。子供を想う気持ちは一緒だから迷いもなく引き受けた。息子を想って仕事の裏にはパソコンの講師としての私の目覚めが隠れていた。これが次第に口コミとなり、障害児の家を訪問してパソコンを指導するようになった。私に気が付いたのは障害児の世界が狭いということだった。「子供たちを白い鳩のように羽ばたいてやれるように私がするべきではないか?」子供たちの隠された才能を、子供たちを引っ張ってその力を私が世の中に見せるのが、私の役目かもしれない。そういう思いから「ひまわり教室」が誕生。そして西宮北口パソコン教室への実践まであと少し。多くの子供たちのメッセージと共に私は生きたい。私の夢は子供たちが立派に社会人としてパソコンの技術を身につけること。そしてたくさんの子供たちの絵(パソコンで描いた)をいつか展示したい。大切な子供たちのメッセージを多くの人や企業や社会に見せたい。「自分に自信をもつこと」「あきらめないこと」「楽しく生きること」を私はパソコン教室を通じて子供たちに教えて行きたい。実際のところ、子供たちのほうがパワーが強く、明るく私をびっくりさせます(笑)そんな子供たちが大好き!ですのでこの仕事も大好き!です。
2007年01月28日
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今日から「ひまわり障害児パソコン教室」に新しいインストラクターがきた。彼の名は「中村くん」。プロップ・ステーションのパソコン教室の後輩だった。そして、私は弟のように可愛がってた4年位だったかな?4年はずっとボランティア活動を共にしてた。私も中村くんもプロップから自立して3年。3年連絡をとってなかった。「ひまわりパソコン教室」を手伝ってほしくて(生徒がふえたため)声をかけた。すぐ応対してくれ、これからもずっと講師として仕事をしてくれることになった。ひまわり教室に明るい光ができてうれしい。生徒たちは男ばかりなので男の講師(若いしなぁ)になぜかうれしそうだ。障害児パソコン教室に必要な講師は内容だけわかるだけじゃ駄目なのだ。いろんな障害を受け止めることができる者でないとだめなのだ。彼は内臓に障害があるが、いろんな障害を持つ人たちとかかわってきたので私は彼にしかできない、と思って探した。そして何よりも明るい“突っ込み”が多いキャラクター。そして空気が読めるか、読めないのか不思議な人である。まじめにやってるのがどうも笑ってしまうようなキャラクターを持ってる彼である。友人が連絡先を知ってたので教えてもらってすぐメールしたら彼もびっくりして私のメールを出会い系のサイトのメールかと思ったらしい。よ~くみたら「あ、あのあんどうみきだぁ」と懐かしそうに見てたらしい。・・・・“安藤美紀”だもんな。無理もない。西宮北口のパソコン教室の方も応援にきてくれるらしい。西宮北口の障害児パソコン教室が実施できそうでうれしい。
2007年01月24日
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22歳のときだったかな。当たり前のように存在してた家族はバラバラになってしまって、自分のことはしっかり生きていかなくちゃいけないとひとりで大阪で暮らしてた。だから自分に厳しく他人にも厳しかった。そんな私にふたりの友人が転がってきた。愛媛から家出してきたMIKI2004さん、アパートの近くに住んでいたMIKI8194さん。二人はいつも私のそばにいた。私が怒って「こら~!!!」 二人とも部屋の隅っこで「ごめんなさい、ごめんなさい、怒らないでぇ」とおびえてたような。。。(眠りをジャマされて怒ってたこともある)私は新聞社の制作局で記者と一緒になってキーパンチャーをやってたため、夜遅くまでキーボードを打ってた。新聞社では「将来の制作部長候補」といわれてた(笑) 仕事をしてるときは時間を忘れるので楽だった。家に帰ってお酒を飲んで寝る。それが私の習慣だった。最愛の父と愛犬(マミー)を一年で失った。母が私の手を振り払って自分の人生を見つけるために引き止めることもできなかった。頼りだった兄は外国へ転勤してしまう。「神様はなんて意地悪だろう」あの時は誰も信じられなかったけど、目が覚めると、コーンスープの匂い、笑い声。ああ、またあの二人がいるわ。MIKI2004さんとMIKI8194さんの楽しそうな会話が振動で伝わってきた。