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なんだか、久しぶりにログインしてみたら、4年も放置ってことにびっくりですよ。もう、昔交流があった方もいなくなってるのだろうなーと。ここにきたってことは、昔と同じ状況が身近に起こっているということで、まあ、おいおい、書くかどうかは、、、わかりませんが。。他人からの認証って、そんなに大切ですか???なんて、妙な突っ込みからはいりますが、それについて、少々考えさせられたので書いてみたりする。それ、自分が年を重ねたってことなでしょうか?20代では他人にさわりのいい、説明のしやすい、わかりやすい自分でいることが喫緊の課題なんだろうかとふと自分も省みたりする。そうか、自分もそう思っていた時期もあったなー。名刺にちょっとでも肩書きがないと、それこそ肩身が狭いなんておもったりしたっけか。あはは。○○代理なんて肩書きでも、うれしくて庶務のひとに頼んでたわな。あは。いまは、全くいりませぬな。今は自分のやれることをやって、それがほかの人が求めていることに、沿うならばそれでなおよし。そうでなくても、ちょっとがんばれる程度で、その場その場の求められていることに沿えるのであれば、それでなおなおよし。そのくらいの心構えでやっている自分です。
2010.12.13
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先日、都内の大学でおこなわれた、作家の田口ランディさんのゼミに参加してきました。内容は「生と死の一万年 アイヌの精神文化から」。でも実は、ゼミの内容よりも田口さんその人に興味があったので、参加したというのが本当の理由です。というのも私は、田口さんの本をたった一冊読んだだけでその世界に引込まれてしまい、気がつくと出版されている本はすべて読了。あとは直接本人に会って話を聞きたいと、こうあいなったわけです。実際にお会いした田口さんは、和服姿もかわいらしい、でもとても活き活きとした、力強い方でした。興味深く思ったことのひとつは、質疑応答の中で言われた次の言葉です。「人間は体験を通過する存在で、体験にしがみついては行けない」どんなにすばらしい体験をしたとしても、それはその時、その場所、その人たちのいた「場」によって作られたもので、それが終わったら、また元の生活にもどることが大切。それを体験したからといって、自分が他の人よりもなにか崇高な人物になったなどと錯覚してはいけない。これは、田口さんがアイヌの祈りの儀式をやった時の話にでてきました。話を聞いた時は田口さんもずいぶん謙虚な方だなあとしか思っていませんでしたが、それだけではないようです。本気でおっしゃっていました。その理由ははっきりとはつかめませんでしたが、田口さんの話すその雰囲気からなにかあるのだろう、ということは伝わってきました。結局当初出るつもりのなかった懇親会まで参加。というのも、ゼミの終わりにあいさつがてら田口さんとお話をしている時に、「懇親会、参加したら?」のお誘い。「はい~」と無意識に答えていました(笑)大学を出たのは23時近く。勉強内容は予想以上に面白く、翌日目が覚めてもなにやら興奮状態がつづいていて、久々に知の魂がイキイキとしているのを感じた出来事でした。
2006.12.22
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今年は冬の訪れがおそかったですね。。紅葉も遅れ気味だし、ストーブの出番が少なかったり。ふと旧暦のカレンダーをもっていたことを思い出しました。調べてみると、今年はうるう7月があり(1年に7月が2回)いつもの年よりも新暦と旧暦の差が大きくなっているようです。今日12月20日は、旧暦で言うと、11月1日。なんと昨日まで10月だったのです。冬がなかなか来ないわけです。この旧暦を教えてくれた本の著者は繊維業界の方です。冬物衣料や、夏物衣料の切替えの時期が普通のカレンダーだけでやると失敗続きだったのが、旧暦を参考にしはじめてからかなり改善されたそうです。日本人が古来から利用してきた暦が、自然のリズムを理解していたことがよく分かります。旧暦から予想されることは、この冬は寒さが続き3月に入っても(旧暦ではまだ1月12日)まだ、春は遠いのでしょう。サクラの花が咲くのも、遅れるのではないでしょうか。
2006.12.20
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先週の土曜日に終わったNHK土曜ドラマ「ウォーカーズ」迷子の大人たち。20代くらいの若い世代から、60代までのカップル4組がそれぞれの悩み、問題を抱えながら、その解決を求めてお遍路の旅を続けるという内容。ふだん映画は観てもドラマは観ないのだが、今回は違った。私が興味をもったのは、迷子の大人たちと言うサブタイトルである。自分自身も将来の方向を考えている状況と符号が一致したのだと思う。しかも迷子である。わからないのである。ドラマの中で、主人公の江口洋介が、「俺は誰だ。俺は何がしたい。一番大事なことは何だ」と繰り返し自分に問いながら歩き続ける。恋人役の戸田菜穂が、おたがいに仕事のこと、自分のことが一番大事だと思っている二人が結婚してもやっていけるはずがない、と江口洋介をなかば突き放すシーンがある。これに対して江口洋介が言ったことがなかなか興味深い。「たしかに、俺たちはおたがいのことが一番大事だと思っている。だけど、これからはおたがいのことを大事にしようと思おう。いまは、その姿勢だけでも持っていられればいいんじゃないか」戸田菜穂は、「今、ちゃんとした二人じゃないと結婚なんて無理」それに対して江口洋介は、おたがいのことを大切に思う気持ちと言う方向性が合っていれば、今はそれでいいという思いに変わっていった。この後、双方がおたがいに作り合っていくその過程そのものが愛情であったり、家庭であったり、生活であると言いたいのだと思うし、私もそうなんだろうと思う。そんな気持ちに変わるきっかけのひとつが、「蜘蛛(くも)は網を張る、私は私を肯定する」と言う句なのであろう。八十八ヶ所のお寺のシーンで出てきた。お遍路さんが作った句を部屋中に貼りつけてあるお寺が出てきた。その寺の障子に書いてある句がこれ。蜘蛛が、自然に自分の巣を張るように、人間である自分も極々自然に自分を肯定しよう。(するようにしよう)だめだと思っている自分も全部受け取って、それを抱えてそこから一歩づつ、歩き進めてみようと言う気持ちが、この句にはあるように思う。このドラマで言えば、江口洋介、戸田菜穂ともども、ドラマの初めの方で思っていた、「自分のことが一番大事だから、おたがいを大事にしようという形の結婚はできるはずはない」これは、できれば思わないようにしたい。だがしかし、そう思ってしまう自分を、それはそれで認めた上で、自分の本当の気持ち(いっしょにやっていきたい)に沿うようにしていこうとだろう。ドラマの最終回、原田芳雄がお遍路仲間を写真に撮るシーンがある。番組のHPによると、このシーンはセリフを決めておらず、出演者それぞれがそのシーンでアドリブでしゃべったとのこと。原田芳雄が江口洋介に問う。「お遍路は終わったが、今後また、問題が起きたらおまえはどうする?」「歩きます!」ドラマはここで終わる。歩きますのひとことで言って終わるが、こう付け加えてみたい。「正面から見つめ、そこから生きます」
2006.12.04
