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2023年10月7日、タワーレコード新宿店でTOMOOさんの1st ALBUM 「TWO MOON」のCD+Blu-rayを購入し、封を開けました。長男は音楽のサブスクリプションを利用しているので、CDを買う事は全く無いと言っていましたが、私は考えが昭和なので、CDとして形があると嬉しいし、CDブックレットが付いているのが良いです。ブックレットにTOMOOさんの写真が入っていると、イメージが湧きます。購入したCDは、地方で働いている長男に送りました。ーーーーーーーーーーーーー↓ TOMOOさんの1st ALBUM 「TWO MOON」のCD+Blu-ray。
2023.11.21
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2023年10月7日、タワーレコード新宿店に行き、TOMOOさんのファーストアルバム「TWO MOON」のCD+BLU-LAYを購入しました。長男がTOMOOさんのファンなので、こっそりCDをプレゼントして驚かせようと思ったからです。CD購入時に、パネル抽選券を1枚頂きました。TOMOOさんのパネルが店内に展示され、一部のパネルはサイン付です。ーーーーーーーーーーーー↓ TOMOOさんのCDコーナー。(タワーレコード新宿店)。ーーーーーーーーーーーーーー↓ TOMOO Major 1st Album 「TOW MOON」発売記念パネル展。ーーーーーーーーーーーー↓ 河合奈保子さんのCD部分。タワーレコード新宿店に行くと、必ず河合奈保子さんのCDを確認する。
2023.11.20
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2023年10月7日、タワーレコード新宿店に行く途中、AINZ&TULPE(アインズ&トルペ)新宿東口店の大型ビジョンに、オードリー・ヘップ・バーンの美しい笑顔が映っているのを見ました。何度も書きますが、オードリー・ヘップ・バーン、メーテル、河合奈保子さんは、私の青春でした。↓ タワーレコード新宿店。
2023.11.19
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Hogaleeさんの巨大な作品「Entanglement - Shinjuku III」が、新宿3丁目交差点にあったので紹介します。(2023年10月7日)作品を見た後、新宿駅の方に歩いて行きました。ーーーーーーーーーーー↓ Hogaleeさんの巨大な作品「Entanglement - Shinjuku III」。
2023.11.18
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2023年10月7日午後、都電荒川線・学習院下駅付近で、都電車両を撮影しました。都電8500系、8900系、7700系の写真を紹介します。ーーーーーーーーーーーーー↓ 都電8500系。↓ 学習院下駅。ーーーーーーーーー↓ 都電8900系。ーーーーーーーーー↓ 都電7700系。
2023.11.17
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イラストレーター/アーティストのJUN OSON(ジュン・オソン)さんの作品が、西武池袋本店のショールームに展示されていました。(2023年10月7日撮影)ジュン・オソンさんは、「鎌倉在住のイラストレーターでアーティスト。ニヒルでポップな作風が特徴。アジアやヨーロッパ、アメリカ、中東などで精力的に個展を開催している。クライアントワークとして広告やアニメ、装丁やグッズデザインなども数多く手がけている」と紹介されています。ーーーーーーーーーーーーー↓ JUN OSON(ジュン・オソン)さんの作品。西武池袋本店のショールーム。↓ JUN OSON(ジュン・オソン)さんの紹介。ーーーーーーーーーーーー↓ 池袋駅周辺。
2023.11.16
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「東海道新幹線歴史散歩/一坂太郎/中公新書/中央公論新社/2007年9月25日発行」という本を持っています。他の人に貸したことがあり、買い足して2冊になりました。本の帯に、次の紹介があります。「新幹線の窓からなにが見えるだろうか。縄文時代の貝塚から昭和の歴史遺産まで、見どころ満載なのが、東海道新幹線だ。田子ノ浦や老鮮の森に古代の貴族たちが読んだ風景を想像し、清州城や関ケ原の古戦場に戦国大名の栄枯盛衰をたどる。明治の先取の気質を豊田佐吉の生家や井上勝の墓に感じ、熱海城や八ッ山橋にゴジラの悲哀を思う。車窓に拡がる歴史的スポット百ヵ所以上を全線地図とカラー写真を付して詳述。乘り越し注意」昔は新幹線の車窓から富士山が見えただけで満足でしたが、この本を読んでから、新幹線から見える城や歴史の舞台に気を付けるようになりました。5年前に40倍ズームのポケットカメラを購入したので、少しずつ車窓を撮るようになったのですが、いまだに写真が撮れない城がいくつかあります。大垣城はまだ写真が撮れていません。「東海道新幹線歴史散歩」p133には「大垣城:大垣市街遠方に見える白い四角いビル(大垣共立銀行本店)のやや北西約1.6キロ」とあり、「車窓から1.6キロほど離れた大垣市内に、大垣城の復元天守閣が頭を覗かせている。周囲が高いビルに囲まれているので、見つけるのはなかなか難しい」と記載されています。この本は2007年9月25日発行なので、13年以上前の記述であり、それからビルやマンションが建てられて、大垣城が見えなくなっている可能性もあります。私は、大垣城の近くにあるNTT西日本の電波塔を目印にして写真を撮るのですが、城らしきものは写っていません。本当に見えないのか、一瞬でも見えるのかが分からないのですが、今後も新幹線の車窓から、大垣城を探して行こうと思います。ーーーーーーーーーーーー↓「東海道新幹線歴史散歩/一坂太郎/中公新書/中央公論新社/2007年9月25日発行」↓ p133。「大垣城:大垣市街遠方に見える白い四角いビル(大垣共立銀行本店)のやや北西約1.6キロ」/2007年9月25日発行時点の情報。ーーーーーーーーーーーーーー2023年9月18日、私が新幹線の車窓から撮った写真。画面右側の「NTT西日本の電波塔」の右側近くに、大垣城があると思う。↓ ゴルフ練習場の奥辺りに写ってないかと思って見るのだが、大垣城はよく分からなかった。
2023.11.15
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2023年9月18日、山口県から新幹線で東京へ戻りました。途中、京都鉄道博物館のある梅小路運転区付近で「森の京都QRトレイン」を見たので、写真を撮りました。森の京都QRトレインは、JR嵯峨野線などを走る観光列車で、QRはQuality and Relaxing(上質でくつろいだ気分)を表しています。223系4両編成です。ーーーーーーーーーーーー↓「森の京都QRトレイン」(梅小路運転区付近)ーーーーーーーーーーー↓ 新幹線の車窓。京都・梅小路運転区付近。↓「森の京都QRトレイン」↓ 扇形車庫(梅小路蒸気機関車車庫)
2023.11.14
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2023年9月18日、山口県の田舎から、新幹線で東京に移動しました。広島駅を過ぎると、マツダスタジアムが見えてきます。昔の広島市民球場はよく行っていましたが、マツダスタジアムは一度も入ったことがありません。私の両親は何度か行ったと言っていました。その後、広島市南区の黄金山が見えます。黄金山の二つのピークには、昔は電波塔が建っていましたが、今はありません。無いと淋しい感じがします。ーーーーーーーーー↓ 2023年9月18日。マツダスタジアムが見えてきた。↓ 黄金山が見えた。↓ 黄金山。↓ 姫路城。
2023.11.13
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小学3~4年生の頃は、母方の祖父に買ってもらった顕微鏡に夢中で、植物、昆虫の標本をプレパラートに固定して、毎日のように覗いてはスケッチしていました。植物の茎や葉を薄く切って、染色液で染めて覗きます。昆虫の死体などをスンプ法で型を取って見たりしました。色々な花の花粉を見比べて、形が違う事を不思議に思いました。近所の池やドブで水を採取し、凹みのあるプレパラートにスポイドで水を垂らし、ミジンコやワムシなどの姿に驚いていました。当時、ブラインシュリンプを卵から孵化させて育てていましたが、少しずつ大きくなる姿を顕微鏡で観察していました。毎日、宇宙塵(うちゅうじん)が宇宙から地球に降ってきていると本に書いてあったので、プレパラートにワセリンを塗って、庭に置いて行くと、一ミリ程度の黒い球体の粒がいくつも付いています。これが日々、世界中に降り注いでいるというとは、中々信じられませんでした。ビーカーに水を入れて庭に出していたところ、水面に浮かんだ花粉が色々な方向に激しく動いたのでビックリした事があります。後から、それがブラウン運動だということを知り、理科がますます好きになりました。顕微鏡以外にも、この時期は簡単なラジオを造ることに夢中でした。「子供の科学」のラジオ作成記事を読んで、広島の第一産業に行き、パーツを購入しました。ハンダこてでハンダ付けをして簡易ラジオの完成です。イヤホンでラジオが聞こえた時はうれしかったです。その後、学研のマイキットを購入して、電子回路実験など色々行いました。長く顕微鏡を使っていたのですが、小学4年の頃から天体望遠鏡に興味が出てきました。小学5年生の時に、ビクセンのポラリス8Ⅼを買ってもらい、興味が天体に移りました。↓ 小学3年生の頃。私と弟。毎日、顕微鏡を覗いていた。
2023.11.12
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2023年9月に山口の田舎に帰りました。母が古いアルバムを断捨離し、写真をファイルにまとめていました。中には、広島半兵衛遊園地でミラーマンショーを見た時の写真が残っていました。当時の半兵衛遊園地は、25メートルのウォータースライダープールがあり、夏になると必ず泳ぎにいきました。庭園もあり、小路を歩いた記憶があります。ミラーマンショーなのですが、母は「広島遊園地へスペクトルマンが」と書いており、ミラーマンとスペクトルマンを間違えているところはご愛敬です。わたしは両方の番組を毎週見ていました。写真は1972年頃だと思います。ミラーマンはレコードを買ってもらい、繰り返して聴いていたので、1番から3番まで歌詞を歌うことができます。「朝焼けの光の中に 立つ影はミラーマン」で始まる歌ですが、カッコイイです。ミラーマンは大好きでした。ーーーーーーーーーーーーー↓ 1982年頃。 広島半兵衛遊園地の「ミラーマンショー」。↓ 母親が間違えて、ミラーマンではなくスペクトルマンと書いている。ーーーーーーーーーーーーー↓ ミラーマンOP。↓ 主人公の鏡京太郎。(俳優の石田信之さん)
2023.11.11
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1973年頃に親が私を撮った写真です。テレビの上には、「レッドバロン」と「ジャンボマジンガーZ」の人形が置いてあります。当時、テレビで毎週見ていました。それぞれの主題歌は、いまだに歌えます。「レッドバロン」は、「ぼくらの地球は美しい 鉄面党にゃ渡せない」で始まりますし、マジンガーZは「空にそびえるくろがねのしろ、スーパーロボット マジンガーZ」です。ーーーーーーーーーーー↓ 1973年頃 私と「レッドバロン」、「ジャンボマジンガーZ」の人形。↓手前「レッドバロン」、後ろ「ジャンボマジンガーZ」。ーーーーーーーーーーーー↓「レッドバロン」ОP。ーーーーーーーーーーーーー↓ 「マジンガーZ」前期ОP。¥
2023.11.10
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2023年9月15日に山口県の田舎に帰省しました。母親が古いアルバム類を断捨離して、クリアファイルに写真をまとめてくれていました。私が幼稚園児の頃、家の庭で怪獣人形を並べた写真が残っていました。昭和46(1971年)9月12日と日付が書いてあります。弟が生まれて5カ月の頃です。ブルマアクなど、怪獣人形を買ってもらい、集めていました。小学生低学年の時期まで集めていたので、段ボール箱が3箱になっていました。両親が広島から山口県の田舎へ引っ越す時、怪獣人形を全て、子供が多い隣の家にプレゼントしました。私は当時、海外赴任をしていたのですが、もし日本におれば、手放さないでほしいと言っていたと思います。両親はその後、テレビ番組「お宝探偵団」で古い怪獣人形の価値を知り、ショックを受け、手放したことを後悔したそうです。ーーーーー↓ 昭和46(1971年)9月12日。家の庭で、私と怪獣人形。↓ 生後五か月の弟と一緒に。ーーーーーーーーーーーー↓ 家の庭で。近所の友達兄妹が遊びに来た。カラー写真になっている。私は右端。弟は左端。
2023.11.09
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2023年9月15日から18日まで、山口県の両親の家に帰省していました。母親が古いものを捨てて断捨離をしており、私や弟の小さい頃の写真を貼った分厚いアルバムから写真や台紙を取り出し、薄いクリアファイルにまとめてくれていました。懐かしかったので、一部を写真に撮りました。【ゴジラのポスター】昭和46(1971)年3月とあります。私が幼稚園児の時の写真です。家の壁にはゴジラポスターが飾ってあり、大喜びの私です。この頃は、ゴジラ、ガメラ、ウルトラシリーズに夢中でした。小さい頃に興味があった事は、この歳になっても興味があります。↓ ゴジラ、キングギドラ、ラドンの写真を持って。ーーーーーーーーーーーー「怪獣怪人大全集1 ゴジラ/ケイブンシャ」を親に買ってもらい、繰り返して読んだ。↑「怪獣怪人大全集1 ゴジラ/ケイブンシャ」。ゴジラ、キングギドラ、ガイガン、アンギラス。↑ ゴジラ。↑ ゴジラ、ミニラ、カマキラス、クモンガ。↑ ゴジラとモスラの卵。↑ ゴジラ。↑ ゴジラとヘドラ。