(彼女らが暴れるから)私は二段ベッドの上で寝てた。「ああ、今日もゆっくり眠れない・・・」と思うと安心してる自分がいた。私は思ったのね、神様を信じないといってたけど、自分が変わるために別れと出会いが待ってるのだ。これは信じる。マイナスをプラスになるための出来事だと思ってる。私は彼女たちを「聞こえないのに、うるさい天使たち」だと思ってた。そして今もなお、この友情は続いている。何かあったときは助け合う。離婚しても、結婚しても、子供が生まれても変わらないのは友情。MIKI2004さん、MIKI8194さん、今までいえなかったけどお二人の存在に感謝しております。いくつになっても大好きだよ。だ~いすき♪お婆ちゃんになっても友達でいてね。MIKIMIKIMIKIは3人手を取り合って、世界中のどこかで会いたいです。(MIKI8194さんとは週に3、4回会ってるが)
2007年01月21日
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高校生のとき、親友だった“ゆかりん”からこの掲示板に書き込みがあったのでびっくり!私は鹿児島県生まれで鹿児島市育ち。高校3年までは桜島を背景にしながら漫画家を夢見る少女だった。彼女とは高校1年のとき仲がよかった。しかし、私は耳が聞こえないので授業もわからなく、教室移動があったことも耳に入らない。それを彼女が助けてくれたけど、彼女の友達が私の存在に迷惑してた。優しかった彼女は苦しかったんだと思う。(苦しめてごめんね)けれど、聞こえないのは当たり前であって、彼女の友達に理解してもらうのは難しいことだから私は仕方ないと開き直ってた。それから、彼女と疎遠になってしまった。その反面、彼女はずっと心に残ってたそうで、私に謝りたいとずっとずっと思ってくれたんです!なんと、私のことを探してたらしい。嫌なことはすぐ忘れる性質なのですが、彼女のその気持ちを聞いて凄くうれしかったです。彼女と私が通っていた高校は厳しい女学校として有名。“鹿児島市純心女子学園”大阪といえば宝塚の女子高等学校みたいなところと思ってくれたら理解できるかも。今思うと、よく卒業できたなぁ、と思う。幾度か、母に「私、高校辞めるわ」といった。母はまじめな顔で「いいのよ、ここまで美紀は本当にがんばったと思ってる。だから辞めていいんだよ」と言われてしまった。そんなわけで辞めたい、ってこれ以上言えなかった。そしてエスカレーター。東京純心女子大学。ここも厳しく、別の世界だった。音楽と美術の大学だからやはりお嬢様と変人が集まった。私は変人の方。私は寮(カトリック制)を追い出されてしまったので(ビールを飲んでたのを見つかったため)友達の家を転々と泊まりながら大学に通い、ホステスのマネージャーとしてアルバイトをして、絵の具代などを稼いでた。クラブの特別キャンペーンの手相師もやった。そんな水商売の世界とお嬢様ばかり集まる清らかな学院と往復の学生生活は楽しかったし、勉強になりました。そしてプレイボーイの陶芸家の下で弟子として居候してもらったことも。私は陶芸家が女とデートしてる横でろくろをまわしたり、いらなくなったお皿を割ったり、ふんだり、けったり。結局「陶芸家より漫画家の方がお金かからないのでその道に行きなさい」と追い出されたが(笑)ゆかりんに出会えてうれしい気持ちです。
2007年01月19日
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1月16日(火)AM9:30~AM11:00 にイオン化粧品の新春セミナーを大阪の中ノ島にある 国際会議場で行なわれた。 河端社長があたたかく迎え入れて下さった。 その場で私の描いてくれたバッグを披露するそうなんです。 もし可能であれば美紀さんに来てもらえないかな?と河端社長が招待してくださいました。 5分ほどの挨拶をさせてくださいました。会場に来られた方は全国から集まったイオンレディたち。2200人。 去年の国際会議で私は河端社長に一度お会いしたことがあった。河端社長はとてもあたたかいハートの持ち主でしたので私は挨拶をしたいと思い、近づきました。 多くの人たちに囲まれていた中での挨拶でしたので覚えるのは無理だと思います。しかし、そんな中、社長は私のことを一時も忘れなかったという。 「私は耳がきこえません。会話は口の形を読み取って理解ができますが、社長のスピーチを聞いて感動しました。