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2026.05.20
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カテゴリ: 内村鑑三
「評伝 技師 青山士(あきら) その精神の軌跡」高崎哲郎著

P3
 青山士は明治11年(1878)9月23日、静岡県豊田郡中泉村に、青山徹・ふじ夫妻の三男として生まれた。中泉村は明治29年磐田郡に編入され、明治15年(1940)見付(みつけ)町と合併し、現在は磐田市中泉である。
P4
 『士』という大変珍しい名前は、明治11年生まれにちなみ十と一を組み合わせて命名されたという。・・・・・・士とは「事物を明らかにできる逸材」の意味で、「あきら」とよませた。
 青山は専門誌「道路の改良」(第24巻第9号)で取材を受けて、こう語っている。
「青山氏は『十一ということは僕にとって非常に意味深いことである』とて。
『僕は明治十一年生まれで、学校を卒業したのは、やはり明治36年7月の11日、パナマに行くために船に乗ったのは、また、同年8月11日。かの地に着いたのも翌月の11日。そうして帰朝したのは、1911年の11月11日、その船室が11番、等などで実に僕にとっては十一ということは、めずらしい何らかの因縁をもっている。
また僕の名は明治11年に生まれたので、父が十一と名づけるのも何だか変であったのであろう、士(あきら)とつけたが、これは、すべて明らか即ち博士の意味だそうだが、文字では十一のように見えるのであろう』
と、氏は笑っておられた。」
P5
 青山家に伝わる資料や『磐田市誌』などの史料によって、青山家のルーツを確認する。
青山家の先祖は武将で中條(ちゅうじょう)氏を名乗った。渥美半島西端、三河国伊良湖岬の城主であったともいう。中條氏はその後青山氏と姓を変えた。戦国時代、青山氏は今川軍によって三河国を追われ、遠江(とおとおみ)中泉村岡田に逃れ住む。 青山家はその後、この地を押さえた徳川家康の命によって徳川家の鷹狩場を管理する役割を仰せつかった。

青山家は「鷹狩御殿」とも呼ばれ、地名には中泉御殿がその名残を伝える。
P7
青山家は江戸期に入って、帰農し、名主のかたわら旅館業(郷宿ごうやど)を営んだ。見付は東海道の宿駅に指定されるが、見付宿から2キロほど南下した中泉には、遠江と三河の両国にまたがり点在する10万石の幕府直轄地を統括する中泉代官所が置かれた。代官所は年貢収納や民政を預かる行政府である。
青山家は中泉宿の街道筋に広い敷地を確保し、名主のかたわら旅館業高級料亭の経営を続けた。
P8
江戸後期・天保年間に発刊された『中泉記』の「東海道町並図」によると、当時中泉村には三軒の郷宿が街道に面してあった。松田屋、井筒屋、廉(かど)屋であり、いずれも土蔵の所有者としてある。このうち松田屋が青山家の屋号である。青山家は代官に代って代々中泉村の実質的な民政を預かっていた。
P9
青山家は士の祖父宙平の代になって分家し、当時七軒町に一家を構える。宙平は文政元年(1818)生まれで、天保10年21歳で結婚した。
分家後の青山家は「六ツ井」と村人に呼ばれた。敷地内に6つの井戸があったことに由来し、その広大さは推して知るべしである。青山家本家は衰退し、分家した青山家が宙平の才覚により産をなしていく。今日のJR磐田駅とその周辺は、分家した青山家の敷地であった。磐田駅北口付近に残る楠の大樹は、その名残である。
宙平は遠州の貧民救済事業や初等教育施設整備に大きな功績を残した。
幕末の1860年代前半の文久年間、宙平は地元の篤志家に呼びかけて、私財をなげうって泉蔵寺に貧民救済の「普済院」を創設した。明治2年、中泉奉行として駿河藩から前島密が赴任してくる。宙平は前島と協同して「普済院」を拠点として社会福祉事業を展開する。
P15
明治4年7月廃藩置県が断行されて、浜松県が置かれた。翌5年遠江国を69区に分割した。その第一集会所を浜松宿に、第二集会所を見付宿に、第三集会所を掛川宿に設けた。第二集会所の中泉村以下10か村は第46区となり、東町の角屋を借りて、戸長役場とした。戸長に青山宙平、副戸長に山田総三郎が就任し、青山茂平、市川新三が補佐した。
P19
青山宙平は、天竜川改修工事などに生涯をささげた金原明善を高く評価し親交を結んだ。明善が責任編集した「治水雑誌」を愛読した。