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今週届いた石原加受子氏のメルマガにありました。(1)いやいや掃除をする。(2)汚れているのはわかった。きれいにしよう。(掃除をしよう)このふたつは、外から見ると掃除をしている点は同じ。しかし全く違った意識状態。(1)の場合は、やりたくない自分の意志と、掃除をする自分の行動とがバラバラになりこころにストレスが溜まる。(2)は、汚れている状況を自分の問題として受け入れ、潔く次の行動へ意識を変えて進もうとしている。そして、この意識は、「どんな自分でも好き」という意識につながるのだそうです。自分を責めてしまう人は無意識のうちに、自分をボディーブローのようにじわりじわりとたたいてしまう。自分の欠点や、やってしまったことを思い出しては自分を責めるのだ。しかし、(2)の意識は、そんな欠点を抱えているのを真っ正面から受けて立ち、それを全部抱きしめて、そのまま動こうとする潔い別の行動なのです。自分嫌い、自分に自信のない人。掃除はおそらく気分転換以上のものをもたらすと思います。楽に生きる!石原加受子の「自分中心」心理学 http://www.mag2.com/m/0000144612.html
2006.11.17
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最近読んだ本にあった一文(わかったら書名を追加します。)理由なく進めオマエは、理由がないと先に進めない。理由がないとイケナイと思っているだろう。つまりオマエは責任取りたくないって、子供みたいなこと言ってるんだ。責任を理由に押しつけて自分は眠りこけているんだ。この文章を頭の中を泳がせていて、いつものように手帳片手に歩きながら思い浮かんだのが次の文。根拠なく自分はそう思いそれをやる。それをやり続けられるのが責任ある人の対応。他の誰の責任にもできない。そもそもやった自分だってその理由はわからないものだから。ただ、信頼する自分がやった事だから、なにかあるに違いない。自分への信頼感だけを頼りにしよう。自分を信頼することをただ積み重ねてみよう。こんなこと書いてはいるが、自分の思うこと。それを最優先して認めていくのは結構勇気がいることだ。放っておくと知らずのうちに自分がまだまだ至らんなあという自己卑下のまっただ中にいたりするわけだ。何かするのに世間ではこうだ、たいていの人はこうするとか、、どうしても基準を自分の外に求めがち。それは元をたどれは自己卑下あたりにたどりつく。自己卑下のまま、一足飛びに理由なくやってしまえというのは、どうしても乱暴な気持ちがする。で、ここはひとつ自分の気持ちを優先して(世間の常識よりも)自分自身を信頼する機会をただただ積み重ねる。そのあたりから、続けてみようと思う。自分なりの今の着地点。
2006.11.04
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外出するときは、手帳を片手に浮かんだアイデアをメモしながら歩くことが多い。街を歩くこの姿を端から見ると、「この人はセールスマン?、それとも興信所の人?」もっと考えられるが、街の風景としてはちょっとした違和感が漂っているかもしれない。場面を、川沿いのサイクリングロードなどに移せば違和感は薄れる。そこにはサイクリングをする人、野鳥を見る人、散歩中の人、犬を連れている人、リハビリ中の人、あらゆる人がいる。そこに手帳を持っている自分が居てもなんら不自然ではない。(と思う。)環境に左右されない強い自分を持ちたいと思うのだけど、実際はこの通り。どうしたって、居心地のいいところに自分はいきたくなるし、人も集まる。ここまで書いて、自分中心心理学の、他人中心にどっぷりつかっているのに気づくのであった。他人から見た自分を思考の中心にしてしまうことは、長期間慣れ親しんだやり方。自分中心にするには練習も必要だと思うことしきり。今日は気づいただけよしとしよう。
2006.11.02
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自分が何気なく話した言葉。文字どおりの意味と、その言葉を発するに至った裏の(本当の)気持ちは、時に正反対の場合がある。今回は備忘録。『変わらなきゃ』→→どうやら、自分は変われない。どうしてもこうなっちゃう。その『変わらなきゃ』について。変わるきっかけに、毎日やっていることプラスONEを始めようと思う。今の自分とはほど遠い目標は、取っ掛かりも見えずらく、絵に描いた餅に近い。ただ目標とは全く離れている自分であっても、しっかり自分を見つめて泥臭いたった一歩を馬鹿にしないようにと思う。
2006.11.01
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前回の話をふくらませて。。。。八方美人タイプになってしまう原因のひとつに、幼少期の親との関係があげられるようだ。親が子供に対して「無償の愛情」を示していたかどうか。これがないと、家庭の外に出て友人関係を作りはじめるときに、相手に嫌われないように、仲間はずれにされないようにという意識で関係性を作るようなのだ。子供は生活のベースとなる家庭で、親からの愛情は限定的にしか得られない、と無意識のうちに感じ取るかららしいのだ。「○○をやったらご褒美に△△をあげるね。」「○○みたいなことやったら、おかあさん(おとうさん)ゆるさないからね。」まわりを見回してみても、自分の記憶をたどっても「無償の愛情」よりも「条件付きの愛情」の方が思い出される。そのように相手に気を配りながらの生活をしていると、自分の気持ち・意志が見えなくなってくる。イジメをうけてもその相手からすら嫌われるのを恐れて、反論できない。ちょっと子供の力だけでは解決ができない状況に陥ってしまうかもしれない。どうやら特に幼少期においては、安心して戻れる、何をしても戻れる、場所としての「無償の愛情」が必要であるらしい。安心して帰れる「無償の愛情」というベースがあることを、実感できるかどうかは大切なことであると思う。なにもこれは子供だけに限らないと思う。大人になった人たちは、親や、他人にそれを望むのは実際困難なわけだから、自分で自分を受け入れる気持ちを持つということで、それをかなえるということになるのだろう。
2006.10.25
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人の態度や言葉は、ひとまず見た通り、聞いた通りのことを相手は表現しようとしている。しかし最近自分中心心理学を勉強し始めてから特に思うのだが、心の内は表現とは必ずしも一致しない。自分を見ていてもそうであるし、目にする人たちを見てもそう思う。そんなことを考えながら、TV番組「オーラの泉」を観た。ゲストはタレントの「青木さやか」さん。美輪さんに八方美人タイプだと言われ、青木さん自身もそれを納得していた。八方美人タイプになるには、やはり理由があり、彼女の場合は自分に自信がないから、不安なき持ちがあるからだという。これは、彼女のイメージとはずいぶん離れている。その強気の態度は、実は弱気な自分を隠す為の方便なのだなと納得した。「がんばろう」という思いは、「がんばらないとできない」という弱気な心の裏返しであるし、こんな具合に、本心は思っていることと逆の場合が相当ありそうだと思った。自分でも、現在思っていることは本当に本心で思っているのか、注意深く観るようにしているつもりである。それを上手に拾い上げることができるなら、それが自分を大切にすることになるのだから。
2006.10.24