2023.11.08
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2023年9月17日、18日は、山口県の両親の家に帰省しました。両親、私、妻、長男、長女が集まり、バーべキューをしたり、母親の手作り料理を食べました。田舎の家は両親が自分たちで造りました。私が小学生の頃、広島市南区に住んでいましたが、毎週末は車でこの場所に来ては、少しずつ家を造っていました。結局、10年近くかかったと思います。当初、土地の一部には池があり、ゲンゴロウなど水中生物を採っては水槽に入れていました。小さいミキサーがあり、木型にセメントを入れてはブロックを作り、鉄筋コンクリートの基礎ができました。木材もカンナで削ったりしていました。全て自分たちで行ったので、修繕も自分たちで行っています。今でも父親が新しい部屋を造ったりしています。父は物を作るのが得意で、機械の分解、修理など、毎日のようにしています。自動車関連は特に強く、いまだに耕運機などが壊れたら全てばらして、修理して組み立てています。バーベキューができる建物も自作です。毎回、ここで肉や野菜を焼きます。お盆前には、肉などの食材を車で買い込んでいたそうですが、台風のため帰省できず、9月になってから皆で食事をすることができました。両親は80歳ですが、元気です。年に二回は、田舎に帰ろうと思っています。ーーーーーーーーーーーーー↓ 山口県の両親の家。↓ シイタケ栽培。↓ バーベキューをする場所。↓ 父親の手造り。↓ バーベキューのための火おこし。↓ 部屋に戻る。 妻より長女の方が背が高かった。↓ カニを食べる。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 田舎で母親の料理を食べた。↓ 私は母親の作ったハンバーグが大好きで、田舎に帰ったら必ず食べる。
2023.11.08
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2023年9月15日、妻と一緒に山口県の私の実家に帰省しました。夜に長男、長女がやって来て合流しました。翌日2023年9月16日は、皆で妻の実家に移動して宿泊しました。私の田舎と妻の田舎は、車で30~40分程度の距離です。食事と酒で、盛り上がりました。ーーーーーーーーーー↓ 妻の実家で食事をした。
2023.11.07
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2023年9月15日、広島駅から山陽本線で西に移動し、山口県のJR岩国駅で、美しい黄色の115系国鉄車両・編成N-21に乗車しました。この黄色の車両を見ると、山口県に帰ったなあという気持ちになります。ーーーーーーーーーーー↓ 岩国駅。115系電車・編成Nー21。
2023.11.06
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FIVBパリ五輪ワールドカップバレー2023「広島から世界へ刻むバレーボールの歴史」が、JR広島駅ビルの工事場所の壁に紹介されていました。(2023年9月15日撮影)↓ 左から、井上愛里沙さん、関菜々巳さん、髙橋藍さん、古賀紗理那さん、石川祐希さん、西田有志さん、石川真佑さん、関田誠大さん、林琴奈さん。↓ 多田徳雄氏(1889年~1976年)草創期の日本バレー普及に尽力したバレーボール選手、指導者、日本男子代表初代監督。1917年、東京で第3回極東選手権(現アジア競技大会)が開催された。開催国日本も出場する流れとなったが、当時はバレーボールチームや専門家がいなかった。そのため、海外から専門家を招き、急遽他スポーツの選手を集め出場したが、試合は大敗に終わった。しかし体育指導者たちはバレーボールに興味を持ち、普及に努めた。特に広島師範学校(現広島大学)の教師たちは体育教材に取り入れるなど、熱心に研究、そこで学んだ多田徳雄は日本初のバレー専門チームを結成するなど、バレーボールの普及に尽力した。↓ 広島が誇るボールメーカー。「ミカサ」、「モルテン」。「ミカサ」1917年 広島護謨株式会社設立。1935年 「ミカサボール」の商標で販売開始。1964年 東京オリンピックで、ミカサバレーボールが採用(日本製として初採用)される。1969年 国際バレーボール連盟から公式球と認定され、更に国際大会唯一の公式試合球として認められる。「モルテン」1958年 モルテンゴム工業株式会社 設立。1959年 第1号ボール完成。スポーツ事業に参入。1960年 日本バレーボール協会より検定球として認められる。1969年 国際バレーボール連盟より公式球として認められる。「ボールの聖地」広島そのルーツは伝統産業「広島針」。江戸時代、武士の内職として「たたら製鉄」の鉄を使った針作りが盛んになった。明治時代に入ると機械化が進み、広島針は地域経済の中で重要な位置を占める一大産業へ。朝鮮戦争で、その需要は一層拡大した。戦地の服を直すため輸出が大幅に伸び、帰りの便を使った輸入が増加。多く持ち帰られたのが「生ゴム」であった。ゴムを利用して手縫いされたボールの製造が始まり、広島のボール産業が成長した。↓ 猫田勝敏氏広島が生んだ「世界一のセッター」猫田勝敏。専売広島(現JTサンダース広島)に所属 広島で生涯をバレーボ-ルに捧げた。オリンピックに4大会連続出場し、金・銀・銅のメダルを獲得。日本バレーを世界の頂点に導いた。↓ 左から、小野寺太志さん、石川真佑さん、西田有志さん、古賀紗理那さん、石川祐希さん、関菜々巳さん。
2023.11.05
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2023年9月15日、JR広島駅そばの広島電鉄・広島駅で、広島電鉄1000形電車・グリーンムーバーLEXを見たので写真を撮りました。LEXは、Light Eexcursion (ライトエクスカーション:小旅行)から付けられており、超低床車です。ーーーーーーーーーー↓ 広島電鉄1000形電車・グリーンムーバーLEX 路面電車。↓ 広島電鉄3900形電車 ぐりーんらいなー。
2023.11.04
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2023年9月15日、工事中のJR広島駅を出て、バス停を通り、広島JPビル郵便局で広島カープの「カープ坊や」ポストの写真を撮りました。昔は、広島駅前郵便局という名前だったと記憶しています。雰囲気がかなり変わってきました。広島市内を走る「青バス(広電バス:広島電鉄株式会社)」と、「赤バス(広島バス株式会社)」も写真を載せます。ーーーーーーーーーーーー↓ 広島JPビル郵便局の「カープ坊や」ポスト。↓ 広島JPビル郵便局。↓ 広島JPビルとJR広島駅ビルの間に、広島テレビのビルが見えた。↓ 広島テレビ。↓ 工事中のJR広島駅ビル。↓ 福屋広島駅前店。↓ 青バス(広電バス:広島電鉄株式会社)。↓ 赤バス(広島バス株式会社)。
2023.11.03
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2023年9月15日、広島駅で特殊詐欺撲滅ポスターを見ました。JR広島駅は工事中で、工事現場の壁に掲示されています。全国ポスター展282億円!これは何の金額がわかりますか?昨年、全国で発生した特殊詐欺の被害総額です!そして広島県でも昨年、5億円近くの被害がでています。1件あたりにすると約250万円。ものすごい金額ですよね。全国の都道府県警察でも色々工夫を凝らして「特殊詐欺被害防止ポスター展」を作って被害を防ごうとしています。特殊詐欺の手口は全国共通です。この度は全国警察が作った様々なポスターを楽しみながら眺めていただき、さらに被害防止に必要な対策や知識も知っていただこうと考え「全国特殊詐欺被害防止ポスター展」を開催することとしました。またポスター展の実行に当たっては、この趣旨に賛同いただいた西日本旅客鉄道株式会社広島支社様の全面的なご協力をいただいており、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。それでは日本全国からの特殊詐欺撲滅に向けた熱いメッセージを旅気分で最後までご覧ください。ーーーーーーーーーーーー↓ 広島県 達川光男さん。↓ 長崎県 前川清さん。↓ 佐賀県 コロッケさん。↓ 高知県 吉田類さん。↓ 大阪府 NMB48 小嶋花梨さん、NMB48 塩月希依音さん。↓ 愛知県 「南知多の具志堅」こと海苔漁師の森下さん。↓ 長野県 ニッチローさん。↓ 新潟県 稲垣啓太選手(パナソニックワイルドナイツ)↓ 山形県 テツandトモさん。↓ 福島県 城島茂さん。↓ 東京都 警視庁犯罪抑止対策本部 ストッポ君。↓ 宮城県 楽天イーグルス 早川隆久選手。↓ 青森県 梅沢富美男さん。↓ 富山県 高原兄さん。↓ 工事中のJR広島駅。
2023.11.02
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2023年8月のお盆に、山口県に帰省する予定でチケットを購入していましたが、台風7号のため交通網が大混乱になる予想がでたため、キャンセルしました。田舎の親が首を長く伸ばして待っているので、改めて帰省することにしました。2023年9月15日早朝、妻と一緒に新幹線で東京から広島に移動します。社会人の長男、長女は、それぞれ別便で移動し、山口県で合流することになりました。母方の祖父母の墓が三滝にあり、墓参りのため広島駅で可部線に乗り換え、三滝駅で下車しました。祖父は1945年8月6日原爆投下前後で、色々な体験をしたのですが、孫の私には話をしませんでした。祖父が亡くなる少し前に、私が祖父に質問し、1時間程度、当時の事を教えてくれました。内容については、このブログの中で少し記載しておきます。三滝墓園で墓参りをした後、再び広島駅に戻ります。往復は、JR西日本227系・ レッドウィング(Red Wing)に乗車しました。広島は、どこにいっても広島カープの赤が基調色です。↓ JR西日本・可部線 三滝駅。 JR西日本227系・ レッドウィング(Red Wing)。↓ JR西日本・可部線 三滝駅。 ↓ 可部線。↓ 太田川放水路。↓ 三滝マップ。三滝墓園に行く。↓ 三滝墓園。母方の祖父母が眠っています。祖父は戦前、広島の中国憲兵司令部に勤務していました。呉上空で交戦して墜落した米軍機の米軍兵達を司令部内で捕虜としていました。祖父は毎日、米兵と会って話をしていたそうです。祖父は米兵について報告をするため、原爆が落ちる数日前に、東京の司令本部に出張しました。そして東京にて、広島が爆弾により壊滅したとの情報を聞きます。広島の状況を調査するように命令が出て、祖父はすぐに広島に戻ります。海田あたりで鉄道が不通になり、徒歩で広島市内に入ります。市内は建物がほとんど無く、海まで見渡せる景色にショックを受けたそうです。市内の人々悲惨な姿、そして死体の山々。夜は死体を燃やす火とリンによる人魂のような光を見て、涙が止まらなかったそうです。司令部も壊滅し、勤務者も米兵も死んでいました。米兵の識別票のようなものを見つけました。(その後、GHQにそれを渡したそうです)米軍機墜落で亡くなった米兵のため、祖父は墓を作ってGHQに報告したとのことです。広島で調査を行っていたため、被爆したので、原爆手帳を持っていました。もし祖父が原爆投下前に東京に出張していなければ、祖父は原爆で亡くなり、今の私はいなかったことになります。祖母はその頃、岡山県の総社市に疎開していました。色々な事がありましたが、祖父は90歳で亡くなりました。↓ 三滝駅に戻る。↓ 太田川放水路。↓ 横川駅。↓ オタフクソースの看板。↓ 本川。↓ 新白島駅。昔は、広島城が見えたと記憶しているが、今は見えない。↓ 広島駅 ekieにて。 広島カープグッズ。
2023.11.01
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2023年7月~10月に買って読んだ本、雑誌です。8月に目が悪くなり、左目の左半分に黒雲がかかった状態になってしまいました。文字が良く見えず、疲れてしまうため、今後は購入する本・雑誌の数を減らすかもしれません。これら以外にも、朝日新聞を購読しており、毎朝読んでいます。日経新聞も長年読んでいましたが、複数の新聞を読む時間が取れなくなり、止めました。面白そうな見出しがあれば、スポーツ新聞をキオスクで買います。スマホやパソコンに出てくるニュースも読みますが、あくまでも速報性という点で見ています。詳しいことが知りたいときは、やはり新聞、雑誌、本などを買って読みます。値段が高くなり、ネットニュースがあるので、本、雑誌、新聞の売り上げがどんどん落ちているとのことで、将来どうなるのかとても不安に思っています。私の小遣いはほとんど書籍代に消えますが、私としては、本、雑誌、新聞代は、その情報量を考えると安すぎると思います。知りたい事があるとき、手元に資料が無ければ、ネットや古本屋を見たり、複数の図書館に行きます。それでも無い時は、国会図書館に行って資料請求をしています。興味ある書籍が自由に読めるのは、とても幸せな事です。ーーーーーーーーーー↓ This is 江口寿史!!/江口寿史/芸術新潮編集部編/とんぼの本/新潮社↓ step2 Egchi Hisashi Illustration Book II/江口寿史 最新賀集/江口寿史/河出書房新社↓ ストップ!!ひばりくん! COMPLETE EDITION Vol.3/加筆・修正された最終話を収録/江口寿史/小学館クリエイティブ/小学館↓ Dr.