宙平は明治5年(1872)浜松県第二大区副区長、9年静岡県第11区長、11年磐田、豊田、山名郡長などを歴任した。明治8年、地租改正で民論が沸騰した際、岡田良一郎とはかり、浜松県令を説いて県民会を設立させ副議長に選ばれている。浜松県廃県後も遠州副議長として、政府に陳情を重ねた。遠州人民への政府からの恩貸金15万円の獲得に成功した。
宙平は明治11年1月、その資産をもとに45,000円を出資し、浜松第二十八国立銀行の設立に協力して取締役となる。

 内村鑑三との出会い
P41 内村鑑三は札幌農学校第二期首席卒業生で、在学中にアメリカ人宣教師メリマン・C・ハリスから洗礼を受け、クリスチャンとなった。洗礼名をヨナタンとした。
内村の同期11人のうちのは、新渡戸稲造、広井勇らクリスチャンの国際的学者・教養人が輩出する。
明治23年(1890)10月30日、教育勅語が発布された。この年、内村はは第一高等中学校の嘱託教員として勤めることになった。月給は65円で、担当は英語と地文であった。同校では、新年の1月9日授業開始に当たり、天皇親著の教育勅語を受領し、改めて奉読式が挙行された。教頭久原が教育勅語を奉読し、教員と生徒が「奉拝」することになっていた。内村はわずかしか頭を下げなかった。
P41
この行為は、キリスト教徒による不敬事件として新聞などで喧伝された。職を追われ、友は離れ、暴徒の襲撃を受け、「国事犯人」として旅館にも泊れなかった。
その後、内村は明治30年(1897)以降「万朝報(よろずちょうほう)」などで藩閥政府批判など辛らつな論説活動によって、知的青年層の心をとらえた。
P44 内村は「武士道の台木にキリスト教の福音を接木する」ことを目指した。
P49 大賀一郎(大賀ハスの発見者)は、「彼(青山)が内村先生の門をたたいたのは、明治32年彼が22歳の頃であった。彼は一高の寄宿舎で同室の浅野猶一郎君にすすめられて、共に神田教育会館で内村先生の『日本の今日』という講演を聞いた日に始まる。この時から57年、彼はこの先生の弟子となり、一平信徒として終始一貫その生涯を神と共に歩んだ」(工学士青山士君の面影)
神田教育会館での『日本の今日』という内村の講演は次のようなものだった(p49-54)
「私は日本の今日の社会を泥土際限なきの不忍池にくらべた。その水面には紅蓮の咲くを見るも、その水底は汚泥極まりなくして地球の中心点にまで達するであろう。フランス国の腐っていること、かのドレフェス事件に照らして見てもわかる。けれどもその腐敗に限りあることは小説家ゾラのような正義の士あるをもって証明された。米国の社会も同じようなものだ。そのフィリピン征伐は確かに不義の戦争である。けれども米国のいまだ全く社会的に死せざるは、米国人中に幾多の清士があって、この不義の戦争に対して激烈なる反対を唱えつつあるのでわかる。しかるに日本にあっては不義は不義として認められるが、これに対する反抗はない。これ社会的生命の死滅した兆候である。・・・・・
 日本の今日の社会は道徳的にはカオスである。『地は定形なくむなしくして暗黒淵の面にあり』というような状態である。・・・・・・しからば我らはいかにしたらよろしいか、この国はついに救われないのか、志士のこの世に処する術はいかん、これ目下の大問題である。
 しかしここに我らを慰めるに足る一つの事実がある。すなわち日本の今日の状態は決して日本に限るものではないということである。過去の世界歴史を調べてみれば、日本の今日のごときカオスに陥った国はいくつもあった。紀元前後のローマがちょうどこんなものであった。また18世紀の終わりより19世紀の始めにかけた英国の状態もほぼこんなものであった。またオランダにもこんな絶望的時期があった。そうしてその国民らがこれらの場合をいかにして切り抜けたかということは歴史が我らに伝える最も尊き教訓である。ワーズワースの詩を読んでみると、当時の英国の有様がよくわかる。彼はフランス革命の結果によって、ヨーロッパ全体ならびに彼の英国の救われることを望んだが、その事ならずして全く失望した。よってこのことについて彼の妹の勧めに従い、地上の聖人国を断念して彼の心中に新王国の建設を始めた。彼は英国湖水地方のライダル山にひきこもって彼の隠退的新事業に従事した。そして彼の偉大なる作によって何十万の英人の思想発展史に注意する者の何人も認めるところである。
 しからば日本、今日の混濁の世に処するにいかにすべきや、今ここにいささか私の方針を述べよう。
 まず第一にこの社会にたよるを止むべきである。・・・・・・
 第二、もし社会と他人は頼みえずとならば、我らは我ら自身に頼るのみである。これ実に我らを支えるに足る唯一の土台石である。・・・・・・我々は国家救済だとか、社会改良だとかいうことを企てることをやめることである。・・・・・・多くの人は直接の同胞2,3人を救い得ざるに、さかんに国家救済を唱える、これ焼死の至りではないか。カーライルは彼の『バーンズ伝』の終わりに『国を救わんとし、社会を救わんとするが如きは愚人の業である。私はまず目下の責任を尽くさんのみ』と言った。我らはようやくにして我ら自身を救いうる者である。・・・・・
 第三、けれども人間という者は、彼自身をも救い得ない者である。彼は何か他に頼るべきものなくして立つことのできない者である。・・・彼が人たるの威権を得るに至ろうと願えば、彼はまず動かすことのできないある者に頼らなければならない。
 ここに至ってゴッドを信ずる必要が出てくる。・・・・・・しかしこの後のことは言わない。言うと全く宗教演説になる。しかし今述べた3か条の自救法とも称すべきものは日本の今日の社会において我らにとっては目前の急務であることは諸君も承知するだろうと思う。
 このようにしてまず国家救済または社会救済は止めて自己改築に従事すればついには日本国の再建も全く望みのないことではないと思う。これ実にワーズワースmp改善策であって、またカーライルの取った方針である。そうしてその西洋諸国において大成功をおさめたことは歴々の事実であれば、我ら日本人も今日よりこの法の実施に着手すれば遠からずしてこの腐敗きわまれる社会をも復活することができようと思う。かく観じ来たれば、日本の未来とても希望多々である。・・・・・・今日の要は強き個人性(individuality)の養成にあるのである。これ私が今日諸君に告げんと欲する私の所望である」(
東京独立雑誌1899・11・15)