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図書館の「本日返ってきた本」の棚にあった一冊。題名に引かれたのと、帯にハワイの文字があったので中身を読まずに借りた一冊ですが、この本はアタリでした。人には、自分の気持ちと、あれこれと思考している二つの部分があります。その中の自分の気持ちを、藤原さんは旅をきっかけとして悩みながら、考えながら探り出しています。***引用***行動しなければ永遠に「いつか(やろう)」も「そのとき(が来たらやろう)」もやって来ない。そんな当たり前の事実を、三十三歳になる直前で私はやっと認めたのだ。これ以上、その「当たり前」のことに気がつかない振りをするのは無理なところまで来ていたのだ。心は「いつか」も「そのとき」も求めているのに、一歩前に進みたいと願っているのに、それを自分にしてあげていないから心が晴れ渡らなかったのだ。**********気がつかない振りをするのは無理なところまで来ていた。それを自分にしてあげていないから心が晴れ渡らない。自分を本当の意味で大切にする、では、どう行動するのかを考えざるを得ない一文です。
2006.10.21
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石原加受子さんの著書にある、結果は、プロセス次第で変わっていくものでしょう。【プロセスを大切にして、瞬間瞬間を丁寧に生きること】を実行するなら、そもそも失敗ということはありません。それでも、人は結果が大事じゃないかというかもしれない。【それでも】自分はプロセスを大事にしていこう。プロセスという言葉のなかには、自分の感情・感覚がどう感じているのかを注意深く観察することも含まれています。感情・感覚を上手に捕らえられるようになるのが必要なのだなと改めて思うこのごろです。
2006.10.18
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「しあわせよりも、楽をめざそう。」があります。ここでのしあわせは、こうなったらいいなあ、といった自分の願望とでも言っておきましょう。それよりも、楽をめざそうというのは、自分の体感する「感じ」が楽とか、快であるかに注目する生き方です。もし自分が、不快に感じることがあるなら、その状態を避けるために、必要な努力を惜しまない。自分を本当に大切にする生き方です。自分はどんなことが好きなのか、どういったことが嫌いなのかをはっきりアンテナでキャッチできないとできません。嫌いなことはしっかり提示できないと、自分を大切にしていることにはなりません。これが実は、主体的に生きる第一歩だと思います。
2005.08.08
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最近、「自分中心心理学」を展開している石原加受子さんの著書を読んでいます。私は「ひとの迷惑にならない様にしなさい」という言葉が、小さい頃から頭の中に入っていました。そんなことから、普段の生活で人の言動や気持ちに、非常に敏感に育ちました。おかげで人の気持ちを察するのは得意です。その反面、人のことばかり気にしていたがゆえに、自分の意志が自分でもはっきりしないという状況に容易に陥ったりするわけです。しかし必要なのは「他人の気持ち」でも、「客観的状況」でもなく「自分」が今、楽なのか、苦痛なのか?快なのか、不快なのか?苦痛、不快ならば、私は今不快だということをはっきり表現することが自分のためになります。「いやいや、自分はこんなことで怠けてはいけない、負けてはいけない。」などと言って、自分の気持ちを別の自分がさとすようにする必要はないってことです。自分は辛いんだ。。。。と自分の気持ちを正直に言った時に胸のあたりにポッと広がる安堵感は、一度やってみるに値します。ホント。その気持ち(安堵感やその他の気持ち)のなかから出る「じゃあ、こうしよう、こうしてもらおう、もしくは、まだ解決方法も見当たらないから、しばらくこのままでいよう。」といった次の行動は、自分の気持ちが乗っているので効果が高いのではないでしょうか。「ああしたら、こうなるかな?でもこれはどうしよう。。。」などと、自分の気持ちを半ば無視して、思考をめぐらせて考えるよりも、今の自分の気持ちを起点にして考えてることが必要だな、と思っています。
2005.08.02
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でんじろう先生のショー(実験教室)を体験してきました。場所は前々から、その存在が気になっていた皇居北の丸公園にある「科学技術館」。じつは、でんじろう先生のショーがあるとは全く知らずに、純粋に「科学技術館」の見学にいったところ、でんじろう先生のショーに出くわしたのです。おもしろいです。へ~っと声を出してしまったり、びっくりしたり、笑ったり。でんじろう先生は、科学実験を使って人間のさまざまな感情を体験させてくれる、まさに「ショー」だな~っと感心しました。そして、いよいよ来ました(笑)。おなじみの全員参加実験「静電気」です。小学生以下の子供たちも含めて人数は40人ほど。これだけの数でも全く実験には問題なさそうです。いったい何万ボルトなのでしょう。。。。お互いに手をつないで、「その時」を待ちますが、TVを観て知っているのでしょう、もうその前から大騒ぎ。「みんな手をつないでくださ~い。隣りの人と手をつないで両手を高く挙げて。いいですか~?」「バチン!!!」「きゃ~ああああああああ」痛かったです。ホント。心臓の弱い方はまじめにやってはいけないです。たぶん。わたしは静電気が貯まりやすく、冬場はエレベータのボタンと指先でバチバチしてますが、その衝撃の10倍はありました。衝撃は両手の手首の骨が中心で、胴体には不思議と感じません。小学3年生くらいの女の子一人がびっくりして泣き出しちゃいましたが、それ以外の子供たちは(幼稚園から中学生くらい)興奮覚めやらずといった様子で笑顔(?)満開でした。見知らぬ人と、手をつなぎ、どきどき感を共有できますから、きれいな女の人のそばにいることをオススメします(笑)。でんじろう先生は、われわれお客さんにおもねることなく、いち科学者として「真面目に」面白さを伝えている姿が好印象でした。http://www.denjiro.co.jp/index.html
2005.04.27
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お話が終わると、全員水色のヘルメットを着用していよいよ整備場内で飛行機と対面です。飛行機には【絶対に】さわらないで下さい。との注意を受けます。当然ですが。まずは、建物でいうと4階付近の高さからの見学。これは、ボーイング777。シアトルの工場から届いたばかりの新品だそうでとてもきれいです。20才のジャンボジェット。全日空の最古参だそうです。あとしばらくで全日空は引退。買手があれば、どこかの航空会社が買い取ってまた飛ぶらしいです。クルマよりもよっぽど長持ちですな。しかし、機体はかなりやつれていました。塗装もはげてたり、金属板がつぎはぎしてたり。。。ちなみに、飛行機の機体で痛みやすい所のひとつが、乗降口の扉付近だそうです。与圧の力がドアにくるとのこと。JALのハワイ便は20才くらいの飛行機をよく使ってるので、扉の四隅方向には金属の板がつぎはぎしてあるのを、実際に見たことがあります。エンジンの真横まで行くことができます。デカイです。このエンジンだけでも飛ぶのが不思議なくらいの重量感でした。最後は、ドックの扉のところまでいきます。そこから先は滑走路です。いつもは、展望デッキの高いところで見ていますが、目の前を飛行機が着陸するシーンは迫力があります。これだけ見られて無料です。十分満足できる内容でした。(飛行機好きには)日によっては、整備スケジュールの都合で飛行機がない。。。なんてことも、まれにあるそうです。(悲)それから、整備場内は、外気温と全く同じ温度ですから夏場、冬場はそれなりの環境になるそうです。お気を付けください。参考までに見学のHPはこちらhttp://www.ana.co.jp/cp/kengaku/index.html
2005.03.30
