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いいお天気の一日でした。朝近くの公園でカモを見ながらパン屋さんのパンを食べ遅い朝食を済ませました。その時咲いていたのがこのゆきやなぎです。その後自宅近くの交差点で信号待ちをしていると、ガソリンスタンドのお兄さんが一台ずつにチラシを配り、なにやら声掛けしています。私の車のところにも来て、チラシをくださいました。『24、25、26日の3日間の間に給油をしてくださった方に液晶テレビが当たる抽選会があります』とおっしゃるので「レギュラーいくらですか?」と聞くと『120円です』との答え。よっしゃ、ちょうど給油しなくちゃいけないし、もれなくティッシュ3箱かトイレットペーパー8個をいただけるそうなので、行ってみました。スタンドは車が並んでいます。みんなチラシに呼ばれて来たのですね。その最後尾について待つことしばし。『お待ちになっている間車内にお使いください』と雑巾のサービス。さらにウィンドーだけでなくボディまで拭いてくれています。忙しくてマイカーを構ってあげていなかったので、少々ハズカシイ。抽選は中でやっていますのでどうぞお入りくださいと言うので、抽選会場へ。1等液晶テレビ 1本2等iPod 3本3等トートバッグ20本液晶テレビも、iPodも残っています。三角くじはみごとにはずれ。トイレットペーパーをいただき、帰ってきましたが・・・。よく考えたら、液晶テレビがもう当たっていたら、ねえ。でも、この辺りではリッター120円以下は見当たらないし、トイレットペーパーをゲットし、ボディまできれいにしてもらったのだからこれ以上何を贅沢言っても。まんまとお店の戦略にはまったミンティ♪でした。
2006年03月25日
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今日は長男が入学する予定の高校に行って来ました。長男はクラス分けのためのテストがあり、一足早く学校に。私と次男は保護者説明会の開始の時間に合わせて家を出ました。最寄駅からはスクールバスなのですが、ちょうど駅に着いたとき学校のプラカードを持った学校の先生?か職員の方がいらっしゃったので「子どもが一緒なんですがスクールバスに乗っても構いませんか?」と尋ねました。快いお返事をいただいてすぐ、ロータリーの反対側からこちらに向かって走り始めたバスを止めてくださり、私達を乗せてくださいました。次男は少々もやしっこです。バスは9割方席が埋まっていて、10人くらいの方が立っています。最後列のあたりにいくつか空席がありました。次の信号で止まったら席に移動しようと思い、次男に「止まったら後ろに行こうね」と話したら、目の前の方が席を譲ってくださいました。お礼を言って次男を座らせると譲ってくださった方が「何年生?」と次男に尋ねました。「6年生です。もう中1ですけど」そっけなく答える次男(;^_^A学校についてもう一度お礼を言い、体育館へ。今日は思ったより寒く、暖かい格好をしていって正解でした。予定になかった校長の挨拶で、いいお話がありました。「山を登ると決めて、頂上を目指す人はいきなり最短距離で頂上を目指すわけではありません。急な坂はジグザグに登った方が楽に登れます。でもそれだけたくさん歩くことになります。山を登ろうと思わない人は山のふもとにさえ来ないのです。ですからお子さん方にはこの3年間でいろいろなことを学び、自分の進路を見据えていってほしいと思っています」もっと本当はうなるようないいお言葉だったのですが、全てを書き留めることができず、このような主旨のことをお話になったんです。高校のHPには月に一回校長の挨拶が載ります。長男より私が楽しみにしています。寝不足で一瞬ぐらっと来そうになりましたが、なんとか終了。次男も2時間の説明の間、隣でおとなしく本を読んで待てました。終了30分前くらいからは「まだ?」と5分おきくらいに聞かれましたけれど^^。試験の終わった長男と一緒に帰りのスクールバスに乗りました。今度は満員でやっと運転席のところに滑り込みました。次男は興味深そうに運転席を見ています。うちの車はサイドブレーキを引くのではなく、踏みます。マニュアル車を見たことのない次男は不思議そうに足元を見ていました。「一番左の、サイドブレーキ?」と聞くので「サイドブレーキはこれだね」と乗用車よりとても大きなサイドブレーキを教えてあげました。駅の近くになって大きな国道を横切ります。「長いなこの信号」そう次男が言ったとき、運転手さんが「ここは国道だからね、○○街道だよ、知っている?」と次男に話しかけてくださいました。次男は「知ってるよ、△号でしょ」と言い、まだ運転手さんに話しかけたそうだったのですが、信号が青に変わりました。「青だからね、運転手さんは『集中』だよ」と次男にはお仕事の邪魔になってしまうことを教え、運転手さんはそれをにっこり聞いていました。とても丁寧な運転で立っていてもほとんど体を持っていかれることがありませんでした。降りるときありがとうございましたとお礼を言ったのですが、「よろしくお願いします」とご挨拶されている父兄の方もいらっしゃいました。またまたいい出会いがあってうれしい一日でした。
2006年03月24日
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春の雨が降っています。先ほどベランダに出たらしっとりと土ぼこりの混じった降り始め特有の匂いがしました。夜の雨が好きです。布団に入って聞く雨音はなぜか安心して眠りに落ちる、不思議な音です。ザーザーいう音が母親の胎内にいたときの羊水の流れる音?だと聞いた覚えがあります。雨のシチュエーションの曲はたくさんありますね。今思いつくのは竹内まりや 春の嵐 毎日がスペシャル SMAP どんないいこと 思い出そうとするとタイトルがすぐ出てこないものです。今日桜のつぼみをみたら、花びらの桜色が見えて枝全体が少しぼおっとしたようなそんな微妙な感じでした。この雨が上がったら、もう待てずに花開くことと思います。
2006年03月22日
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つい先ほど宮川泰氏の訃報を聞きました。私が宮川泰氏の作品と出会ったのを意識したのは「アニメ宇宙戦艦ヤマト」の挿入歌、映画のサントラ盤などででした。皆さんもご存知かと思いますけれど、「ヤマト」以前から私が氏を宮川泰と意識する前にも氏の作品には多く触れていました。その後氏の顔を覚えることになった番組はNHKのタモリと加賀美アナウンサー司会の「テレビファソラシド」でだったと記憶しています。この番組の中でバンドが演奏する曲の編曲・指揮なども氏であったと記憶しています。その後私は子どもを授かり、NHK教育TVの夕方の音楽番組「クィンテッド」で氏の長男彬良氏と出会いました。宮川泰氏と彬良氏が親子であることは彬良氏の「クィンテッド」でのピアノ演奏を見てすぐ確信できました。なかなか上手に検索できず、不確かで間違った情報をUPしているかもしれません。間違いがあったらどうぞ書き込みしてください。合掌