マシリト最強漫画術/鳥嶋和彦/執筆・構成協力:霜月たかなか/鳥山明/集英社↓ 生誕100年 司馬遼太郎の現在地/朝日新聞出版↓ 世界を救うmRNAワクチンの開発者カタリン・カリコ/増田ユリヤ/ポプラ新書/ポプラ社↓ コロナ後の未来/ユヴァル・ノア・ハラリ カタリン・カリコ ポール・ナース リンダ・グラットン リチャード・フロリダ スコット・ギャロウェイ イアン・ブレマー 大野和基(編)/文春新書/文藝春秋↓ いとうせいこう「国境なき医師団」をもっと見に行く ガザ、西岸地区、アンマン、南スーダン、日本/いとうせいこう/講談社新書/講談社↓ 養老先生と虫 役立たずでいいじゃない/養老孟司/山と渓谷社↓ 日本百名虫 フォトジェニックな虫たち/坂爪真吾/文春新書/文藝春秋↓ 日本百名虫 ドラマティックな虫たち/坂爪真吾/文春新書/文藝春秋↓ メガトン級「大失敗」の世界史/トム・フィリップス/河出文庫/河出書房新社↓ 命のビザ、遥かなる旅路/北出明/交通新聞社新書/交通新聞社↓ 今尾恵介の地図読み練習帳100問/今尾恵介/平凡社↓ るろうにほん 熊本へ/佐藤健/NHK出版↓ ヨーロッパ国際列車追跡乗車記/南正時/山と渓谷社 ↓ カラー版 もっと奇妙な線路大研究 東京・首都圏編/竹内正浩/実業之日本社↓ 新幹線全史 「政治」と「地形」で解き明かす/竹内正浩/NHK出版新書↓ リニア・鉄道館 SCMAGLEV and Railway Park OFFICIAL GUIDEBOOK/交通新聞社↓ リニア・鉄道館 公式鉄道ジオラマガイド OFFICIAL RAILWAY DIORAMA GUIDEBOOK/丹青社、ヤマネ↓ 新幹線から見える日本の名城/加唐亜紀/ウェッジ↓ 新幹線開発物語/角本良平著/中央文庫BIBLIO20世紀/中央公論新社↓ 絶後の記録 広島原子爆弾の手記/小倉豊文著/中央文庫BIBLIO20世紀/中央公論新社↓ 大河原邦夫 プロフェッショナルの50年/ 大河原邦夫/KADOKAWA↓ 地球の歩き方 ジョジョの奇妙な冒険/GAKKEN↓ 「ウルトラセブン」の帰還/白石雅彦/双葉社↓ 「ウルトラマンA」の葛藤/白石雅彦/双葉社↓ 「ウルトラマンタロウ」の青春/白石雅彦/双葉社↓ 1990年のCBS・ソニー/稲垣博司/MⅾN新書↓ 別冊宝島 100万人のアイドルポップス 青春復刻!ときめきアイドルポップス150/宝島社↓ TV時代に夢をつれてきた日本の歌手”50+1”人/伊藤強/日本テレビ放送網↓ A面に恋をして 名曲誕生ストーリー/谷口由記/リットーミュージック↓ 芸能界一発屋伝説/宝泉薫 編・著/彩流社↓ 陰謀の日本近現代史 戦争と大事件 隠された真相/保坂正康/朝日新書/朝日新聞出版↓ 昭和史の10大事件/宮部みゆきX半藤一利/文春文庫/文藝春秋↓ 古城秘話/南條範夫/ちくま文庫/筑摩書房↓ 稲生物怪録/京極夏彦訳/東雅夫編/角川ソフィア文庫/KADOKAWA↓ 帝都妖怪新聞/湯本豪一編/角川ソフィア文庫/KADOKAWA↓ 周防大島昔話集/宮本常一/河出文庫/河出書房新社↓ 山に生きる人びと/宮本常一/河出文庫/河出書房新社↓ 音街レコード B面 ”毛塚了一郎 作品集”/毛塚了一郎/KADOKAWA↓ 音盤紀行 2/毛塚了一郎/KADOKAWA↓ 定額制夫のこづかい万歳 ~月額2万千円の金欠ライフ~ VOL.6/吉本浩二/講談社↓ 水木しげる伝(上)戦前編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社↓ 水木しげる伝(中)戦中編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社↓ 水木しげる伝(下)戦後編/水木しげる/講談社漫画文庫/講談社↓ 昭和40年男 2023年8月号 Vol.80 俺たちの読書史 活字をめぐる冒険/ヘリテージ↓ 東京人 2016年8月 no.374 特集 特撮と東京「1960年代」/都市出版↓ 東京人 2023年4月 no.464 特集 特撮と東京 vol.2 「ミニチュア特撮」の世界/都市出版↓ 月刊天文ガイド 2023年8月号/誠文堂新光社↓ 月刊星ナビ 2023年8月号/アストロアーツ↓ 月刊天文ガイド 2023年9月号/誠文堂新光社↓ 月刊星ナビ 2023年9月号/アストロアーツ↓ 月刊天文ガイド 2023年10月号/誠文堂新光社↓ 月刊星ナビ 2023年10月号/アストロアーツ↓ 月刊天文ガイド 2023年11月号/誠文堂新光社↓ 月刊星ナビ 2023年11月号/アストロアーツ↓ 山と渓谷 2023年8月号 北アルプス山小屋物語/山と渓谷社↓ 山と渓谷 2023年8月号 別冊付録 日本アルプス山小屋名鑑2023/山と渓谷社↓ 山と渓谷 2023年9月号 八ヶ岳 山と山小屋/山と渓谷社↓ 山と渓谷 2023年10月号 やさしい読図/山と渓谷社↓ 山と渓谷 2023年11月号 全国絶景低山/山と渓谷社↓ 山と渓谷 2023年11月号 別冊付録 登山バス時刻表2023、24/山と渓谷社↓ 日経ビジネス 2023年6月26日/2023年7月3日↓ 日経ビジネス 2023年7月10日/2023年7月17日↓ 日経ビジネス 2023年7月24日/2023年7月31日↓ 日経ビジネス 2023年8月7日/2023年8月14日↓ 日経ビジネス 2023年8月21日/2023年8月28日↓ 日経ビジネス 2023年9月4日/2023年9月18日↓ 日経ビジネス 2023年9月25日/2023年10月2日↓ 日経ビジネス 2023年10月9日/2023年10月16日↓ 日経ビジネス 2023年10月23日/2023年10月30日↓ the Japan times alpha /2023年7月14日/2023年7月21日/2023年7月28日/2023年8月4日↓ the Japan times alpha /2023年8月11日/2023年8月18日/2023年8月25日/2023年9月1日↓ the Japan times alpha /2023年9月8日/2023年9月22日/2023年9月29日/2023年10月6日↓ the Japan times alpha /2023年10月13日/2023年10月20日/2023年10月27日
2023.10.31
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JR東日本の駅で、大人の休日倶楽部パスのパンフを頂きました。わたせせいぞうさんの絵で、茨城県の名所案内があります。(鹿島神宮、袋田の滝、水戸駅、あんこう鍋)JR東日本 大人の休日倶楽部パス ©わたせせいぞう APPLE FARM INC..↓「旅の安全を祈願して「鹿島立ち」鹿島神宮からさぁ出発!」茨城県/鹿島神宮。↓ 袋田の滝。↓ 水戸駅。↓ あんこう鍋。
2023.10.30
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2022年に引き続き、2023年も「山と渓谷」でピンバッジの応募をしました。夏山応援キャンペーンとして、2023年6、7、8月号の応募券2枚で、オリジナルピンバッジがプレゼントされます。ピンバッジは、山バッジで有名な高崎金属工芸が製作され、今年はライチョウのデザインのバッジが届いたので紹介します。ーーーーーー↓ 2023年「山と渓谷」ピンバッジ。ーーーーー↓ 山と渓谷/2023年6月号/山と渓谷社/アルプス名ルート100↓ p19 応募要項。↓ ライチョウのデザイン。↓ 全国の山バッジでおなじみ。高崎金属工芸と制作中!高崎金属工芸1974年創業。山岳微章(山バッジ)のデザインから制作までを手がける老舗。北アルプスの山小屋からの信頼も厚く、販売されているバッジの多くは同社製。国内生産の「銀いぶし」は唯一無二の味わい・ーーーーーーーーーーーー↓ 山と渓谷/2023年7月号/山と渓谷社/穂高岳↓ p21 応募要項。ーーーーーーー↓ 山と渓谷/2023年8月号/山と渓谷社/北アルプス山小屋物語↓ p19 応募要項。
2023.10.29
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2023年9月10日夜、大垣駅から米原駅まで移動しました。米原駅では、新快速223系の車両が連結していたので、紹介します。特急しらさぎ683系、そして大垣、垂井、関ケ原、柏原、近江長岡、醒ケ井、米原の記録写真も載せます。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 新快速223系の連結。(JR米原駅)ーーーーーーーーーーーー↓ 特急しらさぎ683系。ーーーーーーーーーーーーー↓ 大垣、垂井、関ケ原、柏原、近江長岡、醒ケ井、米原。↓ 米原。
2023.10.28
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2023年9月10日夜、名古屋から滋賀県へ鉄道で移動しました。JR大垣駅では、樽見鉄道大垣駅にある観光列車「ねおがわ」号(ハイモ330-701)を見ました。「根尾川」をイメージした青色のラッピングです。樽見鉄道は、岐阜県大垣市から北に進み、岐阜県本巣市の樽見駅まで35キロを結んでいます。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ JR大垣駅↓ 樽見鉄道線のりば。↓ 樽見鉄道観光列車「ねおがわ」号(ハイモ330-701)↓ 観光列車 ねおがわ。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 名古屋、岐阜、西岐阜、穂積、大垣。記
2023.10.27
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2023年9月10日夕方、名古屋のレゴランド・ジャパンの入り口に行きました。到着が17時を過ぎており、レゴランドは閉店時間という事で、残念ながら入場できませんでした。また機会があれば、レゴランドの中を見たいと思います。その後、金城ふ頭駅から名古屋駅まで戻りました。ーーーーーーーーーーーーレゴランド・ジャパンの入り口前広場にて。↓ レゴランド・ジャパンの入り口。↓ レゴランド・ジャパン・ホテル。ーーーーーーーーーーー↓ 金城ふ頭駅へ戻る。↓ 金城ふ頭駅。(あおなみ線)↓ 名古屋駅に戻る。
2023.10.26
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2023年9月10日、名古屋の「リニア・鉄道館」を見た後、近くにある「レゴランド」に行くことにしました。レゴランド・ジャパン・ホテルを目印に歩きました。ーーーーーーーーーーーー↓ レゴランド・ジャパン・ホテル。↓ レゴランド・ジャパン・ホテル
2023.10.25
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2023年9月10日、名古屋の「リニア・鉄道館」に行きました。駆け足で展示車両を見ていきました。一通りは見たのですが、全然時間が足りません。今度は十分時間を取って、ゆっくりと見学したいです。ーーーーーーーーーーーーー↓ 0系21形。↓ 0系21形と、クハ381。↓ ドクターイエロー。922系。↓ 0系21形。↓ 700系723形。↓ 300系322形。↓ 100系123形。↓ 0系21形。↓ クハ381。↓ モハ52。↓ モハ1。↓ ED11。------↓ 300系322形。↓ 700系723形。↓ ケ90。↓ N700系。
2023.10.24
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2023年9月10日、名古屋の「リニア・鉄道館」に行きました。「ドクターイエロー」(922形新幹線電気軌道総合試験車)が展示されていたので紹介します。新幹線の安全運航を保つために、走行しながら架線、信号、軌道の検査・測定を行う事業用の新幹線電車です。車号 922-26製造年 1979(昭和54)年製造所 日立製作所定員 -全長 25150㎜自重 59.0t(西日本旅客鉄道株式会社所有車両)私は今まで、ドクターイエローを3回見かけました。新幹線の車窓から、駅で停車中のドクターイエローを見たのが1回、残り2回は、すれ違う新幹線の車体が黄色だったので、ドクターイエローだったと分かりました。残念ながら、車窓から自分のカメラでドクターイエローを撮った事はありません。ーーーーーーーーーーー↓「ドクターイエロー」(922形新幹線電気軌道総合試験車)
2023.10.23
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2023年9月10日、名古屋の「リニア・鉄道館」に行きました。0系21型式新幹線電車の展示を見ました。0系は1964年10月10日の東京オリンピック開催日に間に合わせて、同年10月1日に開業した、奇跡の新幹線です。パネルの記載を紹介します。0系21型式新幹線電車1964年(昭和39)年に開業した東海道新幹線で、開業時から使用した0系新幹線電車と同型の先頭車(1号車)。東海道新幹線は世界で初めて最高速度210km/hでの営業運転を行い(その後220km/hで運転)、東京と新大阪の間を3時間10分で結んだ。0系新幹線はその後20年以上の間に3216両が制作され、2008(平成20)年まで活躍を続けた。東海道新幹線では1999(平成11)年まで使用した。車号 21-86製造年 1971(昭和46)年製造所 汽車製造定員 75名全長 25150mm自重 57.6t最高時速 220km/hーーーーーーーーーーーーーーーーー0系新幹線というと、私は小さい頃、「はしれ ちょうとっきゅう」を歌っていました。シンプルなのに、0系新幹線のイメージを端的に表現した歌だと思います。はしれ ちょうとっきゅう (1967:昭和42年)作詞:山中恒、作曲:湯浅譲二、歌:濱松清香、森の木児童合唱団ビュワーン ビュワーン はしるあおい ひかりの ちょうとっきゅうじそく にひゃくごじゅっきろすべるようだな はしるビュワーン ビュワーン ビュワーン はしるーーーーーーーーーーーーーーーーーーー0系21型式新幹線電車↓0系21型式新幹線電車。1)アイボリーと青の塗装明るくスピード感のある塗装を採用2)高速・安全運転の要となるATC類のない高速運転実現のため、ATC(自動列車制御装置)などを搭載。3)印象的なスタイルの前頭部当初は先頭部に半透明の樹脂を使用。4)機密構造となった室内トンネル内での気圧変化に対応するため、室内は航空機と同様の機密構造で作られた。5)静電アンテナ運転台屋根上のアンテナで架線電圧をチェックする、新幹線のシンボル的存在。
2023.10.22
