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仏教の伝来 田村圓澄氏のまとめ第一、仏教の伝来の仏教は「仏像と経典と、修行者つまり僧侶」が具体的内容ではないか。仏教が伝わる方向は、人の住んでいるところに伝わっていった。仏教は深山幽谷、絶海の孤島に伝わったものではない。仏教は出世間であるが伝わる方向は違っている。第二、仏教は国境を越え民族を超越して伝わった。第三、仏教は商業・交易の道、人の往来している道を利用して伝わった。第四、古代の仏教は国の都、政治の中枢、すなわち王権を目指して伝わった。仏教は直接一般の民衆の布教を目指したわけではなく、その当時の皇帝、あるいわ国王なり王権を目指して伝わってきた。中国から朝鮮半島への仏教の伝達形態は百済、高句麗は中国の柵封国でした。新羅は伝達後柵封国となりました。日本と百済、中国は対等な関係と考えられます。その為に欽明天皇は百済からの仏教伝来を素直に受け取らず態度を保留しました。柵封関係であれば宗主国からの申し出を断るわけにはいかない筈です。欽明天皇は百済からの仏教伝来、すなわち仏像、経典を自家で祭らず保留をしました。その理由を圓澄氏は次のように記載されています。ひとつは仏教の効力に対する懐疑です。百済の聖明王がどのように仏教の功徳を説いても、自分の国が北の高句麗、東の新羅に攻められ国運が消滅しつつある事実です。百済の実情が、仏教の無効・無力を証明していると考えた。第二は古代の天皇の性格に関することで日本の天皇は豪族と異なり軍事的な権力者ではなく、宗教性を本質としていたということです。つまり宗教的な権威の保護者であったと考えています。古代天皇の基本的性格は司祭者でした。司祭者であることにより、宗教的な権威を体現していました。もし欽明天皇が仏教を受け入れるとすれば、宮廷では外国の神を受け入れなくてはなりません。歴代の天皇が司祭者として神をまつり、そのことが天皇の地位と結合しています。そこに異国の神を向かえることになります。これは天皇の地位に関する直接的な危惧となります。その為に態度を保留したのではないかと。歴代の遷宮を考えると第一代神武天皇から一天皇一宮の原則が遵守されています。二人以上の天皇が、引き続き同一の宮に居住したことはありません。持統天皇以前の各天皇は、すべて一天皇一宮です。一般の豪族であれば、代々同一の場所で同一の家に住んでいます。説はいろいろ有りますが天皇は司祭者であり、天皇の宮は神を祭る神聖な建物・敷地である。天皇が亡くなれば、死の穢れがその宮に付着するであろう。そうすれば次の天皇は穢れなき新しい宮に移らなければならなくなります。欽明天皇は神仏習合についての的確な解釈を持つことができなかった、だから傍観・中立の立場をとったと考えるのです。
2006.11.19
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隋・唐時代の三百二十余年に派遣された学問僧を考えて見ます。600年ヤマト朝廷の使者が隋の都大興に行き文帝に朝見したことが「随書」に記されえています。ヤマト朝廷による中国王朝への使者派遣は宗の順帝の時代で終了しています。以後百二十年は派遣は有りませんでした。そして推古八年に再開されます。推古十六年小野妹子が隋に派遣されます。このとき学生として四名学問僧として四名が同行しています。すべてが渡来系氏族の出身です。六百十八年に隋が滅び唐の時代となります。推古三十年二月厩戸王(聖徳太子)が亡くなります。この年七月新羅の真平王は使者を遣わし。仏具一具・金搭・舎利を送ってきました。仏像は葛野秦寺、太秦の広隆寺に納められ他は難波の四天王寺に納められました。このとき新羅の使者に伴われ大唐学問僧の恵済はじめ四名が帰国しています。推古十六年に唐に渡った学生の一人です。帰国した恵日らは推古天皇に奏して唐で学んでいる学生の召還、継続して唐に学ぶべきを申しています。六百三十年に犬上三田耜が第一回の遣唐使が派遣されました。このときの遣唐使は日本で船を仕立て唐に渡ったものではなく、ひとまず百済に渡り、百済の船に便乗し唐に渡ったものと思われます。六百三十二年犬上は帰国します。唐は高表仁を遣わし日本まで送らせました。このとき学問僧霊雲・僧旻らが帰国しました。そのとき新羅の送使が同行していました。僧旻は二十四年ぶりの帰国でした。六百三十九年学問僧恵隠・恵雲が新羅の送使に伴われ帰国しました。恵隠は三十一年ぶりの帰国でした。帰国者は唐、新羅ルートに便乗し日本に帰ってきたのでしょう。帰国した学問僧は蘇我氏ではなく。中大兄皇子側に立ちました。
2006.11.16
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太子像と共に百済から届けられた経典は、釈迦の伝記でした。経典と半跏思惟像でした。仏教が王権と結合するのは645年蘇我家が中大兄らにより滅ぼされた時であります。蘇我氏が滅ぼされないかぎり、仏教受容に立ち遅れた天皇家は、仏教の主導権を掌握できなかったのです。645年は玄奘三蔵が十七年のインド留学を終え、多数の経典をもって長安に帰った年です。その後仏教は日本にどのように広まったのか。飛鳥時代の寺院は四十六です。半数にあたる二十三寺は奈良県に集中しています。大阪府十四寺滋賀が二寺、兵庫が一寺、岡山一寺です。飛鳥時代はわずか四十六ですが。白鳳時代になると四百八十余寺になります。東は茨城から栃木西は四国、九州にいたる全土に展開しています。全国の寺は同格ではなく上位に位置する寺は飛鳥・藤原京にあったのです。仏教は天皇を中心とする律令国家体制の樹立、政治支配が地方に及んでいく過程と同一であったと類推されます。百済・新羅の中国仏教に対する対応飛鳥・白鳳時代に日本から百済・新羅、中国大陸の隋や唐に仏教を学ぶために学問僧が派遣されています。百済・新羅でも事情は同じでありました。百済と新羅では中国仏教会に対する傾斜度は違いがあります。百済が中国に送った留学僧はわずか三人でした。新羅は日本の飛鳥・白鳳時代に相当する約百二十年間に中国に渡った学問僧は二十五人です。しかも切れ目なく続いています。百済より送られた仏像は法隆寺にあると書きましたが間違いでした。京都太秦にある広隆寺の宝冠弥勒でした。訂正とお詫びします。
2006.11.15
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仏教は古代朝鮮を経由して日本に伝えられました。当時の朝鮮は現在の北朝鮮のあたりに高句麗があり。半島の右側に新羅、半島の左あたりに百済の国がそれぞれ有りました。朝鮮半島の三国は中国王朝に従属していました。三国の王は中国の皇帝から国王に任命してもらうことにより王として存在していたのです。日本の仏教は百済から伝来しました。伝来の年次は二説が有り538年と552年です。百済がヤマト朝廷に送ってきたものは仏像と経典であり僧侶は含まれていません。百済の王が日本の王である欽明天皇に物を贈るかたちで仏像と経典を贈ってきました。ヤマト朝廷は百済に対し軍事援助を続けており、北の高句麗と東の新羅の二国と対抗する百済はヤマト朝廷に援助を求め、ヤマト朝廷は食料、兵器、兵士を百済に送っていました。ヤマト朝廷に対する謝礼、今後の援助を願う意図で贈られた物のようです。このときの仏像は太子像でした。欽明天皇は百済から贈られた仏教に対し受け入れるか、拒否するかはっきりした態度を示さなかったようです。この時に仏教受容に賛成した蘇我氏反対した物部氏を含めヤマト朝廷の豪族は朝鮮半島におもむき仏教の知識はすでに有ったようです。