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今日は、全日空の羽田整備場見学に行ってまいりました。ハワイ好きの私には、飛行機はとても身近なものですが、乗っているうちに飛行機そのものにも大変興味をもってしまいました。今日は趣きを変えてレポートです。モノレールの「新整備場」駅から15分ほど歩くと、全日空のドックが見えてまいります。駅付近に案内図等は見当たりませんし、道路に案内図もありませんから事前に調べておかないと、ほぼ間違いなく迷子になります(笑)。あたりは、JAL、ANAの工場地帯という趣き。職員だけが乗れる巡回バスが私の横を通りすぎます。見学の人も乗せてください~(無理?)。会場には小学生くらいの子供わんさかいるじゃありませんか。「。。。しまった。今日は、春休だった。。。」みんなおとなしくしてね。うるさい子キライですから。。大きな会議室に連れられていって、まずは、アテンダントのお姉さんが40分位お話をしてくれます。「寝てても一切問題ありません。ここは学校ではありませんからね。」そうは言っても、話は聞いて欲しいであろうアテンダントさんの気持ちを踏みにじるかのように、一番前の小学生の女の子は開始早々机に突っ伏してます。(笑)飛行機がどうして飛ぶのか?といった内容のクイズがあってあたった人には、特別にシールや、絵葉書がプレゼント。寝かせないような工夫が感じられます。ほとんどが、小学生レベルの問題なので、私は小学生にプレゼントを譲りました。。。。。。と言いたいところですが、シールと絵葉書二つとももらった、唯一の大人(汗)が、わたしです。。飛行機の説明では、ジャンボジェットのプラモデルを使いました。しかし、途中手を滑らせたアテンダントさんから見事に床に落下。容赦のない小学生が「墜落した~」とさけび、「墜落という言葉は航空会社では禁句です。」と言いつつ、アテンダントさんは胴体からまっぷたつに割れたジャンボを拾い上げ場内爆笑となったのでした。。つづく。
2005.03.30
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本を読んだり、講演を聞いているとこんなフレーズによく出くわします。「私の意見は鵜呑みにしないでください」「あくまで、私の仮説ですから本気にしないでください」これを読んだり聞いたりするたび、こっちはお金と時間を払っているのに、なんでそんなこと言うんだろう、(答え言ってよ。。)そう思うのが常でした。これは依存心まるだしの考えだったわけです。だから著者や講演するかたが、上記のような話しをすることは、責任回避ではなく、「あなたの、自分を信じる力に火をつけてほしい」「自分に対する信頼感をふやし、自ら動いてもらう」そのための方便だったとわかりました。
2005.03.21
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養老孟司さんの本を集中して読んでます。今日の共感私は人間の不幸の何割かは、まじめさから生じると思っている。そうそう、納得。まじめなひとは、その人の身体全体から固さを感じます。固さは、こだわりを生み、その思い込みから勘違いを生じたりします。まじめな人は、思いもよらないところから転がってきたボールを、自分とは関係ないと言ってやり過ごします。自分の都合だけで動くと、未来からの情報をうまく、タイミングよくキャッチできません。人生お得に生きたら楽しいのでは。きっと。以上、まじめなヒトの書き込みでした。
2005.03.16
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「いちばん大事なこと」養老孟司著なぜ、自分とはなにかを探すような人が増えてしまったのかその理由が簡潔に書かれていました。今日も備忘録。。それは、都市型した生活にある。都市の生活は、人間の思考から作られたものでその中で生活するのであれば、「ああすれば、こうなる」が成り立ちやすい。【○時に駅に行けば電車が来る】反対に田舎の生活は、自然相手のため、「ああしても、こうなるとは限らない」となる。【春に種をまいても、秋に収穫できるとは限らない】自分探しをするというのは、「自分」というものが「さがせば、みつかる」という都市型の思考となっているがゆゑ。そもそも人生は田舎の生活と同じ。人生の目的は「さがせば、みつかる」という考え方そのものがオカシイ。そうそう、人生の目的はあるかもしれないし、ないかもしれない。それを、自分の頭で考えても、そうなのかはわからない、ということですね。下手な考え休むに似たりとはよく言ったものです。
2005.03.13
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この本で、自分が知らずに持っていた思い込みをいくつか気付くことができました。そのうちのひとつ「自信と恥知らずは表裏一体」が面白かったので備忘録。。「わからない」と言うことは「恥ずかしい」こと。この刷り込みは小学校に通うころにはほぼ全員が持ちます。わからない【けど】やる。(逆説)わからない【けど】やら【される】(逆説+使役)はずかしいことなのに、やるときには他人に命令されてしかたなくと言った感じがしっくりきます。わからないと、やる、の間には深い溝があります。しかし著者はわからない【から】やる。(順接)のです。これは、バカがやることとと普通いわれます(笑)。恥知らずとも言われます。しかし、恥知らずをいくつか重ね、うまく行くと「自信のある人」と晴れて呼ばれるわけです。しかし、そんな人がまた失敗すれば「自信過剰の恥知らず」(笑)と呼ばれるわけです。そんなわけで、生きていれば失敗はつきものだから、わからないからやるという方法は至極当然の方法というのが著者の主張です。面白いです。納得してしまいました。しかし正解じゃないとイケナイ、わからないとはずかしいという呪縛は、自分自身相当強いものがあると再認識しました。
2005.03.12
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中村さんの講演を聞きに東京都武蔵野市吉祥寺のボルテックス(有)さんのセミナーに行ってきました。キャンセルが出たので繰り上がりで聞く事ができました。以下自分の身につまされた話です。中村さんが、八百屋の行商の丁稚として働いていた時に、師匠である店長から、「トラックの上で踊って客寄せをやれ」と言われ、当然「はずかしくて、そんなことできません」そう答えた中村さんに、師匠が一言。「お前の都合は聞いてない」そうなんですね。恥ずかしいというのは、個人的なこと。それが普遍性を持っているわけではないのです。事実、中村さんは4日たつ頃には恥ずかしさはどこかに飛んで行き、ねじり鉢巻きにきゅうりを2本差して踊っているのです(笑)。恥ずかしがる中村さんに言った師匠の言葉が胸に刺さります。「貧しい国の子供たちを見てみろ。空港で勝手に荷物をタクシーまで運んでチップをせがむ子供がいる。そいつらが、恥ずかしいとかそんなことで悩むと思うか?それをしなければあいつらは生活ができない。お前も自分の都合で、できないといってやらなくたって、10年、20年後、それなりの生活はできる。どうしてだと思う?それは、豊かな日本という国に住んでいるからだ。そんなこともわからんやつはさっさと三重に帰れ!」私もできない理由をつい、言ってしまう事がありますが、それを日本に住んでいるがゆゑという考えは、ありませんでした。新しい気づきをいただきました。
2005.03.11
