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俵 万智さんが8年ぶりに歌集プーさんの鼻を出版した。「プーさんの鼻」は、2歳になるご自身の坊やとの時間を、歌った歌が圧倒的に多い歌集である。恋を歌い上げると万智さんは、まぶしくてちょっと遠いところにいる歌人だったけれど、坊やのママとなり、愛をいっそう身近に親しみ深く歌い上げる万智さんがそこにはいる。気付けば、世間をあっと驚かせた斬新な日本語で、青春の恋歌を歌い上げた「サラダ記念日」から、もう20年近い歳月が流れていた。現代の何気ない風景のなかに、女の激しい恋心を艶やかに歌い上げる万智さん。ある時はやさしく男に寄り添い、静かに恋心を歌う万智さん。あるときはせつなく鳴り響く誰もいない部屋の電話のベルの音を歌い上げる万智さん。平凡な日常をあざやかに繊細に切り取って、「はっ」と私たちにありふれた日常の非凡さを気付かせてくれる万智さん。そんな万智さんが、妊娠、出産、育児の2年間の日常を歌った。単調な、閉塞した狭い日常空間の育児の日々を歌っている。一人のごく普通の母としてのやさしさや、吾子へのいとおしさや、日常の閉塞感を、あざやかに切り取って私たちに見せてくれた。日々成長する坊やへの感動を驚きを31文字のなかに凝結させて、小さな命の躍動を歌ってくれた。「プーさんの鼻」はそんな歌集です。歌集「プーさんの鼻」から、少しだけ抜粋してみよう。 秋はもういい匂いだよ早く出ておいでよ八つ手の花も咲いたよ(臨月の妊婦の万智さんが、吾子を待ち望む、いとおしさや、やさしさがにじみでている。) バンザイの姿勢で眠りいる吾子よ そうだバンザイで生まれてバンザイ(本当に赤ちゃんはどうしてバンザイして眠るのかしら) 四万十の源流点を思いおり ある朝吾子に笑い生まれる 生きるとは手をのばすこと幼子の指がプーさんの鼻をつかめり(赤ちゃんが笑い始めた日、手を伸ばしてモノをつかもうとし始めた坊や、人としての発達を感動的に大きく歌っている。母であり、歌人の万智さんがそこにいる)寝返りをしようと飽くことなき繰り返す坊やを、万智さんは はずみつけ腰をひねっておっとっと寝返りはまだうまくできない 寝返りをふいに完成したる子の瞳に映るテーブルの脚ハイハイを始めたときの感動を、 昨日すこし今日もう少しみどりごは もこむくもくむく前に進めりほら、脚力もこんなに強くなったよ。いよいよ吾子も母から離れていく準備をはじめた、そんな成長の感動を万智さんは 何度でもぴょんぴょん跳ねる膝の上ここからここから始まってゆく ろうそくの炎初めて見せやれば」「ほう」と原始の声あげたりこれらは坊やの成長の感動を歌った歌だけれど、育児の日常の閉鎖感や、苛立ちの歌もある。 おっぱいのこと考えて1日が終わる今日は何曜日だっけ 眠り泣き飲み吐く吾子とマンションの5階に漂流するごとき日々 子のために乳房重たく実る午後 銀杏に雌雄あること思う 機嫌のいい母でありたし無農薬リンゴひとかけ摺りおろす朝その他、退職されたお父上の歌や、結婚した弟の歌、もちろん切ない恋の歌もある。平凡な日常を非凡な才気で切り取って歌い上げる万智さんの歌は、益々年輪を重ね、深みと幅を増して快調なのである。「プーさんの鼻」俵万智 文藝春秋社
2005.12.09
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携帯小説「恋空」の「恋」と夏目漱石「こころ」にみる「信愛」 高校の国語の多くの教科書に掲載している小説の一つに夏目漱石の「こころ」がある。現代文の授業では、この教材は必ずといっていいほど取り扱われている。 しかし、現代の高校生の多くは、この漱石の「こころ」に感銘していないばかりか、「何を言っているのかさっぱり分からない」とか「面白くない」いうのが、彼らの感想である。教科書に掲載されているのは、「こころ」のごく一部。即ち「こころ」は上・「先生と私」、中・「両親と私」、下・「先生と遺書」の3部から成り立っているが、どの教科書も下・「先生と遺書」をとりあげている。