2006.11.11
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出かける前に中断していた表記書をバッグに入れて持ち歩きました。仏教といえば仏陀の教えを知るにしくは有りません。しかし仏陀の著した文章は無く没後弟子によりまとめられた文章が残っているだけです。それも可也錯綜していて事実の部分事実ではなさそうな部分等があるそうです。比較的初期の文章は古いという事実は有るものの正確と云う点では疑問が残るようです。門外漢のため著者に関しては無知です。仏陀が個人名を著すとともに解脱者を意味する事も知りませんでした。では仏道とは何か、なかなか一言にいえるものは有りません。一つの思惟形式、一つの人生観の典型で有り、それ自体としては認識の対象とならない。よって仏陀の行いを知るのみならず過去の高僧の行状等を通して仏道の何たるかを知りうる手がかりとするほかないようです。道元の、この世は諸行無常、信心を放擲すること。等となります。しかし解脱のカリキュラムは提供されておら類推すると修行、座禅、経の声明等が方法のようですが仏陀のように「さとり」を得た記述のある高僧、記述の無い高僧なども有ります。矢張り観念で解釈できる物ではなく行ずるものなのでしょう。
2006.11.05
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友人三名で別荘の剪定の手伝いに出かけました。朝のバスで出発、途中一時渋滞で30分遅れで目的地に到着しました。ご主人の指示で別荘の後ろにある高く伸びた樹を剪定しました。ひとりの人が5メートルくらい上り細い樹木の上から電動のこぎりで太い枝を切断をしました。切断した枝が隣家の塀を壊さないように養生をしたり、下の落葉樹をいためないように用心をしたり大変な作業でした。落下した枝を引き上げまきに利用できる大きさに切断をしました。大きな樹は花壇に使用するため全員で南側の庭に運びました。空はうす曇で青空は見えませんでしたが久しぶりの運動で体は汗ばむくらいでした。紅葉も終盤でしたが黄金色に紅葉した樹林隣家の立木等ゆく秋を満喫しました。夕方4時頃に終了、奥様の釣られた公魚のてんぷら、手作りのイカの塩辛をいただきながら帰り時間まで四方山話に時を過ごしました。
2006.11.04
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ひろさちやさん著禅とはなにかを読んで以来道元の著作ばかりを読んでいました。その関係から鎌田茂雄さんの書籍もそれなりに読んでいます。宋に渡った当時、師といえる人にめぐりあえず鬱々としていた道元が天童山で如浄に邂逅する。その後の修行は想像を絶する日々ではなかったでしょうか。凡夫では理解が出来ない日々を重ねひたすら座禅を組む毎日。如浄も夜10時頃まで座禅を行い、朝は2時頃より座禅をする日々で有ったようです。修行僧だけでなく本人も毎日、来る日も来る日も座禅を組む毎日。仏法にしたがう日々を重ねて。
2006.10.28
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永平寺は何かの旅行で一度拝観しました。写真で見ただけでも一度訪れてみたい場所です。正法眼蔵随聞記を読み始めました。この書籍は言葉に慣れないと大変読みづらい書籍です。又難解です。よって講談社学術文庫の鎌田茂雄さんの書かれた表記書籍を始に読むことにしました。人間道元の人に接する最良の書籍といわれている通り禅に対する気迫、弟子に対する愛情が伝わってきます。書籍は読むな、知識を広めるな、只管仏法にかなうため座禅をしなさい。現代の環境の中では共感をもてても実行するとなると大変な事です。知識で満足することなく行として身につかなければいけないといっております。利口でなくとも才能は無くとも仏の行った事を忠実にまねていると仏に成れる。後日をまちて行道せんとおもことなかれ。ただ今日今時をすごごさずして日日時時を勤むべきなり。
2006.10.20
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最近はあれこれ読みたい書籍があり選択に躊躇します。しかし精神の持続が出来ず、どれも中途半端な読書となっています。気力の持続が難しいのです。真言仏教から始まり本を読んでいるうちに関心を引く人物、書籍に心を動かされます。入門書だけではなく本人の記載した文章なり言動を知りたいと思いますが殆どの書籍が大部であり、難解であり読破することは難しいのが現実です。2歳年上の弟子懐奘が筆記した道元の言動がこの書籍に著されています。弟子といってもお互いに師のように振舞っていた師弟関係を思いながら秋の日を書籍を読みながら送って居ります。
2006.10.09
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幼い時期より自然に宗教とは接してきました。田舎の事ゆえ何時もその手のしきたりが有り物心ついた頃より膚に感じていたようです。あることが有り実家の宗旨真言宗に関し読書する事にしました。蔵書の中よりひろさちや氏の書かれた「空海入門」を最初に読みました。開祖空海の思想とは何かを求め。しかし余り良く解り解りませんでした。その後高野山・超人・空海の謎という文庫を読みました。真言宗の意味は矢張り不明でした。再びひろさちや氏の著作を読み始め真言宗というより仏教の考え方を搦め手より模索をしています。仏教「葬式の宗教」と短絡しそうですが宗教に関心のある人もなき人も東洋、日本世界に広がり大きい影響力を持つ仏教の考え方を現代に生かす道を探ってみては如何でしょうか。
2006.10.08
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恥ずかしい話しながら禅と仏教の繋がりを知りませんでした。この書籍は禅の公案を一話づつまとめて読みやすく解説をしておられます。仏教を著者は大乗仏教の信者だと話して居られます。自灯明・法灯明釈迦世尊は入滅に際し侍者アーナンダに入滅後の指示をされその中にこのことばあるそうです。自分自身をよりどころとするように、他のものにたよってはいけない。真理を灯明とし、法をよりどころとするようにと。「自灯明」良いことばでは有りませんか。ブッダのことばは当時のインド語であり漢文で表記されたわけでは有りません。中国で翻訳されたことばで表すと自灯明・法灯明と成ります。自分の灯り。
2006.10.07