障害者のために立ち上がったことは感謝します。こんな私ですが、宜しくお願いします」 私の渡した名刺の裏側には暖かい色のデザイン。 「この絵は私がパソコンで作成しました」 そんな台詞を社長は覚えていたのだ。 そしてその後、イオンのペーパーバックの30周年のデザインの 公募があった。私は何かのご縁だと思い、もしかしたらまた社長と会えるかもしれないと悟った。 「よっしゃあ!」とデザインに力を発揮した。 そして・・・この絵が完成したのです。 遠い日々。私の長い道のりを思い出しながら 私は皆さんに挨拶をした。 私を育ててくれた親は “親がいなくなっても一人で生きていけるように”と 心を鬼にして私を育ててくれたこと。 ご飯を食べるときおかずの名前を言えないと 食べさせてくれない。 いつも冷たいおかずばかり食べてたこと。 言葉はまだろくに話せないのに、 普通の学校に入れられたこと。 お友達がほしくて、漫画を描いてあげたこと。 「漫画」が私のコミュニケーションの手段。 東京での漫画の持込。アポをとるために電話が必要だった。 自分の力でやりたかったため、 アポなしで出版社で門をたたいて漫画を見てもらってた。 しつこい私に嫌気がさしたのか、 「耳が聞こえないから漫画家は無理」といわれたこと。 大きな転機が私に訪れ、28歳の時、 夫の家庭内暴力、DVによって3歳の息子を 抱き抱えながら逃げ回った日々。 お金がなくなって惨めな思いをした。 「あなたのような障害者に子供を育てることはできない」 とまわりに言われて、 私は息子と離ればれになってしまった。 帰る家もなく、お金もない。仕事もない。 そんな状態の中、私はアルコールに溺れ、 うつ病にかかってました。 生きるのがつらく、夜中に電車の線路を歩いていたこと。 そんな私にナミねぇは声をかけてくれた。 「パソコンを覚えてみないか?」 プロップ・ステーションのパソコンの教室に 通うことになった。しかし、講師のいってることがわからない。 パソコンと講師の顔と同時に読み取ることができない。 ナミさんとぶつかったことも何度かあった。 「これでもか、これでもか」とパソコンを猛勉強。 そして仕事が決まり、そのお金で裁判に訴えた。 「息子を引き取りたい」 わすが1年で息子が帰ってきたこと。 息子の寝顔を見れるってどんなに幸せなことなのか・・・! 普通に働いて、普通にご飯を食べて、普通に寝る。 そんな当たり前なことが私にとっては幸せだとは 今までは気がつかなかったこと。 そんな幸せを与えてくれたのは他ならぬ竹中ナミさん。 そこでイオン化粧品の皆様方、どうか、応援してください。 この出来事を何らかのかたちで伝えていくのを手伝ってください。 どんな方法でも構いません。 私は彼女と共に生きた日々を忘れないうちに漫画に描いて これから社会に生きる人たちへメッセージとして伝えたい。 「あきらめない」こと。 かつてどん底にいた私は竹中ナミさんに出会い、助けられ、 そして熱いハートのある河端社長に出会うことができた。 この舞台に立つことができ、 親から教えられた言葉で自分の思いを伝えることが できました。 本当に本当にこの場で皆さんに出会えて私は幸せです。 ありがとうございました。
2007年01月16日
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笑えるサイトを紹介します。たまに休憩するときこれを見ます。「言葉にできない」サイトですが、ガハハハと笑えます。いつも漫画のアドバイスを下さる上ちゃん(プロの編集者)から教えて下さったサイト。たまに見ます。http://www.youtube.com/watch?v=LIhbap3FlGc&mode=related&search=次はある掲示板で教えてくれたサイト。長い長い映像ですが、最後まで見ると、なんだか、涙が出ます。私もこんなムービー作ってみようかな・・・。心に響きます。http://pya.cc/pyaimg/pimg.php?imgid=6468&msgfull=yes
2007年01月14日