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2023年9月10日、名古屋の「リニア・鉄道館」に行きました。C57形式蒸気機関車を見ました。パネルの情報をご紹介します。C57形式蒸気機関車近代型蒸気機関車のスタイルを決定づけた機関車。主要路線で運転される旅客列車を牽引することを目的に、1937(昭和12)年から総計201両が制作された蒸気機関車。ボイラー、動輪などの改良によって、中型の機関車でありながら高い性能を誇る、扱いやすい機関車としてその足跡は全国に及んだ。直径1750㎜という大きな動輪と細身のボイラーは、バランスのとれた美しさでも評価が高い。車号 C57 139製造年 1940(昭和15)年製造所 三菱重工業軸配置 2C1全長 20280㎜自重 79.7t実用最高速度 100㎞/h↓ C57形式蒸気機関車の特徴1)ボイラー圧力を約15%向上高い蒸気圧(1.57MPa)のボイラーを採用し、機関車の出力を向上。2)美しいプロポーション大きな動輪と細身のボイラーが生んだ美しいスタイル。3)歪みにくい構造のボックス車輪それまでのスポーク車輪に変わるボックス車輪は、その後の標準となった。4)お召列車の装飾天皇陛下がご乗車になるお召列車を牽くため、各部を美しく装飾。5)蒸気機関車時代の幕引きⅭ57形式は、1975(昭和50)年に蒸気機関車では最後の定期旅客列車を牽引。
2023.10.21
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2023年9月10日、名古屋のリニア・鉄道館に行きました。鉄道ジオラマのルームがあり、とても楽しみにしていたので、釘付け状態になりました。鉄道の24時間を、20分で再現しています。「公式 鉄道ジオラマガイド/企画・監修 東海旅客鉄道株式会社 リニア・鉄道館/出版:丹青社、ヤマネ」を購入して読みましたが、p10に「鉄道ジオラマ5つの特徴」として次の事が書かれています。①日本最大級鉄道ジオラマの面積は約220㎡で日本最大級です。レール総延長も約1000mを誇ります。②デジタル運行システムこのジオラマのために「デジタル運行システム」を自主開発しました。このシステムにより、ひとつの線路に複数の列車を同時に走らせても、それぞれの列車を自在に操作できるようになりました。③多彩なフィギュアシーンこのジオラマでは、単に鉄道模型が走るだけでなく、鉄道のある風景とそこでの暮らしの再現を目指しました。そのため、膨大な数の建物と人物フィギュアを作り込んでいます。特に甲子園球場やロックコンサートの会場フィギュア群は圧巻です。④鉄道の24時多彩なシーン造形が広がるなか、照明や音響の演出に加えて、鉄道の24時間を表現しています。早朝の始発から、昼、夕方、夜の情景を描き、最終を見送ったのち、深夜の保守作業を経て再び始発を迎えるまでです。⑤新幹線16両フル編成東海道新幹線の1編成は16両。だからこそ、ジオラマとはいえ16両のフル編成にこだわりました。16両をつなぐと全長なんと5m。その走る姿はなかなか見ごたえがあります。ーーーーーーーーーーp9には、主な仕様が紹介されています。鉄道ジオラマ面積:約220㎡路線数/レール長:7路線(山梨リニア実験線、東海道新幹線、東海道線、中央線、関西線、山岳線、環状線)/レール総延長 約1000m鉄道模型縮尺:1/80~1/87(HОゲージ:線路幅16.5㎜)車両数/編成数:約450両/約70編成制御方式:デジタル運行システム(自主開発)建物棟数:約500棟フィギュア数:約2万5千体自動車等:約300台(うち10台は自走タイプ)主な演出:鉄道の24時間を20分で演出(照明、映像、音響、模型の連動演出)ーーーーーーーーーーーーP79は、鉄道ジオラマ・スタッフ紹介ページです。「背景画:有限会社アトリエ雲 島倉二千六」とあります。ジャーナリスト・立花隆さんが「ネコビル」を建てるとき、島倉さんが猫の顔を描かれていた事を思い出しました。ーーーーーーーーーーーーー撮影した写真を一部紹介します。どのエリアか、当てたり想像してください。とても楽しいです。ーーーーーーーーーーー↓「公式 鉄道ジオラマガイド/企画・監修 東海旅客鉄道株式会社 リニア・鉄道館/出版:丹青社、ヤマネ」。売店で購入した。ーーーーーーーーーーーー鉄道ジオラマの背景画を描かれた有限会社アトリエ雲の島倉二千六さんですが、ジャーナリスト・立花隆さんが「ネコビル」を建てるとき、島倉さんが猫の顔を描かれました。
2023.10.20
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2023年9月10日、リニア・鉄道館に行きました。江戸時代の東海道五十三次から現代の東海道新幹線ルートまで、変遷が画面で紹介されており、とても分かりやすかったです。ーーーーーーーーーーー1)1608年 東海道五十三次 徒歩13泊14日。↓ 箱根の山越えあり。↓ 1872年 鉄道開業 新橋~横浜53分。蒸気機関車150形式↓ 1877年 京都~神戸 2時間40分 蒸気機関車130形式。↓ 1883年 中山道鉄道想定ルート。 ↓ 関ケ原~武豊、新橋~横川開通。↓ 1887年 東海道鉄道想定ルート。 ↓ 東海道全線開通。↓ 1896年 初の急行列車 新橋~大阪 16時間29分。↓ 1912 東海道全区間複線化と初の特別急行。新橋~大阪 11時間55分 蒸気機関車8800形式。↓ 1914年 東京駅開業。↓ 1932年 東京~大阪 8時間20分。 特急「燕(つばめ)」。↓ 1934年 丹那隧道開通東京~大阪 8時間00分。 特急「燕(つばめ)」。*1945年、終戦。↓ 1949年 東京~大阪 9時間00分。 特急「へいわ」。↓ 蒸気から電気機関車へ。1950年 東京~大阪 8時間00分。 特急「つばめ」。↓ 全線電化と電気機関車。東京~大阪 7時間30分。 電気機関車EF58形式牽引 特急「つばめ」。↓ 電車特急「こだま」151系。東京~大阪 6時間50分。特急「こだま」151系。↓ 1964年 東海道新幹線の登場。東京~新大阪 4時間00分。「ひかり」0系。↓ 1965年 東京~新大阪 3時間10分。「ひかり」0系。↓ 東海道新幹線の高速化「ひかり」100系。1986年 東京~新大阪 2時間56分。「ひかり」100系。↓ 東海道新幹線の高速化「のぞみ」300系。1992年 東京~新大阪 2時間30分。「のぞみ」300系。↓ 東海道新幹線の高速化「のぞみ」700系。1999年 東京~新大阪 2時間30分。「のぞみ」700系。↓ 21世紀の新幹線「のぞみ」N700系2007年 東京~新大阪 2時間25分。「のぞみ」N700系。
2023.10.19
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2023年9月10日午後、名古屋の「リニア・鉄道館」に行きました。2階に歴史展示室があり、東海道新幹線の誕生の経緯やプロジェクトについて、資料の展示がありました。島秀雄(しまひでお)氏、十河信二(そごうしんじ)氏についても紹介されていました。ーーーーーーーーーーーーー「『夢の超特急』、走る! 新幹線を作った男たち/碇義朗/文藝春秋/文春文庫」という本を持っており、東海道新幹線の誕生や、島秀雄氏、十河信二氏について、詳しく知ることができました。この本ですが、裏表紙に次の文章が書いてあります。昭和39年(1964年)10月1日午前6時、新幹線「ひかり」1号と2号が同時に東京都新大阪の駅をスタートした。しかし記念すべきその場に、最大の功労者ともいうべき、前国鉄総裁・十河信二、技師長・島秀雄、建設担当常務・大石重成の姿はなかった。世紀の一大プロジェクトに果敢に挑んだ男たちの姿を描く感動のノンフィクション。ーーーーーーーーーーーーーーー【島秀雄(しまひでお)氏】P18~19大正14年春、東京帝国大学機械工学科を首席で卒業した島秀雄は、かつて父安二郎がいた鉄道省に入り、工作局車両課でこれも父のあとを継いで蒸気機関車の設計をやるようになった。栴檀は双葉より芳し。秀雄はめきめき頭角をあらわし、C53形、C56形、C57形などの客車けん引用蒸気機関車の設計にかかわったのち、昭和10年には30歳そこそこの若さで貨物用主力機となるD51形の主任設計者に指名された。D51形、俗にデゴイチの愛称で今も親しまれているこの蒸気機関車は1年後に完成し、昭和20年までに1115両も製造されて日本を代表する名機といわれるようになった。だから島の2度目の海外出張は鉄道全般の勉強もあったが、主目的は蒸気機関車の研究にあった。島がまず落ちついたドイツは当時、電気機関車、蒸気機関車と両方の世界速度記録(このほかプロペラつき気動車「レール・ツェッペリン」号による時速230キロの記録もあった)を持ち、フランス、イギリスと並んで鉄道での先端技術を競っていた。そしてドイツ国鉄が時速200.4キロの蒸気機関車による世界速度記録を樹立したのは、島が到着する少し前の5月11日のことであった。P29戦前の昭和12年、すでに日本を代表するSLの傑作といわれたD51形をはじめ、数多くの蒸気機関車を生みだした島秀雄は、再びその能力を”心ならずも”蒸気機関車設計に振り向けることになった。その手はじめは、貨物用として戦時中大量につくられていたD51形、D52形の改造で、能力に余裕があるその巨大なボイラーを生かし、足まわりを新製して旅客用につくり変えた。そうして大型の旅客用蒸気機関車が比較的安く、しかも短時日で完成し、それぞれD51形改がC61形、D52形改がC62形となり、これも戦前に島が設計して戦後に生産が復活されたC57形、C59形とともに旅客輸送の主役となった。C61形は約33両、C62形は49両がそれぞれ製造されたが、なかでもC62形はボイラー能力、全長、全重量のいずれもわが国最大の蒸気機関車となり、多くの特急列車をけん引した。昭和50年12月、函館本線で蒸気列車を引いたのが最後の舞台となったが、島はその後、わが国最後の新設蒸気機関車となった昭和23年のE10形を経て、もう一度新型SLの設計を手がけている。P36昭和26年4月24日、京浜東北線桜木町駅構内で発生した大参事で島の人生は一挙に暗転した。P39「200名近くも死傷者を出しておきながら、その尊い経験を素直に反省する機会とすることに、あえて目をつぶろうとする国鉄内部の空気にイヤ気がさし、こんなところにいるものかという気持ちになった」当時の心境を島はそう語るが、桜木町事件から4カ月後、事故対策の手当てを完全に終えてからやめた。P40島は請われて住友金属工業に入り、車両関係の仕事を手伝うことになった。ーーーーーーーーーーーーー 【十河信二氏】P44明治17年生れ。松山中学から一高、東大(法科大学政治学科)を経て明治42年に国鉄の前身である鉄道院に入り、大正8年経理局紅梅第一課長、翌9年同会計課長、そして大正13年には鉄道省経理局長へと順調な栄進な道を歩んだ十河信二は、大正15年に疑獄事件の嫌疑にからんで国鉄をやめた。大正12年の関東大震災で帝都復興院というのができ、十河は総裁になった後藤新平によばれ兼任で復興院書記官になったが、そのときの区画整理用地買収に関する収賄容疑で逮捕、起訴されたことが、十河の鉄道人生を狂わせた。P47~47静岡県焼津港の漁船第5福竜丸が、マーシャル諸島のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験の灰をかぶったことが世間の大きな話題になった昭和29年の秋、とかく事故やサービスなどの点で評判の悪かった国鉄に追討ちをかけるかのような大参事が発生した。9月26日、日本海の東北地方よりを進んでいた台風15号の動きを誤認して出港した国鉄の青函連絡船「洞爺丸」が、港口を出た直後に瞬間最大50メートルを超える大暴風雨に見舞われて転覆沈没したのを初め、「第11青函丸」「日高丸」「北見丸」「十勝丸」の5隻が沈没し、死者行方不明1430人を出したのである。中でも死者行方不明1155人を出した「洞爺丸」の事故は、かつて北大西洋で氷山と衝突して沈んだイギリスの「タイタニック号」に次ぐ海難事故として大問題となった、悪いことはさらに続いた。台風15号の大参事から約8カ月後の昭和30年5月11日早朝、濃い霧の中を出港した国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が同じく国鉄の貨車輸送船「第三宇高丸」と衝突して沈没、168人の死者を出した。しかもそのうち100人以上が修学旅行中の小中学生であり、一度助かりながら児童の救出に戻って死んだ教師の話も伝えられ、この事故をより悲劇的にした。この事故発生から2日後の5月13日、責任を負って長崎惣之助総裁が辞任したが、後任総裁はなかなか決まらなかった。P50こうして十河の総裁就任が決まったが、そのあと待ち構えた記者団に囲まれた十河が「国鉄のため、国民のため、最後の御奉公と思い、線路をまくらに討死する覚悟で・・・」と語ったことが話題になった。P53十河の頭にのぼったのが、交通協会でしばしば顔を合せ、その人物を見込んでいた技術屋の島秀雄であった。島秀雄の父安二郎には、鉄道省経理局時代に広軌鉄道についていろいろ薫陶を受けたこともあり、その息子という親近感も十河の決意を固めさせたが、問題は島がすでに国鉄を去った人間であり、住友金属工業の役員として会社からも大きな期待を寄せられていたことだった。P54~55十河は島に技師長として国鉄に戻るように口説いたが、容易にウンといわないので、住友金属工業の広田寿一社長に会ってその説得と譲渡方を頼んだ。広田社長は、島を呼んで言った。「国鉄の十河総裁がお見えになり、君をせひ譲っていただきたいというお話があった。自分のアシスタントとして戻って来て欲しいのだが、本人にその気がないようなので説得もお願いしたいといわれた。当社としても君に去られることは残念だが、ほかならぬ国鉄総裁じきじきのご依頼なので、君さえよければ言ってあげたらどうか。-とても熱心に頼まれたので、お断りできなかった」そういう社長の言葉はよく理解できたものの、島の意思は変わらなかった。「私はすでに一度国鉄を去った人間であり、現在は住友金属工業の社員としてお世話になっている身です。入社して3年半、やっと落ちつきかけたところであり、今さら国鉄に戻って仕事をする気などありません。鉢植えの木だって、そうそう鉢を代えられたら、根を張ることができないじゃないですか。ただ十河さんとは父の時代からの長いお付き合いだし、国鉄の事情は改革更生については折々の会合でかんかんがくがくの議論を闘わせてきた仲ですから、今までどおり外部からできるだけの応援をさせていただくことにします」島の言葉を受けた広田社長はそのまま十河に伝えたが、十河はあきらめなかった。再三にわたる十河の要請を広田社長も断り切れず、ついに十河と島がじかに話し合うことになった。