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この書籍で綱淵さんの生い立ちのような記述が随所に見えます。出身地、お父さんのこと等です。又出版社に就職された経緯等も興味深く拝読しました。作者の語りは誠実で、過去を振り返る姿勢が大変真摯に思えます。最近は小説を読む心の余裕が無く散文のようなものばかりを逍遙しています。江戸時代の雰囲気を愉しみながら過去に思いを馳せています。この本を読みながら初めて魚釣りに言った記憶が甦りました。夏の暑い昼下がりでした。兄と一緒にお宮様の下から川に居りて行きました。木の橋が取り付けられた手前から堤防となっています。田のそばにある石で出来た築地で餌にする蜂の巣を取りました。火を燃やし蜂の巣を護っている蜂を除いたような気がします。この堤防では天気の良い日は数匹の蛇が昼寝をしている所でした。道が用水の引き込みと成っている堤防の上で魚釣りを始めました。云われるままに棹を下ろしていると直ぐにヤマが一匹連れました。その後兄も釣り糸を下ろしましたがなかなか釣れませんでした。暫くしているうちに雨が沛然と降り始め、また餌を誤って川に流してしまいました。釣りはやめることにし道具を片付けました。自分だけが連れたことが大変心苦しく、申し訳ない気持ちでとぼとぼと二人で家に帰りました。
2006.07.15
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新版 江戸から東京へ(五)本所下 矢田挿雲 中公文庫 1999年1月 定価1048円 を読む。圧巻は伊東玄朴先生の経歴です。我が国西洋医術の父と呼ばれた玄朴先生は本所番場町の借宅で開業をした。先生は寛政12年肥前に生まれ姻戚佐賀藩の伊東祐章の養子と成り漢方を勉強。実父の病死にあい村に帰り母弟を養い七年目に借財を返し家督を弟に譲り佐賀にでて勉強をし、間もなく長崎へ遊学した。その後の活躍は日本の種痘の濫觴であり多くの生命を助け蘭医として初めて奥御医師をおおせつかり寝食を忘れる活躍をされた。まあ医術の噺は本書に任せて、この人の行いと人物を読めば物語を読む以上に面白く思わず立膝をしたくなるようです。門下より多くの傑人が輩出し人物の大きさが思われます。頭痛のため早く切り上げました。
2006.05.15
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新版 江戸から東京へ(一)麹町・神田・日本橋・京橋・本郷・下谷 矢田挿雲 中公文庫 1998年9月 定価1143円 を読みました。仕事柄東京の中を歩くことが良くあります。もう少し早い時期に読んでいれば街を歩くことに情緒が備わっていたろうと後悔をしています。江戸の中心麹町・神田・日本橋・京橋にまつわる話柄を取上げ挿雲節で軽妙に語っています。普段何気なく見落としている江戸の面影をこの書籍を通して振り返ってみては如何。
2006.04.21
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引き続き江戸ものばかりを読んでいます。浅草は江戸の風情を強く残す場所ではないでしょうか。今の人にその昔海で有ったといっても腑に落ちないで始まるように、家康が関東に入場した当時は海であった湯島天神辺りが海岸線でその後埋めたてに埋めたたてを重ね現在の東京が出来上がったのです。現在でも東京の海は埋めたてを重ね海岸線が少し前と可也変形していることでも推測はつきます。浜町あたりは島のように海岸より突き出していたようです。挿雲節というのでしょうか、随所に節を入れて軽妙に語る江戸の情緒は現在の都市景観からすると風情に富んでいたように推測されます。街は生きるが如く人の動き、経済効果により変動しています。何か核になる建築物、人をひきつける催し等で既存の街がガラリと変わる現象は随所に見られます。しかし現代の町は個性をなくしたように思われます。どこを見ても心太のように味気のない風景を呈し、個性が没却されているようです。永井荷風の散歩した如く過去の雰囲気を残す街を愛し何時までも根気強く古い街を求め続けた姿がどこか解るような気持ちになりました。
2006.04.18
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深夜まで暴飲をし帰宅後一人で麦酒を飲みました。途中よりテーブルで舟をこぎ始め周章、就寝をしました。明け方急ぎ起床近くの洗足池に花見の場所を取る為出かけました。既に空は開け、春先によく体験する大変寒い朝でした。公園に行くと既に沢山のシートが張り渡されており、留守番の担当者が数名酒を飲みながら談笑していました。シートを張り再び引き返し、おりよく土曜日でダンボールを捨てる日のため路上に出されたダンボールを拾い再び公園に帰りシートの下に引き詰めました。作業終了後頭痛のする状態で帰宅しました。10時ごろ公園に行き皆が集まる間永井荷風の新橋夜話を読み始めました。この全集の最初の小説はすみだ川で前日仕事の途中電車の中で読了しました。話柄はただ葭町に奉公に行く娘と、同級生の淡い恋それに意見をする叔父さんの俳人の物語です。すみだ川を渡る描写は錦絵を見るような鮮やかな筆致で遠い江戸の情景を思い出させます。
2006.04.01
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図書館により永井荷風の生涯を借用しました。子供が小さい頃は毎週末公園に連れて来たものです。最近は機会が少なく、表で遊びたがらない子供のことを考え連れ出す事にしました。桜は2分咲きでしたが既に数組シートを引き花見を始めていました。私の東京の花見の思いでは靖国神社です。友人の会社が近かったため一度云った事がきっかけでその後数年春には花見に行きました。通りでダンボールを拾い、酒屋で酒を購入二人で寒い中、周りの喧騒を無視し呑んだ物です。友人もアウトドア派で決して嫌いではないようでしたが夜の桜は開放感があり周りの爆発、喧騒はなくとも結構楽しめるものです。その後お互いに忙しくもありまた年も重ねた事により靖国神社には集合しなくなりました。帰りがけ湖畔にある図書館で表題の書籍を借り読み始めました。私が永井荷風の書籍を読んだ記憶は古い全集ものの一冊でおかめ笹で有ったよな記憶がします。二十代前半ごろでした。その後余り関心もなく著者の小説を読む機会も有りませんでした。同著は晩年の聞き書きで著者の考えを垣間見る事が出来ます。
2006.03.28
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振り返れば長く通ったものだと思い出します。娘が一歳の春入園許可が出ましたが海外に出かけており役所の指示で入所不許可と成りました。その後二年間は預ける事が出来ず漸く三年目で入所できました。息子と一緒の通園で当初は息子を背に乗せ、娘をベビーかに乗せ通いました。その息子も今年で最後と成ります。娘の卒園も入学式も参加しませんでした。園も最後と思い休みを取得し参加した次第です。最初から最後までビデを覗き撮影に専念しました。自分で刈りいれた頭髪は不揃いで見た目にも不恰好でしたが、借用したスーツを着込みまるで寄せの前座の漫才師のような格好でした。案外けろっと式を終了し私は自宅に帰宅子供達は謝恩会へ近くの大きなお寺に出かけました。