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「幸運をよびこむKIMIKOウオーキング」KIMIKOさん著私のウォーキングの先生、KIMIKOさんが書いた新しい著書のなかにもありました。チャンスかも知れない話に、自分の自我が予想した範囲にとらわれてしまって、進めなくなったりする。結果にとらわれない。プロセスを楽しむ。何度も、このテーマが出てきます。そうです、自分に言い聞かせているのです。あ~、人生どきどき。
2005.03.09
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けさ、雪が降る中、ゴミを出しに外に出ました。しゃがんでゴミのネットをかけ直していると、通学途中の小学生がすぐ後ろで立ち止まっている様子。どうしたのかな~と思いつつ、ネットをかけ終わって頭をあげてびっくり。なんとその小学生が、私に傘をさしてくれていたのです。ニッコリ笑う1、2年生くらいの男の子。どうもありがとう!笑顔で小学生の肩をたたき、彼のプレゼントに感謝しました。
2005.03.04
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地下鉄のポスターを見て、その写真の素晴らしさに引かれていってきました。鴬谷駅から東京国立博物館にむかう道すがら、とある寺に掲げられていたのが下の文章です「思い、言葉、行動がずれると不幸になる」おおーっ!これは、最近読んだ、あまちゆうとさんの本の中で言っていたことだ、と不思議な共時性がうれしかったです。ところで、このブログは今日で1周年です。望月俊孝さんに勧められて開始し、思ったことを外に向かって出すことが、また新たなものを呼び込むきっかけになることを体験できました。かなり不定期ではありますが、今後も自身が感じたことを自身の言葉で、ぎりぎりのところを出していきます。
2005.02.23
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お寺で床をぴかぴかに掃除したり、トイレをキレイに掃除すると、すっきりするのは、汚れを落としているうちに、自分の中の不必要な思い込みも一緒に落ちてしまうから。こんな文章をどこかで読みましたが、自分でも実感してます。それにプラスして、自分がしあわせを感じるのに、自分の外の何かが必要だという考えも、必要ありません。自我も本当は、いらないのではないでしょうか。自分の自我が強力に根づいていますが、それに守られているというのは錯覚だと思います。思い込みをはずして、フットワークは軽く軽くですね。
2005.02.22
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料理本でレシピを参考に作ったり、生活スタイルでも色々と影響を受けているパトリスジュリアン。そのパトさんが経営していた、白金台のレストランの回顧展を、表参道のギャラリーロードに見にいってきました。ギャラリーには閉店1ヶ月ほど前のレストランの写真が20点ほど。それに対するパトさんの想い出が、脇につづられていました。しかしなぜ、今になって閉店したお店のことを展示するのだろう。彼のポリシーからすると、このような展示会はやらないだろうというのが率直な感想です。ただ、最後の写真と文章を読み終わる頃には、これはパトさんの、レストラン「サントル・フランセ・デ・ザール」に対するお別れ会、卒業式なのかなと思われました。大好きだったお店について、本、ネット等で閉店を惜しむ気持ちを読むことがありました。おそらくこれが最後なのでしょう。そんな気持ちが感じられました。すでに、パトさんの仕事は、レストラン経営から大きく方向を変えています。彼の持つ世界観の表現のひとつがレストラン経営だったと言えるので、今後もどんなことでそれを見せてくれるか楽しみです。
2005.02.21
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「しあわせ通信」【立花大敬著】を読んでいます。このシリーズは本屋さんでは手に入らないので、BOOK OFFで見つけた時にまとめ買いしました。そこで目に付いたことば。なぜ悟りをひらけない(立花さんは禅をやります)なぜうまくいかないなぜスランプになるのだ「なぜなぜ」に頭を使いすぎない。所詮人の思考はたかが知れている。その時の自分を(うまく行っていないと思う自分)を受け入れ、その場所におさまりましょう。そうすれば、自分本来の真我がひらめきとなって現れる。大変な状況の時に、「考えるな」という考え方は、確かに「責任放棄」「なげやり」いろいろな声が聞こえてきそうです。それでも、自分が思ったり、考えたりする以上の「なにか」かもしれない、と考えることがあるなら、この考えに漂うのも一興かもしれません。現在平行して読んでいる、「ラッキーマン」【マイケル J フォックス】の帯にこう書いてあります。神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、自分に変えられることは変える勇気と、そしてその違いが分かるだけの知恵をお与えください運命として受け入れなければならない(パーキンソン病)。それでも、その状況ぎりぎりの先頭で、わずか一歩でも足を踏み出すのが尊いのではないでしょうかね。状況ぎりぎりの先頭なら、余計な考えも浮かびようもなさそうですから。
2005.02.15
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最近気がつきました。たとえば、にんじん、玉ねぎ、ジャガイモを切ってかるく炒めるとします。初めは、にんじんはにんじんのまま。ジャガイモもジャガイモとしてごろごろと鍋の底を転がっているにすぎません。しかし、ある時間を境に、それぞれの食材が自分に「もう材料ではなく、料理にかわったよ」と訴えてくることにです。その料理を食べてみると、食材とのやりとりがあったものは美味しく、なにも無かった料理は味もいまひとつです。料理は技術だと思っていましたが、食材とのやり取りが存在するとは新鮮な驚きでした。
2004.12.07
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特に人生論や、生き方に関する本では顕著に思います。たくさん読んでいると、どうやらどの本も同じ事が書いてあって結論は同じかな?と。ただし、人ひとりの経験できる範囲はとても狭いものですから、読書そのものを否定するわけではありません。きっかけが、自分はまだまだだな~っといった、「不足感」や、世間はいまこんな事になってます、知らないんですか~等の「あせり」を刺激する類の本はよく注意しようと思います。昨晩、「西東京発、本のくすり」に参加し、望月俊孝さんもかつて、どの本も結局同じだなと思ったことがあるとおっしゃっていたのを聞いての気づき。
2004.10.22
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以前BSハイビジョンで放送されていたこの番組をビデオで観る機会がありました。ただ単に、鉄道で日本をまわるだけのこの旅に、当初何の目的も見いだせないと思っていた、旅人の関口知宏さん。旅も終盤の九州に入る頃には、「日常生活を、違った目線から眺められるようになった」その様子がわかるいい番組でした。旅の出会いは、その出会いから別れが非常に短期間。関口さんはそこから、ふだんなにげなく顔を合わせている人が、実は大変貴重な人だと気づきます。あらためて自分もそんな目線を持たせていただきました。それにしても、日本列島は、どこにいっても緑が豊かですね。あたりまえの景色ではありますが、どこの国も緑が豊かなわけではありますまい。そんな日本国に改めて愛情を感じました。
2004.09.01