2006年03月21日
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ミンティ♪地区では今朝8時30分から9時30分までの間NHK総合でトリノパラリンピックの総集編が放送されました。全盲のチェアスキーの選手が滑降でバランスを崩した後すぐ持ち直し、そのわずかなロスさえカバーして、見事金メダルを勝ち取られたのは感動的でした。その選手は夫のリードで急斜面を滑ります。彼女の言葉が印象的でした。「怖いことなんてないわ、夫を信頼していますから。」
2006年03月21日
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今日はまた少し春らしい陽気になっています。桜のつぼみはだいぶ重そうになって枝にもたげています。お彼岸の中日。あとで牡丹餅を買いに行きましょう。長男は所属していた科学部の卒業生の追い出し会に呼ばれ、朝から準備していました。そういえば、辞校式は私も伺う予定ですが、きっと学校側もお忙しいはず。そう思い、卒業式に担任などと撮った写真をプリントし、ついでにサプライズで部員の子ども達に差し入れをしようと思い立ち(ここが私の止められない多動な面です(;^_^A)同じ科学部のママ友と100円ショップで待ち合わせることにしました。2缶で100円のジュースを人数分買い込み、プリントした写真を持っていざ中学へ。1、2年生のジャージ姿に出迎えられ、差し入れを渡して記念撮影をすることに。○中には敷地内にビオトープがあります。前任の科学部顧問が造ったビオトープをみんなで守っています。そのビオトープの前で、記念撮影。いつも思いつきで行動してしまうミンティ♪ですが、今日は満足です。
2006年03月21日
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近所の保育園のかんひざくらです。今日は空がすっきり晴れ渡り、少々風が冷たかったのですが、きもちいい一日でした。風は北西の風だったでしょうか。まだまだ、肌に刺す感じの冷たい乾いた風でした。でも通りを埋め尽くすように植えられている桜の木のつぼみはもうあと一日春の陽気が訪れたらほころびそうです。今回は携帯の画像なので、今度はデジカメでミンティ♪の四季をUPできたらいいなと思っています。
2006年03月20日
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お昼前に長男と家を出て、4月から使う教科書を買い求め、長男はさっさと帰りたかったようでしたのでさっさと帰しました。漫画喫茶と思ったのですが、観たい観たいと思いながら観に行く機会を失っていた有頂天ホテルを上映している映画館があったので、観てきました。前回映画館で映画を観たのは去年の暮れのハリーポッター。映画を観に行った感想は、観に行った感想です、作品の感想ではないですよ。ひとりで観に行ってよかったなあ、です。時間をおいてもう一度じっくり観たいです。気になるところがありまして。♪If they could see me nowThat little gang of mine ……♪
2006年03月19日
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うちの親はマンガなんてとんでもない、という人達です。戦中戦後世代はみなそうなんでしょうか?そんなことないですよね。小学館の小学○年生などの雑誌も一切買うことはできませんでした。そのかわり絵本はいくつも買ってもらいましたが、父に読後の感想を言わされて本から遠ざかるようになりました。小学生のお小遣いはしれているので、雑誌を毎月買うことなどできません。私がマンガと出会ったのはまずは学研の科学と学習の中のちょっとしたマンガ。その後幼馴染の家で「なかよし」に出会います。当時は『キャンディ・キャンディ』のいがらしゆみこや里中満智子あとスパンクを描いていたのは誰だったかな?キャンディ・キャンディは友達のうちにコミックも揃っていたので、首が痛くなり顔を上げるのがつらいくらい読みまくっていました。里中満智子の作品はもう、もう・・・興奮して一心不乱に読んでいたのではないでしょうか。今想像すると、当時の私は誰にも見られたくなかったですね。その後は別の友達が「りぼん」を買い始め、全員プレゼントに憧れましたが、小学生のうちはやはり毎月りぼんを買うほどお小遣いはありませんでした。りぼんでは一条ゆかりとかを思い出します。なかよしやりぼんの思い出はきっかけさえあれば思い出すと思うのですが、今なにも調べないではこのくらいしか思い出せません。コロコロコミックが創刊されたのも私が小学生のころだったのではと記憶しています。小学校3年か4年のとき引っ越してきた男の子がたくさんコミックを持っていて、ドラえもんはその子から借りて読んでいました。ドラえもんで印象に残っているのはドラえもんが21世紀(?記憶が曖昧)に帰ってしまってのび太くんが悲しむ場面、あと戦時中のゾウのお話、台風のフー子のお話。みんなちょっとせつないお話ですね。まことちゃんも借りましたが、当時わたしはあまり楳図かずお先生の書く絵が受け入れられず、なんだか怖かった思い出があります。その男の子からは、ブラックジャックや三つ目がとおるなんかも借りました。我が家で小学生時代買ってもらえたマンガはサザエさんが少しと、スヌーピーのマンガでした。私は屋根でマンガを読むのに憧れていて、一度屋根でマンガを読みたいと思っていたのですが、小学生時代住んでいた家は平屋で一度だけ増築したときに大工さんがはしごに登っていいと言ってくれてたしかサザエさんを持って屋根に上がった覚えがあります。スヌーピーは当時キャラクターにはまっていただけでした。マンガを買いましたが、自分の好きなスヌーピーの表情を探しているだけだったです。あの風刺の中身がわからないまま、眺めていただけでした。今またもう一度読んでみたいです。以前住んでいた自治体に漫画会館というところがあって、夏休みに漫画図書館を開放していました。それに気付いたのが長男が中学一年になったときなのですが、夏休みの美術の宿題で美術館に行き、絵の模写と美術館の案内を作成するというのがあり、自転車で行ける漫画会館に数回通ったのです。今日はこれから、高校の教科書を買い求めに出かけるのですが、時間があったら漫画喫茶に寄ってみようかな、とちょっと思っています。
2006年03月19日