2006.03.24
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花街の来歴を検証していますが、記録が有ってもあいまいで検証しても良く解らないようです。文字で残されたものでも個人の名誉、自己顕示欲等で記録が信頼できる物と信頼できないものがあり来歴も、開設者も矢張り解りづらいもののようです。花街の来歴、職業の移り変わり、業種の衰亡等を詳しく述べています。また江戸時代の人身売買の禁止等もよく考察されており時間がある方は一読してみては如何でしょうか。
2006.03.21
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何時の頃か三国 一朗がこの小説を一番に取上げている話をテレビの放映で見ました。その後読む機会がありませんでしたが最近急に読み直しをしました。私の生まれた時代はこの舞台の雰囲気は社会に既になくどの表現を読んでも余りピンと来る物はありません。実感を感じる経験、散策の実感がないのです。しかしどぶ板の感触、夏の蚊、暑さ、ラジオの音渾然と取り混ぜて玉の井の雰囲気が感じられます。散歩を生涯行い小説発表後もよく訪れていたようです。浅草、銀座、よく来る日も来る日も散策を続け詳細な記録を残したものと関心を致します。著者と曲がりくねった向島の裏道を明治の雰囲気を感じながら散策出来る喜びを感じます。ある風の強い夜バスを待ちながらタバコに火をつけようとしたが、上手くつけることが出来ない。路上の女性が近づき永井先生でしょうと声をかけタバコに火をつけてもらった。どうして知っているの、解るわよ。空きタバコの箱に300円を押し込み渡して別れた。
2006.03.17
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稲垣史生 河出書房 すみだ川、向島、本所、小梅の里等の内容です。なかで永井荷風墨東綺譚」の紹介があります。この書籍を読んだあとぜひ読んでみたいと思い始めました。幸い書店で購入した文庫本が手元にあり見つけ次第、読み直してみたいものです。墨の字が間違っていますが古い文字は記載できないようです。
2006.03.10
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吉宗とその時代を読んで以来三井の書籍を探していました。確か新書版の三井高利は保有していますが、在り処が解りませんでした。書店で見つけ早速購入した次第です。高利の兄弟も東京で商売に成功をしていたそうですが高利は又一段商売は上手であり、兄弟に羨望され母親の面倒を見るためと言う名目で郷里松坂に帰郷したようです。高利の商いの原点は母親殊法にの血を受け継いだ物で現在から考えると当たり前のような事ながら、当時の状況では意表を付く発送で越後屋呉服店を繁昌に導いたのでした。商売繁盛の成功物語はどこにも有りますが、高利のあきないに関係する洞察は求道者のような洞察力で経営、従業員、顧客に関する鋭い判断で貫徹されています。又成功した商売を如何に継続、持続させて行くのか、三井家の繁昌を永遠に齎すため最新の注意をもって商を徹底して考え戒めとして家憲として残しております。遺産相続に関する考え方等にも卓越した時代を読む先見の明を見出します。大をなしても質素で、倹約であった精神を思うと深く考えさせられずにはいられませんでした。
2006.03.03
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中公文庫 1991年5月初版 定価520円 を読みました。聞いて極楽 史談百話 綱淵謙錠 文春文庫 1991年7月初版 定価360円 を読んで以来江戸時代の書籍を読みたくなりました。三田村鳶魚 の文庫本を読んだりその他の著者の書籍を読んだりしています。この書籍は二人の人物を対比しながら江戸時代の世相を描写しており面白い書籍だと思います。吉宗と尾張宗春、大岡忠相と徳川光圀、荻原重秀と松浪勘十郎、三井高利と奈良屋茂左衛門、吉良義周と赤穂浪士です。徳川光圀は私達のイメージと違い可也悪評をして居ります。また、大岡越前守は吉宗の評価が高かった事などを詳述しています。日本歴史の偉大な創業者は二人おり一人は徳川家康他の一人は三井高利を上げています。その中で誰を一番に選ぶかと言われれば三井高利を一番にだといい。独創的な三井の時勢を読む目、考え方の合理性を指摘しており綱淵謙譲の幕末の幕臣でも登場する三井家の時代を読み生き残りをかけた偉大な商才を特筆しています。
2006.02.24
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島津斉彬を読んで以来江戸の風俗しきたりがどんなであったろうと思い始めこの文庫を読み始めました。この前に鳶魚江戸文庫16御大名生活の内秘を読みました。島津家お由羅騒動という章が有りまず一番にこの章を読み始めたしだいです。文章は斉彬の手紙の引用が沢山有り私の年代では大変読みづらい感じがします。しかしまだ読めるほうですが嫌悪感を待たれる方には無理だろうと思います。大名とのなかには余り世間に知られていない人でも大変豪傑が居り、その些細な挿話を読んでも大変興味が尽きません全巻30冊以上になりますが時間を見つけ読んでみたい物だと考えています。
2006.01.27
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朝目が覚めると静かな朝に気がつきある予感がしました。案の定外は雪それも可也水分を含んだ雪が降り続いています。娘は起き出すなり歓声をあげ喜んでいました。午後月曜日の振り替えの予約を取りプールに出かけました。雪は降り続いているため、バスで行くことにしました。普段は自転車で行くためバスの路線、時間を調べました。近くのバス停で乗車すると下車後少し歩きますが、乗車するまで歩かなければ行けない路線を選択せず、近くのバス停で乗車する事にしました。下車後倶楽部まで歩きましたが意外と長い距離でした。娘に道順がわかるように教えながら歩きました。帰りは再びバス停まで歩き反対のバスに乗車し帰宅しました。スイミングは既に2年くらい通っていますがあまり進歩していませんでした。クロールの練習半ばでビート版を持ち手の運動を交互に練習する程度です。本人はほぼ25メートルくらい泳げるようですがホームを見ていると力強さがなく水になじんでいる様子が有りませんでした。
2006.01.21
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10年前くらいより年に数回山に登る会に参加をさせて戴いています。初めての参加は富士山でした。ある日突然電話があり、富士山に登る事になったが参加しないかと誘われた事が発端でした。その後山に行くたびに参加者が増えメンバーはほぼ同人数ですが、新しい顔が増えたり減ったりしていました。富士山のメンバーでは退社した一人をを除きすべてのメンバーが現在でも参加をしています。友達はリーダーの友人で途中から参加を始ました。機会あるたびに多忙の中同行をしていただきました。また富士山の近くに山荘をお持ちで毎年年末にかけてグループ出かけ食事をご馳走になっていました。私の仕事にも関連があり、月に一度は会社を訪問しご援助を戴いていました。定年を有る意味で待ち望んでいたようです。新しい会社を起こされ再出発をされるようでした。せめてものお礼を兼ねご本人にはないしょで奥様をお呼びしささやかに食事を取りました。帰り際奥様手づくりのお土産を戴きました。