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う~ん。いろいろな本を読んでみると、今生きている人生はレールの上に乗っているという考えが、どうやら本当のところのようです。それを100%受け入れると、次はまた違うステージが見えてくるようです。そっちに行ってみましょう。人柱です(笑)。
2004.08.26
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何度かこの本を読み返しています。このところ、この本から得ていることは、運の流れとか、人生の流れというのは自分の周りにたくさんある。鉄道好きの私としては、その光景はちょうど、日暮里付近のJRの線路と重なり合います。高崎方面あり、南浦和方面あり、小山方面あり。自分は今、どの電車に乗っているのでしょうか?そして電車に乗っている自分が、どんなにたくさん本を読んでも、勉強しても、テープを聞いても、乗っている電車が自分の目的地と違っていては、個人の努力はいったいなんなのでしょうか?時空への問いかけ、そして周りに降りてくる外応にどれだけ無心にのることができるか、実験、実験。
2004.08.24
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アメリカで代替医療の仕事をしている人から教えていただきました。心拍のリズム、呼吸のリズムがあることは、どなたにもおわかりいただけますが、それ以外に、ちょっと注意を払うともう一つのリズムがあることがわかります。(事実私もすぐに体感できました)そのリズムは、身体を流れる体液の一種だそうですが、心拍とも、呼吸とも違うゆったりとしたリズムです。両肩や、頭等を両手ではさんで判断するのですが、面白いのは、治療の際に病気の原因は何か、と患者さんに質問して、身体が悪いところを指摘されるとその動きが止まるのだそうです。オーリングテストと似たようなことなのかもしれません。アメリカでもまだ、研究が始まったばかりだそうですが、身体については、まだまだ知られていない面白いことがたくさんあるものだと感心いたしました。
2004.08.20
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望月さんの楽天が移転したそうです。リンク先が違う方になっているのでおかしいな~と思い、ボルテックスに確認しました。探している方は、おすすめ新着のリンクをお使いください。削除されてしまったのかな~。最近多いですね。
2004.07.07
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この話にオチはありません。今日は暑かったですね。ちょっと涼みに、出先で本屋に入りました。なにげに地図を広げたら、その本屋がある飯田橋と神楽坂は目と鼻の先。以前からその雅な地名に興味を持っていたので、本屋を飛び出してさっそく現地へ行きました。神楽坂下から神楽坂上まで、文字どおり坂を上りつつの街の観察です。実は街はどうでもよくて、芸者さんを期待していたのですが、気温32度の日中ではさすがにいません。氷屋さんが、のこぎりで氷を削っているところをみつけ、その涼しげな音をききながら、心は「その削った氷をかき氷にしてくださ~い」と言いたくなるような神楽坂でした。
2004.07.06
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「ぐさっとくるな~。これ自分のこと?」久しぶりに、深夜2時までかかって一気読み。どん底までおちろ、外に出よは、4章、6章の題名。どん底にまで落ちなくても、この本でその意味することは理解できる。そう思っているところに、そとへ出よですから。背中をどん、と押されて(押されなくても)舞台にあがり「自分はここに立つのか?」思いもよらないところに立っている自分を、どきどきしながら受け入れなくてはいけない。人が事を成すときは、理屈で納得するよりもむしろ、「わきあがってくる感情」のコントロールがツボだということですね。この本で実行力はかなり上がります。(ちょっと感情マーケティングっぽいところもありますが)
2004.07.02
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今日、山川紘矢さんとお話する機会がありました。雑談の中で、山川さんは「自分が、今こうある姿を予想はまったくできませんでした」。そう話をされました。同じ話を甲野善紀さんからも、聞いたことは以前書きました。私は理解するのに2回、別の場面で同じ話を聞くことが必要な性分らしく、これで納得、腑に落ちたところです。甲野さん、山川さんですらその思いに至ったのであれば、いわんや、私においておや、という気持ちです。人生が、自分の予想を越えているのであれば、いまある所で、目の前の事を大切に思い、感じ、誠実に生きていくより他ありませんね。そんな事を考えていたら、けさ来た、英光舎 松浦英行さんのメルマガにこんな文章を見つけました。「ものごとを深く考える、理解しようとするという特性は、長所であるとともに短所でもあります。」---ついあれこれと考え過ぎてしまう自分にぐさっとくる言葉です。わかりたい病だそうです(笑)どうしてだろうと思ったことを、そっと心にしまいこんで、考える、理解する「長旅」に出てしまわないように、アドバイスをいただきました。回答は、疑問を持ったときに、同時に自分とともにあるのですが、自動改札を通って「長旅」出ていってしまうと、回答が向こうからやってきても、本人はそこにいない。いまいるところで、疑問、問題があれば、その疑問、問題を何だろうとインプット。そして、(未来は予想がつかないのだから)そのあとは今、自分が思い、感じたことに誠実に生きていくことがポイントのようです。
2004.06.27
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今年の梅雨は、おおよそ梅雨らしくない晴天が続いてますね@東京地方。しかも、雨が少ないばかりでなく、湿度が低いので大好きなハワイの気候と似ています。日本にいながらハワイの気分を味わえる、シアワセな今日このごろです。。
2004.06.19
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山川亜希子さんの話を聴きに世田谷へ行ってきました。被害者「感」の話。自分は被害者だと思っている人は、「自分は正しい」そして、「被害者という立場が実は心地よい」ゆゑに自分は被害者だと思いつづけるのだそうです。これを聞いて思ったのですが、被害者感と言うのは他人が自分を認めてくれないという気持ちが根底にあるのではないかと。思考の中心は自分にあるわけですが、これを無理に相手の立場に立って考えようなどとは思いません。最近勉強している、自分の運命は決まっていて同時に自由だという考えから観てみます。すると自分、相手という二つの見地ではない、予定とか運命の流れからすると、何か必要があっての出来事かもという見方が出来そうです。
2004.06.15
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どうも、給水が遅いと思いつつ、修理して万が一使えなくなるよりはそのままでいいと使っていたトイレ。思い切って水道管を分解してみたら、ゴムパッキンがつぶれていて、水道管の直径の半分をふさいでいたのでした。DIYのお店に行ってパッキン170円を買って修理すること10分。あっというまに直ってしまいました。給水もすぐに終了するし、手を洗う水も快調にでてきます。もっと早く直してもよかったなー。。原因は引っ越して来たときに、ウォシュレットを自分で設置して、力いっぱいボルトを締めてパッキンをつぶした 自分にあったのだった。。水道管のボルトはホドホドに締めればいいみたい。