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昨日は担任を交え魚民で打ち上げ会でした。クラスは32人、出席した保護者は16人ほど。今まで保護者の親睦会などはほとんどと言っていいほど欠席してきました。なんていうか、肩身の狭い思いをするようで、必ずしも学校で順調に行っていない長男の「母親」として出席する自信がなかったのです。授業参観があれば、廊下から覗く程度。懇談会で机に名札を出すのもためらわれるような、そんな卑屈な思いでいました。でもそれは言い換えれば私が長男をきちんと受容できていなかったんだなあと今は思います。不登校を経て、長男も自分のことを、私は母親としてのスタンスをしんどい時間を過ごす中で見つけ今があります。やっと保護者の飲み会に出ようという気持ちになれたんですね。楽しかったですよ。今歯の調子が悪いので、アルコールを飲めなかったのですが、妙にテンションがあがり、思わずオレンジジュースのグラスを倒してしまい(;^_^A3時間の予定のところ30分早く失礼させてもらったのですが、席を立つとき担任からもらった言葉に対しての感謝を述べてきました。担任は「○中を卒業したことを誇りに思え。自信持っていいぞ。」と長男に言ってくださったのです。そのお話をして、「他の学校にいたことがあるから、先生の言葉がよくわかります。みなさんはずっとここにいらっしゃるからなかなか気付かれないかもしれませんが、本当にいい学校だと思います。」と言って失礼してきました。担任は今まで9回卒業生を見送ってきたそうです。成人した教え子とは社会人同士として教師と生徒ではなくお酒が飲めることを喜んでいらっしゃいました。「なにかあったらいつでも来てください、アフターフォローしますから。」この言葉、今の教師で言える人はどのくらいいるでしょうね。
2006年03月18日
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近々引っ越す予定のところは自然が豊かで、近くに沼があります。ボートなどにも乗れるようです。スワンもあるのかな?と思ったとき、以前NTV系列でやっていた『電波少年』を思い出しました。子育てに追われて子どもと一緒に眠りこけていた時期を少し過ぎ、子どもと一緒に寝付いた後、ちょっとして目が覚めて深夜番組をよく見ていた時期があったのです。早寝の私には日曜10時以降の番組は深夜番組。最初に見たのは猿岩石のシルクロードの旅だったかな。次がチューヤンと伊藤くんのアフリカヨーロッパ縦断の旅。その間になすびの懸賞生活かなんかが入ったかも(記憶が曖昧です)。でロッコツマニアのスワンの旅。瀬戸内海の無人島から太平洋をお台場までスワンで移動するというもの。番組の演出がどの程度あったのかは定かではありませんが、ペアになった2人の男性がときにぶつかり合い、いたわりあいながら続ける旅を見るのはなんだかいろいろ考えさせられたりしたものです。私の記憶が正しくなければ・・・、ぜひ突っ込みを 笑。
2006年03月17日
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昨日新たまねぎを買いました。この時期に新たまねぎを購入するのは私にとってちょっと贅沢です。でもサラダにして一緒に食べたい食材があったので思い切って食することにしました。今朝スライスしてサラダにしていただきました。おいしかったですよ。味覚、好みというのは年齢を重ねると本当に変わってきますね。子どもの頃「え~五目きんぴら?普通のきんぴらごぼうのほうがいいのに」なんて思っていたのが、今では母にレシピを教わっていなかったことを後悔しています。忙しいとつい手抜きをできるところから手抜きをするため、どうしても食事の支度にかける時間を省いてしまいますが、できればもっと野菜多めの食事にしたいのです。素材の味を子ども達に覚えておいて欲しいんですね。私がこの年になって五目きんぴらや和え物などが食べたくなったように、きっと子ども達のどこかにもその味の記憶が残るのではないかと思うのです。
2006年03月15日
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一足早い春を満喫してきました。梅は見ごろを過ぎ、こちらではつぼみの固い木蓮が満開でした。家々の玄関先のゆきやなぎやレンギョウも満開。なかには気の早い桜が満開になっていて、道の駅の化粧室の鏡の横に活けてあった沈丁花からはいい匂いが漂っていました。日常に追われ非日常を体験することがずっと億劫になっていましたが、時には全く日常と違う環境に身を置くことは大事なことだと感じました。あいかわらずこちらの木蓮はまだ固いつぼみのままです。今日は14日、3月も半分が過ぎようとしています。あと二週間のうちにはこの辺りも花々でいっぱいになることと思います。わくわくしますね、春は^^。
2006年03月14日
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3月10日長男の中学の卒業式でした。ぱらぱらと小雨が降り出してきて体育館へ急ぎました。校長の式辞は印象に残るお話でした。ご自身もこの3月で校長の職を辞されるため、今までの教員生活を振り返ってのお話でした。ミンティ♪市の中学は以前荒れていた時期があります。ミンティ♪の実家近くの中学でも放火事件がありましたし、窓ガラスが叩き割られたり、暴力事件があったり、とくにベッドタウン化しはじめて少したったころだったのではなかったかと思います。校長はまさにその渦中で教員生活を送られてきたことになります。鉄パイプで殴られて、そうとは言えずに階段から落ちたと言って治療してもらったこと。刺すぞと言われて、さらしを巻いて通勤したこと。それでもやはり子どもとかかわることが好きで教員を続けてこられてたとのことでした。教務主任になったとき、担任を持てなくなり子どもと密にかかわる機会が減って授業と部活でしか子どもと接することがなくなり残念だったこと。教頭になるときも授業数が減って寂しい思いをしたこと。校長になって、授業という場では子どもと接することができなくなり夏休みに校長室で英語の講習を開いていたこと。退職するまで部活の顧問として子どもとかかわっていたことなどのお話がありました。体育祭のとき、校長は張り切って借り物競争で生徒達と走り回っていました。そのことを思い出して胸が熱くなりました。その後の来賓の挨拶で市の教育長が挨拶をされたのですが、持っていらした原稿をほんの数行読んだ後、「これは作文です。作文はこちらにおいて今日は○中についてお話したいと思います。」と校長の式辞に対する思いや、○中へ訪れた感想、○中近辺の歴史、初めて聞く話に思わず聞き入りました。在校生の送辞、卒業生代表の答辞、飾らない言葉で素直な気持ちが伝わりました。そして○中が力を入れていた合唱。歌声委員がいると聞いて、はじめはびっくりしましたが、その取り組みは素晴らしいものでした。最初は練習でもめたリ、声が出なかったりということが毎年あるようですが、合唱コンクールは素晴らしいものでしたし、そのときの課題曲を卒業式に披露してくれて、涙が止まりませんでした。決して派手ではないけれど、心に残るいい卒業式でした。そして、この中学に通えたことを誇りに思え、自信を持っていいぞ!と長男に言った担任。本当にそう思います。○中のますますの発展をお祈りします。