しかもその中からさらに抜粋して、先生とその友人「K」が下宿先のお嬢さんをめぐっての「恋のもつれ」から、Kが自殺へと傾斜していく場面を取り上げている。即ち、恋敵「K」との心理的な葛藤、「K」を窮地へと追い詰めていく先生の卑劣な行為・言動などの部分が教科書には採用されている。要するに「お嬢さん」「先生」「K」の三人の三角関係のラブスト-リーなのである。これでは、夏目漱石にあまりにも申し訳ない気もするが。 漱石の文章には「理解不能」を連発している高校生ではあるが、彼らにとても人気があり、とりわけ女子には、絶大な支持をえている青春恋愛ものに携帯小説「恋空」がある。「夏目漱石の『こころ』は面白くないけど、『恋空』には興味深々、映画を観に行ったけど、泣けて泣けてしょうがなかった」とのたまう、女子高校生の勧めで、この冨士子婆も「恋空」を読んでみた。(携帯で発表された小説「恋空」は、後に書籍化されミリオンセラーとなり、テレビドラマ化、映画化され大ヒットした。) 「恋空」を読み終えた。携帯のあの狭い画面では、読みづらく、とてもじゃないけど、こんなもの読めないと思っていたが、パソコン画面で、一応、前編・後編全761ページを読み終えた。これを読むにはかなりの忍耐力がいったが、色々学ぶことはあった。まず画面の使い方である。余白部分と記号(♪)を使って、視覚的に工夫があり、さすが携帯やパソコンに慣れている若い子の作品だと感心。高校生と等身大の主人公が、日常会話そのままで、その心情を書き綴っている。ほとんどが「口語会話体」で、ストリーが展開する。地の文が皆無といっていいほどなのである。まさに電車のなかで、恋花に夢中の女の子たちの会話である。この作品の日本語の語彙数の少なさには驚く。もし、数えたら、数百語程度で書けているのではないかとさえ思われるほどである。情景描写や感情描写は、すべて記号や字体・画面余白のなかにあり、視覚的に「感じる」ことが要求されている。 (ブログの文体に工夫を施し、作文のルールを破って、読みやすくすることに努力しているこの婆さんにも、この携帯小説の文体の革新性?は真似できない)このように見れば、現代の中高生たちが言葉の壁を感じることなく、すいすいと読めるのが携帯小説というものらしい。しかも、等身大の自分たちがそこにおり、主人公に感情移入しやすく、益々のめり込んでその世界に入っていける。では、この小説の内容はどうか?「恋空」は青春恋愛小説というジャンルということである。そのストーリーは、意外と古臭い。従来の少女小説のセンチメンタルジャーニーといったところか。それを現代の社会風俗のなかで描いているので、若い女の子たちにはちょっと危険でスリル満点。ドキドキなのである。少女から大人になっていく時、女の子たちは、このような小説に感涙して、大人へと成長して行くのではないだろうか。この点では、昔も今も変わっていない。このように考えれば、現代の女の子たちが、慣れ親しむ「携帯」という媒体で、このような大衆文化が生み出される事はある意味で必然である。まさに「庶民文化」。このストーリーに登場する高校生・大学生たちは、庶民的なバイタリテーにあふれている。エネルギッシュなのである。恋の仕方といい、三角関係の解決の仕方といい、セックスのありようといい、まさにエネルギーにあふれている。おおげさに、「苦しい」とか「寂しい」とか「つらい」などと何回も書いているが、『こころ』の先生のように、うじうじと自己内省をし、「人間とは」とか「生きるとは」と根源的な問いかけへとは発展しない。個としての人生を生ききる時の恐ろしいほどの「孤独」を垣間見ることなどはないのである。あくまで即物的で明るい。あくまで、強くたくましく一途なのである。現実に「生きること」を謳歌している。喧騒と退廃とドンチャン騒ぎのなかで、あくまでも「たくましい」。これが爛熟した消費オンリーの社会で育った「庶民」というものではないのだろうか。まさに「恋の空騒ぎ」なのである。