全2435件 (2435件中 251-300件目)
< 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 ... 49 >
2018年2月10日朝、佐賀県・呼子町から歩いて名護屋大橋を越え、名護屋城址にある佐賀県立名護屋城博物館に行きました。「呼子観光マップ」と、肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会の「陣屋めぐりマップ」により、歩いたルートを紹介します。佐賀県立名護屋城博物館で購入した資料『「肥前名護屋城図屏風」の世界』を見ると、群馬県個人所蔵本の屏風には、「船橋・制札場」として、入江(名護屋浦)に船22隻が並べられ、その上に橋が置いてあり、海を渡れるようになっています。屏風図の位置を見ると、船橋があった場所は、今の「名護屋大橋」がある場所ではないかと思います。↓ 呼子観光マップ。 呼子から名護屋城博物館まで、雨の中を歩いた。(青い線のルート)↓ 名護屋大橋の位置。 当時はこの橋の所に、船橋が掛けられていたと思う。途中に伊達政宗陣跡、黒田長政陣跡の表記がある。ーーーーーーーーーーー↓ 肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会の「陣屋めぐりマップ」。大名の陣の場所が分かる。 赤い点線は、名護屋城までのルート。↓ 名護屋城 陣跡めぐりマップ。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 呼子から名護屋城跡まで、雨の中を歩いた。↓ 伊達政宗陣跡の標柱。↓ 名護屋大橋。 城があった時は、この下に船橋があったのではないかと思う。佐賀県立名護屋城博物館で購入した資料『「肥前名護屋城図屏風」の世界』を見ると、群馬県個人所蔵本の屏風には、「船橋・制札場」として、入江(名護屋浦)に船22隻が並べられ、その上に橋が置いてあり、海を渡れるようになっている。屏風図の位置を見ると、船橋があった場所は、今の「名護屋大橋」がある場所ではないかと思う。↓ 名護屋大橋から北側を臨む。↓ 寺沢広高の陣屋敷があった場所。↓ 奥は徳川家康の陣屋敷があった場所。↓ 正面は加部島。↓ 正面は加部島。 名護屋大橋から見た名護屋浦。↓ 加部島の天童岳。↓ 加部島に掛かる呼子大橋。↓ 呼子大橋の手前部分は、加藤嘉明の陣屋敷があった場所。↓ 加藤嘉明の陣屋敷があった場所。↓ 徳川家康の別陣があった場所。↓ 伊達政宗の陣屋敷があった場所。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 名護屋大橋から南側を臨む。左は黒田長政の陣屋敷、左と中央は真田真幸の陣屋敷があった場所。中央の奥の方は、結城秀康や石田三成の陣屋敷があった。↓ 名護屋大橋を渡った。↓ 道の駅 桃山天下市。↓ 名護屋城址に着く。↓ 名護屋城博物館に進む。↓ 大手口前井戸。↓ 名護屋城跡周辺案内図。↓ 名護屋城博物館。
2023.10.03
コメント(0)
2018年2月10日、肥前名護屋城を見に行きました。前回のブログで、肥前名護屋城や文禄・慶長の役に関する手持ちの資料を紹介しましたが、今回はその続きで、私の本棚にある司馬遼太郎さんの本から紹介します。司馬遼太郎さんの書かれる文章は、とても読みやすく、情景がありありと浮かんできます。色々な話題を紹介されており、勉強になります。ーーーーーーーーーーーー↓ 関ケ原 上巻/司馬遼太郎/新潮社p105~106豊臣の天下が安定し、秀吉がついに外征をはじめ、家康をともなって、朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に滞陣していたころ、退屈のあまり、仮装園遊会をもよおした。瓜畑の上に仮装の町をつくり、旅籠、茶店なども建て、諸侯にも仮装をさせた。こういう遊びをする点では、秀吉は天才的な企画者であった。会津若松92万石の蒲生少将氏郷(がもううじさと)が担い茶売り、旅の老僧が織田有楽斎(おだうらくさい)、五奉行のひとり前田玄以(まえだげんい)が、長身肥満のいかにも憎さげな尼姿、有馬則頼(ありまのりより)が「有馬の池坊」の宿のおやじ、丹波中納言豊臣秀保(とよとみひでやす)が漬けもの売り、旅籠屋のおやじが、秀吉近習の蒔田権佐(まきたごんのすけ)、その旅籠でさわがしく旅人をよびこんでいるのが、美人できこえた奥女中の藤壺(ふじつぼ)。~秀吉自身が、怪しげな柿色の帷子(かたびら)に黒い頭巾(ずきん)をかぶり、菅笠(すげがさ)を背中にかけ、藁(わら)の腰蓑(こしみの)を引きまわして、きたない瓜売りのおやじになっているのである。~仮装の町の辻にでっぷりとふとったあじか(土運びのザルに似たもの)売りがあらわれたのである。家康であった。いかにも不器用に荷をにない、荷をふりふり、「あじか買わし、あじか買わし」と呼ばってきた。内心、おそらく不機嫌であったろうが、秀吉の機嫌を損じてはなるまいとおもったのであろう。必死に売り声をはりあげてくる。これにはどっと沸き、ーそっくりのあじか売りじゃの。と目ひき袖引きする者が多かった。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 功名が辻(三)/司馬遼太郎/文藝春秋/文春文庫。p54文禄3年、秀吉が朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に在陣していたときのことだ。6月28日、というから、盛夏のころである。暑くもあり、長陣で退屈でもある。名護屋在陣の将士は、ようやく士気がだれはじめていた。秀吉は、そういう人情はいちやはく察する男である。かといってそれをひきしめるために、むずかしい訓令などは、かれは出さない。「なにか、遊びの趣向はないか」と秀吉はそんなことに頭をつかった。「わっと場内が割れかえるほど笑うような趣向が」と、かれはお伽衆や、奥むきの女官などにきいた。みな、ほどほどなことをいった。どの案をみても秀吉は、「いかん、世に在ったことじゃ」といった。すでに先例のあったような催しはやりたくない。「奇抜な!」といって人が手を打っておどりあがるような趣向をかれは望んでいる。ついにかれは、思いついた。仮装園遊会をすることであった。武将の一人々々に意外な変装をさせ、たがいに相手を笑いながら一日をすごそうというのである。そこで、そのための奉行を臨時に置き、いっさいを準備させた。これが、日本における仮装園遊会のはじめで、その着想が奇抜なだけではない。仮装して登場する人物も、日本史上もっともけんらんたるものであった。徳川家康以下の戦国生き残りの英雄豪傑が、おもいおもいに仮装して出場するのである。ーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく2 韓(から)のくに紀行/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p118~119あらかじめ慕夏堂について語っておかねばならない。『慕夏堂記』(正確には『慕夏堂文集』)という朝鮮の古い漢文がある。かつてそれを手に入れ、なんとなくながめているうちに、おどろくべきことが書かれていることを知った。豊臣秀吉の朝鮮の役(朝鮮にあっては壬辰の倭乱)のとき、兵3千人をひきいる日本の武将が朝鮮側に降伏したというのである。かれはのち武功をかさねて王寵をこうむり、武官ながら二品という大臣相当の官位にまでのぼり、土地をたまわってその族党や家臣が一村をなし、その子孫が無事太平の世をたのしんでいるという意味のことが書かれているのである。p120『慕夏堂記』によれば、なにぶん1将のもと3千人という大量投降であり、ゆゆしい事件であるといっていい。主人公の名は沙也加という。沙也加とは日本名を朝鮮漢字に音だけうつしたものだが、サヤカなどという日本名はちょっとありそうにない。サヤカ。朝鮮音でいうとサイェカ。サエカに似る名なら、たとえばサエモンと考えるとどうだろう。左衛門。可は筆記する場合に門とよくまちがう。はじめはおそらく「沙也門(さえもん)」とでも書かれていたにちがいない。まあそれはどちらでもいい。ーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく11 肥前の諸街道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p48 松浦半島に、夜が来てしまった。外津(ほかわず)からいそぎ東へひきかえした。途中、名護屋の浦を通った。浦のはるかな高所に、橋がかかっている。浦を眼下に見下ろしつつ通りすぎるのである。右手が、山であった。車の前照灯が、右側の崖を照らした。「堀久太郎陣跡」という看板が出ていた。こういう海辺で”名人久太郎”の名前に出くわそうとは、思わなかった。しかし考えてみると、当然ではあった。久太郎、名は秀政、官名はいろいろある。美濃の人で、もともとは斉藤道三の家人であった。少年のころに斉藤氏が没落し、織田信長に近待して寵愛された。さらには秀吉に仕えた。秀吉が朝鮮侵攻の大本営をこの松浦半島の先端の名護屋に置き、この道路の右側の山に築城し、非出陣の諸大名を曲輪(くるわ)々々に住まわせた。堀久太郎も、そういう一類のひとりである。「陣所跡」があっても、ふしぎではない。ーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく13 壱岐・対馬の道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p94~96さて、朝鮮通信使のことである。徳川日本がこういう国使をかの国からよびつづけたというのは、この閉鎖的な政権にとっては異例であった。鎖国時代の外界との通風孔は、長崎という針の穴のような場所で中国、オランダとのみほそぼそと制限貿易をしたほかには、この朝鮮通信使という形態の風通しがあったのみである。家康の在世中の慶長12年(1607)に徳川家の天下をよろこぶ和平的な使節がやってきて、幕府はこれを手あつくもてなし、これがその後のしきたりになった。徳川期、この来聘(らいへい)は前後12回におよぶ。李氏朝鮮は、家康と徳川幕府に好意的であった。当然なことで、前代の豊臣政権が朝鮮に対して悪すぎた。何の名分もなく朝鮮に出兵し、前後7年間、朝鮮と朝鮮人にあたえたうらみと惨禍は深刻という程度のことばでは言いあらわせない。その秀吉が死に、家康が豊臣家の筆頭大老として在朝鮮の諸大名をひきあげさせ、ほどなく家康の天下になった。朝鮮にとっては豊臣政権への報復を家康がやってくれたようなものである。家康は幸いにも朝鮮出兵に加わっておらず、一兵も送っていなかった。秀吉が日本列島の西半分の諸大名を動員し、半分の兵を控置したからである。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく15 北海道の諸道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p71天正18年(1590)10月末、現在の北海道の道南地方の要地に割拠していた松前(当時、蛎崎:かきざき)慶広(よしひろ)が、冬近い津軽海峡をわたって(前田)利家に会いにきたのである。~慶広は各地を転々して他の諸将にも会った。目的は秀吉へのとりなしをよろしくと懇願することであったが、どの将も慶広の人体をみて好感を持ったにちがいない。p72~73慶広は、このまま二カ月近い日数をかけて京へのぼった。従者には何人かアイヌがいたといわれる。秀吉はよろこび、かれを聚楽第(じゅらくだい)で謁見した。このとき秀吉は奏請して慶広のために従五位下民部大輔(じゅうごいのげみんぶだゆう)をもらってやっている。p74~75慶広が京から松前へ帰ったこの年(天正19年・1591)9月、秀吉は朝鮮への侵略の軍令を諸将にくだすのである。幸い慶広には何の義務も命じられなかった。しかしかれは陣中見舞いのつもりか、すかさず上方(かみがた)へのぼるのである。大阪に着くと秀吉は九州の名護屋城に移ったという。慶広はさらに九州へゆく。いたいたしいほどである。文禄2年(1593)正月2日、慶広は肥前名護屋城についた。北海道人が九州へ行ったのは、記録としては慶広とその従者が最初である。秀吉は驚いたであろう。慶広が到着して3日後に志摩守に任じさせている。秀吉は朱印を捺した公式書類も与えた。松前において、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し、地下人(じげにん)に同じく、非分の儀申かけるべからず~つまりは、松前氏をアイヌの保護者であるとし、あわせてアイヌに非分を働く外来者に対する司法権も与えた。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p186~187藤原惺窩(ふじわらせいか)(1561~1619)は独立自尊のひとであった。師さえなく、独学でまなび、生涯、他人にも仕えなかった。さらに世の大名という者を軽侮(けいぶ)していた。かれらは暴力でのしあがっただけではないか、というのである。ただ、豊臣家の諸大名のあいだで、惺窩をまねいてはなしをきくことが、小さな流行になった。関白豊臣秀次にまねかれ、一度は応じたが、二度は応じなかった。このため危害を加えられそうになり、その難を避けて九州にくだり、朝鮮の役のために肥前名護屋城にいた豊臣秀吉の行営(こうえい)下に入った。名護屋滞在中、2,3の大名のために講義をした。そのなかに、家康もいた。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎 街道をゆく41 北のまほろば/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫p308余談ながら、蠣崎信純がこの蠣崎(下北半島)を落去してから136年経った文禄2年(1593)、信純から5代目の松前慶広(よしひろ)が、歴史の照明のなかに登場する。松前慶広は、豊臣秀吉のまえで平伏しているのである。ときに秀吉は、諸人の不安を押しきって朝鮮に対し無名の師をおこしつつあり、その指揮所を、九州北部の名護屋城に置いていた。松前にいる慶広は、本州北端の津軽藩などと同様、中央の情勢に敏感だった。慶広は、すでに天正16年(1588)、前田利家ら秀吉にちかい人達のとりなしを得て、秀吉に京の聚楽第(じゅらくだい)で拝謁していた。名護屋城での拝謁は、二度目になる。松前慶広は、すでに40半ばであった。秀吉は、大いによろこび、松前藩の北海道における交易の独占を許可したりした。そのとき、慶広は、あざやかな錦の胴着を羽織っていた。陪席した徳川家康が、「志摩守(しまのかみ)(慶広のこと)の錦、一向見馴れぬが」なんという錦か、と問うと、慶広はすかさず脱ぎ、家康に贈り、「蝦夷錦(えぞにしき)」と申します」といったことは、この『街道をゆく』のどこかでふれたような気がする。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 故郷忘じがたく候/司馬遼太郎/文藝春秋/文春文庫「16世紀末、朝鮮の役で、薩摩軍に日本へ拉致された、数十人の朝鮮の民があった。以来4百年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた、その子孫たちの痛哭の詩」ーーーーーーーーーーーーー↓ 司馬遼太郎の街道Ⅲ 愛した辺境/司馬遼太郎/週刊朝日編集部/週刊朝日/朝日文庫p239~252 沈壽官家の少年(上)、(下)沈壽官家の祖先は、豊臣秀吉の2度目朝鮮出兵(1597~98年)のため、故郷を奪われた人々のなかにいた。島津軍は全羅北道南原(ナムウォン)(朝鮮半島南部)で約80人の朝鮮人陶工をつかまえ、薩摩に連れて帰っている。14代は自分の先祖をユーモラスに、「よほど、運動神経が鈍かでしたろうな」と司馬さんに語っている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 播磨灘物語(四)/司馬遼太郎/講談社/講談社文庫p260~262秀吉が朝鮮へ出兵したとき、秀吉の羽柴時代からかれと戦野で生死をともにした武将の多くが渡海した。~如水の黒田家5千の兵も、長政にひきいられて従軍している。ただ如水は家督を長政にゆずっているために秀吉のもとにいた。文禄2年2月、如水は浅野長政とともに、秀吉の訓令をたずさえて在韓軍に連絡すべく渡海したことがある。このとき、如水は釜山にちかい東萊(とうらい)の本営で滞在した。そのころ、石田三成、増田長盛、大谷吉継といった文吏派の3人が、軍監として早くから朝鮮に滞在していたが、ある日、如水らと何事かを相談すべく東萊にやってきた。「ただいま石田治部少輔どのらがお見えでござります」という取次があったが、たまたま如水は浅野長政と碁を打っていた。「お待ちねがうように」と如水がいったがかれはなんとなく物憂かったのであろう。如水にとって、秀吉が老いて狂したかとしか思えぬようなこの朝鮮出兵そのものが物憂かった。戦況は思わしくないだけでなく、士卒の士気も衰え、前線から逃亡して北九州の沿岸に逃げかえる者も多い。秀吉の意図を体して正気で駆けまわっているのは石田三成ら文吏派の奉行たちぐらいのものであり、その連中が作戦のうちあわせにやってくるということ自体、如水にはわずらわしかったのであろう。如水は、忘れてしまった。碁をうちおわって気づいてみると、三成らは憤慨してひきあげたあとだという。このことが、三成の口から秀吉の耳に入った。あとで如水が前線から帰国し、伏見に登城して秀吉の謁を乞うたが、秀吉はゆるさなかった。(もはや、ここまでだ)と、如水は思ったであろう。秀吉の幕僚としてながく仕えてきたが、いまは三成らがその位置におり、如水は過去の人になった。かれは三成と正面から争うことを避け、秀吉に詫びを入れるというかたちで頭を剃った。如水、如水軒という隠居号を公的にも称するようになったのは、このときからである。ーーーーーーーーーーー↓ 新史太閤記(上)、(下)/司馬遼太郎/新潮社/新潮文庫豊臣秀吉が天下を取るまでの事が書かれているが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の前で物語が終わっている。司馬遼太郎さんはこの部分を書きたくなかったのではないかと思う。