2006年03月13日
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今日はクリニックに行く日でしたので、朝からばたばたと支度をして電車を乗り継ぎ行って来ました。電車に乗っている時間が長いのでいつもMDは3~4枚持っていくのですが、どうしたことか朝用意しておいたMDを忘れてきてしまったようです。MDプレイヤーにセットしてあったのは2002年のウィーンフィルニューイヤーコンサートのMDです。そう、小澤征爾氏がタクトを振ったときのライヴ音源です。それまでニューイヤーコンサートをテレビでゆっくり観る機会がなかったのですが、この年のお正月は実家でゆっくりすることができ、じっくりと鑑賞したのです。レンタルできるクラシックはほんとうに限られていて、欲しいものはなかなか近所のレンタルショップにはおいてありません。そんななか、このライヴならと借りてきたのです。中途半端にクラシックを聴いているものですから、ウンチクなどはとんでもないですが、やっぱり小澤さんの指揮の曲はいいです。エネルギッシュというか、緊張感が溢れているように私は感じます。今小澤さんは少し体調を崩していらっしゃるようですね。早くお元気になられて活動再開されることをお祈りしています。そして一度ぜひ生でその演奏に触れてみたいと夢見ています。
2006年03月09日
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長男の卒業式が近づいています。入学予定の学校からはネームの入った体操着や制服などがもう手元に届いています。私が高校受験した頃とちがって今の我が県では夏休み前から高校見学をします。公立・私立問わず、なるべくたくさんの学校を見たほうがよいとのことで、親子で出かけた学校もあります。不登校だった長男は長期不登校の間の学習が欠落したままでした。目安にと受けた業者テストでも教科によって成績に偏りがありました。秋になりそろそろ志望校を決めていかなくてはならなくなったとき、入学予定の高校に出会いました。二度三度と足を運び文化祭、進路相談、説明会を受けるうち、本人も私も高校の3年間をこの学校で、という思いが強くなりました。12月に入り、進路希望調査も決定させることになったとき、長男が憤慨して帰宅しました。クラスメートのある子が、嫌がるのに進路希望調査票を書き込む長男の手元を覗き込んだ上、みんなに聞こえるように志望校を言った、というのです。私は怒りが湧くのを抑えられませんでした。高校はどうしても能力別で選別されるわけです。定期テストの点数をばらされたのとはわけがちがう、そう思いその子の父兄とは顔なじみだったため、長男がこれ以上その子に何も対処できないと考え、直接事情を話しにいきました。父兄の方は最初戸惑われていました。自分の子どもは軽い気持ちだったと思うとおっしゃりました。その後、全く別の話で「長男くんが合唱コンクールを聞いているときおしゃべりが過ぎていたのをうちの子だと間違われてちがうクラスの相性の悪い子からうちの子が八つ当たりされた」というような話を聞かされました。私は父兄の方に謝って欲しくて話をしたのではありませんでした。こういうデリケートなことを本人の了承なしにみんなの聞こえるように言ったりすることはよくないと思うし、私は理解しがたい、そう伝えたかっただけでした。最終的に「うちの子のしたことが悪かったとしたら謝ります。今までの私の子育てを否定された気持ちです」とおっしゃりましたが、そんなつもりはありませんでしたので、今日のことについて、黙ってはいられなかったことだけ伝えました。すぐ本人を連れて謝りに来ました。でも長男は許せネェ、と言っていました。その子からは実はもっとひどい言葉を浴びせられていました。あんな学校「ガイ児の行く学校だ」初め何のことかわかりませんでした。ガイ児とはしょうがい児のことだったんです。何を根拠にそういうことを言うのか理解できませんでした。長男にはしばらくその子とは距離を置いた方がいいとしか言えませんでした。対等にってとても難しいですね。しょうがい児とのバリアフリーがどうやったら進められるのか、そう思います。上から見下ろすようにしょうがいを持った人々を見る人たち。でもしょうがいがあるからしょうがい児・者は不幸なのではありません。先天性にしろ後天性にしろ、健康な人よりちょっと暮らしに工夫がいるのです。日本はしょうがい児・者への理解や心の教育が遅れていると常々感じています。私だって子どものことを本当に受け入れられるようになるまでずいぶん時間がかかりました。全ての人にわかってほしいというのは無理でもせめて身近な人にはわかってほしい、今はそう思っています。中学でいっぱい悩んで友達にもまれて、たくさん考える時間を持てた長男にバンザイ。
2006年03月08日
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昨日、仲間と会ってきました。暖かい、気持ちのいい晴天で、歩いていても電車に乗っていてもウキウキしました。窓からよく景色の見えるバイキングでみんなで食事を取りました。久しぶりの人もいれば、おはつに顔合わせの人もいて、でもみんなすぐに意気投合。仲間の連れてきた子ども達はすぐ飽きるかと思いましたが、バイキングで好きなものを食べられるとあって、結構おとなしくしています。ひとしきり大人も子どもも満足できるほどおなかを満たし、まったりとトークタイム。このあたりから、お子ちゃま達はそろそろ飽きてきます。そこで、折り紙登場。まずはカメラを折ってみました。しかし、みんな保育園育ち。「知ってるよぉ~」と相手にされません。ならば、と持っていった折り紙の本を出し、興味のある子に折り紙を与えて、あーでもない、こーでもない、と四苦八苦。おりがみに興味のない子二人が飽きて来たので、それではとテラスに連れて出ました。お台場海浜公園が一望できます。たくさんの船が動いていて、まずは「何艘見えるか数えよう」次は建設中のビルの最上部に見えるクレーンの数。見えるだけでも15近くありました。いろいろと探し物をしているうちに8歳の男の子が「飛行機ってどうやって数えるか知ってる?」と問題を出しました。一緒にいた子はその男の子と普段から交流のある仲良しの6歳の女の子。「おばちゃん、知ってても言っちゃだめだよ」とっさに忘れちゃっていたんですけど、ふと見ると女の子がテラスのテーブルに隠れるようにして座っています。