そして、それは、現代の多くの中高生が、今、置かれている位置でもある。ここから、どうやって大人へと成長していけるか。幼い若者、大人になりきらない親世代が多い今、これは、親世代にも求められている子育ての課題でもあるように思える。 瀬戸内寂聴さんは、「ぱーぷる」というハンドルネームで「あしたの虹」(全188ページ)という携帯小説をお書きになった。私も拝読させていただいたが、やはり20代の書き手が書いた携帯小説とは、質的にちがう。その文体、言葉の使い方、語彙、全てにおいて、長きにわたり文を書くことを修練し、完成させているプロの人のそれである。「携帯」画面用に文体を改変して、工夫はされている。内容も「恋空」のストーリー展開に似ているが、登場人物一人ひとりが、社会的に生活している生身の人間として「典型化」されており、その「恋物語」を貫く哲学は、あくまで瀬戸内寂聴さんその人のものである。高校生の等身大の生きざまとはちがう。 20代の書き手たちが書く「携帯小説」に登場する人物像からは、その親世代の生きざまは見えない。その世代間の葛藤があくまでないのは驚くばかりである。明るいハッピーな家族なのである。あくまで、現実に遭遇した出来事を乗り切ることに意義を見出している。生活や長期的な生きざま、生き方を創造しつつ、愛を育む、創造するという視点はない。あくまでセンチメンタル・ジャーニーなのである。親世代としては、そのたくましさには「感心」したが、あのなかに描かれる愛は、大げさに騒ぎたてるほど「切なく美しい」とは思えない。あれは、あくまで「恋愛道場」。しかし、今の若者たちは、この「恋空」の登場人物ほどにエネルギッシュでないという事実もある。庶民のたくましい生きるエネルギーを自らの中に育てていないという事実もある。 次々に日々生み出されているかなりの量の「携帯小説」。それは、その書き手も読者も、生きていくよすがとして、等身大の登場人物に憧れに似た共感でつながり、バーチャルな世界にさ迷っているのかも。 漱石の描く「こころ」の世界との距離は遠い。 先生はお嬢さんとの愛を「信愛」と言っているのである。
2009.01.19
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日頃、若い子供たちばかりと接して、子供たちとねじり鉢巻で悪戦苦闘している私にとっては60歳代に属しているとはいえ、日常的には老いを余り意識しないで過ごしている事が多い。 しかし、私にも老いは確実に忍び寄っている。老いるとはどういうことであるのか。老いて、身体的に衰え、自分の意思で自分の身体がコントロールできなくなった時どうやって過ごす事が穏やかな満ち足りた人生なのか。 久しぶりに老いた両親を訪ねて、私自身深く考えさせられた。 私の両親は現在80歳代後半であるが、一応健在である。しかし、かなり身体的には弱り、中々思うようには生活できなくなってきている。 戦争、戦後と大きく価値観の変わる中、波乱に富んだ人生を懸命に生きてきたはずだ。その人生のなかで槌かつて来た知恵や生きざまは現代の社会では余り省みる者もおらず、そこから学ぼうという若い者たちは皆無である。これは、多くのこの年代の高齢者たちが味わっているくやしい思いであろう。 現代は余りにも生活様式や、価値観が変わりすぎている。 次の世代の息子や娘たち、即ち私たちは日常の生活に追われ、親の人生を思いやる余裕をなくしている。親たちの暮らしぶりを無価値なもの、古臭い時代遅れなものと否定して、省みないでいる。 このような老人が身体的に不自由な暮らしぶりとなった時、彼らが暮らしてきた、築いてきた暮らしぶりを誰が守り、維持すればいいのだろうか。親たちの価値観を尊重した暮らし方をどうやって守ればいいのだろう。 だだ、病院や介護施設に入れておけばいいのだろうか。これでは余りにも粗末に扱い過ぎているような気もする。 私が幼い時から、ずっとそこにある重厚な家具、ふすま、柱、などなど。