2023.10.02
コメント(2)
2018年2月10日、肥前名護屋城を見に行きました。この城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵をするための前線基地として、天正19年(1591年)、肥前名護屋の地に城を築きました。わずか5カ月で築城されたと言われ、全国から集まった諸大名の陣屋が130以上も建てられました。当時の大阪城に次ぐ大規模な城で、人口20万人を越える城下町が出現したそうです。豊臣秀吉は1592年(文禄元年)、1597年(慶長2年)に朝鮮派兵を行い、文禄の役、慶長の役と呼ばれています。1598年に豊臣秀吉が病死し、兵は撤退となりました。歴史は好きで、学生時代から本をよく読んでいました。特に司馬遼太郎さんの本は大好きでした。私が肥前名護屋城を訪れた時も、司馬遼太郎さんの本を複数冊持っていきました。NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていると、豊臣秀吉の朝鮮出兵について放送されるとの事で、肥前名護屋城で撮った写真と、手元にある本を読み直しています。手元にある資料本を一部紹介します。(司馬遼太郎さんの本については、次回に紹介予定です)ーーーーーーーーーーーー詳説日本史 改訂版 2012年3月5日発行/石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦(ほか9名)/山川出版社。(長男が高校を卒業するときに、いらないと言ったので、私が資料としてもらった)。↓ P155 秀吉の対外政策と朝鮮侵略。1587(天正15)年、秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明へ出兵するための先導を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は肥前の名護屋に本陣をきずき、1592(文禄元)年、15万余りの大軍を朝鮮に派兵した(文禄の役)。釜山に上陸した日本軍は、鉄砲の威力などによってまもなく漢城(現、ソウル)・平壌(現、ピョンヤン)を占領したが、李舜臣のひきいる朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の抵抗、明の援軍などにより、しだいに戦局は不利になった。そのため現地の日本軍は休戦し、秀吉に明との講和を求めたが、秀吉が強硬な姿勢を取り続けたため交渉は決裂した。**1593(文禄2)年からはじまった和平交渉では、和平の実現を急ぐ現地の武将たちの判断で、明の降伏や朝鮮南部の割譲などを求めた秀吉の要求は明側に伝えられなかった。その結果、明は1596年に使者を派遣し、秀吉を「日本国王」に封じ、その朝貢を許すという態度をとったので、交渉は決裂した。↓P155 文禄・慶長の役要図。↓ p1561597(慶長2)年、秀吉はふたたび朝鮮に14万余りの兵をおくったが(慶長の役)、日本軍は最初から苦戦をしいられ、翌年秀吉が病死すると撤兵した。前後7年におよぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人を戦火にまき込み、多くの被害をあたえた。また、国内的には、ぼう大な戦費と兵力を無駄についやす結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。ーーーーーーーーーーーー新編 史料日本史/東京法令出版。(これも長男からもらった)↓ p204~205【秀吉の侵略計画】それから(以下のように)語った。予もすでに(最高の)地位に達し、日本全国を帰服せしめたうえは、もはや領国も金も銀もこれ以上獲得しようとは思わぬし、その他何ものも欲しくない。ただ予の名声と権勢を死後に伝えしめることを望むのみである。日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現したうえは、この(日本)国を弟の美濃殿(羽柴秀長)に譲り、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。それゆえその準備として大軍を渡海させるために(目下)2千隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめている。なお予として伴天連らに対して、十分に艤装した2隻の大型ナウ(ポルトガルの3本マストの帆船)を斡旋してもらいたい(と願う)他、援助を求めるつもりはない。『フロイス 日本史』↓ p206鼻の請取状ー秀吉の朝鮮侵略「昨今の首代鼻九捨(90)、慥か(たしか)に請取り申候。恐々謹言。八月廿一日(21日)」この史料は、鍋島家文書中の慶長の役の際の鼻の請取状の一部である。秀吉は、首の代わりに鼻を切って送ることを命じ、判明する限り吉川氏18,350、鍋島氏10,901に及んでいる。また、日本に連行された捕虜も2万から3万に及び、特に陶工の連行により有田焼や薩摩焼が始まった。朝鮮の建造物や文化財の破壊・略奪も著しく、朝鮮民族にとってこの侵略は「壬辰の悪夢」として深く心の傷となり残っていくのである。ーーーーーーーーーークロニック 世界全史/講談社/1994年11月15日第1刷発行。結婚するとき、妻に買ってもらった本。p4771592年6月4日、(朝鮮は)日本軍の来襲を迎えた。これが朝鮮で壬辰倭乱、日本で文禄の役とよばれる秀吉の朝鮮出兵の始まりである。~多数の鉄砲を装備し陸戦にまさる日本軍のまえに、朝鮮軍は敗退をかさね、開戦から20日ばかりで首都漢城(ソウル)は陥落、さらに北上をゆるして小西行長に平壤を奪われ、加藤清正には北東国境の豆満江近くまで進出され2王子が捕らえられた。北西国境の鴨緑江岸の義州まで落ちのびた(朝鮮王)宣祖は宗王国の明に援助を求め、朝鮮の国土は日明両軍の戦場と化していた。~ 1592年8月14日、釜山南西の閑山島の沖合で、李舜臣の率いる朝鮮艦隊が、豊臣秀吉の派遣した日本水軍を撃破し、制海権を奪回した。さる8月5日、秀吉が水軍に出撃命令を発したのに応じ、脇坂安治の船団60余隻が釜山の西の熊川を出港した。一方の李舜臣は、前日、朝鮮南西部の根拠地麗川を進発し、この日、釜山南西の巨済島と固城半島のあいだの水道で脇坂船団と遭遇、暗渠の多い閑山島沖に巧みに誘い出して39隻を撃破した。↓ 陥落寸前の東來城。釜山に上陸した小西行長率いる日本軍は、その北にある朝鮮南岸の守りのかなめ東來城を1日で陥落させた。銃をかついだ日本兵が多数とりかこみ、戦力の差は歴然としている。↓ 亀甲船を中心に鶴翼の陣をしく李舜臣の艦隊。上部を厚板で覆い、鋭い鉄剣を前面に植え付けた亀甲船は、船首から煙幕を吐き、舷側からは大砲を放った。帆走のほか、櫂でこぐこともできた。ーーーーーーーーーーー「肥前名護屋城図屏風」の世界/佐賀県立名護屋城博物館。2つの「肥前名護屋城図屏風」の詳しい紹介がなされている。①名護屋城博物館所蔵本「佐賀県重要文化財」6曲1隻 本紙157x350cm②群馬県個人所蔵本 6曲1双 本紙168x380cm。ーーーーーーーーーーーー↓ 佐賀県立名護屋城博物館 パンフレット↓ 名護屋城跡探訪マップ。ーーーーーーーーーーーーー↓ 肥前名護屋城/肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会↓ 陣跡めぐりマップ。ーーーーーーーーーーー↓ 呼子エリア観光マップ。↓ 伊達政宗陣跡、黒田長政陣跡の位置。ーーーーーーーーーーーー↓ 文禄・慶長の役 空虚なる御陣/上垣外憲一/講談社学術文庫この本を読むと、この戦いの経過がとても良くわかる。「秀吉の朝鮮出兵はなぜ行われ、何を残したのか。日朝双方の史料の精密な読み込みを通じて鮮やかに描き出される、戦いにいたる交渉過程と苛烈な戦闘、戦後処理の実状。そして、戦火と蛮行のはてに人々が見出した、友好の懸け橋・朱子学の可能性とは。近現代の日朝関係まで影を落とす「空虚」な戦争を、東アジア史の視座から問いなおす壮大な試み」ーーーーーーーーーーーーーー↓ 現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門/小林賢章訳/筑摩書房/ちくま学芸文庫。p226「朝鮮出兵と秀吉の死」文禄元年(1592)、高麗の戦といって、太閤は出陣し、名護屋(唐津市玄海市)に布陣。家康も名護屋におもむく。諸軍勢は高麗国に出発する。辰の年(1592)出陣なさり、午の年(1594)の3月ご帰国なさる。
2023.10.01
コメント(0)
2018年2月10日朝、佐賀県呼子町の呼子朝市通りを観光しました。「呼子プレス商会」という店で、いかプレスせんべいを注文すると、店の方が専用のプレス機にいかを入れます。プレスすると水蒸気が店一面に吹き上がり、視覚的にも楽しいです。平べったく大きいいかプレスせんべいと、いかしゅうまいを食べました。↓ 佐賀県呼子町の呼子朝市通り。↓ 呼子情報ステーション。呼子町のマスコットキャラクター いかちゃん、さきちゃん。↓ いかプレス商会。↓ プレス機にイカを入れる。↓ プレスする。↓ プレス機から水蒸気が噴き出る。↓ プレス機を上げる。↓ せんべいを取る。↓ いかプレスせんべい。↓ せんべいを食べていく。↓ いかしゅうまいも買った。↓ 吊って干したいかが回転していた。
2023.09.30
コメント(2)
2018年2月10日朝、佐賀県・唐津駅の構内を見た後、同駅のバス停で、7時45分発・呼子行きのバスに乗りました。↓ JR唐津駅構内。 アニメ「ユーリ!!!on ICE」(男子フィギアスケートのアニメで、舞台設定は唐津市。↓ 佐賀県多久市の絵馬紹介。↓ 松ぼっくりでできたゴジラ?↓ 唐津城のマスコットキャラクター「唐ワン君」。↓ 肥前名護屋城の地図。↓ JR唐津駅前。(唐津曳山像)↓ 唐津市役所。↓ 石垣。↓ 唐津バスセンター。↓ 7:45 呼子行きバス案内。↓ 呼子行きバスに乗った。↓ バスの車窓。↓ 呼子行きバス。↓ 呼子の地図。↓ 呼子町内。↓ 呼子朝市遠り。
2023.09.29
コメント(0)
2018年2月10日、佐賀県唐津市の市内を散策しました。唐津駅前の唐津曳山像、唐津神社、時の太鼓、埋門の館を紹介します。ーーーーーー1)唐津駅前の唐津曳山像。ーーーーーーーーーーー2)唐津神社。↓ 唐津のマンホール。ーーーーーーーーーーー3)時の太鼓。この「時の太鼓櫓」は、唐津城址整備計画の一環として、唐津藩絵図に基づき、佐賀県の地域づくり推進事業の補助を得て、再現したものです。~ 代々の唐津藩絵図によると、4代城主土井公時代にこの地に「時鐘」がおかれ、のちに「金附堂」「時太鼓堂」「撞鐘堂」となり、また、5代藩主水野公時代には、「時之太鼓」と記されています。6代藩主小笠原公時代になると、「時打櫓」として、同じ域内の別の場所に記されています。「時の太鼓」の櫓の大きさは、高さ5.36メートル、間口4.84メートル、奥行き5.36メートルで、時計は、からくり仕掛け時計で、午前7時から午後7時までの毎正時、太鼓の音とともに中から武士人形と大太鼓がせり出し、武士が大太鼓を打ちならし、当時がしのばれる「時」を告げます。平成4年3月 唐津市長ーーーーーーーーーーーーーーーー4)埋門ノ館(うずめもんのやかた)。
2023.09.28
コメント(0)
2018年2月10日、佐賀県唐津市で唐津城を見た後、近くにある「からつ曳山(ひきやま)展示場」を見学しました。パンフレットの一部を下記紹介します。【ユネスコ無形文化財 唐津くんち曳山】城下町としての唐津の町は、慶長の頃(西暦1600年頃)寺沢志摩守広高が唐津城を築いた時に始まりますが、唐津っ子の産土神(うぶすながみ)である唐津神社の秋祭は、築城前の古くから行われていました。町人衆の篤い敬神の誠は、文政2年(1819年)刀町の赤獅子の奉納に現れ、以来明治9年までの57年間に15台の曳山が次々と奉納され(うち紺屋町の黒獅子は明治中期に損滅)、これらの貴重な町人文化の遺産は、幾多の苦難に耐え守り継がれ、曳き続けられてきました。「唐津くんち」は、唐津神社の秋季例大祭であり毎年11月3・4日に行われていますが、2日の夜は宵曳山(よいやま)と呼び、14台の曳山は飾り提灯に彩られ、万燈に映える金銀丹青も鮮やかに華麗なる巡行が展開されます。~曳山は、木組み・粘土の原型や木型の上に和紙を数百回張り重ね、麻布を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、金銀を施して仕上げたもので、完成までには3年前後の歳月を要したと伝えられています。多種多様な姿態の造形美は稀に見る優れた工芸品として、佐賀県の重要有形民俗文化財に指定されています。↓ 「からつ曳山(ひきやま)展示場」パンフレット。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 曳山展示場。ーーーーーーーーー↓ 1番曳山 赤獅子 刀町 文政2年(1819)ーーーーーーー↓ 2番曳山 青獅子 中町 文政7年(1824)ーーーーーー↓ 3番曳山 亀と浦島太郎 材木町 天保12年(1841)ーーーーーー↓ 4番曳山 源義経の兜 呉服町 天保15年(1844)ーーーーーー↓ 5番曳山 鯛 魚屋町 弘化2年(1845)ーーーーーー↓ 6番曳山 鳳凰丸 大石町 弘化3年(1846)ーーーーーー↓ 7番曳山 飛龍 新町 弘化3年(1846)ーーーーーー↓ 8番曳山 金獅子 弘化4年(1847)ーーーーーー↓ 9番曳山 武田信玄の兜 木綿町 元治元年(1864)ーーーーーー↓ 10番曳山 上杉謙信の兜 平野町 明治2年(1869)ーーーーーーー↓ 11番曳山 酒呑童子と源頼光の兜 米屋町 明治2年(1869)ーーーーーーー↓ 12番曳山 珠取獅子 京町 明治8年(1875)ーーーーーーー↓ 13番曳山 鯱 水主町 明治9年(1876)ーーーーーー↓ 14番曳山 七宝丸 江川町 明治9年(1876)
2023.09.27
コメント(0)