『三国志』で蜀の皇帝劉備玄徳は諸葛孔明を軍師に招くため三顧の礼をつくしたが、十河の島に寄せる思いもまさにそれであり、この段階で島は国鉄技師長就任はもはや避けられないだろうと覚悟した。「そこで、私もついに意を決して広田社長にお願いし、十河総裁のもとにはせ参じることにした。さいわい社長も快くお許し下さったばかりか、激励までして送り出していただいた」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー島秀雄(しまひでお)氏新館性開発時の国鉄技師長。東海道線の広軌新線計画を推進しようとする十河総裁から再三の要請を受け、国鉄に戻り技師長に就任。新幹線技術の構築に貢献し、プロジェクトを成功に導く。新幹線以前では、C62形式蒸気機関車や80系電車(湘南電車)など多くの名車を設計した。現在の日本が電車王国となったのも、島秀雄氏の功績が大きいと言われる。技師長を退任した後は宇宙開発事業団の初代理事長に就任した。(技師長:技術部門の最高責任者)ーーーーーーーーーーーーーーーーーー十河信二(そごうしんじ)氏第4代国鉄総裁。新幹線の建設を強力に推進し、「新幹線の生みの親」と呼ばれた。国鉄への思いは人一倍強く、事故続きで信用が失墜していた国鉄総裁への就任を、「線路に枕に討ち死にする覚悟」でと引き受けたと言われている。就任後すぐに、逼迫していた東海道線の輸送力増強策として広軌新線計画を強力に推進し国に建設を決定させた。在任期間は歴代総裁で最長の8年に及んだが、新幹線予算超過の責任を負う形で開業直前に退任した。↓ 十河信二氏 自筆の書 有法子(ユーファーズ)「成せば成る」という意味で、十河の座右の銘。国鉄の入社式の訓示で、十河氏は「自分の座右の銘を言うから、それを拳拳服膺(けんけんふくよう)しなさい。それはユーファーズ(有法子)という言葉である」と言った。新幹線プロジェクトも有法子の精神で成し遂げられた。(拳拳服膺は、中国の四書の一つである「中庸」の中の言葉。胸に銘記し忘れずに守ること)↓ 十河信二氏。ーーーーーーーーーーー↓ 1964年(昭和39年)10月1日から走り始めた新幹線「ひかり」。ーーーーーーーーーーー↓「『夢の超特急』、走る! 新幹線を作った男たち/碇義朗/文藝春秋/文春文庫」
2023.10.18
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2023年9月10日午後、名古屋の「リニア・鉄道館」に行きました。館内2階のデリカステーション(DELICA STATION)で駅弁を販売していたので、「みそかつ&大えびフライ弁当」を購入して食べました。ーーーーーーーーーーーー↓「リニア・鉄道館」2階のデリカステーション(DELICA STATION)。↓ みそかつ&大えびフライ弁当。↓ みそかつ&大えびフライ弁当を購入した。
2023.10.17
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2023年9月10日、名古屋の「リニア・鉄道館」に行きました。エントランスホールで、超伝導リニアMLX01-1を見ました。2003年12月2日に、山梨リニア実験線で世界最高の時速581㎞/hを記録し、ギネスに登録されました。パネルの内容を紹介します。超伝導リニアMLX01-1「世界最高速度を記録した超伝導リニア」車両に搭載した超伝導磁石と地上に設置したコイルとの間に生じる磁力で車体を浮上させて走る超伝導リニア。車輪とレールとの摩擦力(粘着力)に頼らないため、従来の鉄道よりも高速運転が可能である。この展示車両は2003(平成15)年には581㎞/hという鉄道による世界最高速度を記録した。超伝導リニアMLX01-1 最高記録581㎞/h(2003年)車号 MLX01-1製造年 1995(平成7)年製造所 三菱重工業定員 -全長 28000㎜自重 約30t公益財団法人鉄道総合技術研究所有車両↓ 超伝導リニアMLX01-1。↓ 右から超伝導リニアMLX01-1、300X(955形新幹線試験電車)、C62形式蒸気機関車。↓ GUINESS WORLD ECORDS.CERTIFICATEThe highest speed attained by a manned superconducting magnetically levitated (maglev) train is 581 km/h (361 mph) by the MLX01, opeated by the Cental Japan Railway Company and Railway Technical Reseach Institute on the Yamanashi Maglev Test LIne in Yamanashi, Japan on 2 Decembe 2003.OFFICIALLY AMAZING.RECORD HOLDER.ーーーーーーーーーーーーーーーーーギネス世界記録証明書有人超伝導磁器浮上式リニアモーターカー・MLX01によって、2003年12月2日に山梨県の山梨リニア実験線で達成された最高速度は、時速581 (時速361 マイル)であった。MLX01は東海旅客株式会社と鉄道総合技術研究所によって運営されている。公式に素晴らしい 記録保持者↓ 超伝導リニアMLX01-1①超伝導磁石超高速走行を実現するための超伝導磁石を車両側面に搭載。②先頭形状ダブルカスプと呼ばれる空気抵抗の少ない先頭形状。③アルミニウム合金製車体。アルミニウム合金を使用すうことで軽量化を実現。↓ 車両が高速になると浮上・案内コイルは一時的に電磁石になります。
2023.10.16
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2023年9月10日、名古屋のリニア・鉄道館に行きました。エントランスホールに「300X(955形新幹線試験電車)」が展示されています。300Xは、1996年7月26日に当時最高速度443㎞/hを記録しました。パネルには次の紹介がありました。955形新幹線試験電車(通称:300X)「最新・最良の高速鉄道システムを追求するための試験電車新幹線電車のあるべき姿を追求するために、1994(平成6)年にJR東海が製作した6両編成の6号車。7年間にわたり約600回の試験運転を実施し、高速化のためのさまざまな課題を克服するためのデータが収集された。この展示車両は1996(平成8)年には電車方式では当時の世界最速となる443.0㎞/hを記録した。955形新幹線試験電車(通称:300X)車号 955.6製造年 1994(平成6)年製造所 日立製作所定員 -全長 27150㎜自重 35.3tーーーーーーーーーーーーー↓ 955形新幹線試験電車(通称:300X)。↓ 最高記録443㎞/h 1996年7月26日。↓ 955形新幹線試験電車(通称:300X)の特徴。①両端で異なる先頭車のデザイン空力性能の違いを確認するため両先頭(1号車と6号車)で異なる先頭部のデザイン。②滑らかな車両形状車体表面の凹凸を可能な限りなくした構造。③アルミニウム合金製車体アルミニウム合金を使用することで軽量化を実現④高速走行が可能な特別な台車通常の新幹線より軸距(じくきょ:車輪と車輪の間の長さ)を長くし高速走行を実現。↓ 300Xと超電導リニアMLX01-1
2023.10.15
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2023年9月10日、名古屋市港区金城ふ頭にある「リニア・鉄道館」に行きました。入場すると、エントランスホールにⅭ62形式蒸気機関車、300X新幹線(955形新幹線試験電車)、超電導リニアMLX01-1がずらりと並び、圧巻です。最初にⅭ62形式蒸気機関車を紹介します。パネルには次の記載があります。「世界最高速度を記録した最大・最速の大型蒸気機関車」急行、特急用として製作された日本で最大・最速の旅客用大型蒸気機関車。既存のD52形式蒸気機関車のボイラーを流用して1948(昭和23)年から総計49両が誕生、東海道本線の特急「つばめ」、「はと」などの牽引に使用した。この展示車両(17号機)は1954(昭和29)年の木曽川橋梁の強度試験にて129㎞/hを記録。これは狭軌における蒸気機関車の世界記録となっている。C62形式蒸気機関車車号 C62 17製造年 1948(昭和23)年製造所 日立製作所軸配置 2C2全長 21475㎜自重 97.75tーーーーーーーーーーーー↓ 名古屋市港区金城ふ頭にある「リニア・鉄道館」。↓ Ⅽ62形式蒸気機関車が見える。↓ Ⅽ62形式蒸気機関車、300X新幹線(955形新幹線試験電車)、超電導リニアMLX01-1。↓ Ⅽ62形式蒸気機関車。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ C62形式蒸気機関車の特徴①大きな動輪。高速走行が可能な直径1750㎜の大きな動輪。②大きなボイラー。D52形式の大型ボイラーを搭載し、旅客用蒸気機関として日本最大。③背の高い車体。大きな動輪とボイラーの組み合わせでボイラー中心線の高さも日本最大(2630㎜)④短い煙突と斜めの汽笛。決められた高さを越えないようにするため煙突を短くし、汽笛も斜めに設置。⑤自動給炭機を搭載。自動的にボイラーに石炭を送り込む自動給炭機を搭載。これにより機関助士の投炭作業に関わる作業を軽減。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 車両番号板の記号および番号の紹介。
2023.10.14
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2023年9月10日午後、JR名古屋駅から名古屋臨海高速鉄道の「あおなみ線」に乗り換え、1000形電車に乗車して、終点の「金城ふ頭駅」に行きました。「あおなみ線」の名称は、海の「あお」、名古屋の「な」、港の「み」を合わせて出来ました。駅は、「AN01 名古屋駅」、「AN02 ささしまライブ」、「AN03 小本」、「AN04 荒子」、「AN05 南荒子」、「AN06 中島」、「AN07 港北」、「AN08 荒子川公園」、「AN09 稲永」、「AN10 野跡」、「AN11 金城ふ頭」の11駅で、約15kmです。「金城ふ頭駅」の近くには、「リニア・鉄道館」や、「レゴランド」があります。ーーーーーーーーーーーー↓ 名古屋臨海高速鉄道の「あおなみ線」。↓ 名古屋駅14:00発、金城ふ頭行き。↓ あおなみ線の紹介。(レゴランドが寄贈しており、レゴブロックでできている)↓ 名古屋臨海高速鉄道「あおなみ線」 名古屋駅。↓ 名古屋臨海高速鉄道1000形電車。↓ 運転席。↓ あおなみ線 沿線スポットナビ。↓ 「あおなみ線」名古屋駅出発。↓ ささしまライブ駅。↓ 左側はあおなみ線。右側は関西本線、近鉄名古屋線が通っている。↓ 雨が強く降ってきた。↓ 名古屋出入国在留管理局。 (港北駅近く)↓ 荒子川公園駅。↓ 左側のタンクに「丸菱飼料」と書いてある・↓ 名港中央大橋。↓ 日本製鉄 名古屋製鉄所。↓ 手前が名港中央大橋、奥は名港東大橋。↓ 金城ふ頭駅が見えて来た。↓ 終点。↓ 左端に「レゴランドホテル」が見えた。↓ 「レゴランドホテル」。↓「レゴランドホテル」。↓ あおなみ線の路線図。↓(右側)レゴランド・ジャパン、(中央)ポートメッセなごや、オーシャンアリーナ。↓(左側)エリア・鉄道館(中央)乗船場。↓ JR リニア・鉄道館。↓ リニア・鉄道館/SCMAGLEV and Railway Park.
2023.10.13
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2018年2月10日、佐賀県の肥前名護屋城に行きました。名護屋城址を散策していると、九州電力・玄海電子力発電所が見えました。↓ 九州電力・玄海原子力発電所。 (左は4号機、右は3号機)↓ 3号機↓ 4号機。↓ 玄海原子力発電所。↓ 肥前名護屋城から玄海原子力発電所を臨む。
2023.10.12
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2018年2月10日、佐賀県の肥前名護屋城に行きました。前回のブログでは、「観光案内所付近 → 東出丸 → 三ノ丸 → 本丸 → 天守台跡」と上って行く部分の写真を紹介しました。今回は、「天守台 → 遊撃丸 → 二ノ丸 → 搦手口 → 観光案内所付近」に下って行った部分の写真を一部紹介します。ーーーーーーーーーーーーー↓ 肥前名護屋城 本丸。東郷平八郎が「名護屋城址」と揮毫した石碑が建っている。↓ 天守台跡。↓ 本丸多聞櫓跡(ほんまるたもんやぐらあと)本丸の西側と南側は、ある時期に築城時の石垣(旧石垣)をそのまま埋め込んで新しい石垣(新石垣)を築き、大規模な拡張を行っていたことが明らかとなっています。その本丸西側には、新たに多聞櫓(たもんやぐら)とそれに続く南西隅櫓(すみやぐら)が建てられました。多聞櫓とは長屋状に造られた櫓で、主に武器や食料の倉庫として使われました。ここでは当時の礎石(そせき)がほぼ1m間隔(6尺5寸を1間(けん)としが場合の半間)で南北に長く並んでいる様子が発見されています。ーーーーーーーーーーーー↓ 三ノ丸櫓台(さんのまるやぐらだい)この櫓台は、名護屋城で最大規模を誇り、その西側正面には城内最大の鏡石(かがみいし)を用いて、石垣を築いています。平成6年度の解体修理では、栗石(くりいし)の一部に大型石材を使用していることや、石材を1尺(約30㎝)単位の規格で割ろうとした矢穴跡を確認しています。その石垣の裏からは、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部も見つかっています。ーーーーーーーーーー↓ 二の丸。本丸の西側にあり、武器、兵糧などの建物があったといわれている。ーーーーーーーー↓ 馬場櫓台(ばばやぐらだい)この櫓台は、本城の櫓配置の中でも特異な例であり、なぜか馬場の通路途中に設けられています。平成7年度に解体修理を実施しましたが、石材として鏡石(かがみいし)状の大石だけに野面石(のづらいし)、その他には割石(わりいし)を用いている点や、割石の裏面に割石の失敗や作業を中止した痕跡を残す点に他と異なる特徴があります。ーーーーーー↓ 本丸南西隅石垣(ほんまるなんせいすみいしがき)平成8年度に解体修理した前面の石垣は、復元すると10m以上の高さとなります。石垣の途中に横長で薄い石材を用いる特徴がありますが、この石材の大部分が割れたために、石垣崩壊が進んだと考えられます。ーーーーーーー↓ 遊撃丸(ゆうげきまる)。文禄2年(1593)に明国の講和使節として来日した沈維敬(遊撃将軍の使者)の宿舎となったことから、この名称が付けられたといわれています。ーーーーーー↓ 搦手口(からめてぐち)前方の斜面は搦手口と呼ばれる、名護屋城に5つある虎口(こぐち:城の出入口)のひとつです。搦手とは城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉です。城の守りを固めるために通路を屈折させた、典型的な喰違い虎口(くいちがいこぐち)の形状をしています。↓ 城のかげ溜池。↓ 観光案内所近くに戻った。