2006.01.20
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昨夜の酒の所為でしょうか、胸焼けがし水を飲みに起き出しました。その後布団に入ったものの目が冴えて眠ることが出来ませんでした。暫くして起き出し事務所に出かけることにしました。昨夜の驟雨のため塵埃は払拭されたように澄んだ空に、ほぼ満月の月が掛かり、早春のような風が吹いていました。一部雲の流れが見えましたが大変爽やかな空でした。何時か何処かの記憶が甦り気分が明るくなりました。
2006.01.15
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日頃名刺はよく出しますし、戴く物です。初めての方と会う機会も多く日に日に溜まります。仕事柄如何しても再度連絡する機会の多い所もあります。机の中に積んでいるだけではいざ探すとなると大変手間暇を掛けなくてはなりません。何度もくりかえしていると整理の大事さを痛感するものです。パソコンに入力したり、手帖に筆記したり出来るだけ情報を残そうとしていますがメモガキに書付けそのままゴミとして捨てて仕舞い後で困る事もあります。また多くの名刺は再び利用する事のないものも有ります。社内で相談しスキャナーで読み取る事にしました。とりあえず読み込んだものは約300枚でした。読み込んだものを再度画面で確認しご認識等を修正し確定をしていきます。便利な機械ですが一気に行うとなると手間と根気が必要になります。正月明けの時間を利用し終日この作業で過ごしました。
2006.01.07
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朝起きて一番、楽しい夢を見たと云いました。大好きな3匹の種類の犬を自分の家で飼っていた夢だそうです。チワワとプードルと何かの種類だそうです。公園に連れて行った処にもたくさんの犬がいて大変楽しい時間を過ごしたと興奮して話していました。我が家はマンション暮らしで犬は飼育できません。周囲は戸建の家が密集しており比較的広い裕福な住宅環境です。当然犬を飼育している家庭も多く友人等でも犬を飼っている家は多いと思われます。その夢を思い出すと、嫌な事を云われても気にならなく、我慢が出来ると話していました。そこまであこがれている事に気が付きませんでした。
2006.01.04
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名君の誉れ高い島津斉彬の物語を読み始めました。司馬遼太郎の小説にもよく出てくるためそれなりのイメージは有りますが良くわからないでいました。西郷の評では斉彬と聞いただけで恐れ多く話しにならなかったようです。西郷の物語も司馬遼太郎の飛ぶが如くで読みましたが一体どういう人なのかベールを通して見ている様で定かでは有りません。イメージ、人物なのかもしれませんが大きすぎ良く解らないのです。作家でもそうなのですから読者にも明瞭な人物像が結ばれない事は当然なのかも知れません。曇り空から午前中家に帰る頃は小雨が降り始めました。すれ違い位に家族は買物に新宿に出かけて行きました。暫く自宅にいましたがその後事務所に再び帰り移りの悪い画面で箱根駅伝を見ました。アンテナの接続が悪いらしく映像は綺麗では有りません。パソコンに映しているのですが音声のみを楽しんでいる位でした。新年二日太陽を見ることは有りませんでした。
2006.01.02
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一日は一升瓶を傾けるのと、銚子で受けるとで、両手がふさがっていた。それで見る見るうちにお腹の調子が不如意になり、止めようと思いながら続けていると頭痛まで始まる始末、面白くもない日を過ごしたため気分までが不快になった。朝から寒く年末までは快晴続きの空も、掻き曇り冬本番の陽気だった。近くの神社に初詣に行き、娘がほしがるため熊でと、札を購入したら酒を購入する代金がなくなり思わぬ人からの年賀状を書いて一日終了した。ひゃっけんは使用できず百鬼園に改め投稿。
2006.01.01
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川路聖謨は九州豊後の生まれ、父は内藤歳由といい先祖は甲州で漢書の教授などをし生計を支えていた。幕臣に強い憧れを抱いていた父は、一家で江戸に出て御家人株を手に入れ徒歩組に抱えられた。長男は夭折次男が聖謨、三男は井上家に養子に行き後の外国奉行となった井上信濃守清直である。兄弟秀才で外国との交渉に当たる任務を帯びる。小普請組みより抜擢されるまでの苦労、堀田陸正失脚後井伊大老の将軍継嗣問題に関する一橋派の弾圧で失脚する。失脚後の勉学、体力の訓練等を読むと謹厳実直振りが伺えます。江戸開城の日半身麻痺であった川路は徳川家のご恩に感じ自宅で自害して生涯を閉じる。
2005.12.18
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此処でいう幕臣は外交を担った幕臣です。今でいう外務官僚でしょうか。ペルリ提督来航以来外国との交流が始まり、未知の分野での才能が必要となりました。川路聖謨、堀織部正、岩瀬忠震、池田筑後守、栗本、小栗西周、勝海舟、榎本武揚、福地桜痴、成島柳北等です。老中井伊、安藤、堀田等から抜擢を受け小普請組みから這い上がる過程と、外交交渉に臨んだ気概が伝わってきます。尊王攘夷運動、天皇、将軍、雄藩の動きに翻弄されながら渾身の活躍を示した若き幕臣の生涯は含蓄の深い物物語です。
2005.12.17
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帰り道途中下車をし古書店によりました。文庫本コーナーでバンコク楽宮ホテル 谷恒生 徳間書店 1996年12月 3刷 定価不明 喧騒と異臭、猥雑の入り混じるバンコク・チャイナタウンのはずれに建つ楽宮旅社。1980年そこはラオス難民の娼婦や、マリファナと酒と倦怠の時を求めて淀む日本人若者の定宿でもあった。・・・日本の都会の人間関係を逃れ、戦闘の続くアジアの片隅にひっそりと息づく若者たちを描く話題作。谷恒生 カルカッタ大真珠ホテル谷恒生 講談社 昭和59年6月 定価1000円を見つけ購入しました。帰りがけ新着のワゴンに再びバンコク楽宮ホテル を見つけました。なかなか見つからない文庫本です。私は図書館で借用し読みましたが単行本で現在では書架の中には置いて居ませんでした。倉庫より希望があれば取り出し貸し出しをしているようでした。さて、面白い書籍かと聞かれれば、返答に窮をします。しかし一部の人に人気がある書籍です。本日は幕臣列伝 綱淵謙錠 中公文庫 を終日読みました。小栗上野介栗本鋤雲を最初に読みました。幕末の時代の動きが急変した時代を先見の思想で生きた人たちの物語は波乱に富んでいます。現代の同年齢人は目標と気概を無くしたといわれても致し方がないのかもしれません。