2018年2月10日午後、唐津城の天守閣で展示物を見ました。唐津城のマスコットキャラクター「唐(から)ワンくん」と、アニメ「ユーリ!!!on ICE」のパネルが置いてありました。唐ワンくんは、2008年の唐津城築城400年記念で誕生しました。唐津藩最後の藩主である小笠原長行の兜を被り、手の肉球の模様は、寺沢氏が入る前に唐津を治めていた波多氏の家紋「三ツ星」となっています。2016年に「ユーリ!!!on ICE」という男子フィギアスケートのアニメが放送されましたが、その舞台が唐津ということで、キャラクターのパネルも置いてありました。室内は、唐津の歴史や唐津焼の説明がありました。面白いと思った展示を紹介します。↓唐ワンくんは、2008年の唐津城築城400年記念で誕生した。唐津藩最後の藩主である小笠原長行の兜を被り、手の肉球の模様は、寺沢氏が入る前に唐津を治めていた波多氏の家紋「三ツ星」となっている。↓ 2016年に「ユーリ!!!on ICE」という男子フィギアスケートのアニメが放送されたが、その舞台設定が唐津ということで、パネルが設置されてあった。↓ 唐ワンくん。↓ 髙橋是清(たかはしこれきよ)と唐津の俊英たち ~英学校耐恒寮(たいこうりょう)~明治4年(1871)唐津藩は英学校耐恒寮(たいこうりょう)」開設のため、東太郎と名乗るアメリカ還りの18歳の若者を教師として招きました。この人物こそ、のちに内閣総理大臣・大蔵大臣となる髙橋是清その人でした。是清は、教室では日本語を使わず、すべて英語で教えました。その指導のもと、開校後半年で後輩に教えることができる生徒も現れたそうです。また、藩の専売事業である和紙と捕鯨の利益を財源に、50人の生徒を250人まで増やし、その中には3人の女子も含まれていました。こうして開校した耐恒寮ですが、廃藩置県ののち閉校となり、是清も明治5年(1872)唐津を去ります。髙橋是清が耐恒寮で教えた期間はわずかですが、教え子たちの中から、各界をリードする人材が数多く育ちました。↓ 耐恒寮の主な出身者。辰野金吾(建築家 東京駅・日本銀行本店など)曾禰達蔵(建築家 慶応義塾図書館など)天野為之(経済学者 早稲田大学学長)掛下重次郎(法律家 大審院判事)大島小太郎(唐津銀行頭取)ーーーーーーーーーーーーーー【捕鯨】「一頭捕れば七浦潤う」といわれた捕鯨は、唐津藩の主要産業でした。漁は呼子の小川島を拠点として、12月から4月にかけて冬の極寒の海で行われました。図は、2艘1組の双海船が張った網代(あじろ)に勢子船(せこぶね)が鯨を追い込み、銛を突き刺している所です。鯨の背には、運搬用の網を通すためにいち早く飛び乗り、鼻(潮を吹く所)近くに刃物を突き刺す「ハザシ」の姿も描かれています。捕獲された鯨は肉や油を取るだけでなく、骨や髭まで余すところなく利用され、鯨への感謝をこめ供養も行われました。ーーーーーーーーーーーーーー【紙漉(かみすき)】↓ 和紙は、江戸時代のはじめから唐津藩の重要な産業であり、各村に梢(こずえ)を植えるよう奨励していました。刈られた梢は各村で蒸し煮した後、紙漉職人に渡されました。紙漉職人は、表皮の黒皮を取り除いた後の「白皮』を天日で干し、灰汁(あく)で煮て漂白して洗い、それを板の上で叩きます。叩いて綿状になった梢を漉船(すきふね)に入れ、黄連(糊:のり)を加えて掻き混ぜ、この液を簀(す)(細い竹ひごや植物の茎を編んだもの)で漉し取りました。ーーーーーーーーーーーーー【石炭】享保年間(1716~1735)に北渡多村の岸岳(きしだけ)の北西にある岸山のドウメキで石炭が発見されると、薪や炭に代わる燃料として採掘が開始されました。石炭は「まぶ」と呼ばれる坑道を幾筋も掘って採掘され、暗い坑内にはサザエの殻に火を灯して入っていました。掘り進めると水が湧きだすことも多く、釣瓶(つるべ)や「スホン」という道具を使って汲みだしたり、溝をつくって排水しました。掘り出された石炭は、船で唐津城下(松浦川河口)まで運ばれました。ーーーーーーーーーーーーーーー【鯛網の図】鯛漁で使用する網には、ヒノキで作った「ブリ」という木製の浮きが数多く付けられていました。この「ブリ」をつけると、どれだけ深い所でも網の中に入った鯛は「ブリ」の外に出ることができないと記されています。鯛網は、岸から5~7里(20~28km)も離れた沖から引き込むこともあります。ーーーーーーーーーーーー【駒捕(こまどり)の次第】馬渡島(まだらしま)には、江戸時代前期に藩が経営する馬の牧場が設けられていました。駒捕は毎年2月の初卯日(はつうのひ)に行われ、放牧していた「夏牧(なつまき)から捕獲場であるくぼ地の「冬牧(ふゆまき)」に馬を追い立てて捕まえました。子馬や母馬を棹(さお)で追い出した後に、一頭ずつ捕まえ、綱をつけて繋ぎ場に連れて行きました。捕獲した馬は船に乗せて運び、唐津大渡り(松浦川河口の渡し場)で開かれていた馬市に売りに出されていました。ーーーーーーーーーーーーー唐津城天守閣。↓ 唐津城入場券(2018年2月10日)↓ 唐津城パンフレット。↓ 唐津城の歴史。↓ 歴代城主の家紋。
2023.09.26
コメント(0)
2018年2月10日午後、小雨の中、唐津城を見学しました。前日夜に舞鶴公園を散策して、ライトアップされた唐津城を見ましたが、今回は唐津城の天守閣に上がり、景色を楽しみました。小雨が降っていたのが残念でした。唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢広高が慶長7年(1602年)から7か年の歳月を費やして完成しました。築城には、肥前名護屋城の解体資材を利用したそうです。城の周りの砂浜が、翼を拡げた鶴のようにも見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれています。城主は、寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原と代わりました。明治10年に本丸跡は舞鶴公園とな り、その後昭和41年(1966年)に、天守台跡に唐津城が建てられました。↓ 2018年2月10日午後、舞鶴公園の唐津城を見に行く。↓ 唐津城。↓ 二ノ曲輪。(中段広場)。看板に、「がんばろう九州!熊本、大分」とある。↓ 右が唐津城天守閣。中央が大手門、左が化粧櫓。↓ 大手門。【天守閣からの景色】↓ 西の浜海水浴場。 奥には九州電力の火力発電所の煙突が見える。右は大島。↓ 九州電力の火力発電所の煙突。2019年から解体作業が始まり、現在は無い。↓ 早稲田佐賀中学・高校。↓ 町田川。↓ 町田川と城内橋。↓ 手前は舞鶴橋、奥は松浦川と松浦橋。↓ 松浦川、松浦橋と、宿泊した唐津第一ホテルリベール。↓ 左は唐津湾と虹ノ松原。手前は舞鶴橋。右は松浦川と松浦橋。↓ 奥は虹ノ松原と鏡山。↓ 虹の松原。↓ 唐津湾。左から大島、鳥島、高島。↓ 大島。↓ 鳥島。↓ 高島。↓ 唐津城。↓ 城主は、寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原の6家。↓ JR筑肥線の松浦川鉄橋から見た唐津城。↓ 唐津火力発電所の煙突。(今は解体されて無い)
2023.09.25
コメント(0)
2018年2月9日夜、佐賀県の唐津城を見に行きました。唐津城のある敷地は、舞鶴公園になっています。唐津城は別名舞鶴城と言われますが、城の周りの砂浜が、翼を広げた鶴のように見えたからだそうです。鶴舞公園では、ライトアップされた唐津城や、街灯の光が美しい舞鶴橋を見ました。夜食はジョイフルでハンバーグセットを食べました。↓ 舞鶴公園の坂道を上る。↓ ライトアップされた唐津城。↓ 街灯の光が美しい舞鶴橋。↓ 神社。↓ 舞鶴橋から見た唐津城。↓ Joyfull
2023.09.24
コメント(0)
2018年2月9日夜、佐賀県の唐津城を見に行きました。城内橋を渡り唐津城に行く途中、通路の壁に、唐津くんち曳山のタイルがありました。タイルを撮影していたので、紹介します。↓ 2018年2月9日夜、唐津城の城内橋。↓ 唐津城に行く途中、通路の壁に唐津くんち曳山のタイルがあった。唐津曳山(からつやま)唐津神社の秋季例祭を「唐津供日(くんち)」と呼んでいます。この神祭の御神幸に従うのが「唐津曳山(からつやま)」です。文政2年(1819)に、刀町の石崎嘉兵衛が同志の大木小助らと、赤獅子を作り唐津神社に奉納したのが初めといわれ、それから明治9年までの57年間に、15ヵ町から曳山を次々と奉納いたしました。(うち紺屋町の黒獅子は、明治中頃損滅)これらの貴重な町人文化の遺産は、先人たちの心意気によって、今日まで守り継がれています。からつくんちは例年11月2日の宵ヤマに始まり、3日の文化の日を中心に4日まで盛大に行われています。この曳山行事は国の「重要無形文化財」、そして曳山は県の「重要有形民俗文化財」になっています。↓ 唐津曳山(からつやま)。↓ 一番山 赤獅子 刀町 文政2年(1819)↓ 2番山 青獅子 中町 文政7年(1824)↓ 3番山 亀と浦島太郎 材木町 天保12年(1841)↓ 4番山 源義経の兜 呉服町 天保15年(1844)↓ 5番山 鯛 魚屋町 弘化2年(1845)↓ 6番山 鳳凰丸 大石町 弘化3年(1846)↓ 7番山 飛龍 弘化3年(1846)↓ 8番山 金獅子 本町 弘化4年(1847)↓ 9番山 武田信玄の兜 木綿町 元治元年(1864)↓ 10番山 上杉謙信の兜 平野町 明治2年(1869)↓ 11番山 酒呑童子と源頼光の兜 米屋町 明治2年(1869)↓ 12番山 珠取獅子 京町 明治8年(1875)↓ 13番山 鯱 水主町 明治9年(1876)↓ 14番山 七宝丸 江川町 明治9年(1876)
2023.09.23
コメント(0)
2018年2月9日夜、佐賀県・唐津城の遠景を撮影したので、一部を紹介します。まるでゴッホの有名な絵画「ローヌ川の星月夜」のようで、雰囲気がとても似ています。↓ 唐津城、舞鶴橋、松浦川の夜景。(2018年2月9日撮影)↓ 唐津城天守閣。↓ ゴッホ「ローヌ川の星月夜」(1888年)。
2023.09.22
コメント(0)
2018年2月9日夕方、福岡市の大濠公園から筑肥線で唐津に行きました。JR唐津駅の手前にあるJR和多田駅で下車し、唐津第一ホテルリベールに宿泊しました。目的は、唐津城、呼子、そして肥前名護屋城址を見る事です。豊臣秀吉は朝鮮出兵のため、日本の各大名を集め、短期間で肥前の名護屋に名護屋城を築き、1592年(文禄元年)と、1597年(慶長2年)に大軍を朝鮮に派遣しました。(文禄・慶長の役)1598年に秀吉が病死するまで、朝鮮侵略は続きました。1996年頃、私は家族と一緒に佐賀に住んでいました。長男が生まれて半年頃から、車で九州の各所を旅行しました。唐津城も見に行った事があるので、これで2度目の唐津でした。↓ 福岡市、唐津市、肥前名護屋城の位置。↓ JR唐津駅、唐津城、呼子、肥前名護屋城の位置。↓ JR和多田駅、JR唐津駅、唐津城、唐津第一ホテルリベールの位置。↓ 2018年2月9日、福岡市 大濠公園駅。↓ 和多田、唐津。↓ 大濠公園駅。↓ 2018年2月9日、17:59 西唐津行き。↓ JR九州305系電車。↓ 305系車両内に、「クロちゃん」がいっぱい。↓ 305系のドア付近は、鉄の輪に手すりが付いている。↓ ドアにクロちゃん。↓ JR九州コミュータートレイン305。↓ JR和多田駅で下車。↓ JR和多田駅。↓ 唐津市の絵地図。↓ JR多和田駅からホテルまで歩く。↓ 唐津第一ホテルリベールでチェックイン。
2023.09.21
コメント(0)
2013年9月10日、JR岡崎駅から歩いて岡崎城まで行きました。城めぐりをした後、今度は名鉄バスで岡崎駅まで戻る事にしました。殿橋近くにあった名鉄バスの停留所では、案内板に電光掲示板が付いています。例えば、岡崎駅行きのバスが遅延しており、何分頃到着予定など、細かい交通情報が表示されていたので、とても感心しました。乗車したバスは、「どうする家康」のラッピングがしてありました。バスは名鉄東岡崎駅を経由して、JR岡崎駅まで行きました。JR岡崎駅から東海道線で名古屋駅まで移動しました。土砂降りの雨が降ってきたので、車窓が雨で良く見えません。矢作川の鉄橋から岡崎城の天守閣が見えるかもと思い、一生懸命探したのですが、よくわかりませんでした。途中の安城駅では、「南吉の夢が叶ったまち安城」という看板が目に入りました。童話「ごんぎつね」で有名な作家・新美南吉さんが、昭和13年に安城高等女子高の教師として教壇に立ちました。列車はその後、名古屋駅に到着しました。楽しい岡崎城散策でした。↓ 2013年9月10日。 朝はこの道を、荷物を持ちながら岡崎城まで歩いた。帰りは名鉄バスに乗ることにした。↓ 殿橋近くの名鉄バス停。↓ 名鉄バス。↓ バスの窓から撮った写真。乙川と奥に岡崎城の天守閣。↓ 名鉄バスの車内。↓ 名鉄東岡崎駅。↓ JR岡崎駅に到着。「どうする家康」ラッピングバス。↓ 13:12 大垣行の新快速に乗ることにした。↓ JR岡崎駅。↓ 土砂降りの雨。↓ 車窓から、矢作川の向こうの岡崎城を探したが、よくわからなかった。↓ JR安城駅。↓ 安城駅では、「南吉の夢が叶ったまち安城」という看板があった。童話「ごんぎつね」で有名な作家・新美南吉さんが、昭和13年に安城高等女子高の教師として教壇に立った。↓ 苅谷市。↓ JR刈谷駅。↓ 東海道新幹線とJR東海道線が並行している区間。↓ 名鉄。↓ JR金山駅。↓ JR名古屋駅に近づいてきた。↓ JR名古屋駅到着。
2023.09.20
コメント(2)
2023年9月10日、岡崎城へ行きました。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」で、NHK大河ドラマ「どうする家康」の俳優衣装など、色々な資料を見ることが出来ました。観光お土産店で、まるや八丁味噌、カクキュー八丁味噌などのパンフレットを頂きました。今回は味噌についてパンフレットで勉強です。岡崎城から岡崎駅までは、徒歩を止めて、バスで戻る事にしました。バス停まで、国道1号線を東に歩き、岡崎市康生通南の陸橋を渡って南に進みました。この1号線をもう少し東に行くと、徳川家康の正室であった瀬名(築山御殿)が移り住んだという、築山の地があるそうです。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」↓「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」前で記念撮影。↓「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」。↓ 観光みやげ店。ーーーーーーーー株式会社まるや八丁味噌のパンフレット。ーーーーーーーーーーー↓ カクキュー八丁味噌(合資会社八丁味噌)。ーーーーーーーーーーー↓ 岡崎城・大手門。↓ 岡崎城そばの国道1号線を、東に戻る。↓ 岡崎市康生通南の陸橋。ここを右に曲がり、岡崎駅方面のバス停に向かう。*この1号線をもう少し東に行くと、徳川家康の正室であった瀬名(築山御殿)が移り住んだという、築山の地がある。↓ まちと繋がるミニガイド「ぽけっとこりん」↓ 岡崎城、交差点の陸橋、築山の位置。
2023.09.19
コメント(0)
2023年9月10日、岡崎城に行きました。「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」で、「どうする家康」の俳優陣についてパネルがあったので、紹介します。(撮影可)
2023.09.18
コメント(0)
2023年9月10日、岡崎城に行きました。NHK大河ドラマ「どうする家康」について紹介されている「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」を見学しました。撮影可能なエリアの写真を一部載せます。↓ どうする家康 岡崎 大河ドラマ館。
2023.09.17
コメント(0)
2023年9月10日、岡崎城に行きました。岡崎城の天守閣近くに、龍城神社があります。徳川家康が生誕した日に、天守に近い井戸(龍の井)から金鱗の龍が舞い上がったと伝えられている神社です。徳川家康と本多忠勝の二人が、祭神として祀られています。11時から、「グレート家康公(葵)武将隊」のメンバーが、花時計のある広場で演武をされていました。↓ 龍城神社。↓ 花時計。↓ 「グレート家康公(葵)武将隊」のメンバーが、演武を行った。↓ からくり時計。
2023.09.16
コメント(0)
2023年9月10日、岡崎城に行きました。天守閣からの景色を紹介します。↓ 岡崎城。↓ 天守閣石垣と穴蔵。岡崎城の天守は、天正18年(1590)に城主となった田中吉政の時代に創建されたと考えられる。天守閣石垣は花崗岩の自然石を用いて築かれている。北・東面には巨大な鏡石が入る。場内で最も古い石垣である。天守台の石垣の内部は、地階として石垣に囲まれた穴蔵となっている。↓ 東側。↓ 南側。↓ 西側。↓ 北側。
2023.09.15
コメント(0)