顔を見られないようにこらえて泣いていたんです。びっくりしました。そして「今たまごっちやるの!!」と言ってこちらが何か話そうとするとさえぎります。男の子はどうしてそういう展開になったのか理解できず、お母さんの元に戻っていきました。多分ですが、女の子は質問された答えがわからず答えられないのが自分だけと思い、それがつらくて悲しくなっちゃったんですね。その「試されているような不安」って私も子どものころ経験がありわかるんです。「○○ちゃん、○○ちゃんが好きなことをやっていいんだよ。たまごっちやっていいよ。泣いてもいいよ。おばちゃんずっとここにいるからね」そういうのがやっとでこちらもウルウルしてきてしまいました。自信が持てなくて不安になってしまう。でも、大丈夫、焦らないでねって伝えたくて、でもうまく伝えられなくてその女の子は抱きしめられることも拒みそうだったので、ママに事情を話し気持ちの切り替えを見守っててねとお願いしました。飛行機の問題を出した男の子はまったく悪気はありませんでしたし、ことの事情を話してもちょっと難しいかな、って思いましたが「○○ちゃんはまだ知らないことを聞かれたからちょっと困っちゃったみたいだよ」とだけ話しておきました。子どもは意外なほど敏感に周りの空気を読んでいます。そして、いつもいつも周りの空気を読むことだけに神経を使わなくていいように大人が受け止めてやらなくちゃいけないんだなって、のびのび感じたままに自分を抑えることなく出せる場を作ってあげなくちゃって思いました。それができて初めて相手にも気を配ることができるだろうと思ったのです。自分を大事に、相手も大事に。
2006年03月05日
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今日は朝から用事があり、全て済ませて帰宅したのが16時過ぎ。最寄駅に着いたとき、南の空は明るくて、北の空は鉛色でした。なんだか、夏の夕立の前のような雲。家に着いて少しした頃長男が帰宅しました。「痛いんだよぉ」と言って。見ると制服が濡れています。「降ってきたの?」と聞くと「みぞれみたいのが顔に当たって痛かったんだよ」とのこと。どれどれと窓から手を伸ばすと確かに「痛い」んですね。母と子で窓からにゅっと手を伸ばして(;^_^A「痛いねえ」「だろ」ひなまつりなので(?)いちごのムースのケーキを買って帰ったのでそれを食べ、しばらくしたら雷が。この季節の雷はめずらしいです。出かけた先の都内ではもう沈丁花が咲き始めていました。雨が多いこの季節、暖かかったり寒かったり、本当に季節がいったりきたりしていますよね。晩御飯は、はまぐりはちょっと高いのであさりのお味噌汁と簡単ちらし寿司に錦糸卵とサーモンをトッピングしました。来年のおひなさまには何かキットを使ってちょっとした雛飾りを作れたらいいなと思っています。
2006年03月03日
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肩こりで整形外科に通っています。首の骨がまっすぐなのが私の肩こりの原因のひとつでもあるそうです。頚椎は普通緩やかに前に向かって曲がっているらしいです。でも私の頚椎はまっすぐだそうで、そういう人は多いとのことです。しかし、そのまっすぐの頚椎を治す根本的な治療がないとかで、今の所整形外科のリハビリに週2~3回行き、おじーちゃんおばーちゃんに混じって低周波を肩からかけてもらったり、首の牽引をしてもらっています。若いスタッフさんが多く、いつもBGMにJPOPが流れています。おじーちゃん、おばーちゃんはとにかく話し相手になってほしくて一生懸命スタッフさんとコミュニケーションをとっています。私はそんななか、自分の時間を満喫すべく、BGMに酔いしれ時々は居眠りしてしまうこともあります。夕方の診療終了間際が空いているので、今日も行こうかと思ったら雨がぱらぱら。うーん、やっと上がったのにまた雨。なんとなく頭痛もここ数日ひきずっているので、今日は歩いてまでリハビリに行くのは断念しました。急いでお肉屋さんに行ってひき肉だけ買い求め、晩御飯は麻婆豆腐にしました^^。明日は晴れ間がのぞくといいな。
2006年03月02日
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朝から雨です。一日降り続くのかな。銀行に用事があったので、混まないうちにと9時過ぎに家を出て、その後買い物をするのにお店が開くまで、図書館で時間つぶしをしました。週末に仲間と会うことになっていて、なかには小さいお子さんを連れた方もいらっしゃるのでそのとき遊んであげられるようにと思い、折り紙の本を2冊借りました。ついでに婦人公論の最新号をななめ読み。志村けんさんの記事に「ふーん、なるほど・・・」。10時半を過ぎたので、100円均一のお店で折り紙と折った折り紙を持って帰れるようなビニールの袋を買い求め、寒いのでおやつにぜんざいをと思い、ゆで小豆缶を買いました。ドラッグストアで切らしている生活雑貨を買い、用事が済みましたが結構な荷物。小豆缶1個にしておくべきでした。(ーー;)一番近くの図書館は地域センターの中のとてもちっちゃな図書館で、余りにも読みたい本がなく、リクエストして、取りにいってになるため、足が遠のいていました。久々に足を運ぶとやはり児童書のコーナーが気になります。絵本、大好きです。子ども達がまだわけのわからない赤ちゃんの頃はとにかく多動で、図書館で走り回ったりすると思われ、なかなか足を運べないでいました。だんだん長男が落ち着いてきた幼稚園くらいのころ、次男が本を破いたりする心配がなくなってきた頃からいろいろな本を借りてきていました。私も子ども達も好きだったのが14ひきのねずみのシリーズ(いわむらかずお著)。おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさんと10ぴきのきょうだいねずみのお話です。子どもが好きだったのは11ぴきのねこのシリーズ(馬場のぼる著)。あとはひとまねこざるのシリーズ(H.A.レイ著)とか、ますだくんとランドセルの武田美穂さんの絵も好きで同じ本を何度も借りていましたね。あとはレオ・レオーニやはらぺこあおむしで有名なエリック・カール。あとはなつかしのかこさとしさんの「おたまじゃくしの101ちゃん」などなど・・・。決して人より詳しいわけではないですけれど、とにかく図鑑以外の「おはなし」の本に目を向けて欲しくて、子ども達と一緒に楽しめる本を借りていました。次男の保育園の発表会で「てぶくろ(ウクライナ民話)」をやったときは「てぶくろ」の本を。長男が国語で「おにたのぼうし(あまんきみこ著)」を勉強したらあまんきみこさんの本を借りたり。そのうちTVゲームやコミックにはまっていった子ども達はなかなか図書館に一緒に行かなくなりましたが、私がかってにみつくろって置いておくと気に入ったものだけ読んでいたようです。夏休みの工作ではずいぶんお世話になりましたし、調べ学習が始まってからは長男は自分で本を探したり、司書さんに聞いたりして借りてこられるようになりました。次男はなかなかそこまではできなかったのですが、一緒に選ぶことはやりましたね。今子ども達は進んで読書をするというわけではないですけれど、興味のある本は自分から手に取ります。興味のあるものを見つける、それでいいのかなって思っています。