2023.10.11
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2018年2月10日、肥前名護屋城址を見学しました。佐賀県立名護屋城博物館を見た後、東出丸、三ノ丸を進み、本丸に上がりました。本丸中央には、東郷平八郎が「名護屋城址」と揮毫(きごう)された石碑があります。天守台跡もあります。「肥前名護屋城図屏風」(佐賀県重要文化財)には5層7階建て(地上6階、地下1階)の豪壮な建物が描かれており、その高さは石垣から約25~30mであったと推定されています。ーーーーーーーーーーー↓ 名護屋城博物館から観光案内所を通った所。↓ 旗竿石(はたざおいし)の説明(寄贈者:松前佐喜子・袈裟丸ひろ子・袈裟丸代美)この石は、文禄・慶長の役に際して名護屋城周辺に滞在した諸大名の陣屋に、軍旗や馬印などを立てるために、玄武岩質の自然石でつくられた「旗竿石」と呼ばれるものです。昭和15年(1940年)頃、名護屋村から唐津市坊主町の民家に移設され、再び、鎮西町名護屋の地にもどされたものです。中央に直径26.5cm、深さ12cmの円形の穴が穿ってあります。↓ 旗竿石。↓ 名護屋城址。↓ 東出丸の案内。東方に張り出した長方形の曲輪(くるわ)で、千人枡(せんにんます)とも呼ばれています。大手口・三ノ丸警護のための侍詰所(さむらいつめしょ)があったと推定されます。↓ 東出丸。↓ 三ノ丸に進む。↓ 三ノ丸の案内。三ノ丸は、本丸より一段低いところに位置する東西34間(68m)、南北62間(124m)の曲輪(くるわ)です。↓ 三ノ丸。↓ 三ノ丸。↓ 本丸大手門に進む。* 【本丸大手門】 三ノ丸から本丸への入り口に、二層の豪壮な門が築かれていた。後に仙台(青葉)城主伊達政宗が城の大手門に移したという。国宝であったが、惜しくも第二次世界大戦(昭和20年:1945年)の空襲で焼失した。(肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会の肥前名護屋城パンフレットより)↓ 名護屋城址本丸。本丸中央には、東郷平八郎が「名護屋城址」と揮毫(きごう)された石碑がある。↓ 東郷平八郎の揮毫「名護屋城址」。↓ 天守台跡。ここは名護屋城のシンボルである天守(閣)が建てられていた天守台です。「肥前名護屋城図屏風」(佐賀県重要文化財)には5層7階建て(地上6階、地下1階)の豪壮な建物が描かれており、その高さは石垣から約25~30mであったと推定されています。↓ 天守台跡。ーーーーー↓ 有田焼でつくられた諸大名の陣の場所案内。(案内板と写真を対比させた)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 呼子大橋。
2023.10.10
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2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。館内には名護屋城と城下町の1/300スケール模型が展示されており、当時の名護屋の様子がとてもよく分かります。ーーーーーーーーーー名護屋城に隣接する丘陵に、豊臣秀吉の正室おね(ねね:北政所)の甥の木下延俊(きのしたのぶとし)の陣があり、そのそばに名護屋城博物館が建っています。佐賀県立名護屋城博物館のパンフレット「大名の陣屋跡~特別史跡木下延俊陣跡~/屋外常設展示 常設展 日本列島と朝鮮半島の交流史 4 特別史跡名護屋城跡並びに陣跡 1997.5」に、木下延俊の記載があるので、一部を紹介します。「木下延俊は、天正5年(1577)に木下家定(いえさだ)の三男として生まれました。豊臣秀吉の正室おね(北政所、高台院)の甥(おい)にあたります。当時の所領は、播磨三木郡(はりまみきぐん)の内2万石であり、その後の関ケ原の戦いの時は東軍につきその功により慶長6年(1601)、豊後速見郡日出(ぶんごはやみぐんひじ)城主として3万石の封を得、寛永19年(1642)に66歳で没しました。延俊の後、木下氏は転封もなく、日出(ひじ)藩主として幕末まで16代続きました。」ーーーーー木下延俊の兄弟ですが、5男は秀秋です。豊臣秀吉が毛利輝元に秀秋を養子にという話を持ってきました。毛利輝元の3男である小早川隆景が、輝元の養子にするのはまずいと考え、自分の養子にするとしたため、小早川秀秋となりました。関ケ原の戦いでは、静観していた小早川秀秋に対して徳川家康が怒り、小早川軍に鉄砲を打ち込ませたので、小早川軍が西軍の大谷軍を攻めて流れが変わり、東軍の勝利になったという有名な話があります。その後、小早川秀秋は岡山城主となりますが、2年後に亡くなり、子供がいなかったので改易となりました。ーーーーーーーーーーー↓ 名護屋城と城下町の1/300スケール模型。↓ 名護屋城と城下町。名護屋城は16世紀末、豊臣秀吉が文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)に際して築いた城で、総面積約17万㎡と当時では大阪城につぐ規模を持っていた。海との間には大きな城下町が形成され、城の周囲には120以上の全国の大名たちの陣屋が築かれた。この大都市には、10数万もの人々が居住したといわれている。この模型は「肥前名護屋城図屏風」をもとに復元・制作したものである。○模型縮尺 1/300○製作監修 西 和夫(神奈川大学工学部教授)↓ 名護屋城と城下町。中央の天守閣がある場所が本丸。その左から手前まで、遊撃丸、二の丸、弾正丸が続き、搦手口がある。奥は名護屋浦の海や、徳川家康の陣が見える。↓ 中央は天守閣。天守閣の左は遊撃丸、手前は二ノ丸、左奥の堀は鯱鉾池と台所丸。↓ 名護屋城から名護屋浦を臨む。↓ 名護屋城(左)の近くにある中央の陣は、豊臣秀吉の正室おね(ねね:北政所)の甥の木下延俊(きのしたのぶとし)の陣。このそばに、現在は佐賀県立名護屋城博物館がある。↓ 天守閣と本丸(中央)。 その下は水手曲輪(左下)、遊撃丸(中下)、二ノ丸(右下)↓ 名護屋城と鯱鉾池の位置。↓ 名護屋浦から名護屋城まで続く道。奥が名護屋城。手前が徳川家康陣。↓ 名護屋城(奥)と、徳川家康陣(手前)の位置。武家屋敷や城下町が続く。↓ 奥に名護屋城。中央付近に徳川家康陣、下の方に本多忠勝陣。ーーーーーーーーーーー↓ 諸大名の陣屋位置。ーーーーーーーーーーーー文禄の役当時の大名は位置図。【似顔絵のある大名】1)鍋島直茂、2)加藤清正、3)島津義弘、4)毛利輝元、5)加藤嘉明、6)福島正則、7)長曾我部元親、8)古田織部、9)石田三成、10)豊臣秀吉、11)前田利家、12)山内一豊、13)徳川家康、14)蒲生氏郷、15)伊達政宗
2023.10.09
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2018年2月10日朝、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。豊臣秀吉の朝鮮出兵に関連して、陶磁器、朱子学、活字、朝鮮通信使の展示があったので、紹介します。↓ 佐賀県立名護屋城博物館の内部。ーーーーー↓ 陶磁器。今日高い評価を受けている唐津焼や伊万里(「有田)焼は、優れた技術を持った朝鮮の陶工たちによって始められた。別名「やきもの戦争」といわれる文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)で連行されてきた多数の陶工集団の技術力は、日本の陶磁器生産に画期的な発展をもたらした。↓ 唐津焼とは肥前一帯で焼かれる陶器の総称で、16世紀後半には朝鮮の陶工たちによって焼かれていた。文禄・慶長の役を境に本格的な大量生産体制に入り、三島・刷毛目・絵唐津など多種・多彩な技法が発展した。↓ 粉青沙器 鉄絵人参葉文瓶 朝鮮時代(15~16世紀)本作は粉青沙器と呼ばれ、朝鮮時代を代表するやきものである。唐津焼のもととなった制作技法によって作られている作品である。また、本作は粉青沙器の中でも「鶏龍山手」と呼ばれるもので、白土を塗った上に鉄絵具で朝鮮人参の葉を描いたものである。↓ 肥前陶磁の発達文禄・慶長の役で連れてこられた李参平は、元和2年(1616)、有田において日本で磁器の焼成に初めて成功したといわれている。以来、有田皿山を中心とする磁器の生産は飛躍的な発展を遂げる。1640年代には色絵が誕生し、17世紀後半にはその名声が遠くヨーロッパにまでおよんだ。この17世紀後半から18世紀が、まさに肥前陶磁の全盛期である。↓ 連行された陶工たち陶工たちは、九州・山口の諸大名の支配・保護の下で上野焼・高取焼・薩摩焼・萩焼などを興し、また、唐津焼きにも大きな変革をもたらした。現在でも、窯場の周辺には異国の地で望郷の思いに駆られた無名陶工たちの遺跡が散在する。ーーーーーーーー朱子学文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)により朝鮮から連行された人々の中には朱子学者もいた。彼らは日本の学者との交流を通じて、日本の近世朱子学の発展に寄与した。君臣上下の身分秩序を重んじる朱子学は、支配体制を支える思想として為政者に歓迎され、徳川幕府や各藩の厚い保護を受けた。↓ 近世朱子学と姜沆慶長2年(1597)南原の戦で藤堂高虎の軍に捕らえられた姜沆(カンハン)は、伊予国大津(現愛媛県大洲市)に連行された。すぐれた朱子学者であった彼は、後に近世朱子学の開祖と称される藤原惺窩(ふじわらせいか)に出会い影響を与えた。↓ 洪浩然と佐賀洪浩然は文禄2年(1593)晋州付近で鍋島直茂に捕らえられた。浩然は直茂の子勝茂に仕え、学問の素養を認められて京都五山に遊学した後、佐賀藩の儒者となった。明暦3年(1657)浩然は家族に「忍」の字の書を残し、勝茂に殉死する。墓は阿弥陀寺(現佐賀市)にあり現在も手厚く守られている。↓ 洪浩然↓ 洪浩然書「忍」(複製)明暦3(1657)年4月8日 本館蔵洪浩然は、文禄の役に際して佐賀の兵に捕らえられた人物。その後、佐賀藩士となり、藩主鍋島直茂・勝茂に仕えた。書に秀で、現在も県内外に作品が伝わっている。明暦3(1657)年3月、勝茂が江戸で死去すると、洪浩然は追い腹を切った。本史料はその際に家族への遺訓としてしたためられた絶筆である。ーーーーーーー↓ 活字印刷。朝鮮は前代の高麗時代から、世界に先駆けて金属活字によるすぐれた印刷文化を有してきた。文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)により、銅活字や朝鮮本が持ち去られ、印刷技術を持つ人々が日本へ連行されたといわれる。朝鮮の活字印刷文化は、日本の印刷技術に影響を与え、近世初頭の日本において活字印刷が一時盛んに行われた。↓ 朝鮮活字 朝鮮時代 名護屋城博物館蔵朝鮮の活字印刷で使用された木活字。ーーーーーーー↓ 文禄・慶長の役後、徳川家康と対馬の宗氏との努力により、朝鮮との国交が回復した。朝鮮からは平和との友好の使節「朝鮮通信使」が来日し、徳川幕府や沿道の各藩の盛大な歓迎を受けた。また釜山には倭館がおかれ、両国の人々は盛んに交流した。朝鮮は江戸時代の日本が正式な国交を行っていた国であり、260年間も続いた善隣外交は世界史的に見ても非常に稀なことである。↓ 朝鮮通信使朝鮮通信使は、徳川将軍の代替わりなどの折りに日本からの要請に応えて派遣された。この使節団は朝鮮の国書を携え、正使以下300~500人にも及び、その中には学者・画家・楽隊なども含まれていた。12回に及ぶ通信使の来日は、鎖国制化の日本の人々にとって、外国の文化に直接ふれることのできる貴重な機会であった。↓ 朝鮮通信使行列絵巻 江戸時代中期江戸時代中期の狩野派絵師狩野常信の作で、天和2(1682)もしくは、正徳元(1711)年の通信使の様子を描いたものです。来日した通信使の姿を記録しようと、通信使の行列を書いたこうした絵画が様々な立場の人から注文され、数多くの作品が描かれました。↓ 唐子人形 名護屋城博物館蔵旧中山道沿いの滋賀県五個荘町小幡(ごかしょうちょうおばた)では、現在も制作され続けている。↓ 朝鮮人行列次第 延享5(1748)年 本館蔵延享5(1748)年、第10回朝鮮通信使の来日を控えて京都で出版された冊子。内容は、通信使の行列を開設するもので、いわゆるガイドブックである。この時の来日は前回から30年ぶりのことで、その様子に庶民たちも高い関心を寄せていたことがうかがわれる。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 絵本豊臣君勲功記 安政4(1857)年~明治15(1882)年 本館蔵江戸時代後期、幕府によって秀吉伝記の出版は大きく制限されていたが、幕末になるとそれらも緩み、再び秀吉関連の書物が人気を博すようになる。「絵本豊臣君勲功記」は、豊臣秀吉や加藤清正などの逸話を豊富に盛り込みながら、秀吉の天下統一までを描く読本。途中までは優れた武者絵を描いた歌川国芳が挿絵を担当している(国芳没後は松川半山が担当)江戸時代後期以降に人気を博した太閤記関連の読本は、現在に至る豊臣秀吉や加藤清正などのイメージ形成にも大きな影響を与えている。明治時代になると、大陸進出を行った英雄、関白として天皇を補佐した人物という視点から秀吉の再評価が積極的に進んだこともあり、本書は全80冊・発行期間25年に及ぶベストセラーとなった。
2023.10.08