2023年9月10日朝、徳川家康公の生誕地である岡崎城に行きました。大手門から岡崎公園に入ると、公園案内無料ガイド受付所がありました。30分程度の短い時間でも可能ですかと尋ねると、短時間でも大丈夫と言われ、男性の方にガイドしていただきました。下記点をご説明頂きました。1)徳川四天王の本多平八郎忠勝公銅像。(戦場では57戦無傷であったが、家では小刀で指を切ってしまった話)2)徳川家康公のしかみ像。(徳川家康が武田信玄と戦って大敗し、命からがら浜松城に戻った時、自分の姿を描かせた、徳川美術館所蔵の「徳川家康三方ヶ原戦後画像」を基にした石像)3)空堀。(最近の豪雨で伊賀川から溢れた水が空堀に入り込んだ。まだ水が残っている)4)東照公産湯の井戸。(徳川家康:幼名竹千代が取り上げられ、最初に浸かった産湯を汲んだ井戸)5)坂谷邸跡。(竹千代が生まれた坂谷邸)6)東照公えな塚。(竹千代の胎盤(えな)が埋められたとされる塚)7)長寿のクスノキ。8)石垣の矢穴。(石を割るためにノミを入れる穴)9)刻銘石。(石垣工事で、石に刻銘を彫った)10)岡崎城の石垣。(穴太衆:あのうしゅうの仕事)11)岡崎城、徳川家の歴史。12)岡崎城の総構えの広さ。ガイドの方の話で一番記憶に残ったのが、岡崎城の総構えの広さの話です。広島大学の先生の記事を見せていただき、岡崎城の総構えの広さは、江戸城、大阪城、小田原城に次いで4番目との事でした。しかし、ガイドの方の意見としては、4番目が姫路城で、岡崎城は5番目ではとの話でした。いずれにせよ、岡崎城がそのように広い城だったことに、とても驚きました。ガイドの方には、とても分かりやすく説明をしていただきました。本当にありがとうございました。↓ 2023年9月10日、岡崎城大手門。↓ 公園案内無用ガイド受付所があった。↓ ガイドの方に、30分のガイドをお願いした。↓ 徳川四天王の本多平八郎忠勝公銅像。戦場では57戦無傷であったが、家では小刀で指を切ってしまった話を聞いた。↓ 徳川家康公のしかみ像。徳川家康が武田信玄と戦って大敗し、命からがら浜松城に戻った時、自分の姿を描かせた、徳川美術館所蔵の「徳川家康三方ヶ原戦後画像」を基にした石像。ガイドの方から、徳川家康が、浜松に逃げ帰った時に、馬上で脱糞した有名な話も聞いたし、この時の徳川家康の衣装を見ると、本当に戦場から帰ってすぐに描かれたのかどうか、季節的にどうかなど、色々な意見があるようで、それを聞くのも楽しかった。↓ 空堀。↓ 最近の豪雨で、岡崎城側の伊賀川が増水し、敷地内も水浸しになった。空堀も水が入ってしまい、まだ水が残っているとの事。↓ 東照公産湯の井戸徳川家康:幼名竹千代が取り上げられ、最初に浸かった産湯を汲んだ井戸。↓ 坂谷邸跡(竹千代が生まれた屋敷跡)。↓ 徳川家康の父、松平弘忠。↓ 東照公えな塚。徳川家康:幼名竹千代の胎盤(えな)が埋められたとされる塚。↓ 長寿のクスノキ。↓ 龍城堀が見える。↓ 石垣の矢穴。石を割るためにヤを入れる穴。ノミで叩いて岩を割る。↓ 刻銘石石垣工事で、担当が分かるように、石に刻銘を彫った。岡崎城では2種類あるとの事。①②↓ 岡崎城天守閣。↓ 岡崎城と記念撮影。↓ 岡崎城と家康公遺言碑。↓ 家康公遺言碑。わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し。されども、将軍の政道その理にかなわず、億兆の民艱難(かんなん)することもあらんには、だれでも其の任に変わるべし。天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四悔安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし。元和2年(1616年)4月17日 家康公 75歳甍於駿府城 大樹寺57世 宏天 謹書↓ 東照公遺訓碑。人の一生は重荷を負(おい)て遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし こころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基(もとい)、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りて まくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせめるな、及ばざるは過ぎたるよりもまされり。慶長九年卯月家康。↓ 岡崎城の石垣。穴太衆(あのうしゅう)が組んだ。
2023.09.14
コメント(2)
2023年9月10日、JR岡崎駅から歩いて岡崎城に行きました。岡崎駅でゆるキャラ「オカザえもん」の自動販売機に気をとられ、その横のコインロッカーに気が付かず、重い荷物を両肩に掛けたまま、歩き始めました。オカザえもんのインパクト、恐るべし!。事前に調べておらず、駅から城まで近いと想像していたのですが、8時45分に出発して、9時35分に城に着いたので、約50分かかったことになります。4kmちょっとはあると思います。岡崎駅から岡崎城までの途中で撮った風景写真の一部を紹介します。ほとんどの方は、このような写真は興味が無いと思いますが、私は大好きです。後で写真を見ると、その時の街の雰囲気や、自分がその時に考えていたことなどを、ありありと想い出すことが出来ます。↓ 岡崎城、豊橋市、安城市、名古屋市の位置、↓ JR岡崎駅から岡崎城まで歩いたルート。4キロ以上あった。荷物が両肩に食い込んで重かった。↓ JR岡崎駅 / 愛環鉄道(愛知環状鉄道)。↓ JR岡崎駅前ロータリー。↓ 岡崎城に向かって歩き始める。↓ 岡崎駅前郵便局。↓ マンホール(やはぎばし)。↓ 電車通りの敷石。大正元年より昭和37年までチンチン電車のレール保護に使われていたもの。↓ マンホール(岡崎城と花火)。 ↓ 中日新聞羽根専売所。↓ 岡崎協立病院。↓ 岡崎市シビックセンター。↓ マンホール。(岡崎城 5万石)。↓ 西光院。↓ 岡崎協立病院。↓ 重い荷物を両肩に掛けて歩いた。肩に食い込んで痛かった。↓ 岡崎市戸崎町陸橋。↓ イオンモール。↓ GATEAU TATSUMIUA。↓ スーパー銭湯 葵湯。↓ イオンシネマ。↓ 岡崎市明大寺陸橋。↓ 生理学研究所。↓ 右方向に名鉄・東岡崎駅がある。↓ 名鉄名古屋本線。 電車が走っている。↓ 名鉄名古屋本線の鉄橋。↓ 岡崎市明大寺本町陸橋。↓ 暑いので、自動販売機で購入。↓ 乙川 (菅生川:すごうがわ)に掛かる殿橋。↓ 乙川(菅生川:すごうがわ)の奥に、岡崎城が見えてきた。↓ 岡崎城。↓ 殿橋。↓ 乙川の殿橋を渡る。↓ 殿橋の東側。↓ 厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)。↓ 家康公生誕の地。 祝第6回全国まちゼミサミット。↓ 岡崎市康生通南陸橋。国道1号線が通る。↓ 国道1号線を進む。↓ 東隅櫓。↓ 浄瑠璃姫の供養塔。京都鞍馬寺で修業した牛若丸(源義経)と浄瑠璃姫は、矢作川で出会って恋に落ちた。数日後、牛若丸は奥州平泉に行くために浄瑠璃姫と別れたが、浄瑠璃姫は分かれの悲しみのあまり、川に身を投げて死んでしまった。↓ 徳川家康公生誕の地 岡崎。↓ 岡崎城・大手門。(岡崎公園)↓ 岡崎城中東海道二十七曲がり。東海道を岡崎城下に引き入れ、27曲がりのくねくね道とした。防衛などの目的。↓ 2023 いけばな龍生派屋外展 in 岡崎。
2023.09.13
コメント(0)
2013年9月10日8時半、JR岡崎駅に到着しました。岡崎駅では、「ようこそ、徳川家康公生誕の地 岡崎へ」という紹介案内がありました。また、ゆるキャラグランプリで大変有名になった、岡崎の「オカザえもん」が、自動販売機やソウルフード案内ポスターに描かれていました。この日、10キロ以上のカバンを二つ持ってきており、駅のコインロッカーに入れようと思っていました。ところが、オカザえもんの自動販売機を一生懸命見ているうちに、その横にあったコインロッカーをうっかり見落としてしまい、結局荷物を肩に担いだまま、岡崎城まで歩くことになりました。(今回ブログを書くので写真を見直したところ、写真にコインロッカーが写っていたことに気が付いた次第です)↓ 2023年9月10日 8:30 JR岡崎駅。↓ JR岡崎駅の改札口を出たところ。↓「ようこそ、徳川家康公生誕の地 岡崎へ」 家康公ゆかりの史跡。↓ どうする家康 岡崎。↓ JR岡崎駅前ロータリー。↓ オカザえもん。 ゆるキャラグラプリで全国的に有名になった。岡崎の漢字からデザインされている。(顔の部分は「岡」という漢字でできている)*このオカザえもんのデザインを一生懸命見ていたところ、その横のコインロッカーをうっかり見落としてしまった。ロッカーが無いと思って、重い荷物を持って、岡崎城に向かった。↓ 氏名:オカザえもん。(岡崎衛門之介)生年月日:1972年7月1日生まれ(岡崎市政記念日) 身長:180cm性別:男性格:やさしくて短気血液型:О型(OKAZAKIだから)趣味:ジャズ音楽鑑賞、現代美術鑑賞特技:自己流ダンス好きな食べ物:岡崎まぜめん、八丁味噌を使った料理。作者:斉と公平太備考:奥さんに逃げられ、オカザえもんJr.という4歳の子供もいる。↓ 岡崎市観光案内所。↓ どうする家康 岡崎 大河ドラマ館のポスター。↓ 岡崎に来たなら絶対に食べたい! 岡崎を代表するソウルフード。五平餅、フルーツサンド、いかまんじゅう、くずもちバー、団子、かき氷、↓ からあげ、味噌カツ、岡崎まぜのん、岡崎おうはん、味噌田楽、おでん、もろこしうどん、味噌煮込みうどん、おかざきカレーパン。↓ 岡崎駅前ロータリー。↓ 8時45分。
2023.09.12
コメント(2)
2023年9月10日朝、新幹線で東京から豊橋まで移動し、東海道本線の特別快速・米原行きに乗り換えて岡崎駅まで行きました。豊橋駅から岡崎駅までの風景を紹介します。↓ 豊橋駅の広告。「どうする家康/どこ行く家康」↓ 東海道本線・豊橋駅。↓ 8:09 豊橋駅発 特別快速米原行き。↓ JR東海 313系Y109編成。(豊橋~米原)↓ 車内の様子。↓ 奥に、豊橋鉄道・新豊橋駅が見える。↓ 豊橋鉄道・新豊橋駅。↓ 豊橋鉄道(豊鉄)。 ↓ 豊橋鉄道 新豊橋駅。 豊橋鉄道渥美線は、三河田原駅まで。↓ 名古屋鉄道(名鉄)車両。↓ 名古屋鉄道1000系。↓ 名古屋鉄道1000系。(1806)岐阜行き。↓ 豊川。↓ 豊川放水路。(手前は東海道本線。奥は名鉄名古屋本線)↓ 車内の吊り広告。↓ 遠くに、蒲郡市のラグーナテンボス大観覧車が見えてきた。↓ ラグーナテンボス大観覧車。↓ ラグーナテンボスの施設と三河湾。↓ ラグーナテンボスの施設。↓ 子安弘法大師像。(蒲郡市三谷町南山・金剛寺にある)↓ 画面右は竹島。左は竹島町の森。↓ 三河湾ヒルズホテル。↓ 蒲郡駅近くにある竹本油脂株式会社(ごま油で有名)。↓ 竹本油脂株式会社。↓ 蒲郡駅。↓ 蒲郡駅。↓ 蒲郡駅プラットフォーム。↓ 蒲郡浜町緑地のクレーン群。↓ ボートレース蒲郡 競艇場。↓ 岡崎駅に到着。8時半。↓ 岡崎駅で下車した。↓ 岡崎駅。↓ 岡崎駅改札口
2023.09.11
コメント(0)
2023年1月から、NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ています。それが終わると、TBS日曜劇場「VIVANT」を見る流れでした。「どうする家康」を見ながら、徳川家康の生誕地である岡崎城に行こうと思い、2023年9月10日早朝、新幹線ひかりに乗車し、東京駅から豊橋駅まで移動しました。車窓風景を紹介します。新幹線の車窓は、何度乗って見ても飽きません。↓ 2023年9月10日 東京駅。↓ ひかり631 6時21分発。↓ 東京駅。↓ N700 SUPRAME シュープリーム。↓ N700 A↓ 東京駅を出発。↓ 高輪ゲートウェイ駅付近の開発。↓ 車内販売が近く終了になる予定。↓ 丹沢と富士山。↓ 丹沢。↓ 富士山。↓ 酒匂川。↓ FUJIFILM 富士フィルム小田原工場。↓ 富士川と富士山。↓ 掛川城。↓ 掛川市役所。↓ 大井川。↓ JR東海 浜松工場。↓ 浜名湖。↓ 浜名湖ボートレース。↓ 豊橋駅近く。↓ 豊橋駅。↓ 名鉄車両。↓ 豊橋駅出口。↓ 壺屋。↓ 豊橋駅 東海道腺乗り換え口。
2023.09.10
コメント(2)
2023年4月から、NHK連続テレビ小説「らんまん」で、日本の植物学者・牧野富太郎博士の生涯がドラマとして紹介されています。あいみょんが主題歌「愛の花」を歌っています。2016年9月25日、私は東京都練馬区の「牧野記念庭園」に行ったので、写真を紹介します。昭和33年(1958年)1月18日に、牧野博士は逝去されましたが、東京都は博士の住居跡を「牧野記念庭園」として保存するという意志を、博士の没後わずか3カ月足らずという短期間で表明したそうです。牧野記念庭園に行くと、石碑に牧野博士の有名な「花在ればこそ 吾れも在り」という言葉がありました。記念館では、牧野博士の業績が分かる資料が展示されていました。大泉学園駅から歩いて牧野記念庭園まで行きました。大泉学園駅には、銀河鉄道999のメーテル像もあります。ーーーーーーーーー【東京都練馬区立 牧野記念庭園】 (2016年9月25日の写真)↓ 牧野富太郎博士の胸像。↓ 牧野記念庭園入口。↓ 庭園内。↓ 曼珠沙華。↓ 「花在ればこそ 吾れも在り 牧野富太郎」。↓ 練馬区立牧野記念庭園の紹介。↓ 富太郎命名植物明治22(1889)年、日本で初めての命名植物となった「ヤマトグサ」をはじめ、新種、新品種を含め富太郎による命名植物は1500種類を数えます。富太郎による命名植物は野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、私たちの身近にある植物全てが富太郎の研究対象となっていました。富太郎が「日本の植物分類学の父」と言えるのは、その数だけでなく対象の幅広いことにもよります。↓ 全国踏査地図。富太郎は、沖縄を除く日本の全ての都道府県で植物採集を行いました。採集した植物は、夜を徹してその日のうちに自分で押し葉にしています。長い採集の旅に出た富太郎の自宅には、最終先から大量の押し葉が送られ、届いた押し葉を乾燥させるのが家族の役目でした。富太郎は植物採集に日本のみならず、当時日本の領土であった台湾と満州にも出向いています。こうして生涯で採集された植物標本は約40万枚にもなります。↓ 牧野富太郎博士のパネルと記念撮影。↓ 牧野富太郎博士。↓ 記念館の中。↓ 牧野日本植物図鑑。↓ 大泉学園駅。↓ 大泉学園駅と牧野記念庭園の位置。↓ 銀河鉄道999のメーテル。↓ メーテル。↓ 松本零士氏のサイン(2009年3月8日)有り。↓ メーテル像。↓ 鉄腕アトム像。
2023.09.09
コメント(2)
東京神保町にある、三省堂書店 神保町本店(東京都千代田区神田神保町1-1)ですが、2022年5月8日に営業を終了し、ビルの建て替え工事が始まりました。2022年6月1日からは、ヴィクトリアゴルフ御茶ノ水店があったビル(東京都神田小川町2-5)で、仮店舗として営業されています。2023年8月8日、明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー食堂から景色を眺めていると、三省堂書店神保町本店ビルが解体されて、更地になっているのが見えました。新しいビルが建てられる予定です。休みの日は、用が無ければ神保町、秋葉原を巡って、本を探しています。個人的には東京で一番楽しいエリアです。ーーーーーーーーーーーーー三省堂神保町本店の動きを紹介します。1)2022年3月5日。三省堂書店 神保町本店。ーーーーーーーーーーーーーーー2)2022年5月30日。三省堂書店 神保町本店。「いったん、しおりを挟みます」/建て替えのため一時閉店致します。ーーーーーーーーーー3)2022年7月9日。閉店後の三省堂書店 神保町本店。道路に面した部分は、フェンスが設置されている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー4)2023年8月8日。明治大学駿河台キャンパス、リバティタワー食堂に行く。↓ 明治大学駿河台キャンパス、リバティタワー。↓ 明治大学駿河台キャンパス、リバティタワー食堂から神保町を見る。↓ 三省堂書店 神保町本店が解体され、更地になっている。↓ 工事現場。↓ 建築計画のお知らせ。地上13階、地下0階。完了予定:令和8年1月31日。↓ 三省堂書店 神保町本店(小川町仮店舗)のご案内。ーーーーーーーーーーーーーーーー5)2022年7月9日。三省堂神保町本店の仮店舗。(東京都神田小川町2-5)たてか
2023.09.08
コメント(2)