2004.06.12
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先日のNHK日曜美術館で宣伝があり、久しぶりに見たいという気持ちになったので行ってきました。印象に残ったのは、1956年に軍艦島をテーマにした「人間の土地」という一連作品。島ひとつが大きな工場といったおもむきの軍艦島。そこに生活する人々は、人間という種のバイタリティをまざまざと写し出しているものでした。それは屈強な男性から感じたのではなく、腰の曲がったおばあさんが、半分廃虚(にみえる)となった建物の間からでてくる写真であったり、バラックの家の間から顔を出している、おかっぱの女の子の写真からです。どんな環境でも、そこに居をかまえ、それがあたりまえのように生きている人たちがいたことに、心をうたれてしまいました。人間ってたくましいです。最近の作品では、パソコンをつかって写真をさまざまに加工したものがありました。その中のひとつに、フランスの城、雲、塔を組み合わせたモノクロの作品があるのですが、なにやら引き込まれるものがあり、作品の前のソファーに結局30分くらい座り続けてしまいした。いろいろな意識を体験しました。はじめは見ながら、何だろうとあれこれ考えていますが、そのうちに思考が停止して、作品のもっている訴える力がそのまま頭に入り、その作品の中で泳いでいるような感覚です。しっかり作品のイメージを頭に焼き付けてきたので、今日のこの作品は心を落ち着けるツールになりそうです。(笑)
2004.06.08
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以前の日記をなんとなく見直していたら、3月26日の日記に、オチはありませんと記入していました。***********************************************今日の話にオチはありません。念のため。問い「あなたはだれですか?」答え【森田健さん・シッタカブッタ】「私は森田健です」【森】「私はシッタカブッタです」【シ】問い「あなたは名前ですか?」次の答え【森田健さん・シッタカブッタ】「わたしは誰でもありません」【森】考えて考えて、考えぬいたけど結局わからないのでぶたは考えることをやめてしまいました。そんなシッタカブッタに対して「それがおまえだよ」【シ】はたして、このふたつの話はつながるのでしょうか?**********************************************今は、すこしオチがわかりました。自分が、自分だと思っているものは、「今日は、雨だから傘いるなー」、「今日の夕飯はなににしようか」、などと考えている、「思考そのもの」だと思っていました。でも、本当の自分はシッタカブッタが考えることをやめてしまった後にも、そうしてそこに存在している、「そのもの」のようです。森田さんがいっている、「私は誰でもない」という表現は、考えることをやめた時に感じられる「そのもの」を森田さんが表現するとそうなるのだと思います。
2004.06.07
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「運命を変える未来からの情報」についていたハガキを送りました。全員プレゼントです。選択肢の中からビデオを選んでいたのですが、今日到着しました。さすが、マシンガントークです。理解しようとするよりも、先にどんどん話しが進んでいきます。そのうち、自分の納得はとりあえず置いといて、聞く態勢になりますね。変な理屈で、こねくり回して聞かれないようにどんどん話を進めるのは、一つのテクニックですね。ビデオの中で、時空と、自分の関係を駅の「自動改札機」にたとえて説明してくれたのが面白かったです。つまり、自動改札は一方通行で、早い者勝ちのレーンがあったりします。こちら側の意見、願望、要求ばかり言っていては、向こう側の回答は入ってこれません。要求したら、黙る。回答を焦らない。
2004.06.03
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質問はありませんか?という先生に、たくさんの方が質問をされました。剣道の型について、少林寺、柔道、レスリング、プロレス、サッカー、バスケット、要介護方を起こす方法。。。。そんななかで、私は質問しました。体育会系のなかでの文系の質問は勇気がいりますねー。でもしちゃいます。「運命は完璧に決まっていて、完璧に自由だ」ということを実際に見るためにきました。その時、質問を聞いた先生の口元がちょっと動いたのが目にはいりました。武道を目的にしてない人も来たなという先生の気持ちが伝わってきて、うれしかったです。質問の後、先生が「ちょっとこっちに来てください。もし、腰が悪かったら言ってください」。といって、私を呼び寄せます。そして、一言。「場を変えることができるんです」。そのあと、びっくりすることが起きたんです。まず、先生の後ろに立ち、後ろから先生を抱きあげます。60kg位でしょうか。楽に持ちあがりました。(力はある方です)そして、そのあとです。ちょっと先生の身体が動いたか気がしました。「もう一度持ち上げてください」といったとたんに、先生の体重が2倍くらいになったでしょうか。とにかく、あまりの重さに自分では支えきれずに、先生、自分もろとも畳に倒れこんでしまいました。人間は、自分の体重さえ変えてしまうことができる。これは、先生と私との関係での体重だと思いますが、確かに、人は大変な能力を持っていると確信しました。人間はただ者ではない。本当に、ひと以上のものだと、確信した体験でした。
2004.05.29
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甲野さんの繰り出す技や、動きに初めはただ感動、感動の連続です。しばらくすると、それを通り越し、気がつくとポカーンと口をあけて見入ってしまいました。それは、「人間とは、ここまで素晴らしいものなのだ」。自分を含めた人間の可能性に対して、すばらしい!!という賞賛の気持ちでいっぱいになっていたからです。こうして、今書いていても、心が元気というか、パワーが出るというか、力が満ち溢れてきます。剣道の剣さばき、柔道の技、バスケットボールのフェイント、レスリングでの技の応酬、どれもこれも素人が見てもその動きは、ただごとではないと感じると思います。さて、私が先生の技を見るのには前回の日記にも書いたようにもう一つの観点があります。「運命は完璧に決まっていて、完璧に自由だ」それを、先生の動きの中に観ることです。それは、充分に感じることができました。一つ例をあげます。レスリングや、ラグビーのタックルをどうかわすかという実演の時です。相手が、先生の足にタックルをきめます。そのままでは、さすがの先生でも動きがとれません。相手を十二分に上回る体格と体力がなければどんなに力を入れても、それをかわすことはできません。そこで、先生が何をするかというと、「相手と一体になる」まず、これをおこなっています。そして、相手の動かそうとする意思、気持ち、体重のかけ方と一体になって、その一体となる部分と、自分の意思のごくわずかなすきまを何か(この領域は自分ではまだわかりません)利用する形で、飛ばしてしまうのです。静止と、動のすきまにはとてつもないエネルギーがあるように思います。それが何かはまだ分かりません。ただポイントは、相手と一体となることです。先生の動作にはすべて、これが含まれていました。これは、運命はすべて決まっていると言うことと一致することだと思います。まずは、受け入れる。人生でも、自分に起こることはまず受け入れて、その状況と一体となる。それは、人生の流れとして決まっているんですね。そこで、「そうじゃない、違うんだ」といって、力をいれてじたばたしても、どんなに力を入れても、自分の筋力だけではどうすることもできないのと同じことなんです。(先生も、何度もその点を強調されていました)まず、その相手(人生の状況)と一体となる。そしてその状況を利用して、使って、自分という個性を使ってその状況からえられることを利用しつつ活かす、これは必ずできることなんです。つづきはまた。。。。。