弱って行く身体ではとても今まで通りぴかぴかに磨いたり、四季折々の花を庭先から摘んできて活けたりと、このようなごくありふれた日常が老いとともに出来なくなるということは、老い行く身にはとても辛く、寂しいことであると思う。そのような老い行く者の孤独や歩んできた人生に共感して、ともに生活できる若い世代が傍らにいて生活する事できるなら、どんなに心豊かに穏やかに晩年を過ごせるだろうか。 このような生活が今はとても困難になっている。そして、私たちの親たちは自分の生きてきた価値観(家父長的な家制度)をほぼ全面的に否定されたまま、新しい価値観や生活様式には余り馴染んではいない。 親たちの孤独を思うと、とても心痛む。 そして私がもっと老いて、日常生活が思うにまかせぬ程に身体的に弱ってきたら(その日は確実に来る)どうしたらいいのだろう。 私は、少なくとも親世代よりは自立した老後をイメージして、分をわきまえて人生設計をしてきたつもりだけれど。その時が来たら、若い世代に素直に受け入れられる穏やかな変わらぬ日常を過ごしていられるだろうか。心もとない。 とりあえずは、老いと立ち向かう気力を充実させ、日々を健康に過ごせるよう自分と闘おう。
2005.04.15
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「脱成長」経済の典型コッツウォルズの豊かな田舎暮らし。「イギリスの秋」をアップして6回目。5回連載してきた記事はすべて「経済成長」は停滞したままのイギリスだけれどゆっくりした時間が流れる田舎の風景が現代に生きる人々の心豊かにしている。中世の面影をそのままにとどめて、現代に生きるコッツウォルズはその典型。コッツウォルズの最南端に位置していて、イギリスで最も古い家並みを残している村カッスル・クーム(Castle Combe)コッツウォルズではお馴染みの蜂蜜色した石の家が続く町並み。17世紀には羊毛の集散地として栄え、イギリスの羊毛産業を支配した時代もあったが、羊毛産業の衰退とともに、産業革命の「経済成長」から疎外され、中世のまま封印されて、時が止まってしまった村。往時の繁栄をそのままとどめて、ゆたりと静かに時間が流れている。ウイリアム・モリス(William Morris)(1834-1896)(ウィリアム・モリスの看板を掲げた民宿のようなレストラン。中に入れば、モリス風のインテリアになっているのだろうか?)ウイリアム・モリスの生きた19世紀後半は、世界の先陣をきって、産業革命が遂行され、その成果を享受していたイギリス。工場で大量生産された商品が溢れていた時代にウイリアム・モリスはモリス商会を設立して、中世の職人技を範とした織物を自らで制作しようとした。織物を昔の方法で染色し、手織りのできる職人に織らせようとした。キャベツとブドウのタペストリー1879年の夏、コッツウォルズのケルムスコット(モリスが住んだ村)の家でモリスが初めて制作したタペストリー。モリスのデザインした壁紙やプリント織物は「パターン・デザイニング」と呼ばれ、モダンデザインの父と呼ばれているという。彼のデザインのモチーフは、コッツウオルズの豊かな自然、美しい風景の中から生まれた。イチゴを啄ばむ小鳥(Strawberry Thief 1883年・Indigo-discharged and block-printed cotton)当時、イギリスのプリント織物は「安物」の大量生産とフランスの流行を模倣した「高級品」に二極分解していた。このような時代にモリスの中世の職人技を駆使した織物は時代錯誤と揶揄されていた。(現代ではウイリアムモリスのテキストタイルは、家具、壁紙、カーテンや絨毯などのデザインとして、現代の人々の人気を得ている)カッスル・クームの秋を彩っていたたわわに実る紅い実。来たるべき厳しい冬が急ぎやって来る前に秋色に光る実は小鳥さんたちのご馳走になっていることでしょう。その紅の鮮やかさ、葉っぱのグリーンの深さモリスのテキストタイル(textile)にそのままでもなりそうな秋の色チューリップとヤナギ(Indigo-discharge wood-block printed fabric)無駄のないとても洗練された線で描かれた都会的なデザイン。