2005.12.13
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以前より使用していたツリーを昨年捨てて仕舞いました。今年は購入することにしていましたがいままで時間がなく其の侭にしていました。最初TOCに行き舞いしたが希望の物がなく催場のバスで五反田に出ました。ストアで聴きましたが種類がなく已む無く渋谷のハンズに向かいました。渋谷の駅より歩く間大変な人ごみで息子と二人で慣れぬ雑踏を歩きました。120センチのツリーを購入すぐに自宅で飾り付けをし展示しました。息子は途中からボクが持ってあげると言い荷物を持ち上げると一生懸命下げて歩いてくれました。昨年のランプをまきつけたのですが量が足りない所為か物寂しい灯りと成りました。居間でささやかな点滅をするツリーを見ながら夕食をとりました。
2005.12.11
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モーニングコールは日本時間午前一時にセットしました。現地時間で午前6時です。日本時間12時に荷物をとりにポーターが来ました。静かにドアを開けそのままボストンバッグを取り出し再びドアを閉める音がしました。おきるとすぐにペットボトルに残った水でお湯を沸かしコーヒーを飲みました。すぐに出発の準備を始め現地時間6時55分待ち合わせのホテルの玄関に降りました。バスは数分後多くの旅行客を乗せて到着しました。ホノルルは快晴でした。空港に向かうバスの中で運転手さんがホノルルは如何でしたか問いました。老後は住みたいですか、住みたい、移住したいなどと思ってはいけません、ホノルルは金を持って遊びに来るところです。間違っても住むところでは有りませんといました。殆どの人が時間給で月給の人は僅かです。私も自給10ドル25セント、息子はバイトで11ドル30セントです。また仕事はありません。バブル以降移住して出て行く人が多く有りました。などと話していました。日曜日の早朝のためバスは渋滞なく25分くらいで空港に付きすぐに搭乗手続きをしました。飛行機は通常のコースと違いミッドウエーの上空を通過して日本に向かうとのアナウンスがあり約20分遅れるとのことでした。日本時間2時20分頃無事成田に到着をしました。朝早かった所為で大変眠く疲れてしまいました。
2005.12.05
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子供たちも泳ぎに行くことを嫌がらなくなりました。三人で浜に出て泳ぎました。カメラとビデオを持参したため全員では泳げませんでしたが楽しく海で遊んでいました。私は妻が来た後防波堤を乗り出しサーファーのいる辺りまでクロールで泳ぎ出しました。防潮堤の外も可也浅い海で立つことは出来ませんが深さはあません。時より大きな波が寄せてきますが恐怖感は全く有りませんでした。日本の海で泳ぎ出すと直ぐに拡声器で注意を受けることはなく自由に遊泳できます。午後簡単な昼食を取り昼寝をしました。夕方妻と二人でシェラトンホテルに出かけました。その後再びホテルに私だけ引き返し、子供と一緒に再びシェラトンに帰り夕食を取りました。「ハノハノ・ルーム」を前日予約していました。専用エレベ-タ-で30階までのぼりバイウインドの席で眺めがを愉しみながら夕食でした。生演奏を聞きながらダンスに興じる人も居ました。「ハノハノ」とはハワイ語では壮観、特別を意味するそうです。 夕食後全員で散歩をしながらホテルに帰りました。料金はそうリーズナブルではありませんがザ・ハワイの夜景なのでしょう。
2005.12.04
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早朝に起き出しワイキキ水族館まで散歩に出かけました。6年前娘と散歩したコースです。早朝にも関わらず大勢の人が朝の散歩を楽しんでいました。このあたりより見るワイキキの豪華ホテルは砂上の楼閣のようで侘しい佇まいです。帰りは動物園に隣接する公園に行きました。翌週開かれるホノルルマラソンのゴール地点となるため仮設のテント村が出来ており、その日も増設のテントを張っていました。集合場所であるDFSにタクシーで向かいました。徒歩でも遠くはないのですがタクシーチケットを利用した次第です。到着後一度店内に入らなければならず迷路のような店内を右往左往し出口を見つけました。バスはカラカウワ通りからダイヤモンドヘッドを回りハナウマ・ベイに向かいました。ガイドはなく運転手さんが運転をしながら案内を致します。ハナウマベイでは15分間の下車時間がありその間のみ写真を撮ったり湾を俯瞰するのみでした。観光バスは時間制限が有り到着後速やかに出る事が決められているようです。シーライフパークからヌウアヌ・パリを通りダウンタウンを経由してDFSへ帰りました。午後より家族でワイキキの浜で遊泳をし、夕刻アラモアナショッピングセンターの北側にある焼き肉店へ夕食へで掛けました。ダイエーの西側で数点の韓国レストランが有りましたが、ホテルのフロントで紹介を受けた店に行きました。料金は韓国より割安でしたが味はそれ程美味しい物では有りませんでした。またしても料金は高く、不味いハワイのレストランを実感致しました。
2005.12.03
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夜には冷房を切ります。私のベッドの横にエアコンがあり噴出し口に近く特別に寒いのです。夜は電源を入れていないのに、このエアコンから漏れる音(水が流れるような音)がして眠れませんでした。ましてやエアコンを掛けているとその騒音で喧しくて堪りませんでした。前日妻がクルーズの申し込みに行きました。後で出発の場所を聞くと良く解らないといいます。聴いてきたのでしょうと話すと。店員が解るからといったといいます。解るわけがないでしょうダイヤモンドよりから安いクルーズが出発すると案内書に書いていました。その当たりなのかと聴きましたが違うと言います。要領を得ませんでした。ホテル内の事務所の開店を待ち聞きにいきました。年配の女性東洋人の顔立ちでした。「船は何処から出発しますか」「船のあるところです」「その船は何処から乗船しますか」漸くアロハタワーで出発する事がわかりました。トロリーに乗車し初日到着した場所に早めに出かけました。暫くマーケットを散歩し、息子と二人でタワーに登りました。厳重な荷物チエックが有りその後許可が出ました。ホノルル港のシンボルも今では色あせ周囲の高層建物の中でつましやかに建っています。乗船前に食事券を購入し出発しました。カルチャークルーズと称するように一部はウクレレのレッスンを受ける人、フラダンスの講習を受ける人、レイの作り方を教えるところ等が準備されていました。私はデッキに出てワイキキの街並みを暫くビデオに撮影し再びホールに戻りました。暫くして食事が始まりました。昼食15ドルでしたが初めて食事らしき物に出会った気がしました。それ程今までの食事は不味い物でした。食事後司会者に合わせ皆で踊りを踊り歌を聴きました。以前カウアイ島に出かけました。船着場よりシダの洞窟へ行く間暫く、川を遡行するカヌーと併走しました。そのうちに晴れた空より突然驟雨が降り注ぎ小さな船を水浸しにしました。直ぐに雨は上がり再び青空が広がりました。突然の雨、また天気の変化、拡声器で話す説明の言葉、乗組員の貧弱な服装等今思い出しても何か郷愁があります。帰りの船ではダンサーがフラダンスを踊りましたが今まで見たどの踊りよりも脈動感が有りロコのダンスは違うなと思いました。今回のクルーズはそれと比較すると竹芝桟橋から出航する納涼船と余り違わないようでした。下船後ダウンタウンに向かい暫く歩きましたがホテルに帰ることとしザバスでワイキキに帰りました。帰宅後再び浜にでて子供と水泳を愉しみました。