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2007年2月10日(土)3時~4時半「障害のある子のパソコン体験会」を開催するにあたって、多くの方々が呼びかけに応じてくださった。おむすびサークル、くるりんというパートナーのおかげです。申し込みは順調に進んでおり、新聞社からも取材が入ることになった。西宮市はもっとも子供たちの多いところである。今後も注目したい町である。私から見た、西宮市は神戸大震災の災害地であったため、その助け合いが生かされ、市民活動の盛んなところである。それだけでなく、プロップ・ステーションの理事長竹中ナミ(私の恩人でもある)から応援を受けた。プロップ・ステーションのHPにも記載していただいた。ありがとうございます!今後とも多くの出会いを楽しみにしております。
2007年01月13日
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とき 2月10日(土) 3時~4時半ところ 西宮市男女共同参画センター ウェーブ413、414会議室(バリアフリーです)対象 聴覚または身体障害のある小学生以上の子供と親 先着10組参加費 無料 ただし資料代200円を集金します。お問合せ 電話 0798-67-6641くるりん方FAX 0798-67-6641 mail :fmkumoi@nifty.comパソコン1台で仕事ができるようになった時代の今こそ、パソコンは子供の頃から身につけたいですね。パソコン1台で人生が大きく変わる。パソコンを身につけて社会に出て仕事に役立てられるよう、勉強しませんか?障害を持つ子供たちは「できた!」という喜びをなかなか生活面で得ることは難しい。パソコン教室でひとつひとつ小さな「できた!」を積み重ねて子供の成長を共に応援しませんか?聴覚障害を持つパソコン講師がお待ちしております。主催・主催団体おむすびパソコンサークル 「ウェーブ」の登録グループです。パソコンを便利な道具として使いこなすための学習会を毎週水曜日に実施。MAMIE 聴覚障害者ママが在宅ワーク、パソコン教室を展開することで働く場を創出しています。チャリティショップくるりん西宮北口駅近くでリサイクル&パソコン教室を開くNPO団体です。利益の一部は国内外の被災地へ送金、寄付をしています。豊中市にある「ひまわりパソコン障害児教室」が「きらっといきる」に放送されて以来、子供たちの目が変わりました。子供たちは生き生きとしてパソコンに向かう。今日も「ひまわりパソコン教室」があります。丁度よかった。今日、疲れ気味なので子供の元気をもらってきます。
2007年01月10日
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1月になると父親の死を思い出す。そういえば15年になるんだね、時がたつのは早い。父親の自殺で家庭崩壊。母親は車や倉庫に引きこもるほどノイローゼに近かった。そんな中で兄貴は母親を助けてた。しかしそれもつかの間。頼りだった兄貴は南アフリカ共和国へ転勤。髪の毛が真っ白になった母親。そんな母親を見ていられなかった。「一緒に暮らそうよ、私、ここに戻る」一時は大阪から鹿児島に帰るつもりだった。母親は私の手をはねのけた。「戻ってこないで」「あんたが頑張ってきた道のジャマにはなりたくない」何度いっても母親は頑固だった。でも私は母親に生きてほしいから「世の中を馬鹿にしてもいいから生きてて」ともらした。母親は昔から私に弱みを見せようとしなかった。私は母親が荷物を持って実家をあとにする風景を忘れることはなかった。大きな窓の向こうには母親の出て行く姿。母はとうとう家を飛び出してしまった。自分の道をみつけるために。これが本当の「自立」だと思い知らされた。そのときの私は家族の大切さを知った。私はその晩から、ずっと大阪に戻っても毎晩泣き明かしてた。幸い、新聞社(制作局で記者と打ち合わせしながらパソコンにまとめる仕事をしてました)という多忙なスケジュールに救われ、家に帰る時間は寝る時間だった。一人で寝るのが怖かった。眠れるように毎晩お酒を飲んでた。私は強がりなくせに弱かった。しかし、兄貴は誰よりも強かった。外国から戻っても実家に居続けた。母親が飛び出した実家に兄はひとりで居続けたのだ。その広い家に兄はきっと孤独と戦ってきたはず。そしてその家に明るい希望の光をもたらした。それは兄の3人の可愛い子供たちである。今は笑い声が絶えないという。あれほど不幸な出来事があったとは思えないほどだ。兄貴は父親が所属する水産会社で働いてる。過労死だといわれてた父の死を兄貴はどう受け止めてたんだろう。