このようなデザインで布張りされた家具は素敵ですね。モリスはこのようにデザインを自ら生み出し、染めや織も自分で創り出した。モリスは資本主義、機械工業が生み出した大量生産、大量消費に「アーツ・アンド・クラフツ(芸術と手仕事・工芸)」の運動を通して異議を唱えた。更にモリスは産業革命が社会にもたらしている非人間的な現実にも激しく抗議して、当時勢いを増し始めていた社会主義運動に傾倒し、社会主義連盟に加入し活動した。このように芸術家であり社会主義思想家でもあるモリスの著作や活動は、日本にも大きな影響を与えている。芥川龍之介の東京帝国大学の卒業論文は「ウイリアムモリス研究」であったし、宮沢賢治が岩手国民高等学校で講義した「農民芸術概要綱要」はモリスの影響を強く受けている。又、自然が無作為に破壊されていくことに警鐘を鳴らし、その思想は、後にナショナルトラストの運動へと繋がっていった。コッツウォルズの鄙びた田舎とは全く異なる優雅で洗練された都会的な南コッツウォルズの街バース(Bath)(ローマ人が築いた浴場跡)バースは「温泉」の町その歴史はローマ帝国の支配下にあった2千年前にさかのぼる。ローマ人がこの地の「鉱泉」に目をつけ、温泉を開いたのが始まりである。「風呂」の語源・bathはこの町の名前に由来するという。18世紀になって、当時の貴族たちは、この地を一大社交場にした。イギリスの上流階級の人々が集う場所として、贅を尽くした建物が次々に建てられた。その往時そのままに、ロンドンに劣らぬ華麗な街並みが今もそのままにあるバースその歴史ある街角に集う人々奏でている調べは?街角の馬車も川に行き交うナローボートも今も変わらぬ景色エイヴォン川に架かる美しい橋橋の向こう広がる秋色の街並と丘その町の郊外に建つロイヤル・クレセント 三日月型の優雅な曲線を描く建物、王宮のような建築物。何とこれはテラスハウス様式の集合住宅だという。1767年~1774年にかけて建てられた住宅現在もこの建物には人が住み生活しているというから驚き。もちろん庶民には縁のない高級住宅ではあるが。一部ほホテルになっている。コッツウォルズの村々の家々も、都会的なバースの建造物も100年~200年の歳月を経てもなお人々がそこで生活している。現役の建造物として活躍している。(博物館ではない)このモノに対する態度考え方は日本人としては考えさせられる。現在、日本では、経済成長のためのインフレターゲット、2パーセントを掲げて夢よもう一度借金をどんどんして、国がグローバル経済の競争に勝つべき旗振りの先頭に立とうとしている。(経済成長しないと日本国の将来は絶望的とさえ言っている)大量消費をすることが経済成長であると消費をあおる社会が文化を壊し、人の心を荒廃させる。グローバル経済とは、その最たるもの。イギリスの田舎の豊かさは、経済の脱成長、脱グローバル化にある。そして、古いものを受け継ぎ、現代に再生させる技の巧みさモノそのものが「使い捨て」を目的に作られていない。そのようなモノだけが時空を超えて生き続けている。ヨーロッパは全体的に政治家は「経済成長」を目指しているが、市民たちはそれとは次元を異にしたところで文化を作り、低成長の社会でも、健全に心豊かに生きようとしているのではないだろうか。世界で最も早く資本主義経済に突入した欧州、その意味で来るべき社会はどうあるべきかのもっとも先頭を走っている。社会の底流では「経済成長」には幸せを感じない人々が着実に増え、着実に心豊かに生活を築こうとしているように見える。(イギリス寸描は今回で最終回)
2013.01.18