2005.12.02
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3時頃には目が覚めビールを飲んだ後夜の明けるのを待ちました。時差の関係か、環境が変わった所為か熟睡が出来ませんでした。ワイキキ・ショアには以前滞在時朝食を食べに数回行きました。当時バイキングの朝食で6ドルくらでした。割安感が有りました。何より日本人が少ない事オープンスペースで蒼い海と明るい陽光がフロアーに指し込み快いところでした。味は特別では有りませんでしたが雰囲気と価格が魅力でした。ホテルより歩き始めすぐにワイキキの魔法の石辺りから海岸に出て砂浜を歩きました。一部の濱では砂が柔らかく靴では少し困難が生じます。子供達はまだかまだかと何度も聞いていました。ホテルの朝食は約10ドルでした。バイキングで食べものは以前と変わりが有りませんでしたが私の取ったベーコンハムは干からびて大変硬く以前と比較すると味が悪くなったような気がしました。以前は小鳥がよく飛んできて床の上の食物を食べていましたが今回は鳩がしつこくテーブルに飛んできていました。窓際のテーブルでは食事を取りながら追い払わなければいけない状態でした。従業員も霧吹き機を置いており鳩が来るたびに水を吹追い払っていました。食後浜をヒルトンの方向に歩き途中で公園で遊んだ後ヒルトンの中を通りホテル前のバス停よりホテルに帰りました。午後は子供達とホテル前のビーチで泳ぎました。水は意外と冷たく入るときは少し抵抗感があります。初めは子供達は泳がないと言っていましたが泳ぎ始めると喜んで遊泳を楽しんでいました。夕食は妻の選択でワイキキより少し遠い中華レストランへタクシーで出かけました。ワイキキにあるフリー雑誌によく紹介されていますが味はそれ程納得出来る物では有りませんでした。以前より食事は余り美味しい物が有りません、果物も豊富ですが味はそれ細美味しい物では有りません。
2005.12.01
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日本時間3時30分頃ホノルル空港に到着しました。現地時間は8時30分です。生憎曇り空でハワイらしい青空では有りませんでした。迎えのバスでワイキキに出発途中でアロハタワーで停車をしました多くの旅行者が下車をしましたがそのままバスに残りホテルに直行をしました。案内のチエックインは13時と記載されています。多くの人はチエックインに時間が有るため少し時間を潰す目的で下車した物と思いました。バスは11時くらいにホテルに到着しました。すぐにフロントでチエックインの手続きをしました。フロントで聴きますと部屋はすでに準備出来ており入室して良いといいます。以前ヒルトンに宿泊した際も旅行代理店の説明後、午後再度集合後ホテルに送迎するようでしたが、自分でホテルに向かい荷物を預けようと考えフロントに行きました。部屋はすでに準備出来て居りすぐに入室が出来ました。そんな事も有り急いでホテルに直行しました。アーリーチエックインですと余計に一泊料金が掛かります、到着後は取りあえずフロントに行ってみるものです。ダメでも荷物を預け仮眠できる場所でゆっくり昼寝をするのが良いと思います。36階の部屋で窓からワイキキの浜とダイヤモンドヘッドが一望できます。息子は廊下の突き当たりのラナイから海を見て歓声を上げていました。全員荷物を片付けた後すぐに仮眠することにしました。目が覚め私だけパントリーに出かけ飲料水、ビールを購入しました。先回と違いビールしかも日本製のビールは一缶3ドル以上します。大変高いのに驚きました。クアービールを購入6缶で6ドルくらいでした。夕刻ワイキキの通りを散歩し夕飯を食べようとショッピングセンターにいきました。以前昼食を食べたレストランは無くなっていました。プラザのレストランに変更し向かいましたがそこも営業をしていませんでした。仕方なくトレードセンターのプレートランチを食べてパントリーに寄った後ホテルに帰りました。
2005.11.30
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一番安い時期と考えて数ヶ月前より検討をしていました。あるツアーを申し込んだ後ふと街を歩いている店頭である有名代理店の店頭にあるチラシを見つけ持ち帰りました。価格はすでに申し込みをしているツアーより可也割安でした。このシーズンはスポットもので割安のツアーが販売される時期と考えていましたが希望のツアーを見出す事が出来ませんでした。子供の学校が終わり帰宅後出発をしました。山手線が車両故障のため停車をしており列車は停車していました。影響で予定をしていたスカイライナーに乗車できませんでした。その後のイブニングライナーに乗車成田へ向かいました。姉と成田で待ち合わせをしており早く到着をしたかったのですがアクシデントで遅れてしまいました。成田で搭乗手続きを行いました。荷物の施錠をしないように指導を受けました。また姉は荷物を開くようにいわれ別の場所で中身の確認を受けていました。すでに座席を決められておりリクエストを出来ませんでした。息子は窓の所に座りたいと気分を害していました。申し込みに際しツアー旅行、格安航空券でも出発時間の確定がなされません。業界では当たり前のことなのでしょうが利用者としては不思議に思います。航空会社、出発時刻未定で代金を請求する事が当たり前なのでしょうか。多くの契約では確定がなされない状態で契約を締結することはありません。ツアー申し込み段階で席の確保は出来ているわけでその後ツアーの状況を見ながら客の航空会社を振り分ける作業を代理店で自由に行うこおとが果たして良いものなのか疑問に思います。云わば白紙委任状を提出しているわけです。10日前に航空会社が決まりましたと書類一式と予定表が送られててきました。出発は20分くらい遅れましたが、定刻どおりに到着とのアナウンスが有りました。日本時間で920分頃離陸を致しました。
2005.11.29