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2018年2月10日朝、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。豊臣秀吉による朝鮮出兵に関し、日本軍と朝鮮・明軍の武器の説明があったので、紹介します。ーーーーーーー【日本軍の武器】長い乱戦の世を経験した日本軍は、攻撃に有利な武器を持っていた。特に16世紀半ばに日本に伝えられた火縄銃は、戦の形を変え、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)においても、日本刀とともに強力な武器となった。また朝鮮側に投降した日本の将兵(降倭)は火縄銃、日本刀の製法や使用法を伝えた。ーーーーーーーーー↓ 朝鮮・明軍の武器武より文を重んじた政治体制下にあった朝鮮軍の主な兵器は、伝統的な弓矢と大小の銃筒であった。また明軍は仏狼機砲(ふらんきほう)などの大砲を以て戦争に臨んだ。しかし命中精度の高い火縄銃と日本刀のほうが戦闘にすぐれ、朝鮮・明軍は苦戦を強いられた。ーーーーーーーーーーーーー↓ 文禄・慶長の役 空虚なる御陣/上垣外憲一/講談社/講談社学術文庫P100~102この朝鮮の役での日本軍の勝利は、鉄砲と日本刀によってもたらされた、といえる。日本刀の鋭利さは、すでに倭寇の害によって中国・朝鮮ではよく知られていた。~東莱(トンネ)城の戦いでは日本軍大刀が勝敗を決した、とフロイスは書いている。-「双方ともに大いに奮戦したが、朝鮮人は頭上に振り翳される日本人の大刀の威力に対抗できず、ついに征服された」。また有名な碧蹄館の戦いでも、日本軍の勝因の一つに、日本刀の鋭利さが挙げられている。賊(日本軍)のほうはみな歩兵で、かれらの打ち振る刀は、3、4尺におよび、鋭利無比のものであった。賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。まったくその勢いには抗すべき道がなかった。(『懲毖録(ちょうひろく)』)しかし、なんといっても、日本軍の最も強力な戦力となったのは、鉄砲であった。~『懲毖録(ちょうひろく)』ではその鉄砲について次のように描写している。日本人は戦闘に習熟し、しかも機械は精巧である。昔は鉄砲がなかったが、今それを所有している。有効射程、命中率は弓矢に倍する。・・・弓矢の技は百歩にすぎず、鉄砲は数百歩におよぶ。飛んでくるさまは、風、あられのよう。とても抗せるものではない。この小銃の集中射撃の威力で、日本軍は次々に勝利を手にしていったのである。ーーーーーーーーP120~122『武功夜話』は、平壌の戦いで日本軍は鉄砲隊1500挺で明兵に撃ちかけたところ、「豈(あに)はからんや大明の大筒(おおづつ)雷音とともに城中へ飛来、一度に数千人打取られ」と、その大砲の威力のすさまじさを描写している。『武功夜話』には、明の大砲がいかに日本側の脅威となったかを示す言葉が繰り返し出てくる。「すなわち大明兵の大筒落ち掛かり候いては、如何様(いかさま)味方の鉄砲勝りたるといえども支え難く」、「平壌3日を支えきれず落去に及び候。これは小西摂津守弱みには非ずなり、大明の玉薬身方に勝り候故に候なり」、「数百門大筒百雷一遍に落ちたる如く、如何なる堅塁もみじんに相成る」等々である。いかに明軍の大砲の威力に日本軍が驚き、恐れたかがわかる。日本軍は飢えと寒気にも苦しめられた。凍死する者もあとをたたなかった。都(漢城)においては越冬は苦しく兵糧は不足、1日2度に減じ雑炊(ぞうすい)を喰いつなぎ候。薄着のため手足寒気にやけくさり、指先自由を失う者多数あり、鉄砲打ちかねたる者数知れず。寒死する者その後を断たず候なり。(『武功夜話』)~『日本史』は次のように描写する。日本軍は雪や氷の上を歩き馴れない上に、朝鮮人やシナ人が用いている厚い皮靴の使用を知らず、寒気と水分に弱い草鞋(わらじ)を履いていたので、その苦痛は言語に絶し、多くの者は足の親指が凍傷で落ち、そのいくつかは当時日本へもたらされている。食料不足と寒気による凍傷、落伍して死ぬものもあり、命からがら漢城に逃げ帰った者も、別人のようにやつれ果てていた。負傷者、病人は捨てていかれた。ある者は田の中を這いまわったり、口を指して食物を求めたりした。(『懲毖録(ちょうひろく)』)力なくして身もつかれ、親を討たるる人もあり。兄を討たるる者もあり。・・・手足は雪にやけはれて、着物はよろいの下計(ばかり)、さも美敷(うつくしき)人なども、山田のかかしと衰えて、あらぬ人かとも見も分かず。(『吉野甚五左衛門覚書』)小西軍は雪と氷の朝鮮の山野を、惨憺たる辛苦をなめて漢城に逃げ帰ったのである。一方、さらに北方の威鏡道にあった清正軍も厳しい寒気に苦しめられ、義兵の蜂起の盗伐に奔走する状況に追いこまれていた。
2023.10.07
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2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。室内には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の海戦で使用された双方の軍船模型が展示されていました。日本軍の安宅船(あたけぶね)、朝鮮の亀甲船(きっこうせん)を紹介します。↓ (船首側)画面左は日本軍の安宅船。右は朝鮮の亀甲船。 (船尾側)ーーーーーーーーーーー【日本水軍の安宅船(あたけぶね)】文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)当時、日本水軍の最強軍船である。攻撃力・防御力などの面で他の軍船よりすぐれ、近代の戦艦に相当する。この模型は「名護屋城図屏風」に描かれた安宅船などをもとに復元・制作したもので、総矢倉形式の船体に二層の屋型を持つ。○模型縮尺 1/10○船の全長 38.0m○船の幅 11.7m○監修 石井謙治(日本海事史学会会長)↓ 「名護屋城図屏風」に描かれた安宅船。↓ 安宅船の模型展示。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【朝鮮水軍の亀船(コブクソン)(亀甲船:きっこうせん)】文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)当時、朝鮮水軍が誇る戦艦で、李舜臣(いすんしん)将軍が創作したと言われている。日本との海戦で活躍し、朝鮮水軍を勝利へと導いた。この模型は「李忠武公全書」の亀船などをもとに復元、制作したもので、船の覆板を亀の背中のように装甲し、船内には天字銃筒(てんじじゅうとう)などの大砲を備える。○模型縮尺 1/10○船の全長 36.0m○船の幅 10.6m○監修 金在瑾(大韓民国学術院会員)↓ 亀船(亀甲船)の絵図。↓ 亀甲船の模型。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく 2 韓のくに紀行/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫P48~50で、日本海軍と李舜臣率いる朝鮮水軍の戦いが記されているので紹介します。李舜臣は良く知られているように、豊臣秀吉の朝鮮ノ役、朝鮮側でいう壬辰倭乱に、朝鮮軍をひきいて驚異的な活動をし、数度にわたって日本の水軍を撃破し、物理的には八割方の制海権を確立して、全般の戦局に重大な影響をあたえた人物である。「倭、本(もと)水戦に慣れず」と、明の『両朝平攘記』にあるように、日本人は古来水戦が不得意で、室町期の倭寇なども海上戦がにが手だったことは被害国の明でも常識になっていた。ただ陸上へあがると、その強さは明や朝鮮側の手に負えなかった。朝鮮ノ役における豊臣軍も同様であった。その朝鮮側における水戦の功は、ことごとく李舜臣に帰せられるべきもので、かれの足をひっぱろうとした大官はいるにせよ、かれの統率上の協力者や戦術上の協力者はだれもいなかった。当初、朝鮮の水軍はじつに弱かった。このため慶尚右水使元均という将は倭と戦うには李舜臣の出馬を乞うしかないとおもい、数度使いを出したが、李舜臣はかんがえこむばかりで返事をしなかった。このあたりが当時の官界のむずかしいところで、うかつに立ちあがればあとでどういう罪科をもって陥れられるかわからない。ついに立ちあがり、戦隊をひきいてさまざまに作戦し、藤堂高虎の水軍を覆滅した。李舜臣の文章の一端をかかげると、日本軍の軍装を描写していうくだりに、「およそ倭人、紅甲鉄甲、各色の鉄頭、口角の鬛(りょう:ひげ)縦横なり。鉄広、大金冠、金羽・・・などのごときにいたりては、奇形異状、侈(し)を極め、奢(しゃ)を極め、鬼のごとく獣のごとく、これを見る者、神を驚かさざる者なし」と、日本の織豊時代の具足のぜいたくさとその形状の異様さにふれている。この藤堂高虎の水軍をやぶったのが、玉浦の海戦である。ひきつづき釜山付近の唐浦の海戦でも大いにやぶったが、この両度とも李舜臣は銃弾にあたって軽傷をうけているところからみても、みずから先頭に立って指揮したのであろう。かれの戦況報告書である注進状をみても、明の将の常套の手である戦果の誇大報告というものはあまりない。さらに閑山洋の海戦をたたかって勝ったときの注進状も、日本側の記録とへだたりがない。そのあと、李舜臣はべつに功を賞せられることなく、牢に入れられてしまう。まことに李朝の官界というのは苛烈で反目嫉視が多く、やることがじつにめめしい。中国史には大功を樹てた者が図に乗ってあとで害をなしたといういくつかの例があるが、しかし李舜臣はそういう人柄ではなかった。再度の役(日本でいう慶長の役)のときには李舜臣は牢にいた。朝鮮の水軍がまたたくうちに惨敗した時、李舜臣はふたたび牢から出されて戦わされるのである。当時、朝鮮では中国のことを、「天朝」と、敬称していた。天朝からも大規模な水軍が応援にきていて、その提督は陳璘(ちんりん)という凶暴な人物だったが、李舜臣はこの男と対立せず、この男の協力を得るために、「戦功はみなあなたの名前にしますから、指揮は私にゆだねてほしい」とたのんだ。こういうあたり、李舜臣の謙虚さと政治手腕というのは尋常なものではない。陳璘もすでに李舜臣の腕を知っていたので、この取引をよろこび、自分の明艦隊をも李舜臣の指揮下にゆだねた。これによって李舜臣は露梁津の海戦をたたかい、大いに日本水軍をやぶった。この海戦中、李舜臣は銃弾によって右わきを射ぬかれ、戦死した。
2023.10.06
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2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った文永・弘安の役に関する史料が展示されており、じっくり見る事ができました。書状と唐織りは目を引きましたので、一部を紹介します。ーーーーーーーーーーーー文禄元年【1592)4月、豊臣秀吉は諸大名に命じて朝鮮への侵略を開始した。しかし、李舜臣将軍の率いる朝鮮水軍や義兵として蜂起した民衆がこれに反撃を加え、来援した明軍とともに日本軍を南海岸まで撃退した。慶長2年(1597)2月、講和交渉が決裂し秀吉は再度侵略を命じたが、この時も日本軍は敗退を重ね、翌年秋に撤退した。7年間にわたる戦禍は、朝鮮半島全域に及び大きな被害を与えた。ーーーーーーーーーーーー↓ 豊臣秀吉朱印状 天正20(1592)年4月22日付 本館蔵文禄の役開戦直後に発された豊臣秀吉の書状。紙が切断されており宛所は不明。内容は、虎皮2枚の礼とともに、名護屋城での普請が完了したことを聞いて褒めているもの。虎皮を送り、名護屋城の築城にも関わった宛所の人物は果たして誰か。断定は難しいが、日付や内容から第3軍の大友吉統や黒田長政、もしくは第4軍の島津義弘・毛利吉成などが該当する可能性がある。なお、この書状を発した時点で秀吉はまだ名島城(福岡市東区)にあり、名護屋到着は3日後の4月25日であった。↓【意訳】虎皮2枚が私のもとに届いた。うれしく思う。名護屋の普請も終え、対馬に渡海したとのこと、もっともなことである。なお、詳しくは増田右衛門尉(増田長盛)が伝える。卯月22日(秀吉朱印)ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 黒田家譜(くろだかふ) 江戸時代(成立:17世紀後半~18世紀初頭)本館蔵古文書や口伝をもとに、福岡藩主・黒田家の基礎を築いた藩祖・孝高(官兵衛)、初代藩主・長政の事績を叙述する。三代藩主・光之の命で藩儒・貝原益軒が編纂し延宝6(1678)年に上呈された(その後3度の校訂が行われた)。「黒田家普」中では、文禄・慶長の役についても大きく紙幅が割かれており、朝鮮国や中国の歴史書なども利用しながら主君や家臣の奮闘が詳細に描かれる。名護屋城については、孝高(官兵衛)が縄張り(全体設計)を、長政が「総奉行」を担当、天正19(1591)年10月から初めて翌年2年に終えたと記している。なお、本史料は江戸時代の写本である。↓ (意訳)(秀吉が名護屋城の)縄張りを孝高にお命じになり、孝高が地割りを定めた。総奉行は長政にお命じになり、7(天正19年)10月から斧初めが行われた。翌年2月に営作は完了した。ーーーーーーーーーー↓ 直茂公譜(なおしげこうふ) 江戸時代(成立:18世紀前半)本館蔵佐賀県の藩祖・鍋島直茂の事績を編纂したもの。文禄・慶長の役についても大きく紙幅が割かれており、威鏡道侵攻や蔚山城攻防戦などの記述も詳しい。名護屋城の築城については、蓮池城(佐賀県蓮池町)の天守を献上したことや大手口の櫓(やぐら)を担当したことが記されている。その真偽のほどはさだかではないが、名護屋城の築城にあたっては、大名たちが領国の建物を再利用して短期間に仕上げたことが当時の記録にもみえる(フロイス『日本史』)。ーーーーーーーー↓ 加藤清正あて豊臣秀吉朱印状 天正20(1592)年5月16日付 本館蔵文禄の役開戦(4/13)から次々と朝鮮軍を破った日本軍は、わずか20日後の5月初旬に漢城(現ソウル)を陥落させた。すでに国王(宣祖)は明国の支援を求めて北方の平安道へ脱出していた。本史料は、その知らせを名護屋城で受けた豊臣秀吉が、漢城にいる加藤清正に宛てた書状である。主な内容は、朝鮮国王を捜索すること、小西行長と相談しながら統治を進めること、逃亡した住民は居住地に戻すこと、秀吉が滞在するための「御座所」を構築すること、などである。後半部には、秀吉も船が揃い次第渡海する予定であることが見えるが、6月頃から水軍の劣勢が伝えられる状況となり、渡海は延期された。