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最近の大学入試あれこれどんな学力の生徒が大学生になっているか。 11月から12月にかけては、指定校推薦や公募推薦やAO入試などにより、来年度の大学入学者がぞくぞく決定する。中から下の学力レベルに位置する高校の生徒はほぼこの推薦入試で大学に入学しているのがこの数年の傾向である。とりわけ地方の私立大学は生徒獲得のためには、何でもあり、とても学びの場とは思えない至れり尽くせりのサービスぶりなのである。お客様である生徒の方は、そのサービスを当然と受け止め、何ら疑問感じることもなく入学して晴れて大学生になるのである。 このレベルの大部分の大学入学者は、ほぼ入学の為の試験勉強はする必要もないし、していない。では、日常的に、好奇心旺盛な実のある勉強を高校でしているかというとそれも「NO」なのである。ほぼ勉強らしきものはやっていない。 中間や期末などの定期テストに「与えられた範囲の与えられた問題を暗記して解答する。試験が終ったとたにきれいさっぱり忘れる」という勉強をしている。さらに、学校の推薦を貰う為には、「遅刻しない。化粧をしない。髪を染めない等々の高校生らしい身だしなみや規律ある生活をする」を3年間遣り通すのである。後は、内申点3.2以上などというものさえ確保しておけばよいのである。 このような生徒をいち早く大量に獲得した大学は、この子供たちをどのように教育し社会に送り出そうとしているか。 このような低学力で、批判精神の乏しい子どもばかりを集めてどうしようとしているのか。何もしようとしていない。気取ったファッション誌のような大学入学案内の冊子には、あれこれ綺麗ごとが並び立てられてはいるが、その嘘を見抜ける親や生徒はどれだけいるというのか。大学の学びをおこなう基礎学力の根底となる「読み書き」など、ほぼ中学生並、場合によってはそれ以下の生徒たちを集めて、大学の授業など成立しない。まず、この事実認識に立ったカリキュラム編成、授業計画をすることが、大学側に求められている。社会人としてまともに働ける知性、能力を身につけさせることが今最も求められている。なのに、ほとんどの大学は応えていないのではないか。(一部にはすぐれた実践をしているだいがくもあるが)楽に簡単に卒業して行ける大学なのである。大学というよりも、高校の延長の教育のやりなおしが必要なのである。もちろん勉強だけではなく、諸々の活動を通して、人格形成させるための活動が大学で行なわれているかも極めて危うい。 文部科学省の調査では、07年度の大学進学者のうち、推薦入試やAO入試での進学者は全体の4割を超える約25万8千人。一部の大学では学力検査なしで受け入れている。 これは、国公立の進学者を含めての数値であるので、私学の大部分は、入学定員の8割ぐらいを推薦で、ほぼ無いに等しい学力検査で受け入れているといっていい。(一部の難関といわれる大学のみが学力検査で入学している) 私立大学情報教育協会調査によれば、「学生に基礎学力が無い 」と感じている私立大学の教員は56%にのぼる。初等レベルの数学や読解力の不足は授業を進めるうえで大きな障害となっており「入学してすぐに組織的な対応が急がれる」と指摘している。《基礎学力がない》を分野別にみると、理学系70.4%、工学系66.1%、人文科学系60.2%なのである。 入学試験勉強を一概に肯定するものではないが、では、それに変わる高校生としての真の学力形成、人格形成をおこなう高校教育が行なわれているかといえば、必ずしもそうといい難い。 むしろ、このレベルの生徒が通う高校は、学校崩壊を起しており、まともな授業など行なわれていない、そればかりか、教師達は依然として旧態然たる、入試勉強を目的としたカリキュラムのまね事の授業を繰り返している。親たちは、この事実を知っているか。これは中学の内申点が3ぐらいのレベルの高校で起きていることなのだ。自分の子どもが、社会に出たとき、まともな職につけず、自立できないなのは、社会が不景気なだけではない。働く人間としての能力をどこでも教育されることなく、社会に投げ出されているからだ。このような育ち方をしてきた青年を雇っても使い物にならない。社会もそのような若者を育て働き手にするという余裕を失っている。汗水たらし、劣悪な労働条件のもと、必死に働いている親たちの子どもが、受けている教育がこのような惨憺たるありさまである。