 恩師広井勇との出会い
P65 青山の恩師・東京帝国大学土木工学科教授広井勇(1862-1928)は、内村の札幌農学校の同級生で知友であり、内村と同時にクリスチャンの洗礼を受けている。
広井は文久2年(1862)9月、土佐藩広井喜十郎と寅子の長男として、土佐国高岡郡佐川村で生まれた。9歳で父を失い、その後、母方の叔父片岡利和に伴われて上京し、同家の書生となる。13歳で東京英語学校に入学し、その後工部大学校予科に編入する。16歳の時、全額官費の札幌農学校に入る。同校第二期生として土木工学を専攻する。内村と同じ時にアメリカ人宣教師ハリスから洗礼を受けキリスト教徒の生活に入る。
20歳で同校を卒業し、鉄道建設などに従事したのち、明治16年(1883)12月横浜港から単身あめりかに向け出航する。自費での渡航である。22歳。アメリカ滞在中ミシシッピ川改修工事にただ一人の日本人技師として従事したのを手始めに、橋梁や鉄道の設計施工に参加した。その後、ドイツに渡り、シュツットガルト・ポリティニカム(工科大学)で土木工学を学ぶ。明治22年、7年ぶりに帰国し札幌農学校の教授となる。教授のかたわら北海道内の港湾整備事業を手がける。中でも小樽港の防波堤事業はいまなお「模範的土木工事」とされている。
明治32年(1899)9月、招かれて東京帝国大学工学部土木工学科教授に就任する。この年から、港湾・橋梁・鉄道・ダムなど、広井山脈と呼ばれる門下生を数多く育てた。
自宅にあっては、毎朝5時に起床し、書斎にこもって聖書を読み、両手を机の上に置いて頭を垂れ、数分間祈祷を捧げる。この祈祷は逝去するまで40年間続けられた。他者に信仰を押し付けることはなかった。
「自分は決して天才ではない。他人が3日で成就することも自分には一か月もかかる。その点からしてもただ祈りと努力があるのみである」と家人に語ったという。
昭和3年(1928)10月1日、逝去した。享年67歳。内村鑑三は、10月2日の日記に記した。
「同窓同級の友、東京帝国大学名誉教授工学博士廣井勇君が昨夜突然永眠した。直ちに彼の家を訪い、彼の冷たき額に手を当てて実に感慨無量であった。50年前に彼と同時にパプテスマを受け、共に福音宣伝の為に働かんことを誓いしも、彼は日本第一の築港学の権威となり、直接に伝道に携わらざるように成り、其の方面に於ける事業は自分が一人で為さざるを得ざるに至り、堪え難き淋しさを感ぜし事であった。・・・・・今朝旧友の死顔に接して今日は終日悲嘆に沈んだ。」