2023年8月8日、明治大学駿河台キャンパス・リバティタワーの食堂で、ランチを食べました。TV番組で一般の人も利用可能と紹介されていたので、機会があれば行きたいと思っていました。食堂の窓から、都内の景色が一望できます。(スマホで撮影)窓の下の方には、神保町の本屋街があります。その一角にあった三省堂本店ビルですが、建て替え中でビルが取り壊され、更地の状態になっているのが見えました。↓ 食堂からの景色。↓ 中央の更地部分が、三省堂本店の建て替え中の場所。↓ 皇居が見える。↓ (中央)明治大学駿河台キャンパス・リバティタワービル。
2023.09.07
コメント(0)
TV番組で、明治大学駿河台キャンパス・リバティタワービルの学食は、学生だけでなく一般の人も利用可能と紹介されたので、食べに行きました。2023年8月8日の写真です。(スマホ撮影)↓ 明治大学駿河台キャンパス・リバティタワービル。↓ 明治大学。↓ エレベーター。↓ 食堂のメニュー案内。↓ リバティーランチ ロコモコプレート。↓ 食券販売機。↓ 眺めが良い席。↓ 食堂の風景。
2023.09.06
コメント(0)
1983年に創刊された雑誌「Ⅿomoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜きがたくさんあり、河合奈保子さんの北海道での出来事について記載があるページを紹介していきたいと思います。その(4)です。(4)1985年8月の河合奈保子さん。(北海道部分は太字)8月10日、松本文化会館コンサート。2回公演で日帰り。12日は秋田で握手会。同じく日帰り。という具合に、相変わらずのスケジュールをこなし、その合間、11日は、10月3日に発売になる『ラヴェンダー・リップス』のレコーディングもしちゃった。ラヴェンダーといえば、北海道は富良野が有名! その北海道へツアー。15日は久しぶりのお休みをとった。16日は函館でコンサート。コンサートの開演までにはかなり時間があったので、早速、函館見物に。函館山から市内を一望し、立待岬や中華会館を見てまわった。それにしても、こうやって時間があれば見学に出て行くって、ホント奈保子ちゃんらしい。どこに行っても、ホテルと会場の行き来だけで、どの町も同じ・・・って人が多いんだけど・・・ネ。17日は札幌で握手会。旭川まで移動して一泊。18日は士別でコンサート。そしてコンサートのお世話をしてくれた人から、なんとゆでたとうもろこしを100本!差し入れがあった。「取りたてのとうもろこしで、私、大好物だから、2~3本も食べちゃった。おいしかったァ」毛ガニもいっしょにドサッといただいたそうで、そちらの方もみんなで”おいしい、おいしい”とかじりついたとか。19日は、取材を兼ねて、奈保子ちゃんが前から行きたがっていた富良野へ。本当は一面に咲きほこるラヴェンダーを見たかったのだけど、ラヴェンダーの季節は7月末まで。「遅咲きの花が少し咲いていただけで、ちょっと残念でしたね。でも、ラヴェンダーの香りの匂い袋や、絵はがきを買ってきたんですよ」ラヴェンダー畑の真ん中で、『ラヴェンダー・リップス』歌う奈保子ちゃん。いつかきっと見てみたい。東京に戻って21日、『夜のヒットスタジオデラックス』で、髙橋伸明さんと『君は綺麗なままで』をデュエット。テレビではこれが最後ってことだけど、是非もう一度歌って、ていう意見がたくさん寄せられているようだ。果たしてどうなるかは、未定だ。聴けなかった人へ。もう知っていると思うけど、とんがりコーンのCMで流れてるのが『君は綺麗なままで』。NAO & NOBUのNAOは奈保子ちゃんのこと。NOBUは髙橋さんのこと。もちろんシングルも発売になっている。23日はつくば・EXPO’85でコンサート。コンサートの前に、電力館の見学もした。この日のステージが、夏のツアーの最後ということになった。「毎年ツアーをやってきて、最初のころは必死でしたけど、このごろやっと、自分でも楽しみながらできるようになりました。観客のみなさんも一緒に楽しんでくれるっていうのが、とてもうれしいですね」27日、28日にテレビ、ラジオの仕事をして、29日、いよいよロスに向けて成田を出発。帰国は9月20日。ロスからニューヨーク、8000キロを車で横断するというから、おみやげ話が楽しみだね。↓ 河合奈保子さん。↓「Ⅿomoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜き。
2023.09.05
コメント(2)
1983年に創刊された雑誌「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜きがたくさんあり、河合奈保子さんの北海道での出来事について記載があるページを紹介していきたいと思います。*記事の前半に、河合奈保子さんが10曲全部を作曲してできたLPについて記載がありますが、これは1986年10月に発売されたアルバム「Scarlet :スカーレット』です。* 河合奈保子さんの作曲活動が評価され、1986年に河合奈保子さんは「日本作曲家協会」の会員になりました。最年少で、アイドル歌手出身としては初めてです。その(3)です。(3)1986年6月~8月の河合奈保子さん。(北海道部分は太字)(1986年)6月22日チューリップ、23日阿川泰子と久しぶりにコンサートに行ってきた奈保子ちゃん。ガラッと違ったタイプのステージを連続して見ただけに、色々と勉強になったようだ。「阿川泰子さんのコンサートって初めて見たんだけど、とってもオシャレなステージなの。大人の上品さを感じさせる、独特な世界を持っている人ね」これからの奈保子ちゃんのテーマとなる”大人の歌手”というステージに、すっかり感心させられていた。その大人の歌手への第一歩ともいうべきステップが、10月に発売される予定のLP作り。全曲彼女自身の作曲によるもので構成されているが、そのレコーディングが25日から30日まで、神奈川県の観音崎にあるマリン・スタジオに合宿して行われた。午後の2時頃から夜中の12時までびっちりとスタジオにかん詰めになって吹き込みに没頭したが、他の仕事は一切入れないでレコーディングに専念しただけに、今は成し遂げた充実感に表情は満ちあふれている。今回のLPは売野雅勇さんのプロデュースによるもので、様々なキャラクターづけされた10人の女性が1曲1曲の主人公というコンセプトがある。「一人一人の女性が、性格から血液型、家族構成、仕事と決め細かく説明されていて、そしてこの曲は朝の歌、これは夜の歌という具合に、1曲ずつに物語があるのね。だからイメージがすぐに湧くからとっても歌いやすかった」朝起きて目の前の静かな海を見に行ったり、潮騒を聞きながらまどろんだり、申し分のない環境でLP作りに全力投球。10月に発売される日を楽しみに待とう。7月4日から大阪、名古屋、高山、苅谷と地方へ行ってきた。高山では雨に降られたが、古い町並みが続く市内を車で通りながらチョッピリ観光気分も。「雨にけむる高山もいいものよ」なんて言ってたけど、負け惜しみかな。11日から2泊3日で今度は北海道へ。1度は実現させたいといっていた幼なじみのОちゃんと、二人だけの旅行を楽しみに行ってきた。取材もあったが、プライベートを優先にということで大いにフリーな気分を味わう。「Оとは本当になんでも話し合える親友だから、話してもつきない事がいっぱい。夜なんかほとんど寝ないで話し込んじゃった」親友との変わらぬ友情をあたためた。14日からよみうりランド・イーストのコンサート・リハーサルがスタートした。今年で4回目になるイーストのステージ。毎年1年の総決算ともいうべき意気込みで、本人もスタッフもこのコンサートに賭けているだけに演出が年々大がかりになっていく。と同時に24日は奈保子ちゃんの誕生日でもある。23歳の心境は?「無理に背のびしないで、自然に変わっていけばいいんじゃないかなあ」と話しているが、まわりのスタッフ、テレビ、ラジオ、記者諸氏は”彼女はデビューしてから全然変わらない”というのが共通の言葉。うん、たしかにそうだ。スタッフへの接し方はデビュー以来いつも謙虚で礼儀正しい。奈保子スマイルが人気あるのがうなずける。8月5日には横須賀文化会館でコンサート。今年の夏のステージはこの2か所で終わり。あとはヨーロッパへLP用のプロモーションビデオを撮りに行ってしまう。ノルウェーをはじめ北ヨーロッパをロケするというので、奈保子ちゃんは大いに楽しみにしている。↓河合奈保子さん。↓「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜き。
2023.09.04
コメント(0)
1983年に創刊された雑誌「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜きがあり、河合奈保子さんの北海道での出来事について記載があるページを紹介していきたいと思います。その(2)です。2)1984年8月~9月の河合奈保子さん。(北海道部分は太字)8月5日、名古屋城の野外コンサート。どこも暑かったけど、名古屋もとにかく暑かった。どんなに暑かったかっていうと、こうもりが飛び出すくらい!ホントにあの黒いこうもりが飛んできたんだ。奈保子ちゃんは夢中でわからなかったけど、後で聞いてギョッ!。8日の朝、大阪から帰って、10日まで正真正銘の夏休み。だから、久し振りに片づけしたり、家での~んびり過ごした。10日は「インディージョーンズ」を見に行った。奈保子ちゃんにとって大ヒットで、2時間もアッという間。さすがスピルバーグでした。8月11日からは九州ツアー。11日は大分、12日は福岡、13日は佐世保と、連日ステージをこなしてきた。九州では、福岡で食べたキャベツがおいしかったとか。別にキャベツを食べに行ったんじゃないんだよ。焼き鳥屋さんで出てくる、ちぎったキャベツ。おかわり自由で、特製のタレをつけて食べるんだけど、これがサイコーだったのだ。九州のあとは北海道。8月16日の稚内と、17日の名寄。ここで間違いがおこった。名寄といえば北のはずれ。街の中を走る車もホテルも、クーラーなんか必要ないからついていない、ほどの土地柄。ところが、異常な暑さはここにもやってきていた。ほとんど東京と同じ暑さ。忠告を守って、冬物をどっさり持っていった奈保子ちゃん。得意の笑顔もどこへやら。ステージのあい間に、北のはずれの丘に登り、宗谷岬を眺め、あの『南極物語』のタロ、ジロに対面してきたのが、せめてものなぐさめになったかナ?18日は仙台の青葉城でのコンサート。特設の野外ステージで、初めての試み。そのせいか、思わぬハプニング。青葉城といえば森の中のお城。森の中から蚊や虫の大軍が飛んできたから大あわて。途中で大量の殺虫剤をまきながらなんとか・・・。ところで、サマー・コンサートの疲れが出たのか、9月6日に急性気管支炎のため入院。でも4日間の入院で元気回復後、秋の音楽祭へ向けてスパート。↓河合奈保子さん。↓「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜き。
2023.09.03
コメント(0)
1983年に創刊された雑誌「Momoko」(学習研究社)「IDOL放送局」コーナーの切り抜きがたくさんあり、河合奈保子さんの北海道での出来事について記載があるページを紹介していきたいと思います。その(1)です。1)1984年6月~1984年8月の河合奈保子さん。(北海道部分は太字)(1984年)6月28日の厚生年金ホールで、全国40カ所のコンサートツアーの幕を閉じた。反応が心配された北海道、23日の北見、24日の釧路も、総立ちの大盛況で、ほんとヨカッタ!おつかれさま。で、40カ所もまわってしまう力がどこから出てくるのか?それは、あの素直な性格と旺盛な食欲からなのだと思う。北見では、地元の業者の人が、カニをビックリするくらいたくさん持ってきてくれた。ちょっと時期はずれだったのが残念だけど、それでもじゅうぶんおいしい。それを、植木ばさみを使ってバキバキ割って食べた。奈保子ちゃんはじめスタッフ一同、いやになるほど食べたとか。(ゴックン)それだけでは終わらない。次の釧路でも、じゃがいものおだんごのけんちん汁(これが安くてたっぷりでおいしくて、サイコーだって)、ほっけ、アスパラ、とうもろこし、やきとり・・・etc。その上、いくらやカニのお土産もどっさりいただいて。これらが奈保子ちゃんの活力となって夏のコンサート”サマースペシャル’84”も大成功まちがいナシ!6月27日には水泳大会に参加。(大磯)ロングビーチマラソンでは(松本)伊代ちゃんと組んで、(石川)秀美ちゃん、(堀)ちえみちゃんチームにちゃっかり引っぱってもらって4位。特別賞でバックのセットを獲得してしまった。7月3日。MBSのヤンタンの初日。毎週火曜日の10時から1時までの生番組をレギュラーでやってるんだ。7月12日から21日まで、合歓(ねむ)の郷で、(石川)秀美ちゃんと合同のコンサート合宿。”サマースペシャル84”は、7月24日のよみうりランドオープンシアター・イーストを皮切りに、8月2日の宇都宮まで14か所。屋外が、イーストをはじめ、29日の大阪城、8月5日の名古屋城、同18日の青葉城の4か所。8月28日には、ロスでのLP『DAYDEAM COAST :デイドリームコースト』が、9月1日には、作詞・売野雅勇のニューシングル『唇のプライバシー』が出る。↓ 河合奈保子さん。「Momoko」の「IDOL放送局」切り抜き。
2023.09.02
コメント(0)
「奈保子しんぶん Vol.31 昭和60年(1985年)9月発行/芸映プロダクション・芸映友の会・河合奈保子FC編集部」に、河合奈保子さんが北海道・富良野を訪れた印象や、自分で撮影した富良野の風景写真が掲載されていました。少し紹介します。Q)最近嬉しかったことを教えてください。A)やっぱり雑誌の取材で、念願の北海道・富良野へ行けたことがいちばん嬉しかったー!でも8月に行ったので、時期がはずれて花が咲いてなかったことが残念でしたけれど。7月の半ばから下旬がいちばんいいんですってね。7月最後の日曜日に行なわれるラベンダー祭りが終わると、いっせいに刈り取っちゃうんです。だから行ったときはラベンダーは見れなかったけれど、あぶら菜や黄色い花が咲いててきれいでした。なだらかな丘がずーっと続く風景もすばらしかった。あれはなかなか見れないもんじゃないかなって思いました。夜は星がきれいで、車に乗っていながらも、なんと流れ星を2つも見れたんです! 小さい星までもくっきりとたくさん浮かんでいて、「うわーっ、さすが北海道だなー!」って感動してたら、地方の方が、これでも今日は、見れないほうです、ておっしゃって・・・。そのとき、いかに東京って星が見えない所かとういうことを実感しました。夢に見ていた富良野・・・。思ったとおりの場所でした・・・。次に行くときは、お友達とワイワイしながら行きたいです。↓「奈保子しんぶん Vol.31 昭和60年(1985年)9月発行/芸映プロダクション・芸映友の会・河合奈保子FC編集部」↓富良野で写真を撮る奈保子さん。↓ 奈保子さんが撮影した富良野の風景。↓「奈保子しんぶん Vol.31 昭和60年(1985年)9月発行/芸映プロダクション・芸映友の会・河合奈保子FC編集部」↓ 富良野の記事がある。↓ 河合奈保子さん。
2023.09.01
コメント(0)
1984年6月21日、「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」で、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。北海道・札幌市でのドッキリでしたが、番組でVTRが紹介された後、奈保子さんは17枚目の新曲「コントロール」を歌いました。「コントロール」は作詞:売野雅勇さん、作曲:八神純子さんで、1984年6月1日にリリースされました。メロディラインが八神純子テイストで、奈保子さんの歌声と振付、そして黒い衣装がピッタリです。私は八神純子さんと河合奈保子さんの大ファンで、先日も八神純子さんのコンサートに行きました。サイン会で純子さんに「純子さんと奈保子さんのファンで、純子さんが奈保子さんに提供した歌を聴いています」というと、純子さんがすぐに「コントロール」と笑顔で言われました。シングル曲「コントロール」のB面は、八神純子さんの「夏の日の恋」で、奈保子さんが歌っています。シングルと同時にアルバム「Summer Delocacy (サマーデリカシー」が発売され、A面5曲は全て純子さんの提供曲で、「太陽の下のストレンジャー」「街角」「夏の日の恋」「My Boy」「幻の夏」と続きます。純子さんと奈保子さんが融合したようなゴキゲンな曲です。↓ 「コントロール」を番組で歌う奈保子さん。↓ ドッキリの再現シーン。 奈保子さんが涙を流し続けた。