(先日、中国に進出して工場を経営している日本の中小業者が言っていた。中国には優秀で勤勉な労働者がいくらでもいると。ということは日本にはいないということ) 社会の中間層を将来担うであろう子どもたちがこのような状態の日本。 少子化で子どもが少ないといいつつも、子供たちはこのように粗末に商品として扱われているのである。全国学力テストに毎年税金を無駄に浪費している場合ではない。全国民に給付金などといって、2兆円ものお金をばら撒いて、国民を買収して、政権を維持しようとする、自公民の政治が作り出してきたのが、この教育のありさまなのだ。そして、それに追従している親たちが居る。 このような大学推薦入試制度はアメリカの模倣であるが、入試制度を形式だけ模倣しても、生きた豊かな制度になるとはとうてい思えない、世界中から優秀な頭脳が集まるアメリカの大学の推薦制度の厳しさは並みのものではないし、卒業するのも大変なのである。 何も勉強せず、何も勉強しなくともスルーしていける日本の大学とは大違い。 私は、今、大学推薦入学をめざすのこどもたちと、論述問題を書く練習をやっている。問題は結構、厳しい今日的な問題が多いが、高校での教育は、そのような問題を考えたり、討論したり、文章として書かせたりという教育は、日常的には全くやっていない。むしろ避けている。急に試験になったからといって、やれるものではない。 現実の社会問題に何も考え及ばないような教育で、基礎学力などつくわけがない。たとえば、こんな問題、 現在、日本では、「格差社会」の問題が広がりを見せているが、この問題について、1)「都市と地方の格差」 2)「富裕層と貧困層の格差」という2つの視点から論述しなさい。 といった問題をまともに論述できる高校生はきわめて少ない。こんな問題を出題する方はまだましな大学。紋切り型の志望動機を800字書くだけで合格という大学が圧倒的。(高校の教師は、この志望理由書を生徒に書かせる時、相手の大学のことを「貴大学」と書くように添削する。教師自身が、大学を就職先の企業と間違えているのではないか。しかも生徒は貴大学などと書くような文体では書いていない。幼い小学生の文体だ。)日本の中間層の行く大学の現状はこのようである。
2008.11.06
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代々木公園の銀杏並木は今、金色の道11月30日から12月2日に森のようちえん「全国交流フォーラムin東京」が代々木公園にある国立オリンピック記念青少年総合センターで開催されました。そのフォーラムにわが一族の女三人衆(コトちゃんのママと息子の嫁である小雪さんとこの婆さん)が参加して来ました。フォーラムについては、後ほど書くとして余りに銀杏並木が鮮やかに黄葉していましたのでまずは下手な写真ですがその美しさをおすそ分け公園を取り巻く銀杏並木まさに今、黄葉真っ盛りはらはらと初冬の風に落ち葉が舞い散るどこまでも、どこまでも続く金色の道金色の銀杏の葉っぱはひしめいて初冬のひかりになる高層ビルのひしめく都会の合間にもめぐり来た黄葉の季節代々木公園の紅葉は大都会の公園らしくよく整備され、周りの近代的なビル群に調和して山里の銀杏とはまた異なる趣で初冬の陽射しに溶け込んでいましたビル谷間できらめく明かりに照らされて銀杏の葉っぱは銀色に輝いてはらはらと散っていました
2007.12.03