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岡本柳之助嘉永5年和歌山藩士諏訪氏の次男として赤坂で生まれる。後岡本氏の養子となる。号は東光。新政府の軍人となる。竹橋事件に連座し官職を剥奪される。その後金玉均と親交を結ぶ。朝鮮問題に深く関わり閔妃殺害のクーデターを指揮、投獄される。辛亥革命の報を聴き中国にわたり上海で客死する。実はこの書籍を見るまで著者に関して知るところは有りませんでした。西南戦争当時の記憶陸奥宗光とのやり取り等が記載されています。西南戦争では長崎に渡り西郷の本陣を攻撃する積りでいたようですが反対者が有り出来なかった事。その際の兵員の募集等も面白く記載されています。廃藩置県後の慌しい政情、当時の雰囲気が感じられる面白い書籍ではないでしょうか。
2005.11.22
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以前よりマラソンを観戦すると言えば暗い性格だと話している妻も見ていました。高橋さんのファンで健闘してもらいたいといいます。走行中のの表情は暗く引き絞まって居りました。矢張り調子が悪いのかなという感じでした。しかし最後は結果の通り完勝でした。世の中にスターと呼ばれる人がいます。この一番勝たなければ不可ない試合に必ず結果を残す人です。その反対にここ一番でさばさばと負ける人がいます。実力が噂されていてもその様な結果を残す人です。多くの人がスターを崇拝し、一つの競技でもスターが現れると途端に活況を呈してきます。スポーツ全体を引っ張っているようです。いまやスポーツもスターの出現なしでは衰退の一途では無いのでしょうか。カールルイスなき後のオリンピックのように。インタビューも立派でした。大変多くの言葉を残しておられました。
2005.11.20
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珍しく昼間からビールを飲みました。少しも美味しくは無いのですが勢いで呑んでしまいました。昨日遅くまで飲んでいた所為で酔った感じが致しました。朝から息子娘の友人も来宅し賑やかでした。私は倉庫で資料の整理をしていた為余り関係は有りませんでした。午後より奥様も来宅し三名で話が弾んでいたようです。最近寝ていると左の手の動きが悪くなります。特にお酒を呑んだ日が酷いようです。曲げる事も出来ないくらいで暫く手を動かしているうちに取れますが、目が覚めると何時も気になります。
2005.11.19
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実は少し呑みすぎで気分が優れませんでした。また比較的寒い日で日向に居ても寒いくらいでした。昼前に出かけ大きなシートの中でビールを飲み始めました。家族の顰蹙を買いながら酒無くてなんのおのれがさくらかなでした。何時もと違い多くの人が芝生の北側に近く席を占めていました。いつもですと直射日光を避けるため南よりの枝の近くに木陰を求めて席を確保するのですがこれほど寒くなると直射日光が欲しいシーズンです。子供が木に登りたがり二人の子供を枝振りの良い松に腰掛させました。夜になると越の調子が良くありません。少しでも余計な事をすると覿面に効果が現れます。寝ていても少し痛みが残っていました。花見の後のような嫌な予感に気が付きながら一日が暮れました。
2005.11.13
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寒い日でした。木枯し一番であっったそうです。夕方遅く息子を連れ出しサッカーボールを蹴飛ばしていました。公園の欅はすでに落葉が始まり風が吹くたびに風下の方向に押しやられて行くのでした。つい先まで暑くて仕方なかった記憶が嘘のようです。巻き上がる黄ばんだ落ち葉を見て秋も終わりだなと実感しました暗くなり帰ろうと声を掛けましたが止めませんでした。仕方なく本人が帰ろうというまでボールの蹴りあいをしていました。愈愈暗くなり息子が近寄りブランコをしてから帰宅すると言い、ブランコに乗りにいきました。ひとりでボールを蹴りながら暗くなる公園で待ちました。ブランコを押してと何度も大声を出していましたが知らぬ振りをしていました。
2005.11.12
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今回は身内の食事のため少し小ぶりの蟹を購入し二匹づつ食べました。面倒くさく私は一匹でねを上げました。しかし雌の甲羅の中は赤いみではちきれそうでした。義理の兄は先回食した際とげが刺さり指先が張れ、その後化膿したそうです。見ると赤く膨れ上がり膿を出した後も後遺症が残りそうでした。この時期は雌が主流でもう少しすると雄が食頃になります。雌が好きな人雄が美味しいという人それぞれです。一杯でも可也お腹が膨らみます。
2005.11.10
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今日は保育園の会合があると思い早めに帰宅することにしました。念のために確認の電話を入れました。娘が出てどうしたのといいます。ママは買物に出かけ留守でした。早めに帰宅する旨を伝え電話を切りました。メールの確認を倉庫でした後帰宅することにしました。妻はまだ帰って居りませんでした。その後妻が帰宅し食事を始めるとき娘が冷蔵庫よりビールとコップをテーブルの上に運んできました。準備しておいたよと申します。今日は飲まないから辞退しました。私の電話をビールを冷やしてねという趣旨だと早合点し、用意をしたようです。3時頃倉庫に来ました。自宅を出るとすでに月は地平線に落ちたようで星が沢山見られました。金星は特に大きく目に入ります。東京でも星を見られることに少し驚きながら暫く上空を見ていました。山で見る星、田舎で見た星。空を見上げることも無くなった現在の生活を思いました。今日なんとなく第二次世界大戦 チャーチルを読み始めました。時代は戦争を開始したばかりの時節、難局に戦争内閣を組閣し戦争を知り抜いた自分の役割を歴史の中で自覚する下りは人類に対する自己の存在を不思議な因縁でもあるかのように記述しています。
2005.11.09
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息子を連れて発表会に出かけました。講堂に展示してある絵画とお面を拝見しました。息子も姉の名前を見つけ見ていました。しかし、息子はすぐに飽き帰ろうを連呼し始めました。教室に上がり授業の光景を拝見しました。娘は何時もと違う教室で勉強をしていました。息子を見ると嬉しそうに話しかけていました。息子にせかされ下駄箱まで降りその後運動場に向かいました。鉄棒にぶら下がり、真っ青な空にめがけ蹴上がりを試みましたが鉄棒の上に上がる事が出来ませんでした。4度くらい試みましたが矢張り無理でした。若い頃難なく出来た事が出来ない事に不審になりました。鉄棒にぶら下がるだけで手が自重のために切れそうです。その後今日でも腕が張り凝りが取れません。無茶はしないことが一番です。
2005.11.05
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