仕事先でも辛くなかったのだろうか?私なら父親を殺した海と仕事を恨む。裁判所に訴えるけど。兄貴が仕事をやめないから訴えないけど・・・。それでも兄貴は仕事をやめないで遺族の遺したすべてを継いでいくように水産会社で働き続けた。私から見ると、父親よりも兄貴が「海の男」に見える。父親は40年も海の上で生活してたけど、兄貴の方が海をもっと知り尽くしてるように見えるよ。兄に「感謝状」をあげたい。私は遠くに行ってしまったけど、兄貴はちゃんと実家に残り、3人の子供たちのよき父親として今もなお、亡き父親の「海への想い」を継いでいる。「お兄ちゃん、ごめんね」謝りたいことがあります。あのね・・・遠い昔のことやけど、いつも昔は航海に出るマグロの男たちのために大宴会やってたね。毎年のように。串木野さのさ荘だったかな。そこで私はずっとずっと羽を広げてた。いろんなおじさんに可愛がられてぐるぐるまわっていた。その途中で兄貴は母親とどっかにいってたよね。それは二次会の準備のお手伝いのために次の場所に行ったとあとで聞きました。長女の私は父親に可愛がられて最初から最後まで何も考えないで踊ってました。海の男たちに囲まれて宴会を駆け回ってましたね・・・。兄貴は泣きながら「なんで僕だけ?」とお手伝いしてたんだね。ずっと私に愚痴を言わなかったんだね。長男でもある兄貴の身、察します。そして、兄貴の強さには感心します。今働いている職場だって・・・父親の死がきっかけで勘当された安藤家の目の前やん。私なら塩を投げるが。あそこは通りたくないけど・・・。きっと、亡くなった父親は喜んでるよ。そして兄貴の部屋には父親と一緒に撮った写真が飾ってある。一緒に暮らしたこともまともに会話を交わしたこともない家庭的でなかった、ろくでなしの父親だったのに。でも。。。今は海で亡くなった男たちがお兄ちゃんを見守ってるはず。お兄ちゃん、頼みます。「海への想い」を。そして天国にいるお父さん、おじさん達。お兄ちゃんを見守ってやってください。お兄ちゃん、ありがとう。
2007年01月09日
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イオン化粧品が30周年記念として、ペーパーバッグデザインを公募。花の中の親指姫をモチーフにしてデザインを作成した。完成したペーバーバックが送られてきた。今年中に配布されることだろう。・欠点があっても最後にはハッピーエンドになれる。(親指姫)・イオンのイメージカラーは成功する女性の表れである。・女性の持つ力だからこそ、光になれる。・宝石で着飾らなくても花ひとつだけで華やかになれる。・風に吹かれる花の中はとても居心地がいい。・嫌味の感じさせない、どこか新しさを感じさせる魅力的な女。・憧れに終わるのではなく憧れを手に入れる。ペーパーバックを手に取るとこの絵の下には私の名前があった。(あとで気がつきました・・・)そして、横にメッセージがあった。うれしいメッセージだった。「2007年、イオン化粧品はおかげさまで30周年を迎えます。これを記念して、新しいショッピングバッグを作成しました。デザインには、イオン化粧品がサポートしている「社会福祉法人プロップ・ステーション」のご協力により、チャレンジド(障害をもちながら社会に役立つことにチャレンジしている人たち)に作品を制作していただきました。モチーフは花の国で幸せに暮らす親指姫です。チャレンジドの人たちがもっともっと社会参加できるよう、この作品を通じて大きな助け愛の輪が広がることを願っています。」イオン化粧品の社長並び、ご協力いただいた方々、そしてデザインを描きなさいと薦めてくださったナミねぇ、(プロップ・ステーション理事長)お礼を申し上げます。そういえば、去年の夏、イオン化粧品の社長にご挨拶をしたとき、社長はとても熱い方だった。チャレンジドの活躍にとても熱心に耳を傾けておられた。このように、チャレンジドの活躍にいろいろ企業の方が目を向けてくださるのは今後の障害者の社会参加の励みになれる。ありがとうございます、そして、私たちはその想いをいつまでも障害児たちに継いで行きたい。次は子供たちが輝く番だよ、私はパソコンで絵を描く技術を子供たちに指導し、作品を多くの人に見せたい。そして自分に自信をもつこと。自分の想いを伝えること。苦しみもいつかは生きる糧となるもの。やっと、今は何かを見つけたような気がする。そんな喜びを子供たちに教えて行きたいです。