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梅雨が明け、夏本番!今日、19日当地方は梅雨明け宣言。今朝は、快晴。からっとした爽やかな夏の朝。早朝(5時ごろ)の散歩は、久しぶりに、ひんやりとした夏の朝の冷気が身体に爽やかに流れるそんな朝の私の散歩道の小暗い緑のなかに、ぽっかりと明るく涼やかな白い花リョウブ(令法)(リョウブ科リョウブ属の落葉小高木。雑木林や山地のやや乾燥した場所に生える。北海道から九州、韓国の済州等に分布。6~8月に穂状の白い花が咲く。果実は長く垂れ、冬の枝にも残る。樹皮は、大きな木ほどよくはがれ、サルスベリに似る)近づいてみれば総状に、小さな白い花をいっぱい咲かせている。蝶や蜂が密を求めて花の周りを飛交う朝。(花は枝先に長さ8~15cmの総状花序を数個つける。花弁は5枚、ばらばらに散る。材は、緻密で堅く、床柱、器具、薪炭材とする。)名の由来は、かって、この木を、救荒用に植樹を勧める令法(りょうほう)が、出されたためといわれている。救荒植物とは、山野に自生する草木で、凶作の時に食用にすることができるもの。リョウブは、若葉をゆでてアク出しして、食用とし令法飯(りょうぶめし)などにされるという。かっては、人々の暮らしと深く関って、共生してきたリョウブ。今は、里山の林のあちこちで、人々から振り返られることもまれとなり、ひっそりと、ただ、涼やかな白い花を咲かせるばかり。山を跡形もなく潰して、宅地造成した空き地やその造成地を貫く自動車道路の道端に真っ先に、浸入して至る所で、芽を出し、木となったアカメガシワ(赤芽柏)若枝や葉には柔らかな赤味を帯びた星状の毛があり、濃いみどりに、ほんおりと紅が美しい(花は単性花で雌雄異株。枝の頂に円錐花序をつけた雄株)6、7月ごろには、枝の先に円錐花序の白い花を咲かせる。アカメガシワの実は、球形の裂果で、表面には柔らかな長いトゲがある。あっという間に雑木林のなかに生えて群生している。あさひを浴びて、きらめき、ざわめいてるアカメガシワの木々(学名:Mallotus japonicus Muell. Arg. トウダイグサ科の落葉高木。2次林に群生するものは、2~3mのものが多いが、老木は15mにも達する。日当たりのよい場所なら、何処にでも真っ先に侵入するこのような木を、先駆性樹木(パイオニアツリー)と呼ぶ。成長が非常に速く、雑草のようにたくましい。、名の由来は、カシワの葉と同じように、古くは、食物を盛る器につかったからという。樹皮の苦味物質ベルゲニンは胃腸薬に用いる。 子どもたちが夏休みに入るや、梅雨明けとなり、連日当地方では、厳しい暑さが続いている。昨日(20日)の気温は、軒並み36度を超え、猛暑日となった。コトちゃんの住む市など37.8℃と、今年の最高気温となり、2日続けて37℃を超えている。このままだと最高気温は40℃を超えてしまうのでは。一体、地球はどうなってしまうのでしょうねぇ。 日中の猛暑のなか、まだ、日の出前後の早朝は、かすかに凌ぎ易い。わずかばかりの冷気がある。私の散歩道は、眠りの中にある造成された新興住宅街。シャッターの雨戸を閉め切っている家が多い。 その道端や、空き地の荒地に、アカメガシワは芽吹き、花咲き、実をつけ、あるものは、3~4mほどの樹木になって茂っている。(いちどきに芽から実まで観察できる)また、高齢者の住む家の庭などにも、手入れされないまま伸び放題の庭木のあいだに、必ずと言っていいほどアカメガシワが生えている。老いて行きつつある町内のあちこちで、そんな庭に遭遇する。 一方では、山をまるごと潰して、造成し、新興の建売住宅街が出現し、若い家族が転居してきて住む。他方では、老い行く荒れるに任せた家々がある。このちぐはぐな街のありよう。今の日本の家族のありようの象徴でもある。そして、それは、又、行き当たりばったりの自然開発の象徴でもある。 そんなちぐはぐな破壊され続ける里山のわずかに残された林のなかのあちこちに、涼しげに白い花を咲かせているリョウブ(令法)。壊された林に、たくましく芽吹いて、自生している。リョウブが、天災時や戦時の食料を補填するするための救荒植物として、奨励されていた時代があったと知って、何か思い複雑である。やはり、どんな条件下でも、たくましく生きる植物であるのだと改めて納得。次回は、踏みつけられても、たくましく芽を出して、猛暑の道端で花咲かせているオオバコについてアップする予定。
2008.07.19
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