2023.08.31
コメント(2)
1984年6月21日、「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(5)です。河合奈保子さんが北海道・札幌の宮の森ガーデンでジンギスカン料理を食べていると、ファンの集いに参加した怪しい男性が、奈保子さんにプレゼントした子羊をさばくので食べようと言い出しました。先ほどまで「メリー」と呼んで触っていた羊が肉にされるという事で、「いいです!」と何度も奈保子さんが止めさせようとしました。奥の調理部屋では、子羊につけていたリボンを肉の皿に付け替えて、奈保子さんの前に持っていきました。謎の男が、肉がぴくぴくしているとか言い、奈保子さんは涙が止まりませんでした。結局、松岡レポーターが「ドッキリ」を宣言し、「大成功」となりました。↓ 可愛いと触っていた羊が急遽さばかれることになり、驚く奈保子さん。↓ 店の奥で、羊のリボンを肉の皿に付け替える。↓ 「丁度良い肉だな。まだ骨がついているな」と生々しく言う謎の男。↓ 謎の男性が「肉がまだ動いている」と言った。↓ ショックで何もいう事ができない奈保子さん。↓ 涙ぐむ奈保子さん。↓ とめどなく涙がこぼれる奈保子さん。↓ その後、松岡レポーター登場。↓ ドッキリに気が付く奈保子さん。↓ ドッキリ大成功。
2023.08.30
コメント(0)
1984年6月21日。「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(4)です。河合奈保子さんは北海道・札幌・東急百貨店の「ファンの集い」を行った後、宮の森ガーデンで食事をしました。食事でジンギスカン料理を食べている時、怪しい男性が日本コロムビアの方の紹介という事で、奈保子さんのテーブルに座りました。その男性は「ファンの集い」で大きな箱を奈保子さんにプレゼントしたと話したので、奈保子さんはその事を思い出しました。男性は、箱の中には自分の牧場で育てた子羊を入れていたと言い、スタッフの方と一緒に、箱の中に入っていた子羊を持ってきました。奈保子さんは子羊の名前(メリー)と呼びながら、持って帰ろうか迷っていましたが、やはり東京の自宅には犬がいるので、羊は持って帰れないと奈保子さんが言うと、男性が子羊をおろして、肉にして食べようと提案しました。ビックリした奈保子さんは、「いいです!いいです!」と言って何度も断ろうとしました。↓ 北海道・札幌 宮の森ガーデンで、ジンギスカン料理を食べる河合奈保子さん。先ほどの男が登場。↓ 男性は、日本コロムビアの方の紹介で来たと挨拶した。↓ 挨拶をしながらもジャガイモをむさぼる奈保子さん。↓ ジャガイモを食べる奈保子さん。↓ 「肉をもっと食べてくださいよ。ここは僕のサインで全部できますから」と気前の良いことを言う謎の男性。↓ どんどん食べる奈保子さん。↓「さっき私が会場に行っていたの、わかりましたか? 大きなプレゼントを持っていった」と謎の男性が言った。↓「ああっ、どうも」と言って、やっと男性が会場の客だと分かった奈保子さん。奈保子さんが「あの大きな箱の中身は?」と聞いた。↓ 男性は「奈保子ちゃんが動物が好きだという事で、うちの牧場にいた羊を箱に入れた」と言った。↓ 「ええっ! 中身は羊なんですか?」と驚く奈保子さん。↓ 「羊は好きか」と聞かれ、「好きです」と答える奈保子さん。↓ プレゼントの羊を持ってくるため、スタッフの方と謎の男性が席を空けた。男性の素性を不審がる奈保子さん。↓「奈保子ちゃんに持って帰ってもらおうと思った」と言って羊を持って来た怪しい男性。↓ 可愛い子羊。↓ 羊にお手をさせる奈保子さん。↓「メリー」と名を呼ぶ、動物好きの奈保子さん。↓ 「奈保子ちゃんのレコードも、びっちり集めているんですよね」と自分を売り込む謎の男。↓ 男性が「新曲の『コントロール』。それからその前の『ロックンルージュ』とかね」と言ったが、「『ロックンルージュ』は聖子ちゃん」と奈保子さんが訂正した。↓ 「家に犬がいるんですよ。(羊は)どうしようかな」と悩む奈保子さん。↓「(うちに)来る? メリー」と羊に声をかけた奈保子さん。↓男性が「羊を食っちゃうかい?」と言った。↓ 男性が店の人を読んで「羊をおろしてよ」と言った。↓「いいです! いいです!」と言って、必死に止めようとする奈保子さん。↓「大丈夫ですよ!」と必死の奈保子さん。
2023.08.29
コメント(0)
1984年6月21日、「スターどっきり㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(3)です。河合奈保子さんは北海道・札幌の東急百貨店屋上での「ファンの集い」終了後、宮の森ガーデンで食事をしました。お腹が空いていた奈保子さんは、ジンギスカン料理を夢中で食べます。奈保子さんはいつも自然体で、そこが魅力なのだろうと思います。↓ 宮の森ガーデンでジンギスカン料理を食べる奈保子さん。
2023.08.28
コメント(2)
1984年6月21日、「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」があり、河合奈保子さんのドッキリが紹介されました。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(2)です。奈保子さんは北海道・札幌の東急百貨店屋上でファンの集いがあり、新曲「コントロール」を歌います。「コントロール」は八神純子さんが奈保子さんのために作って提供した歌です。歌った後に握手会がありましたが、仕掛け人の男性が、大きなプレゼントの箱を渡しました。(この箱の中に、実は生きた羊が入っているという設定です)↓ 1984年6月21日放送「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」。河合奈保子 北海道名物 ヒツジの生き造り哀れな仔羊に大号泣!↓ 北海道札幌市。 松岡まことレポーター。↓ 時計台。↓ ポプラ並木。↓ デビュー5周年記念「河合奈保子ファンの集い 本日午後2時から 東急百貨店屋上」↓ 東急百貨店屋上の河合奈保子さん。新曲「コントロール」のポスター。↓ 地元テレビ局の取材で熱唱する河合奈保子さん。↓ なにやらあやしげな男。(ドッキリ仕掛け人)↓ 怪しい男が河合奈保子さんに花をプレゼントする。↓ 巨大なプレゼント攻勢をかける男。↓ 巨大なプレゼント箱を渡す男。↓ 次のファンと握手する河合奈保子さん。↓ ファンからプレゼントを渡され喜ぶ奈保子さん。↓ ファンにお礼を言う奈保子さん。↓ さていよいよワナが!!
2023.08.27
コメント(2)
1984年6月21日の「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」で、河合奈保子さんが出演されました。番組側が仕掛けを準備して、スターをドッキリさせるという番組で、奈保子さんが北海道・札幌に行ったときに撮影された映像が放送されました。当時のキャップは露木茂さん、レポーターは松岡まことさんでした。この時のドッキリですが、プレゼントでもらった羊を食べるという提案があり、奈保子さんが泣いてしまいます。(流れは次の通り)・北海道でのサイン会で、奈保子さんが男性から変なプレゼントを受け取る。・サイン会が終了後、奈保子さんが食事をしていると、例の男性が現れた。その人がプレゼントした箱の中には、生きた羊が入っていた。・奈保子さんはこの羊を東京に持って帰られない。すると男性がその場で、羊を肉にして、ジンギスカンで食べようと提案した。それを聞いて、奈保子さんの目から涙がポロポロ。河合奈保子さん 北海道でのドッキリ(1)です。↓ 1984年6月21日「スタードッキリ㊙(まるひ)報告」に出演した河合奈保子さん。↓ 河合奈保子さんと、レポーターの松岡まことさん。「こんにちは」と挨拶する奈保子さん。↓ 松岡レポーターから、「奈保子ちゃんは本当に動物が好きなのね!」と言われる。↓「好きです」と答える奈保子さん。↓ 松岡レポーター:「最初奈保子ちゃんは(プレゼントされた)羊を(東京に)連れて帰ろうとしたんですよね」↓「こんなに羊が大きくなることも知らないでね」」↓「アハハッ。持ち帰られる物ならば(持ち帰りたかった)」と奈保子さん。↓ 松岡レポーターから「食べてた肉は美味しかったですか?」と聞かれた。↓「食べてた方ですか?」↓「もう、すごいお腹が空いていたんですよ、その時」↓「もう恥ずかしいくらい、いっぱい食べてて」↓ 松岡レポーターが「奈保子ちゃんの食欲も見ものなんです」と言った。↓ 恥ずかしがる奈保子さん。↓ 松岡レポーター:「カメラに向かって一言お願いします。どうぞ」↓ 河合奈保子さん:「VTRスタート!」
2023.08.26
コメント(0)
河合奈保子さんが冬の北海道で取材を受けました。(月刊平凡 1982年3月号切り抜き)河合奈保子 雪の精雪のホワイト・ボードに”ラブレター”の文字永遠に残したい5つのカタカナ列車にかき消されてもナオコがかいた文字は永遠に残されるだろう今日一日は雪の精。グレーのコート。金ラメのブーツに身を包んだ奈保子。すっぽりと雪化粧された真冬の北海道の原野、零下10度のもとで撮影を開始した。春、初夏、秋と一番陽気がいい時しか北海道を訪れたことがないという奈保子も、真冬の厳しくつき刺すような北海道の自然の驚異にただただ驚くばかり。透き通るような奈保子の肌も、ときおり猛威をふるう吹雪にうたれ、顔の筋肉が硬直していくさまが、自然の偉大さに怖ささえ感じる。30分という短い時間の中で、ファンタジックな写真に挑戦した奈保子、写真のあがりをみた時、”奈保子じゃないみたい!! でも、パネルにしたら素敵でしょうね” ちょっぴり背伸びをした雪の精。奈保子はいかがかな。でも、奈保子は”ナハハ”が一番とおっしゃるファンの皆さん、来月はオーストラリアで楽しい写真を紹介します。楽しみにしてくださいネ。 (協力:マッシュネロ・ハウス、撮影:小堀篤信氏)↓ 雪の精のように美しい河合奈保子さん。
2023.08.25
コメント(2)
河合奈保子さんが北海道・富良野で取材を受けた雑誌切り抜きがあったので、紹介します。1985年夏の奈保子さんです。富良野でゆっくりされています。河合奈保子さん:北海道富良野より愛をこめて・・・ (記事の一部)もう1年以上奈保子が「富良野に行きたいよー。いっしょに行こうよー」と言い続けてた。チャンスができた。1日だけ富良野で、取材の時間が出たのだった。1985年10月3日に出る新曲はなんと「ラヴェンダー・リップス」という。不思議な偶然の一致。11月23日、24日は、東京・芝郵便貯金ホールで恒例となった秋のリサイタルをやる。そして、先日行ってきたばかりのロサンゼルス録音LPと、アメリカ横断して撮影されたビデオが年末までに発売される予定だ。無邪気の天才も、立派に成長しているのです。↓ 北海道・富良野の河合奈保子さん。
2023.08.24
コメント(2)
今年はお盆に山口県の田舎に帰ろうと、新幹線のチケットを予約していましたが、台風の影響で帰省を諦め、チケットの払い戻しをしてもらいました。休みは毎日ウォーキングをして、夜に家に帰ってきた後、シャワーを浴びて妻と晩御飯を食べる生活でした。2023年8月12日もウォーキングをして帰り、夕食をとっていると、テレビで「ダウンタウン vs Z世代」という番組がありました。柏原芳恵さんが紹介されていたので、河合奈保子さんも紹介があるかなと思っていましたが、全然でてきません。諦めてご飯を食べていると、いきなり河合奈保子さんが「けんかをやめて」を歌う姿が紹介されました。手元にカメラが無かったので、スマホで備忘として撮影しました。奈保子さんの映像は何度見ても良いです。品のある奈保子さんでした。↓ けんかをやめてを歌う河合奈保子さん。
2023.08.23
コメント(2)
1986年8月9日から8月21日まで、自転車で北海度を旅行しました。広島、東京、上野、青森、函館、大沼、長万部、洞爺湖、オロフレ峠、登別、岩見沢、網走、能取湖、サロマ湖、小清水原生花園、斜里、宇登呂、カムイワッカの滝、知床峠、屈斜路湖、摩周湖、美幌峠、美幌、北見、上川、層雲峡、旭川、富良野、札幌、千歳、広島。当時はスマホなど便利なものが無く、持参した地図帳で自分の位置を確認し、旅先で出会った人たちと情報交換をするのが重要でした。サイクリスト達から、このルートは景色が良いとか、このルートはきついし危ないので避けた方が良いとか、生の情報を聞くと、参考になりました。旅で知り合った方々とは、住所・氏名情報を交換し、後日、手紙を書いて焼き増しした写真を付けて送ったりしました。先方から地場の名産品を頂くことがあり、私からは広島のもみじ饅頭を送っていました。北海道で知り合った人から、自転車旅行で広島に来たので、今日宿泊させてほしいと急に電話があったことがありました。夕方だったのですが、母親に話すと、料理と蒲団の用意をすると言ってくれたので、2人のサイクリストを迎えに行き、家で食事会をし、寝てもらいました。その後、東北で知り合った方も、うちの家に泊まられたことがあります。当時はフィルムカメラで撮影していましたが、フィルムがちゃんとセットされておらず、写真が撮られていなかったこともありました。北海道旅行で撮影されていなかった時期があり、本当に残念でした。今ならデジカメやアイフォンで簡単に写真が確認できるので、良い時代になりました。自転車がパンクしても緊急対応できるよう、旅行前に練習しました。修理用具も持参して旅をしました。旅行中は、広島の両親が心配するので、時々電話して、現在地や見た事をを手短に伝えました。電話料金が高く、電話ボックスがあれば、1分程度話しただけで電話を切りました。テレフォンカードを買って使用しました。今ならラインで簡単です。昔はコンビニなど便利な店は無かったので、大きな町で飲み物を買って自転車旅行をしていました。何十キロ走っても、店が全然ないという事は普通でした。函館駅の電話ボックスで電話をした後、長万部に向かいました。ところが途中の大沼で、函館駅の電話ボックスの棚に、ノートを置き忘れたのに気が付きました。ノートには、広島から函館までの記録と、観光地のスタンプを押していました。大沼駅の電話ボックスから函館駅に電話して、ノートについて相談しました。函館駅の駅員さんは、探してみると言われました。北海道旅行から帰り、数日後、私の家に郵便物が届き、中にはノートが入っていたのでビックリしました。函館駅の方に、お礼の手紙ともみじ饅頭を送りました。今回ブログをまとめるにあたり、函館までの記録と記念スタンプを紹介できたのは、そのノートがあったおかげです。函館駅の方に感謝します。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 北海道のお土産。ステッカー (PRODUCED BY MATSUHIRO CO.,LTD.)このデザインの旗も購入し、自転車に付けて北海道を走った。↓ カードケース(PRODUCED BY SAPPORO MATSUHIRO CO.,LTD.)↓ 愛国から幸福へ (釧路鉄道管理局)当時、愛国駅、幸福駅に行くと、幸せになれると言われていた。↓ 国鉄の「青春18きっぷ」 旅行中に参考にした本。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。北海道旅行の観光地情報は、この本と、地元のパンフレットを読んで知った。↓ コンパニオン 道路地図帖 北海道編 /ワラヂヤ。この青い地図帖を持って、北海道を旅した。見やすくて、とても重宝した。北海道編は青色、東北編は黄色で、表紙が目立った。↓ 北海道グーンとワイドカタログ/アウトドア研究会/大和出版ーーーーーーーーーーーーー↓ 私が学生時代に作っていた冊子。(6冊目:北海道旅行特集)WINDOW SHOPPING VOL.6 1986年8月9日~8月21日忙しくなり、残念ながらこの6号冊子だけが、未完となってしまった。↓ 表紙は、私と自転車の絵を描こうとしていた。下描きだけ。↓ 1986年8月9日、上野駅の改札で切符を切ってもらう姿のメモ。分解型自転車が入った袋を左肩に掛け、背中、右肩にも荷物を一杯掛けている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月9日~10日、上野駅から青森駅まで、深夜急行「八甲田号」に乗車した。満席で、仕方がないので通路や席の足元の空間に、新聞紙や雑誌を敷いて座った。周りの人と仲良くなり、飲み食いしながら色々な話をした。列車内は冷房が効きすぎ、お腹を壊して何度もトイレに行く人がいた。