2007年01月06日
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昨日は仕事始めで、会議をやった。やけに長い。いつも長いけど、やけに長くなっちゃいました!MAMIEの今年の目標は・・・・ 助成金に応募をたくさんできるようになりたい。イベントに出店ができるようになりたい。くるりんのお店で仕事ができるようになりたい。風水に力を入れたい。パソコン教室についての目標・・・子供たちが資格を取れるようにすること。またはパソコンで絵を描いてそれを公募する企画もたててみたい。西宮パソコン教室も障害児教室が実施できるように力を入れたい。聴導犬に寄付ができるように力を入れる。慰安旅行などにいけるように月にお金をためること。(慰安旅行用として)まとまったらいざ神社へ。駆けつけたのは安部晴明神社。http://moura.jp/uranai/abeseimeijinja/そこでMAMIEスタッフと初詣をした。そのあと、みんなが「ねぇねぇ、おみくじをやろうよ!」というのでおみくじを引くことにした。なぜか箱の中で一枚だけ私の手の平から離れない?ぴたっとくっくつのだ。静電気?みたいに。仕方ないのでそのおみくじを取ると・・・なんと「大吉!」おお~!みんなも「おお~!」おみくじを絵馬の裏側におりたたんで結んでください、といわれたけどみんなが「大吉だからやらんでいいやろ」そうやね、と私はお財布の中に大吉のおみくじをしまった。今年は素敵な年になりますように・・・
2007年01月05日
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1月1日。ようやく台所に立った。おせち料理の準備。やはり日本人であるのだから、料理はおせち料理でお正月を迎えよう。11時からスタートして6時の夕食になんとか間に合った。息子が大喜びしたのは栗きんとん。栗を包んださつま芋。生ハムで薔薇を作ってみた。ユリナを油で揚げて揚げ豆腐にかけた。ぎんなんを油でいためて串にさした。車えびを焼いてみた。仕上がりに塩をまぶした。数の子の塩抜き。何度も水を入れ替えて綺麗に皮をはがした。鶏のから揚げ、たこのから揚げ、えびのから揚げ・・・・。あとはぶりをしょうゆにつけて焼いた。「おせち料理っておくが深いやな」と独り言をいいながら作ってた。れんこんもいためる前に酢の入った水に入れとく。おせち料理を久しぶりに作って作れなかったのはたたきごぼう。(あとで作ってなかったと気づく)茶碗蒸し。(うまく作れなかったのぉ、修行が足りない)たらの煮付け(もう少し時間がほしかった。何度も何度も水につけるべきだった)来年はこれが課題やね、来年も頑張って作るわ~
2007年01月02日
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あけましておめでとうございます。 1月1日。2007年か。 私は35歳は人生の真ん中やと思ってる。 ああ、もうこの年を過ぎてしまったのか。 (私も年をとるわけだ) 息子も中学生になる。 早いものです。 昨日は年越しそば間に合ったよ。 いつも年越しそば、12時過ぎてから出来上がってしまうんで、 息子が「今年は間に合うように作れよ!」 私は紅白歌合戦を見ながら作ってた。 私もあの会場から生の紅白歌合戦みたいなぁ。 MHKもやっと紅白歌合戦華やかになったね。 問題が起こった紅白歌合戦、えらい地味にやってたので それはびっくりしたけど、やはり紅白歌合戦は華やかさが 一番やね! 歌の良さがよくわからないけど・・・我が家には ホームシアターセット(なぜかインターネットのクイズで 大当たり)がおいてあるので、 なんとなく、音楽ってええなぁと思うようになった。 息子の歌やダンスのステージにも観に行くので ミキティはコンサートってええなぁと思うようになったの。 だからコンサートとか行く人の気持ちがよくわかるように なった。音楽を聴く楽しみは身体で感じるものやな。 息子が歌とダンスに興味を持って実際に習ってるから、 私も一緒になって少しでも音楽の世界に入ろうとしてる。 今年はいろんなことにチャレンジしよう!
2007年01月01日
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