10月4日、告別式に当って内村は旧友に弔辞を献じた。
青山は葬儀に参列した。青山は晩年に至るまで、自室の机の上に広井と内村両師の顔写真を置いた。

P68 青山は東京帝国大学土木工学科入学後、内村が発刊した「聖書之研究」の定期購読者となった。同時に毎週日曜日新宿の内村邸での「聖書購読会」に欠かさず出席した。
P72 「聖書之研究」第24号52ページに内村の「青山論」がある。
「青山君は大学の工科生なり。・・・・・・予は青山君を見たり、予は君が微笑を以て三寸の舌をつつみ、多くを語らずして実は大いに心中に語る居る人なることを解せり、予輩は今君について多くを語るを好まず。ただ願わくは君の健在ならんことを祈る」
P73 「聖書之研究」第25号74ページに青山の感想録が載っている。
「在らざる時なく、また所なく、すべてを知り、なしあたわざることなき、愛なる父の神よ。・・・・・・わたしはあなたの真理の説明者たるのみならず、あなたの御業の真の証明者たるべきことを感じ、またあなたによる喜びを感ずるもんもであります。・・・・・・この賎しきものをもあなたの器となしたまいて、あなたのため、わが国のため、わが村のため、わが家のためにお使いくださらんことを・・・・・・」
この青山の祈りに対して、内村は註をつけている。
「かかる祈祷を捧げうる人が工学士となりて世に出る時に天下の工事は安然なるものとなるべく、またその間に収賄の弊は絶たれ、蒸汽も電気も真理と人類との用を為すに至て、単に財産を作るの用具たらざるに至らん、キリスト教は工学の進歩改良にも最も必要なり」
「収賄の弊」に後年の内務技師青山は異常なほど神経を使った。
青山は生涯「内村イズム」を捨てず、娘が嫁ぐ時には「内村鑑三全集」をプレゼントして生涯読み続けるよう求めた。
 青山は明治36年7月11日、東京帝大工科大学工学部を卒業する。卒業論文は、広井教授の指導で鉄筋コンクリート橋の設計を選んだ。この年初めて東京帝大では広井教授が鉄筋コンクリートの講義をした。
 謝恩会の席で、主任教授広井勇は、自らの海外留学やアメリカ・ドイツでの河川改修、橋梁設計の施工、鉄道敷設に携わった経験をもとに、海外で土木事業に携わり経験を積んでくるように卒業生に求めた。
 後年、青山は好んで引用した内村鑑三の「 余の見たる二宮尊徳翁 」を引用した。

先生の印旛沼堀割見分の命を受けその復命をなしたるごとき実に現時の人々(ひと)に見ること能わざるところなり。
先生つぶさに種々の調査を遂げ確かに印旛沼掘割より生ずる大益を認めたれども、その地方人民の道徳腐敗のゆえをもって直ちにこれに着手するもその功なきを認めまず儒者を遣わしてその民を教導ししかる後に事業の挙がるべきをもってしたり。

先生はこの沼の開墾事業をもって道徳問題となしたり。
今日の教師らにこの見識ありや。
測量や水利やただこれをもって土木事業は成就すべしと思うは非なり。
先生は150年以前すでに日本ありて以来の卓抜の識高潔の徳をもってかくのごとき復命をなしたり。
今日の経済学者はまずソロバンを手にす。
先生はまず至誠の有無を質す。
吾人先生に学ぶところなきか。

今や不景気の声高し。
この救済策をもって先生に問わば先生必ず云わん。
人民腐敗せり、まずこれを救わざるばからず。
不景気の救済は不道徳の救済ならざるべからず と。
今どきの人ややもすれば挽回策をもって農工銀行や商業銀行の設立によるとなす。
しかれども人心腐敗すればかくのごときものはかえってこれ不景気の前駆となり破産の機関となり了せん。
予聞けるに越後の人にして所有地を抵当になし農工銀行より金(かね)を引き出し放蕩して遂に破産せるものありき。
畢竟経済の本は金にあらずして人の心にあるなり。
この点において先生の経済論は実に敬服のほかなきなり。
今の経済学者はただこれをもって金銭利欲の問題となして人の意志に関する無形の倫理道徳の問題なるを知らず。
真に憐れむべきにあらずや。

予は農学士なり。
今やキリスト教の伝道者となりて東奔西走すれば友人輩あるいはあやしみあるいは笑えり。
しかれども予思えらく、牛の改良や種子の改良はその事はなはだ容易なり。
ただ人心を改良し罪あるものを悔い改めしめ悲しめる者に慰謝を与えることこれもっとも難きことにしてまた甚だ尊貴なることなりと。
かくのごとき事業こそ万事の根本となるにあらずや。
これ予の喜んでとるところの事業たるなり。
予の伝える福音を信じて破産をなしもしくは放蕩するがごとき人はいまだかって一人もこれあらざるなり。

すべての財産は天のたまものなり。
至誠勤勉の結果なりとは二宮先生の教訓なり。
キリスト教においてもまたしかり。
人往々キリスト教の信仰のごとき絶えて経済などには関係もなきもののごとく思惟するは甚だいわれなきことなり。






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最終更新日  2026.05.20 16:00:04
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