皆が身体を寄せて通路を空けた。(下書き)上野21時14分発、青森9時10分着 東北本線 深夜特急「八甲田」にて。↓ お腹を壊して、何度もトイレに行く人。ーーーーーーーーーー1986年8月12日、サイクリストの人と知り合い、洞爺湖で一緒に花火大会を見た。洞爺湖火山科学館で自転車を置いて、2人が寝る用意をしていたが、バイクで旅行中の3人が一緒に寝たいと言ってきた。夜に私達が話をしていると、バイクの人たちが「うるさいから眠れない」と言いだし、喧嘩になりそうになった。結局私達が外に出て、知り合った人が設置したテントの中で寝る事になった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーー1986年9月13日、登別でクマ牧場に行き、ユーカラの里を見学した。そこで大阪から遊びに来ていた3人の女性達と会い、色々な話をした。印象に残っていたので、マンガに描こうと思った。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーー1986年8月13日、登別の地獄谷で知り合った2人と一緒に、登別・第一滝本館に行った。1500円で温泉に入った。中にはウォータースライダーもあり、皆で遊んだ。夜は登別駅で、サイクリストなど皆で集まって、パーティーをした。旅の話を色々聞くことができて、とても楽しかった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーーー1986年8月15日、網走駅で分解型自転車を組み立てていると、色々な人から声を掛けられた。北海度を電車とバスで旅しているという女性と話をした。とても笑顔の可愛らしい人だった。「またお会い出来たらいいですね」と言って別れた。北海道は広いので、もう会う事は無いと思った。自転車で能取湖、サロマ湖まで行き、再び網走駅に戻った後、斜里駅まで走った。途中の小清水原生花園に行ったとき、「こんにちは」と声を掛けられ、見ると網走で朝に会った女性だった。私の麦わら帽子を見て気が付いたとの事。原生花園とオホーツクの夕日を見ながら、色々な話をした。ここで別れたのが、本当の別れになったが、私の中ではとても印象深いエピソードだったので、描こうとした。(下書き)ーーーーーーーーーーーーー1986年8月17日、斜里駅から自転車で野上峠を越えて、川湯温泉に着いた。その後、自転車で「屈斜路湖」まで走った。上りはきつかったが、キラキラ輝く湖面が見えてきたときは感動した。この日夕方には、屈斜路湖から美幌峠まで自転車で進んだが、股ずれ、尻ずれで激痛が酷く、再び屈斜路湖に戻った。知り合った人と和琴温泉で温泉に入り、患部をマッサージした。二人ずつに分かれてコテージに入ることにした。私はすぐ寝たが、夜中に起きると、隣にいた人の姿が無かった。びっくりして隣のコテージに行くと、その人がいた。私のイビキがあまりにもうるさく、寝られないので移ったとの事であった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーー下書きさえも描いていないページが沢山あった。下は、昭和新山やオロフレ峠の事を描こうとして、途中で止まっている。↓ 下は雑紙に速記したもの。網走駅にて。↓ 網走駅にて。↓ 年賀状の一部。摩周湖。 プリントゴッコで印刷。ーーーーーーーーーーーーーーー「ひろしまフラワーフェスティバル」(1986年5月3日~5日)ノート。このノートに広島から函館まで、メモや記念スタンプを押していた。函館駅の電話ボックスの棚に、ノートを置き忘れてしまった。大沼駅で気が付き、函館駅に電話して相談すると、探してみるとの返事を頂いた。旅から戻った後、ノートの入った袋が広島の実家に届いた。函館駅の方から送られたもので、本当に感謝した。これが無いと、最初の頃の事が想い出せなかった。↓ 広島平和大通りのパレード会場。↓ ノートに私の住所と氏名を書いていた。ーーーーーーーーーーーーー↓ ノートを函館駅で忘れたのに気が付いた後、広島銀行のメモ帳に、旅のメモを書いて記念スタンプを押した。広島銀行のメモ帳↓ 今は無き、広島市民球場が写っている。↓ 記念スタンプを押していった。
2023.08.22
コメント(0)
今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)13日目は札幌駅から千歳駅まで、青春18きっぷで移動し、全日空の飛行機で広島に帰りました。ーーーーーーーーーーーー【13日目 : 1986年8月21日(水)】最終日・前夜は札幌駅前で野宿した。朝起きて、Yさんと記念撮影をして別れた。袋に入れた分解自転車を札幌駅の貨物取扱所に持っていき、広島駅まで送付依頼をした。・5枚目の「青春18きっぷ」を使い、札幌駅から千歳駅まで移動した。千年では、千歳川に設置されたインディアン水車を見た。インディアンの捕獲方法を参考にして、千歳川を上ってくる鮭を捕まえる装置。・千歳空港で、全日空272便(札幌15:05→広島17:10)に搭乗した。機窓から日本アルプスが見えたが、どの山か分からなかった。・家に帰ると母親から、汚くて臭いので、服を全部脱いで、すぐに風呂に入れとの指示が出た。屈斜路湖のコテージに1泊した以外は、全て野宿だったので、久しぶりの蒲団が懐かしかった。・次の日から、アルバイトを再会した。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道南部より↓ 1986年8月21日朝、札幌駅前でYさんと記念撮影。右側の青い袋は、分解型自転車の入った袋。↓ 北海度21世紀博覧会のポスター。私は1986年8月14日に、岩見沢の会場で見た。↓ 国鉄の青春18きっぷ。1986年8月13日に登別駅で、1万円で購入した。5枚綴り。↓ 青春18きっぷ。5枚つづりで、最後の5枚目を1986年8月21日に使用した。札幌駅→千歳駅。↓ 千歳川。↓ インディア水車。千歳川に設置して、上ってくる鮭を捕獲する水車。インディアンのやりかたをヒントに、明治29年から使用された。↓ 千歳駅。↓ 全日空時刻表。↓ 広島行きの便。↓ 札幌→広島 全日空272便(札幌15:05→広島17:10)に搭乗。↓ 搭乗券。↓ 空港で買い物をした。 全日空商事の袋。↓ 全日空スカイホリデーのパンフレット。旅重ねて15年 全日空スカイホリデー でっかいどお北海道 期間:昭和61年1986年)4月~11月。
2023.08.21
コメント(2)
今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)12日目は鉄道で、富良野駅から札幌駅に移動しました。札幌市内を観光し、夜はサッポロビール園でビールとジンギスカンを頂きました。夜は札幌駅前で野宿しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーー【12日目 : 1986年8月20日(火)】・富良野駅近くで野宿をした後、輪行で札幌駅まで移動した。・札幌駅で、サイクリストのYさんと知り合った。一緒に道庁赤レンガ庁舎や時計台を見学した。夜にサッポロビール園で落ち合うことにし、いったん別れた。私は北海道大学構内や、札幌の街を散歩した。・夜にサッポロビール園でYさんと再び会い、一緒にビールとジンギスカンを腹いっぱい頂いた。・札幌駅構内は深夜になるとシャッターが閉まったので、札幌駅近くでYさんと一緒に寝袋で野宿した。二人で旅の楽しい話をして、とても楽しかった。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道南部より富良野、札幌の位置。↓ 1986年8月20日。北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)にて。サイクリストのYさんと知り合い、記念撮影。ーーーーーーーーーーーーー↓ 時計台 (旧札幌農学校演舞場:札幌歴史館)ーーーーーーーーーーーーー↓ 北海道大学構内にあるクラーク像。ーーーーーーーーーー↓ 夜にYさんと落ち合い、サッポロビール園で腹いっぱいビールを飲み、ジンギスカンを食べた。ーーーーーーーーーーーーー夜の札幌市内。 テレビ塔と噴水。自転車で札幌市内をゆっくり走った。↓ 観光案内所でいただいた、札幌タウンマップ。↓ さっぽろ東急のブックストーキューチラシ。
2023.08.20
コメント(2)
今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)11日目ですが、上川駅から層雲峡まで自転車で走りました。流星の滝、銀河の滝などを見た後、再び上川駅に戻り、自転車を分解して輪行しました。鉄道で旭川駅に移動し、駅前を散策した後、鉄道で富良野駅に行きました。ふらのワインハウス、北海道のへそ中心標、TVドラマ「北の国から」の舞台となった麓郷を散策し、富良野駅で野宿しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーー【11日目 : 1986年8月19日(月)】・前夜、上川駅近くで野宿をした。8月19日朝、分解型自転車を組み立てて、状態をチェックした。前日、自転車のペダルとクランクが外れなくなってしまい、美幌駅近くの自転車屋に見ていただいた。店の方からは、再び自転車が壊れる可能性があるので、家に帰るまで乗らない方が良いと言われたが、上川駅から層雲峡の観光地まで片道20キロはあるので、だましだまし、自転車で走ることにした。・層雲峡温泉で旅行中の人と知り合い、流星の滝、銀河の滝を一緒に見た。自転車で再び上川駅に戻った。ここで自転車を分解し、輪行をした。・鉄道で上川駅から旭川駅に移動した。朝から何も食べていなかったので、駅弁を購入して食べた。旭川駅近くを散歩した。・旭川駅から鉄道で富良野駅に進んだ。富良野駅で自転車を組み立てた。「清水山グリーンランド」が富良野駅から3キロ先にあり、そこにある「ふらのワインハウス」に寄った。ガイドブックに「牛肉と名物のワインが味わえる」と書いてあったので、ぜひ食べてみたかった。とても美味しかった。・富良野小学校の校庭にある「北海道のへそ中心標」を見た。北海道のど真ん中に当たる場所。・テレビドラマ「北の国から」のロケ地である麓郷を少し見て、富良野駅近くで野宿した。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 (北海道北部)上川駅、層雲峡、旭川駅の位置。↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 (北海道東部)層雲峡、旭川駅、富良野駅の位置。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p79↓ 北川駅の記念スタンプ。↓ 自転車で上川駅から層雲峡まで走った。↓ 層雲峡温泉で記念撮影。↓ 流星の滝で、知り合った人と記念撮影。↓ 銀河の滝にて。私の自転車も一緒に。↓ 柱状節理の大絶壁が続く。↓ 自転車で層雲峡を走る。↓ 大雪山の山々が、手前の山稜の上に、頭の部分だけ少し見えた。ーーーーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p73上川駅から旭川駅まで、輪行した。↓ 旭川駅前。↓ 旭川の標識。↓ 旭川駅で、朝食の駅弁を食べた。旭川駅立売株式会社の箸袋。ーーーーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p80旭川駅から富良野駅まで、輪行した。↓ 「ふらのワインハウス」のホームページより。ガイドブックを見て、どうしても「ふらのワインハウス」で昼食をとりたかった。↓ 1986年8月19日に、私が「ふらのワインハウス」で食事をした時のレシート。↓ ふらのワインハウスで、肉とワインのランチを頂いた。ーーーーーーーーーーーー↓ 富良野小学校の校庭に建つ、北海道中心標。ここは、北海道のど真中で、へそにあたる。「へそ踊り」が有名。ーーーーーーーーーーーーーー富良野は、テレビドラマ「北の国から」の舞台。↓ 女優のいしだあゆみさんの写真。↓ 富良野 北時計 (「北の国から」のインフォメーションセンター兼喫茶店)↓ 倉本聰原作「北の国から」ロケ記念北の国から 第2集/発行 麓郷郵趣会/麓郷郵便局
2023.08.19
コメント(2)
今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)10日目ですが、屈斜路湖・和琴温泉から美幌峠を越え、美幌駅に行きました。自転車を点検すると、ペダルとクランクに問題あり、美幌の自転車屋で応急処置をしていただきました。この日は自転車移動を止め、鉄道で輪行することにし、美幌駅、北見市、そして層雲峡が近い上川駅で下車し、野宿しました。ーーーーーーーーーーー【10日目 : 1986年8月18日(月)】・前日の8月17日に、屈斜路湖から美幌峠に自転車で上がり、美幌駅まで行こうとした。しかし股ずれ、尻ずれがひどく、患部が腫れあがって激痛だったので、屈斜路湖に引き返し、和琴温泉の露天風呂で患部をマッサージした。・8月18日朝、再び屈斜路湖から美幌峠へ上り、美幌駅まで走った。美幌駅では2人組のサイクリストに会い、旅の情報交換をした。・美幌駅で自転車の点検を行っていたところ、異常が見つかった。分解型自転車だが、ペダル部分の先が雄ネジで、クランクの穴が雌ネジになっており、ペダルネジをクランク穴に入れて、時計回りに回すと固定され、反時計回りに回すと外れる仕組みになっている。通常ならばペダルを回すだけで簡単に外れるのだが、力を入れても全く外れなくなった。自分で頑張ったが駄目だったので、道行く人たちに、自転車屋の場所を聞いた。・美幌の自転車屋で、ペダルとクランクを見てもらった。店の方は「これは簡単には直せない。自転車が壊れる可能性があるが、それでも良ければ、無理やりなんとかしてみる」と言われた。買ったばっかりの自転車なのだが、分解して袋に入れて輪行するとき、ペダルが外れていないと問題だと考え、お願いすることにした。結局、30分以上かかって、やっとペダルがクランクから外れた。自転車屋の方は、「もう自転車は乗らずに、地元に帰ってから、自転車をメンテナンスに出すべき」とアドバイスを頂いた。・自転車に問題無ければ、本来なら美幌から北見、遠軽など自転車で走る予定だったが、止めた。美幌駅で自転車を分解して袋に入れ、鉄道で移動することにした。・北見駅で下車し、市内を散歩した。ハッカの生産地だということを知った。・夜に鉄道で、層雲峡の玄関口である上川駅に移動した。列車内では、車掌さんに青春18切符を見せて挨拶すると、北海道の旅の情報など色々と教えていただいた。車掌さんも学生時代に旅をしていたとの事であった。・上川駅に着き、駅近くで野宿をした。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道北部屈斜路湖、美幌峠、上川の位置。↓ 屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、北見駅、上川駅の位置。↓ 屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、北見駅の位置。↓ 上川駅付近。近くに層雲峡がある。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月17日午後に撮影した、美幌峠の写真。本当ならば、このまま美幌駅まで自転車で進む予定だったが、股ずれ、尻ずれがひどく、患部が赤くただれて激痛だったので、屈斜路湖の和琴温泉に戻り、風呂で患部をマッサージした。1986年8月18日朝、和琴温泉から再び自転車で美幌峠に上り、美幌駅へ進んだ。↓ 美幌峠の道路。 右は屈斜路湖。↓ 屈斜路湖。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月18日。美幌峠から美幌駅に行く途中で撮影。↓ 美幌駅で出会ったサイクリストと記念撮影。*美幌駅で自転車を点検していると、ペダルとクランクが外れなくなったのに気が付いた。自分では直せなかったので、美幌にある自転車屋で見てもらった。「無理やり外そうとすると、壊れるかもしれないが、それでも良いか」と聞かれ、「お願いします」と答えた。30分以上かかり、やっとペダルが外れた。店の方から、「もう自転車には乗らず、地元に帰ってから、自転車のメンテナンスをした方が良い」と言われた。この日は、自転車を諦め、鉄道で移動することにした。↓ 「びほろ 阿寒国立公園の表玄関/北海度アート社/1986年3月」↓ 美幌から始まる東北海度の旅。ガイドマップ。↓ 美幌駅で押した記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーー↓ 北見駅前。鉄道で美幌駅から北見駅に移動した。北見市内を散策した。↓ 北見駅の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーーーーーーー夜に石北本線で、北見駅から上川駅に移動した。車掌さんに青春18きっぷを提示した。車掌さんからは、北海道の旅の情報など色々と教えていただいた。上川駅で下車し、駅近くで野宿した。