2004.05.28
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「スプリット」甲野善紀、カルメンマキ 名越康文 共著甲野さんといえば、ナンバ歩き、古武道、巨人の桑田投手のコーチなど最近いろいろとお名前を見るようになりました。以前に一回だけ本を読んだことがありました。今回ポスチャーウォーキングのKIMIKOさんが、甲野さんの講習を見に行った話を聞き、本をもう一度読んでみようと思い、手にしたのがこの本「スプリット」。びっくりしたのは、その中に甲野さんが「運命は完璧に決まっていて、完璧に自由だ」と述べていること。そう思うに至った経緯が述べられていたことです。私が、最近ちょくちょく日記にも書いている「運命は決まっているのか?」という話を甲野さんご自身が、人生の命題として考えていたことを知り大変身近に感じました。同時に、どう解釈しているのかに興味を持ちました。甲野さんが、「運命は完璧に決まっていて、完璧に自由だ」という、考えに確信をもったのは、「光は、波動であり、粒子でもある」と言う近代物理学の話に触発されたからだといいます。どちらだという決めつけではなく、どちらでもある。私は、「完璧に決まっている」という考えは、この世の中は人間がすべてコントロールできるものではなく、ある種のコントロール下に置かれていることを認識させるための表現だと思います。そのコントロールの流れに逆らわずに生きていくのがそもそもの生き方なのではないかと。自分の本分ではないか?と。あきらめとは違う、自分の使命の流れの中に生きていくことが、自分の人生のパスポートに書かれたシナリオだと思う。甲野さんの生き方の素晴らしいところは、古武道を、その認識を実践するために行っていることです。相手が攻撃してくるのに、「運命はどうせ決まっているんだ」といって、ぼーっとして、やられてしまうわけにはいきません。相手が攻撃してくるという運命に対して、どうやって完全に自由(応戦)になるかを追求しているのです。相手の動きのどこまでが、運命的なもので、どこからがそれに対する自由な対応なのか、その場、その場で時空が変化して教えてくれていると思います。こんなたとえ話を別のところで聞きました。ある大変信心深い人が、増水した川の中洲に取り残されました。救助が来て、助けようとボートで中洲にやってきた。ところが、その人は、「これを受け入れる。神を信じているから運命で悪いことが起きるはずがない。この状態で大丈夫だ。」と言って、救助を断ります。その後も、2回ボートを付けますが彼は乗らず、そして川に流され死んでしまった。天国に行った彼は、神様のところでこう言いました。「神様、私は神様の運命に従っていたのに結局何も起こらず死んでしまった。なんで助けてくださらなかったのですか?」神様が答えた。「何を言うのか?わたしは、3回もボートをよこしたのに乗らなかったのは貴方だ」。悪い運命だとあきらめずに、また運命だからと言って何もしないのではなく、その場その場の時空が用意するさまざまなサインを見落とさないように、自由に振る舞えるようにしよう。**************************************************甲野さんの講習会、実演会のキャンセル待ちにOKがでたので、今度みにいってきまーす。!!たのしみー。**************************************************
2004.05.23
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早朝ウォーキングのルートに雑木林があります。ひとかかえもあるような、シイ、スギ、マツ、ケヤキが育っています。植物は、あるがままを受け入れるしかないですよね。大雨が降っても移動できないし、風が強くてもよけられず、強ければ折れてしまう。そんな状態なのに、文句を言いながら大きく成長しているようには当然みえない。究極の現状肯定思考ですよね。雑木林や森林に入って気持ちいいのは、自分の場所で、それがあたりまえのごとく、さらっと生きているすがすがしさに、知らずのうちに自分が反応しているからかもしれない。
2004.05.22
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日記のタイトルをことわざでいうと、「火事場の馬鹿ぢから」のこと。今日行ってきた、中野裕弓さんの講演を聞いて納得しました。普段行動するときは、経験、常識等に照らし合わせて判断し行動をとるわけです。しかしピンチ、それも急な出来事であればあるほど、分別をしている時間がなく、直観、真我からぽろっと対応方法が出やすい環境になるわけです。緊急時だけにしか、直観、真我の情報が使えないのではもったいないです。必要なときにいい情報をえられるように、ただ今分別のスイッチの ON OFFの練習中です。
2004.05.21
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小林正観さんの本を読まれた方はご存知の2万5千回のありがとう。先日実行しました。で、ことの真意がわかりました。5千回目ぐらいで。2万5千回「ありがとう」と言うのですが、そのあいだに一回でも、「くだらないー、ばかばかしい」と思ったら、振り出しから数え直しがルールです。そうすると、「ばかばかしいなー」の「ば」を思い浮べそうになったときに、それを打ち消すように大きな声で「ありがとう」を言うわけですよ。せっかくかぞえてるから。そうすると、「外で、小学生が大騒ぎをしていても」=>ありがとう。「必死にかぞえているのに、セールスの電話が鳴っても」=>ありがとう。「小泉さんが年金未納でも」=>ありがとう。そうするとですねー、くせになってしまって、数え終わったあと、外出先で角から自転車が飛び出してきても=>ありがとうって思っちゃうんですよ。(さすがに声には出さないけど)それまでだったら、=>危ないなー!まったくもーっ!になってましたよ。確実に。つまり、今、自分が置かれている時空(森田健さん流に言えば)を100%、受け入れるくせ、が出来上がってしまいました。これで。別の本で言うと、「Power of Now(さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」で言うところの「思考活動=自我の雑音づくり」を止めて、無心状態をつくるきっかけとなるわけですね。だから何があっても、「なんだこれ、まったくもーっ!」と言って、時空と自分を分離させてしまうことは、これでなくなるわけです。*******************************宇宙はあなたを潰さない。物事は絶妙のタイミングで起きる。*******************************その意味を見つけようとする心構えをつくるのにこの「2万5千回のありがとう」はとても良い方法だと思います。ちなみに回数を数えるのは、エクセルでエンターキーを押すことで行いました。キーがキコキコと変な音がするようになってしまいました。手入れして直してあげよう。人体実験終了。
2004.05.15
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