2006年03月01日
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しばらく聴いていなかった南佳孝のCDを今聴いています。南佳孝を聴くきっかけになったのは松田聖子にはまっていたからなんですね、その当時。松田聖子のアルバムで楽曲提供をしていたのです、南佳孝が。当時は貸しレコード屋さんへ行き、当日返却でお小遣いをなるべく減らさないようにして、急いでテープにダビングしました。最初に借りた南佳孝のアルバムは何だったかなぁ、『モンローウォーク』などが入っているベスト盤だったか・・・、今では定かではありません。その後冒険王というアルバムを買ったか借りたかして、よく通学の電車の中で聴いていたものです。当時のテープ、もう今は手元にないんですよね。冒険王はアルバムコンセプトが明確でその世界にどっぷりはまり込んだような気がします。詞を松本隆が担当していたのもはまった原因のひとつかもしれません^^。今はどのような音楽活動をしているのか、少し調べてみましょうか。
2006年02月28日
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今日は2月の晦日ですね。春との変わり目のどんよりしたまだ寒い朝です。この後雨になるようです。長男、昨日の午後近所の友達が寄ってくれました。明日からの学校の予定、授業は今日(昨日)で全て終了したこと、など連絡してくれました。パジャマ姿で応対した長男、髪は寝癖で『巨人の星の花形』みたいになってます。友達はそのいでたちをみて「お大事にね」それだけ言って帰って行きました「Sが来た。明日学校行くわ」そう長男が言いました。今朝本当に行くかなぁって思ってたけど、7時には目覚めていて食卓に着きました。朝食を食べているとき「今日学校行くわ」もう一度言いました。そして、朝食を食べ終わると私がウォーキングに出る時間より早く登校して行きました。長男にとってからかわれること、叩かれたりすることがきっと自分を受け入れられていない、排除されていると感じるのかなあ、って思いました。自己肯定感が、自尊心が低いのです、長男も。私が長男の特徴を理解するまでにかかった時間、ちゃんと向き合って受け入れられるようになるまでにかかった時間、長男は自分を認めて欲しくて、受け止めて欲しくてきっととてもつらかっただろうと思うのです。自分と似ていて、それでいて甘えてくる長男を受け入れられなかったんですね、長い間。その長男に自己肯定感、また自尊心をある程度のレベルまでに引き上げられるかはこれからのミンティ♪の課題ですね。長男は今春進学してからも似たようなことが起こることが考えられます。ひとりで抱えず、いろいろな人の意見を聞いたり、時には頼ってお任せしたりしていこうと思っています。現在の長男の主治医がどうも長男と合いません。発達しょうがいだけでなく、母親の目からは思春期ウツがあると思っています。そして、その思春期ウツに対して訴えても主治医は全く理解を示してくれません。なかなかいい医療機関が近くになく、また今医療機関を変えることは今後の私の人生を決める戦いに微妙に影響してきます。4月以降、また新天地で心機一転今後のめどを建てゆっくりとかめの歩みでいいと思っています。心を鍛えるのって難しいです。自分からそれに飛び込んでいけたらいいのですけど、自分は大丈夫なんだって肯定感がないとどうしても相手に合わせてばかりで結局苦しくなり、離れてこもってしまうんですね。でも子ども達のことについては、親が味方になれなくってどーするぅ??ってやっと思えるようになりました。こんなこと普通みんな初めっからわかってやってるのかなあ。でもって、私の心も少しずつ鍛えていかなきゃなりません。あー、でも一度にやるとまたこんがらがってしまうから・・・いっぽいっぽ、です。今日のBGMはMr.ChildrenのIt’s A Wonderful World でした。
2006年02月28日
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現在、このブログ訪れた方の中で発達しょうがいについて興味をお持ちの方々が誤解なく子ども達の発達しょうがいについて理解していただけるかと考え中です。リンクをして、きちんと整理された文章をお読みいただいたほうがいいかと思い、現在各関係機関にリンクのお願いをしています。もちろん、うちの子ども達がその症例にすべて当てはまるわけではありませんが、発達しょうがいとはこういうもので、うちの子の場合はこうであるというようなUPの仕方にしたいと思っています^^。また、管理人ミンティ♪の私的な意見も多数UPすることになるかと思います。でも、それは『こういう考え方の人もいる』程度に思っていただけたらと考えています。もちろん、いろいろな情報などは歓迎いたします。でも誹謗中傷にあたる文章は残念ですが削除させていただくこともありますのであらかじめご了承くださいね。
2006年02月27日
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今日は日曜日。当然明日は月曜日。先週の火曜日だったか長男が「卒業式まで学校イカネエ」と言って帰宅しました。現在公立高校の一般試験が終わり、結果待ちでまだクラスの中で進路の決まっていない子たちはとっても不安定だと思うんですね。長男はおかげさまで1月末に進路が決定しました。その後週1日ペースくらいで自主休校していたのですが、なんどもちょっかいを出され、特に体を叩かれたりすることに不快感を感じるようでそれに我慢できないようです。転入して約2年。前の学校でのいじめから離れ、学校全体が活気のある中学にめぐり会いました。不登校に陥った昨年秋から今年の秋にかけて、根気よく励ましてくれたクラスメート。長男の発達しょうがいについて耳を傾けた下さった校長先生、教頭先生、担任。もうちょっとで卒業なんだよ。あと2週間。でも頑張っている長男にこれ以上我慢しろとか登校しなさいとは言えません。話を聞いて、受け止めて、なおかつ次のスモールステップに進めるために何ができるかなぁと考えている今日もノー天気な母さんです。
2006年02月26日
