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廣井勇と教え子たち
http://www.nikkenren.com/archives/doboku/ce/kikanshi0112/cover.htm
中井 祐 (なかい ゆう) 東京大学大学院工学系研究科社会基盤工学専攻・助手
戦前のエンジニアたちのデザインや文章に接していると、その随所に強い意志の力
のような存在を感じることがある。
彼らの仕事に私が惹かれる所以である。
いつも、この力の秘密を突き止めたいと思いながら彼らの生涯をたどっているのであ
るが、ある時ふと、 必ずといってよいほど登場する一人の教師の名前
が気になりはじ
めた。
明治後半から大正時代にかけて、 札幌農学校と東京帝国大学で教鞭をとった廣井勇
(一八六二~一九三八)である。
私は、自分の惹かれる戦前のエンジニアの多くが廣井の教え子であるという事実に、
気が付いたのである。
廣井は、日本の近代港湾技術を飛躍させた功労者として著名である。
札幌農学校の第二期生で、卒業後アメリカとドイツに渡って実務および研究の経験を
積み、一八八九年、母校に工学科が新設されたのを期に帰国、二十七歳の若さで札幌
農学校教授に就任する。
ちなみに、この時の工学科一期生、すなわち廣井の一番弟子にあたるのが、岡崎文吉
である。
その後廣井は八年間にわたって札幌農学校の教育に尽くすのだが、工学科の廃止と同
時に辞職、以前から兼任していた北海道庁技師に専念して小樽築港工事を指揮し、そ
の実力を世に知らしめるのである。
当初廣井は札幌に骨を埋める覚悟だったようだが、一八九九年、小樽での実績を買
われて東京帝国大学土木工学科の教授に招聘(しょうへい)され、以後二十年にわ
たって学生を指導し、のちに日本の近代化を担う幾多の卒業生を社会に送り出すこと
になる。
たとえば宮本武之輔、太田圓三、石川栄耀、樺島正義、増田淳。さらに、日本人技術
者として唯一パナマ運河建設に身を投じた 青山士
、帝都復興橋梁の設計を統括しての
ちに多くの橋梁技術者を育てた田中豊、台湾の土木事業に貢献して今なお現地の人々
に慕われ続けている 八田與一
。
ほかにも多士済々といった趣で、廣井在任中、土木工学科は東京帝国大学の中でも異
彩を放つといわれたほどであった。
学生にとって廣井は、決して共感を得やすいタイプの教師ではなかった。
講義は下手くそで、生まれ故郷の土佐なまりでぼそぼそ喋り、板書はあちこち行った
り来たりで、学生を閉口させた。
卒業設計の口頭試問では、検討の至らない部分に皮肉たっぷりの指摘をして、学生の
表情を歪ませた。
何か相談に行っても、一見ぶっきらぼうで無愛想に思えることが多かったという。
しかしなぜか、社会に出た教え子たちにとって、廣井の存在が精神的なよりどころ
となっていた。
青山士は廣井の写真を生涯机の上に置いて心の支えとしていた
し、宮本武之輔は、 技術者千歳の栄辱は設計の成否で決すべしという廣井の教えを座右の銘
として、大河津分水の難工事に挑んだ。
太田圓三は卒業後初めて手がけた鉄道橋の設計を真先に廣井に報告に行き、田中豊は復興局橋梁課長に就任する際に心中の不安を廣井に告白して、逆に勇気づけられている。
彼らはみな尋常ならざる努力で後世に残る仕事をなし得たが、その 陰には、絶えず廣
井という師の存在があった
のである。
樺島正義は後年廣井のことを回想し、口数は少なかったが 貴いものを直に肺腑にお
しつけるような人だった
、と述べている。
廣井が学生たちに伝えた貴いものとは、何だったのだろうか。
それこそ、私が戦前の多くのエンジニアに感じる力の秘密かもしれない。
廣井は一八七八年の夏、十六歳の時に札幌農学校の同期であった内村鑑三、新渡戸
稲造らとともに洗礼を受け、キリスト教信仰の道に入っている。
当初、伝道者を志したほど信仰に燃えた廣井であったが、ある時突然、 宗教を説くよ
り先にやるべきことがある、と工学者の道を選ぶことを周囲に宣言し、以後一切信仰を説くことをやめてしまう
。
しかし廣井は、宗教が無意味であると考えたのではない。
廣井は生涯、聖書と祈りを欠かすことがなく、敬虔さは晩年になるに従ってその深み
を増した。
特に後半生はひたすら内省的に自らを律することに徹し、道義的な訓戒めいたことを
平素決して口にはしなかった。
廣井がクリスチャンであることを知る人は稀であったとさえ言われる。
廣井がキリスト教を信仰するに至った経緯を、私は知らない。
しかし、廣井自身は次のように語ったという。
人間の存在など粟粒のごときものだ。しかしこの人間の内に神に通じるところのものがある、それ故に人生は貴いのだ
、と。
そして、 人々の労働を少しでも軽減することによって、人をして静かに貴い人生を思
惟せしめ、反省せしめ、神に帰す余裕を与えることが土木工学の使命である
とも語っていた。
つまり、廣井にとって土木工学の道とは、まさしく伝道の道にほかならなかったので
ある。
廣井は、人の心と人生を豊かにするためにこそ、土木工学を追究し、その教育に力
を注いだ。
それは廣井にとって、祈りに等しい行為であったに違いない。
そして、その廣井の祈りが、意志の力が、社会に出て場に臨んだ教え子たちに力を与
え、その心を一層突き動かしたのではなかったか。
晩年の廣井の写真に見られる優しくおだやかな眼差しは、私にそんな思いを抱かせる
のである。
参考文献
『工学博士廣井勇伝』故廣井工学博士記念事業会、昭和五年
札幌農学校の3兄弟と広井勇 プロローグ 2026.05.20
技師 青山士 2026.05.20
工学博士 広井勇伝 2026.05.20