ーーーーーーーーーーーーーー平壌(ピョンヤン)城攻防図 朝鮮時代 大韓民国国立中央博物館 原蔵文禄2年(1593)1月の平壌城の戦いの模様を描いたもの。城内の日本軍を、李如松の率いる明・朝鮮軍が盛んに攻撃している。この戦いで敗北した小西行長らは漢城(現:ソウル)に引き揚げたが、その後講和への動きが急速に進むことになった。↓ 平壌(ピョンヤン)城攻防図 朝鮮時代 大韓民国国立中央博物館 原蔵ーーーーーーーーーーー↓ 北政所あて豊臣秀吉自筆書状(複製)文禄2(1593)年5月22日付 本館蔵・原資料は佐賀県重要文化財文禄の役の開戦から1年後、名護屋に在陣中の豊臣秀吉が大阪にいる正室「おね」(北政所)に宛てて送った自筆の書状。明国との講和交渉の過程で使節団と対面すること、明国が条件を受け入れれば戦さを収める予定であることなど、戦況の報告を行っている。また、追而書(おってがき:追伸)には、「二の丸殿」(淀殿)が懐妊した知らせに対して「めでたい」と述べている。本史料を含め、名護屋から秀吉が「おね」にあてた書状は、現在までに12通確認されている。いずれも仮名を多用した丁寧な筆づかいで、”筆まめ”な秀吉の性格がうかがえる。↓ 【意訳】①本文大明国より詫び事のために勅使(明国皇帝の使者)が名護屋までやってきています。条数書(和平条件)を示したので、それに従うならば許し、開陣(もしくは凱陣)して引きあげるつもりです。朝鮮国で普請(日本軍の城の建設)などを命令しており、もう少し時間がかかりそうですが、7、8月には必ず会えますので、安心してください。②追而書(おってがき:追伸)この間より少し体調がよくなったので、最初にあなたに手紙を書きます。また、二の丸殿(後の淀殿)が懐妊したという知らせは、たいへんめでたいことです。私たちは子どもがほしいとは思っていなかったはずですので、そのつもりでいて欲しい。太閤(秀吉)の子は鶴松(2年前に死去した実子)だけであり、今度の子は二の丸だけの子として考えてもよいのではないか。5月22日 太閤(秀吉) おねへーーーーーーーーーー↓ 慶長の役(丁酉再乱)あくまでも明の服従を要求する秀吉と、秀吉を日本国王に封じるという明側の主張の相違により和平交渉は決裂した。慶長2年(1597)2月、秀吉は再侵略を命じ、慶長の役(丁酉再乱)が始まった。その目的は文禄の役に参陣した武将への恩賞地として朝鮮半島南4道を獲得することにあったといわれる。↓ 戦争の経過約14万の日本軍は朝鮮半島南部で戦争を再開したが朝鮮・明軍の攻撃や兵糧不足などにより敗退した。慶長3年(1598)8月、秀吉の死を契機として日本軍の将兵は撤退し、前後7年間にわたる戦争は終結する。ーーーーーーーーーーー↓ 加藤清正条書案 16世紀末 本館蔵朝鮮半島に在陣している加藤清正が、日本国内の家臣に宛てた指令書。「きんさう薬」(傷薬)、名護屋にある馬具、「よき酒」「かつお」「よろず肴」などを送るように求めているほか、鉄砲については”出来次第に50丁でも30丁でも送るように”と厳命している。簡単なメモ書きではあるが、領国から頻繁に物資を運んでいたことをはじめ、名護屋がその中継地として機能していたことなどが分かる貴重な史料である。なお、清正は他の書状でもしきりに鉄砲を求めており、その重要性が高かったことがうかがわれる。ーーーーーーーーーーーーー↓ 鍋島直茂(なべしまなおしげ)あて豊臣秀吉朱印状 文禄3(1593)年12月20日付 本館蔵金海(キメ:慶尚南道)に在陣を続ける鍋島直茂(佐賀城主)にあて、豊臣秀吉が発した書状。前年の8月から明国との講和交渉が開始されたことを受けて、すでに大規模な戦闘は行われていなかったが、西日本の大名はこの時点でも釜山周辺での在陣を続けていた。内容は、日本軍が在陣する城(倭城)に備蓄されている兵糧米入替えを速やかに実施したことを褒め、長期に及んでいる在陣へのねぎらいの言葉が続く。そして、将兵のうち半分ないし3分の1を交替で帰国させることを認め、再来年には関白・豊臣秀次も名護屋城まで赴く予定であると述べている(ただし、秀次は文禄4年7月に自刀)。その後、3年余におよぶ在陣を経たのち、慶長2年(1597)年夏頃から2度目の侵攻が本格的に開始される。↓ Q)どうして文章が上下でさかさまなの?A)半分に折った紙を裏返して書いたから。① 紙を半分に折り、書き始める。② 紙を横に返して続きを書く。文末に宛名を書き、朱印を押す。ーーーーーーーーーーーーー↓ 早川長政等連署状(鼻請取状) 慶長2(1597)年 本館蔵慶長2(1597)年8月、毛利秀元・加藤清正・鍋島勝茂らの軍勢が慶尚道の黄石山城を攻略した。本史料は、その際に鍋島勝茂軍が得た鼻の数を目付衆(秀吉の代役としての監視役)が確認した事を証する文書である。これは膨大な首級に代わり鼻を戦功の証としたことによるもので、この「成果」が日本国内に留まる秀吉へと報告されていたと考えられる。現在、同様の史料が鍋島家や吉川家、黒田家などにも残存しており鼻の合計は3万に上る。なお、近年の研究によって、これらの発給時期が同年8月~9月に集中することが指摘されており、その背景についても検討が進められている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 朝鮮国礼曹俘虜刷還諭告文(複製) 1617年 本館蔵(原史料も同)江戸時代初期に来日した回答兼刷還使(朝鮮通信使)が、持参した文書。文禄・慶長の役において捕らえられ、日本国内に居住している者に対して帰国を呼びかける内容で、朝鮮国の礼曹(外交・祭祀。科挙等を担当した機関)が発している。前回(丁未年・1607年)の使節に従って帰国した者には、罪を許し、夫役を免除するなどの特典を与えたことを示し、早々に使節のもとに出頭するよう勧めている。文禄・慶長の役において捕らえられた人々の数は数万人ともいわれる。江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮国との国交回復を進めたが、その過程で数度にわたってその帰国もはかられた。しかし、使節の来日自体が10年程度間隔が空いたこともあり、次第に帰国する者の数は減少し、約6~7千人にとどまったとみられている。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 肥前名護屋城の内部は、狩野派などの画家による障壁画で装飾され、絢爛豪華なものであった。朝鮮半島では悲惨な戦いが行われていたが、名護屋城や各大名の陣屋では能・茶の湯・連歌が盛んに催された。城下町は軍事都市・国際都市として賑わい、「肥前名護屋城図屏風」には、多くの品々を商う店、往来する人々、ポルトガル人や明の使節も見ることができる。ーーーーーーーーーー↓ 能装束「唐織」 現代/本館蔵名護屋城在陣中、豊臣秀吉は能に没頭した。畿内から能役者を呼び寄せたほか、自らも大阪から道具を取り寄せて練習に励み、正室である「おね」に宛てた手紙では、早くも「能をい十番覚えた」と述べている。この衣装は、秀吉も名護屋で舞った「杜若(かきつばた)」という演目で使用される現代の衣装である。また、秀吉が熱中したことによって、在陣した大名衆も能や狂言を頻繁に開催したことが記録に残っており、堀秀治陣からは、実際に能舞台の遺構も確認されている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 菊桐文蒔絵風呂道具(複製) 桃山時代/佐賀県立博物館原蔵(原資料は佐賀県重要文化財)小城藩・鍋島家に伝来した風呂道具。菊文と桐文の蒔絵が施されており、豊臣秀吉が鍋島直茂の屋敷を訪問した際に調えられたと伝わる。当時、屋敷に浴室を持てる者は少なく、来客に風呂を準備することも、茶事や酒宴等とともに重要なもてなしの一つであったことだろう。なお、本資料は、制作当時の様子を考慮しながら復元した複製資料である。
2023.10.05
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2018年2月10日朝、佐賀県立名護屋城博物館を見学しました。肥前名護屋城図屏風(複製)が展示されており、次のように記載があります。桃山時代~江戸時代前期本館蔵(佐賀県重要文化財)名護屋城と城下町の様子を克明に描いた絵画で、秀吉の御用絵師として名護屋城内の数々の障壁画を手がけた狩野光信の作と推定される。画面中央に大都市「名護屋」の賑わいを、その上半には名護屋城と諸大名の陣所を描き、下半には豊臣軍の旗艦「安宅船(あたけぶね)」が浮かぶ名護屋浦が広がる。画面左端(5.6扇)中央付近の城下町の通りに明国使節団の行列が描かれており、文禄2(1593)年5月にこの地で行われた講和交渉をモチーフとしたものと考えられる。桃山時代の城と城下町の詳細を描いた絵画は極めて貴重であり、数例しか残っていない近代初頭の「都市図」として、研究価値の大きさが注目されている。ーーーーーーー佐賀県立名護屋城で購入した「『肥前名護屋城図屏風』の世界」には、2つの「肥前名護屋城図屏風」が紹介されています。 一部を記載します。「肥前名護屋城屏風」は、16世紀に日本国内を統一した豊臣秀吉が「文禄・慶長の役」と呼ばれる大陸・朝鮮国への侵攻を行った際に、国内拠点となった「肥前名護屋城」を描いたものです。現在、一般に公表されている当時の肥前名護屋を描いた絵画資料としては、同系統の構図で描かれている名護屋城博物館蔵本(「名博本)」と群馬県個人蔵本(「群馬本」)の2点が知られています。~屏風絵は、名護屋城の北北東約2㎞にある加部島天童岳(標高112m)後方上空からの眺望として描かれ、名護屋城を頂点に末広がりに展開するその城下域(武家屋敷・城下町等)や名護屋城周辺域の諸大名陣屋等の広大な範囲が鳥瞰的構図で緻密に描かれ、それらは現況や発掘調査等との整合性も高く、往時の名護屋の繁栄を知る貴重な資料となっています。↓ 肥前名護屋城屏風桃山時代 伝 狩野光信筆佐賀県立博物館 原蔵文禄2年(1593)夏頃の、肥前名護屋城と城下町の景観や風俗を描いた屏風。5層の天守を持つ名護屋城を中心として、周辺にある大名の陣屋で町屋、湾に浮かぶ安宅船(あたけぶね)、明の使節の行列などを詳細に描写している。↓ 肥前名護屋城屏風(名博本)。↓ 【5・6扇】 名護屋浦に安宅船が見える。↓【5・6扇】上から。外津浦(ほかわづうら)、石屋町、女郎町、筑前町、塩屋町、大谷吉継(おおたによしつぐ)陣、明使の行列、蔵地、寺沢広高(てらさわひろたか)陣、材木町、名護屋浦、徳川家康別陣、地獄浜、加藤嘉明(かとうよしあき)陣、呼子口。↓ 【3・4扇】↓ 【3・4扇】上から串崎、串浦、豊臣秀保(とよとみひでやす)陣、名護屋城、天守、本丸、遊撃丸、三ノ丸、東出丸、水手曲輪(みずのてくるわ)、上山里丸(かみやまさとまる)、下山里丸(しもやまさとまる)、台所丸、厩(うまや)、鯱鉾池(しゃちほこいけ)、兵庫屋町、徳川家康陣、茜屋町、竹ノ丸、古里町、弁天島、天童岳、加部島。↓ 【1・2扇】↓ 【1・2扇】上から五島列島、平戸島、大戸浦(おーとうら)、黒瀬、上杉影勝(うえすぎかげかつ)陣、厩(うまや)、ムギハラ町、波戸浦(はどうら)、船瀬。↓ 名護屋城。↓ 天守閣。↓ 名護屋城と陣屋敷の地図。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 佐賀県立名護屋城で購入した「『肥前名護屋城図屏風』の世界」には、2つの「肥前名護屋城図屏風」が紹介されている。名博本と群馬本。↓ ① 名護屋城博物館所蔵本(名博本)名博本は、出所・伝来等の詳細はよくわかっていませんが、六曲一隻の屏風として仕立てられる以前は(昭和40年:1965年)前後、美濃紙を繋ぎ合わせた大きな画面で竪八つ、横三つに折りたたんであったようです。その後、屏風に仕立てられて昭和43年(1968年)6月に東京古典籍會主催の「古典籍展観大入札會」に出品され全国的に大きな話題となり一般に知られるようになりました。昭和45年(1970年)に佐賀県立博物館の所蔵となり、昭和54年(1979年)の佐賀県重要文化財としての指定を経て、平成11年(1999年)に管理換によって佐賀県立名護屋城博物館(平成5年:1993年)開館の所蔵となり現在に至っています。↓ ② 群馬県個人所蔵本(群馬本)群馬本は、群馬県佐波郡(現在の伊勢崎市)の旧家に、「唐津城図(仮称)」と共に六曲一双の屏風として所蔵されていました。所蔵者の話では、明治初期に旧藩主(伊勢崎藩)の酒井家からこの一双の屏風を購入したものと伝えられています。屏風絵の名称についての伝来はありませんが、その当時から一隻が肥前名護屋城の屏風絵であることは知られていたようです。この一双の屏風は、平成17年(2005年)に公表されて一般に知られるようになり、現在は名護屋城博物館の寄託資料となっています。制作年代については、建物・人物等の描写表現・技法・色彩等から江戸時代後期(18世紀中頃~19世紀前半)の制作で模本の類と推定されています。製作者についてははっきりとしていませんが、描写技法等から狩野派統計の絵師によって制作された可能性が指摘されています。ーーーーーーーーーーーーー↓ 佐賀県立名護屋博物館。↓ 蒙古襲来13世紀初め中国大陸の北部に興った蒙古は、周辺諸国への侵攻を繰り返しながらヨーロッパ・アジアにまたがる大帝国を建設した。その過程で高麗(こうらい)も、6度に及ぶ侵略を受けた。高麗は長期にわたって激しく抵抗したが、ついに蒙古の圧力に屈し、講和した。その後蒙古は高麗を前線基地として、2度の日本遠征を行った。↓ 文永・弘安の役文永11年(1274)と弘安4年(1281)に、蒙古は高麗を従えて九州北部を襲った。蒙古の服属要求を日本が拒絶したためである。暴風雨により侵攻はいずれも失敗に終わったが、蒙古襲来(元寇:げんこう)の政治的・社会的影響は大きく、鎌倉幕府が解体していく遠因となった。↓ 高麗・日本への蒙古襲来。↓ 通信符朝鮮時代(1453)毛利報公会 原蔵朝鮮王国が大内氏に与えた通行証。印面は「通信符」の文字の右半分で、左符は朝鮮に保管され勘合を行ったと思われる。側面に「朝鮮国賜大内殿通信右符〉、背面に「景泰四年七月日造給」の銘がある。↓ 図書朝鮮時代(1520)岸朝子氏 原蔵「図書」は朝鮮政府が日本人に通行証として与えた銅印。印文は「吉見」で、通行者の名前を刻している。受図書人は、朝鮮へ派遣する使者に持たせる書簡に図書を捺して自己の遣使であることの証明とした。
2023.10.04
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