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今の私と音楽のマイブームは、1吹奏楽2竹内まりや3SMAPの順番です。今日偶然にも竹内まりやさんと山下達郎さんのファンの方と話をすることがあり、新鮮でした。今まで竹内まりや&山下達郎ご夫妻のファンの方と出会う機会がなかったからです。どんなCDを持っているか、とかどの曲が好きかとか、ライヴの話とか。その話の中で山下達郎さんの『高気圧ガール』という曲が出てきたんですが、午後TOKYO FMのサンデーソングブックという達郎さんの番組を聴いていたら偶然にも1曲目が『高気圧ガール』のライヴヴァージョンだったんですよ。同じアーティストを好む人との偶然の出逢いとその話の中での曲がその日に電波を通して耳に届いたことに奇遇を感じたのでした。
2006年02月26日
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今日は確か午後くらいから雨と言っていたような気がしたんですけど、朝からサメサメと冷たい雨が一日中降っていました。夕方になって少し雨脚が強くなったみたいです。今いろいろと構想を練っています。整理整頓下手なので、ごちゃごちゃしないようにしたいですね。今夜の晩ご飯は白菜鍋。お酒を足したお水に白菜と豚肉と春雨を入れてとにかく煮込むだけ。それをちょっとおいしいお塩と一味唐辛子で食べます。トリノオリンピックも明日の早朝には閉会式ですね。なにかと多忙であまり観ることができませんでしたが、パラリンピックの方は少し観たいなって思っています。
2006年02月26日
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ゆっくりUPしていきます。いっぽいっぽですから^^。まだまだ勉強中なので、少しずつ手を加えていきますね。
2006年02月26日
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引越し先の中学の校歌は「はるかにのぞむ筑波山・・・」筑波山を基点にぐるりと180℃移動しました。転校した私はもちろん迷わず吹奏楽部へ。楽器にだいぶ慣れた私は2学期、3学期といろいろな曲をやりました。実は当時の楽譜を取っておいてあるのです^^。まず2学期最初に練習したのは市内合同陸上競技会のための行進曲。例えば、双頭の鷲の旗の下に、旧友、君が代行進曲、鉄腕アトムのテーマ・・・など楽譜が残っています。でも星条旗よ永遠なれは、難しくてやらなかった覚えがあります。あと生徒全員で歌う、「若い力」。この「若い力」はミンティ♪出身県だけなんでしょうか。ちなみに長男が体育祭の前に家で若い力を歌っていて、なつかしくてつい一緒に熱唱しました。クラリネットは安価で手に入るものだと樹脂製(プラスチック??)のがあります。私の楽器は木製でしたので、残暑の残るカンカン照りの下での練習はちょっとひやひやものでした。ヒビが入ったら大変なことになってしまいますからね。転校し入部した当初は3rdを担当していました。その後1年の3学期くらいまで2ndを担当しました。2ndの時は、吹奏楽のための民話、インスタントコンンサート、スラブ行進曲、などなどやりました。卒業式が近づいた3月頃だと思うのですが、1stを担当するようになりました。この年の代の2年生はとってもパワフルで、3年生を送る会でインスタントコンサートならぬインスタントミュージックという曲を3年生の思い出の曲をつなぐ形で作り、休みの日にこっそり集まって練習したりした記憶があります。楽しかったですね、本当に。各楽器毎の発表と1、2年の演奏をカセットテープに収録し、卒業生にプレゼントしました。まだまだ先輩方についていくのがやっとの1年生でした。
2006年02月05日
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中学に入学したとき、何部に入部するか少し迷いました。親は体育会系の部活で心身ともに鍛えることを望んでいたようでした。小学校の高学年でなぜか中距離走が早くなった私は、小6のときロードレースの強化選手として朝夕練習に参加していました。練習に参加してはいましたが、自分よりも早いメンバーの中での練習はきついものがありました。校内のマラソン大会では上位に入れても、練習ではいつもしんがり。結局ロードレースは補欠でした。中学入学時体育会系の部活に入るなら陸上と思っていたのです。けれど入学した中学の陸上部は男子の部員だけだったのです。当時はエースをねらえ!の再放送のあとで、テニス部は異様な人気となっていました。いまでこそミーハーなわたしですが、当時そのミーハーについていけませんでした。で、女子のいない陸上部に一緒に入ろうと誘う陸上好きの友達もいませんでした。なんとなく部活を決められないでいる私に小学時代の合奏クラブの親友が「なんで吹奏楽に入らないの?」と迫ってきました(;^_^A。う~~~~ん。その当時私はいずれ転校することが決まっていました。小学校からの学区で中学に入学したのも転居先がなかなか見つからなかったためでした。入るなら3年間転校してからも続けなくちゃいけないし・・・、そんな妙なとらわれ感みたいのもありました。で、結局は吹奏楽部に入部しました。私が入部したときすでにもう先に入った新一年生は担当楽器が決まっていました。女子の一番人気はフルート。フルートはもう定員いっぱい。男子も多い吹奏楽部だったので、金管はほとんど男子。パーカッションは・・・、うーんやっぱり音が奏でたい。サックスかクラリネットかというところでなんとなくクラリネットになりました。最初はマウスピースにリードという竹の板をつけるところから教わり、土曜の帰りに持ち帰っていいことになり、まずはマウスピースで音が出るように家で練習した。土曜日は一日スースー息が漏れるだけだったような覚えがあります。日曜になって、「明日までに音がならないとちょっとまずい気がする」と思い、角度を変えたりなんだかかんだかやってるうちに偶然音が鳴りました。毎年4月頃時々マウスピースだけのピーピー言う音がよそのお宅から聞こえてくるとなんだかほほえましい気持ちになります。それからは徐々に音を出すことを練習し、初心者講習会のような催しにも参加しました。部活動は本当に楽しかったです。覚えている曲は宇宙戦艦ヤマトのサントラ盤のなかの曲、あと夏のコンクールで演奏した南太平洋という曲。しかし、その後夏休みの間に私は転校し、薄緑におう筑波嶺と、とはお別れすることになります。
2006年02月04日
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今回は私が学生時代にやっていた音楽活動について書きます。ピアノをやっていたせいか、小学校1、2年生でのハーモニカ、木琴、3年生からのリコーダーなどとにかく音楽の時間が大好きでした。リコーダーは手元に届くなり家でピーピー吹いていました。今の時代はハーモニカではなく、ピアニカなんですよね。クラブ活動が始まったのが4年生。迷わず合奏クラブに入りました。合奏クラブは4、5、6年生まで3年間続けました。わりと規模の大きな小学校だったので、合奏クラブもメンバーが多く、夏休みには市の音楽祭に出たりしていました。4年生の音楽祭に演奏した曲は「絹のきざはし」と言う曲でした。アコーディオンなどの花形パートは6年生の担当です。4年生の下っ端はピアニカかオルガン。私はオルガン担当でした。このときの演奏はとらやというメーカーのドーナツ版のレコードで確か残っているはず。夏休みの練習も楽しくて仕方なかったのを覚えています。5年生の時は先生の都合か何かで、音楽祭には出ませんでした。6年生の時は「おもちゃの交響曲」を演奏しました。指揮はクラブ長の親友でした。私のパートはバスアコーディオン。ソプラノアコーディオンはやはり人気が高く、「私がやりたいっ!」と声の大きい子が有利なんですよ、そうだったの当時。で、私は同じクラスの仲良しさんと一緒にバスアコーディオンを選んだのでした。中学のような先輩後輩関係よりももうちょっとゆるい、でも普段なかなか交流のない学年の子たちと一緒に練習するのは楽しいものでした。田舎で育ったので、学区がとても広く、家の遠い子はバスで通学していましたから、学校でないと遊べない、会えない子もいっぱいいたし。今で言う業間休み?や昼休みなども音楽室で過ごすことがよくありました。教室のオルガンはピアノがうまい子が弾いています。ピアノがなかなか進まなかった私はあまり弾く機会がなかったです笑。合奏クラブの活動にプラスして、5、6年の2年間は鼓笛隊に入りました。5年生はリコーダーです。ピアニカ、小太鼓、中太鼓、大太鼓、シロフォンなどは6年生。低学年のときからとても憧れていて、集会のときの演奏や、運動会での演奏はほんとに見ていてボーっとしてしまうほどでした。今はマーチングバンドの大会もありますね。でも私の時は金管楽器すらない鼓笛隊でした。6年になって、私が狙ったのは小太鼓。でも、楽器が足りなくて小太鼓パートになれなかったんです。希望者が多いので選考会までありました。あとチビすけだったのも選考にもれた一因だったのかも。6年生の時の鼓笛隊の記憶があまりないんですよねえ。もしかしたら、ピアニカだったのかなあ。リコーダーはありえないし。そうそう合奏クラブでは週一回ある全校集会のとき、アコーディオンで校歌を伴奏します。私の学校は歴史が古く、私が在籍していた時期にすでに創立100周年を迎えるほどの学校でした。校舎と校庭の間には築山があって、その前に朝礼台があります。合奏クラブは先生方の後ろで築山にアコーディオンを置いて朝礼を受けます。先生の側にいるのは放送クラブの子と合奏クラブの子だけ。それがなんとなく誇らしかったのを覚えています。今でも歌えますよ、校歌。うすみどりにおう筑波嶺と 千波原風さゆる地に~♪
2006年02月03日
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赤バイエルの次は黄バイエルでした。黄バイエルが終わる頃だったか、先生を変えたような覚えがあります。小学校3年くらいだったでしょうか?新しい先生のところでは、ハノン、ツェルニーの30番か100番(記憶があいまい)、ブルグミュラー25番を弾き、ソルフェージュ、聴音もやりました。私は子ども時代中1まで、関東のある地方都市で育ちました。駅からバスで30分乗り、さらにバス停から歩いて20分くらいかかるような田舎でした。駅前のデパートに行くのに「街に行く」と言うようなところでした。そんな田舎の子が通うピアノの先生、なのに先生のうちはとってもオシャレで、ピアノはグランドピアノとアップライトのピアノの2台が置いてありました。先生は美人で、いつも素敵な洋服を着ていました。たしかお子さんはまだ幼稚園にも通っていないような小さいお子さんだったと記憶しています。よくあんなにきれいにするパワーがあったものだ。。。と自分の子育て時代を振り返るとつくづく思います。この美人の先生のところには2年くらい通ったと思います。発表会も一度やりました。実家にその当時のテープが残っているかもしれません。発表会のあと、先生はどうやら離婚することになったらしく、お引っ越しされたようでした。次の先生はもうお子さんが高校生くらいのおばちゃん先生でした。8畳の部屋いっぱいにグランドピアノが置いてありました。この頃はハノン、ツェルニー、ソナチネだったと思います。それにソルフェージュと聴音。私はなぜかハノンが好きでツェルニーが嫌いだった覚えがあります。練習をあまりしない私はなかなか先へ進みませんでした。中学に入った夏休み、発表会で初めてソナタの中から憧れのペダルを使う曲を弾きました。その後父の転勤で引越し、自宅近くの先生のところに通いました。この先生は嫌いでした。私は声がハスキーなんですけど、「あら、今日は風邪を引いてるの?!」って言われてひどく嫌な思いをしました。歌いたくても高音がでなかったのはつらかったです。先生が嫌いなのと、ピアノの置いてある部屋がリビングになりTVが見れないと弟達から苦情が出たり、部活のほうが面白くなり練習をしない環境が整って、ピアノは中2で辞めたのでした
2006年02月02日
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ものごころがついたころ、最初に出会ったのは親が買ってくれた童謡のレコードかもしれません。はしれ超特急、とかクラリネットをこわしちゃった、朝一番早いのは、トムピリピ、など曲の正しいタイトルは不明ですが、よくレコードをかけてと母に催促していたような覚えがあります。その後確か幼稚園に上がるか上がらないかのころ、ヤマハの音楽教室に通いました。ヨックモックのお菓子の缶箱のような教材があって、ふたを開けるとふたの裏に五線が印刷してありました。おたまじゃくしの黒いちっちゃな磁石をその五線の上にぺたっとはって曲を作るというか、そんなことをしたのを覚えています。そのころ家にあったのは電気オルガンでした。足踏みではなかったです、電気を入れて弾くものでした。右ひざで音を大きくするレバーがついていたような・・・、でもこれは学校にあった足踏みのオルガンと記憶がごちゃ混ぜになっているかも。小学校に上がり、しばらくはオルガンだったと思います。その後ピアノを買ってもらいました。バイエルの教則本の赤、これもはじめのうちはオルガンで練習したような気がします。コツコツ練習するのはあまり好きではありませんでしたが、曲が仕上がりシールを貼ってもらったり、赤ペンか何かで○をもらって次の曲に進めるときが嬉しかったです。
2006年02月01日
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