2023.08.18
コメント(2)
今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)9日目ですが、斜里駅から野上峠を越えて屈斜路湖の川湯温泉に行き、「川湯相撲記念館」、硫黄山の噴煙を見ました。釧網線を越えて摩周湖に上り、展望台で記念撮影をしました。弟子屈から阿寒湖まで走っていたのですが、途中で弾き返し、屈斜路湖を通って美幌峠に行きました。しかし、美幌駅まで行くのは止めて引き返し、屈斜路湖の和琴温泉で入浴し、コテージに泊まりました。ーーーーーーーーーーーーーーーー【9日目 :1986年8月17日(日)】・知床で知り合った自転車旅行中のKさんと一緒に、斜里駅近くで野宿した。朝5時半に起き、kさんと別れて屈斜路湖に向かった。斜里岳を見ながら、どこまでもまっすぐな道を進む。野上峠を越えると、屈斜路湖畔の川湯温泉に着いた。・屈斜路湖というと、未確認生物「クッシー」が有名で、大きなクッシー像があった。川湯は「巨人、大鵬、卵焼き」で有名な、第48代横綱・大鵬(たいほう)の故郷ということで、「川湯相撲記念館」が建てられていた。大鵬の歴史を詳しく知った。・川湯温泉から少し自転車を走ると、硫黄山があり、白い蒸気が吹き出されていた。一面硫黄の臭いが立ち込めていた。・硫黄山から釧網本線を越えて、自転車で摩周湖まで上って行った。結構きつかったが、真っ青な水面の摩周湖が視界に入ってきたときは、とても感動した。第3展望台で早速記念撮影をした。その後、第1展望台に移動して撮影した後、坂を下って弟子屈(てしかが)駅に着いた。・弟子屈駅からマリモで有名な阿寒湖に行こうとした。ずっと阿寒横断道路241号線を自転車で進んで行くと、途中で阿寒湖側からやってくるチャリンコ族がいた。「今から阿寒湖に行き、日帰りで戻りたい」と言うと、「片道40キロで、往復なら距離もあるし、坂が長いので、止めた方が良い」とアドバイスをもらった。色々考えて、阿寒湖行きを止めて、屈斜路湖に戻った。・屈斜路湖から美幌峠を越えて、美幌駅まで移動しようと考えた。自転車をこいで美幌峠まで上がったが、股ずれや尻ずれがひどく、屈斜路湖に戻って、温泉で擦れた部分をマッサージした方が良いと考えた。・屈斜路湖の和琴温泉に行った。そこで野鳥の会の人たちと知り合い、一緒に温泉に入った。股や尻が赤く腫れており、温泉の中でずっと患部をもんでいた。・和琴温泉にコテージがあるので、二人ずつに分かれて泊まる事にした。私は北海道旅行をし始めて、野宿ばかりだったので、初めて部屋で寝る事になった。野鳥の会の人と相部屋だったが、その人は、本を読むと言って起きていた。私はすぐに寝てしまった。トイレに行きたくなって目が覚めた。横を見ると、野鳥の会の人の姿が無く、びっくりした。驚いて隣のコテージのメンバーに相談しに行くと、そこに私の横に寝る予定の人がいた。なぜ隣のコテージに移ったのか理由を聞くと、私のイビキがあまりにもひどく、寝られなかったのでコテージを移ったとの事だった。トホホ。ーーーーーーーーーーーー↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p102~103斜里町、屈斜路湖、摩周湖の位置。↓ 斜里駅、屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、摩周湖、阿寒湖の位置。↓ 1986年8月17日朝、斜里駅近くにて、kさんと記念撮影。kさんは自転車旅行者で、前日に知床で知り合い、いっしょに野宿した。kさんとはここで別れ、屈斜路湖に向かった。↓ 斜里駅近く。↓ 斜里岳を見ながら自転車で走った。、↓ 野上峠を上る。↓ 野上峠で記念写真。 弟子屈町に入る。↓ 川湯へ進む。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p121.屈斜路湖、川湯、硫黄山、摩周湖、阿寒湖の位置。↓ 川湯で、屈斜路湖の未確認生物「クッシー」の像を見た。↓ 川湯神社と、第48代横砂「大鵬(たいほう)」の像。↓ 「川湯相撲記念館」のチケット。川湯が故郷の第48代横綱「大鵬」が紹介されており、見学した。人気があったものとして、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が有名。↓「川湯相撲記念館」のパンフレット。第48代横綱 大鵬幸喜を称して、不世出の横綱と人は言う。力士の誰もがそうであるように、角界の頂点をめざして、しこを踏んだ入門時代。白星街道をひた走り、次々と記録を塗り替えた一人の天才力士の努力と栄光のドラマが、この記念館に収められている。↓ 川湯相撲記念館の記念スタンプ。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p122.屈斜路湖、川湯温泉、硫黄山、摩周湖、弟子屈の位置。屈斜路湖の和琴温泉では、「ミンミンゼミは道南以北はここだけに生息する」と書いてある。↓ 釧網本線 川湯駅の記念スタンプ。硫黄山の噴煙が描かれている。↓ 川湯の硫黄山に進む。↓ 阿寒国立公園 川湯 硫黄山で記念撮影。↓ 白い噴煙が立ち昇り、硫黄の臭いが鼻をついた。↓ 黄色の硫黄が岩についている。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 釧網本線を越えて、自転車で摩周湖へ上っている途中の景色。奥に硫黄山が見える。↓ 摩周湖(第3展望台)で記念撮影。↓ 年賀状の一部。 摩周湖の絵をプリントゴッコで印刷した。↓ 年賀状の一部。河合奈保子さんと菊池桃子さん。プリントゴッコで印刷。↓ 第3展望台から見た「摩周湖」。↓ 摩周湖で記念撮影。↓ 摩周湖の湖面に、白い雲が映っている。ーーーーーーーーーー↓ 第1展望台に移動して撮影した「摩周湖」。摩周湖を下って、弟子屈駅に行った。ーーーーーーーーーーーーーー弟子屈駅から阿寒湖に向かい、阿寒横断道路241号線を自転車で走った。途中で阿寒湖方向から自転車で走ってくる旅行者がいたので、色々話を聞いた。私が「今から阿寒湖まで往復したい」というと、その人は、「阿寒湖まで40キロあるし、坂が長いので、今から日帰り往復は無理。止めた方が良い」と言った。結局、阿寒湖に向かうのを止めて、屈斜路湖に戻った。↓ 阿寒 パンフレット/企画制作・(株)日本交通事業社↓ 阿寒湖で有名な「マリモ」の伝説。↓ 阿寒湖のマリモ。↓ 阿寒湖のスタンプ。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p123阿寒湖の図。.ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー屈斜路湖から美幌峠を越えて、美幌駅に行こうと思った。自転車で屈斜路湖の外輪山である美幌峠へ進んだ。↓ 屈斜路湖。↓ 美幌峠で記念撮影。 背景は屈斜路湖。↓ 屈斜路湖。↓ 美幌峠のルート。↓ 屈斜路湖(左半分)。↓ 屈斜路湖(右半分)。↓ 美幌峠で、バスの団体旅行者が屈斜路湖を背景に、記念撮影を録っていた。美幌峠まで自転車をこいだが、股ずれ、尻ずれがひどくて痛かった。このまま美幌駅に行くよりも、屈斜路湖の和琴温泉で、温泉につかってマッサージをした方が良いと思い、再び屈斜路湖に戻ることにした。↓ 戻る途中の屈斜路湖。↓ 屈斜路湖畔と夕陽。ーーーーーーーーーーーーー↓ 私が学生時代に作っていた冊子「WINDOW SHOPPING VOL.6 1986 8/9~8/21」北海道自転車旅行を、記事と写真、マンガでまとめようとして、下書きまで用意したが、未完で終わった。マンガの下書きの紹介。摩周湖と、和琴温泉、コテージでの出来事について描いた。↓ 自転車で摩周湖まで上って行った。キラキラ輝く湖面が見え、やっと摩周湖に着いた。↓ 自転車をこいできたので、股ずれ、尻ずれが酷く傷んだ。、夜、野鳥の会のグループと知り合いになり、屈斜路湖の和琴温泉で一緒に露天風呂に入った。↓ 股や尻が痛かったので、温泉の湯の中で患部をマッサージした。野鳥の会の人たちと食事をした。コテージを借りて、2人に分かれて寝る事になった。私は疲れていたので、コテージでは、すぐに寝てしまった。トイレに行きたくなって起きた時、隣にいるはずの人がおらず、行方不明なのでびっくりした。↓ 恐ろしくなり、隣のコテージに行き、人が消えてしまったと言うと、中からその人が出てきたので、驚いた。私のイビキがあまりにもひどかったので、寝ることができず、隣のコテージで寝たとの話であった。トホホ。
2023.08.17
コメント(2)
今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)8日目ですが、斜里駅をスタートし、自転車でウトロ港に行きました。そこで知床観光汽船の船で、カムイワッカの滝まで知床半島を観光しました。ウトロ港に戻ると、自転車で知床横断道路を上り、738mの知床峠に着きました。羅臼岳をバックに記念撮影し、その日は再び斜里駅まで戻りました。ーーーーーーーーーーーーーーーー【8日目 : 1986年8月16日(土)】・斜里駅近くで野宿した後、朝5時に起きて準備し、5時30分には知床半島のウトロへ出発した。途中で「オシンコシンの滝」、「三重の滝」を見て、ウトロ港に着いた。・ウトロ港で知床観光汽船の観光船に乗船して、知床半島を観光することにした。コースは2種類あり、ウトロから知床半島途中のカムイワッカの滝まで往復するコース(1時間30分)と、ウトロから知床半島先端の知床岬まで行くコース(3時間45分)だった。ぜひ知床岬を見たかったのだが、自転車で知床峠を上るのに時間がかかるので、カムイワッカまでのコースにした。・観光船はウトロ港を出港した。沢山のカモメが船の周りを飛んでいた。雄大な知床の姿を眺めていると、カムイワッカの滝が見えてきた。船は反転し、無事ウトロ港に戻った。・ウトロ港で、焼いた貝殻付きホタテを売っていた。1つ300円だった。美味しかったので、3つ食べた。キタキツネもいた。・ウトロ港から知床横断道路を上がっていき、知床峠(738m)に着いた。羅臼岳をバックに写真を撮った。標識には「斜里52㎞、ウトロ16㎞」とあった。森繁久彌さんが作詞作曲され、加藤登紀子さんが歌われた有名な「知床旅情」を、何度も繰り返して口ずさんだ。「知床の岬に はまなすの咲く頃 想い出しておくれ 俺たちのことを飲んでさわいで おかにのぼれば 遥か国後に白夜は明ける旅の情けか 酔うほどにさまよい 浜にでてみれば 月は照る波の上君を今宵こそ 抱きしめんと 岩陰に寄れば ピリカが笑う別れの日はきた 知床の村にも 君はでてゆく 峠を越えて忘れちゃいやだよ きまぐれ烏さん、わたしを泣かすな 白いかもめよ」・知床峠から知床横断道路を下って羅臼に行こうと思ったが、結構疲れていたので、斜里町まで戻ることを考えて羅臼は諦めた。知床峠を下り、プユニ岬を見て、斜里町まで自転車で戻った。途中でKさんと知り合い、急に雨が降り出した時は、二人で雨宿りをした。・夜は斜里駅近くで、Kさんと一緒に野宿をした。ーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 ①北海道北部より。斜里駅、ウトロ、知床峠、カムイワッカの滝の位置。↓ 斜里駅、ウトロ、知床峠、カムイワッカの滝の位置。↓ 国立公園 知床半島の記念スタンプ。↓ マップルガイド 17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P110↓ 1986年8月16日朝、斜里駅を出発し、知床半島を自転車で走った。↓ オシンコシンの滝。↓ オシンコシンの滝で記念撮影。↓ 私の自転車。↓ 三重の滝。ーーーーーーーーーー↓ 知床半島汽船。↓ 知床観光汽船の乗船券。昭和61年(1986年)8月16日。ウトロ⇔硫黄山(カムイワッカ) 1,850円↓ 知床半島 船旅のご案内 知床観光汽船。↓ 2つのコース。カムイワッカで戻るコースと、知床岬で戻るコース。↓ 2コースの乗船時間。↓ オホーツクの旅情 秘境 知床航路/企画・発行 道東観光開発株式会社↓ 知床観光船のメープル号。↓ 知床観光船のライラック号。↓ 「知床旅情」 作詞作曲:森繁久彌。↓ ウトロ、カムイワッカの滝、知床峠の位置。↓ 斜里町、オシンコシンの滝、三重の滝、ウトロ、プユニ岬、知床峠、羅臼岳の位置。↓ 知床半島。 観光船でウトロ港からカムイワッカの滝へ向かう。↓ カモメの群れ。↓ 知床半島。↓ カムイワッカの滝。↓ カムイワッカの滝付近で、船は反転してウトロへ戻る。ーーーーーーーーーーーウトロ港に戻る。↓「知床旅情」の石碑。↓ 焼きホタテ。1つ300円。 3つ食べた。↓ キタキツネ。ーーーーーーーーーーーーー↓ 知床峠。ウトロ港から知床横断道路を上がっていき、知床峠(738m)に着いた。羅臼岳をバックに写真を撮った。標識には「斜里52㎞、ウトロ16㎞」とあった。このまま羅臼に行こうと思ったが、疲れていたので、ここで斜里に戻ることにした。↓ 羅臼岳は山頂付近が雲にかかっていた。↓ プユニ岬。 この日は再び斜里駅に自転車で戻った。ーーーーーーーーーーーーー↓ 北方領土 これだけは知っておきたい/総理府北方対策本部、特殊法人北方領土問題対策協会。
2023.08.16
コメント(2)
今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)7日目は、網走駅から自転車で、オホーツク流水館、博物館・網走監獄、オホーツク水族館、能取岬、能取湖、サロマ湖を見た後、網走に戻って、小清水原生花園、斜里駅まで行きました。*カメラのフィルムがちゃんと設定されておらず、残念ながら8月13日夜の登別駅から8月15日夜の斜里駅までの写真が撮れていませんでした。そのため写真紹介はありません。ーーーーーーーーーーーーー【7日目 : 1986年8月15日(金)】・朝、網走駅前で自転車を組み立てる。沢山の旅行者から声を掛けられた。その中で旅行中の女性と話した。とても明るくて可愛らしい人だった。「またどこかで会えたらいいですね」と言って別れたが、この日の夕方、斜里駅に行く途中、小清水原生花園に寄ると、その女性と再び会い、お互いにビックリした。その女性は、私が麦わら帽子を被っていたので気が付いたとのことだった。・網走市内を走って行くと、網走刑務所があった。向きを変えて坂を上っていくと、天都山の頂上に着いた。オホーツク流氷館では迫力ある流氷の映像がスクリーンに映し出された。建物の屋上からは知床半島が見えた。・天都山を下る途中に博物館・網走監獄があった。中では放射状の舎房などを見学した。・網走市内から少し自転車で走ると、二ッ岩近くにオホーツク水族館があった。オオカミウオや大海馬を初めて見た。・二ッ岩を過ぎて、能取(のとろ)岬灯台に着いた。アブが多かった。サンゴ草が赤く綺麗になるということで見に行ったが、まだサンゴ草は赤くなっていなかった。・能取湖(のとろこ)を巡る途中の食堂で、ホタテ定食を食べた。この頃はまだ湧網線(ゆうもうせん)があり、列車を見ることが出来た。(1988年に湧網線は廃線となった)能取湖の先にあるサロマ湖を少し見た後、急いで網走駅に戻った。・夕方、網走駅で準備を整えて、釧網本線と平行に自転車で斜里駅に向かった。途中で、「藻琴湖(もことこ)」、「濤沸湖(とうふつこ)」、オホーツクに一番近い駅として有名な「北浜駅」を見て、「原生花園駅」では「小清水原生花園」を散歩した。この原生花園駅付近で、朝に挨拶をした女性と再会して、お互いびっくりした。・夜に斜里駅に着いた、カメラで36枚撮影したと思い、フィルムを巻くのだが、巻いている感触がないのでカメラの裏ぶたを開けると、フィルムがうまくセットされていなかった事に気が付き、ショックで血の気が引いた。8月13日夜の登別駅から8月15日の斜里駅までの写真が撮影されていなかった。沢山の人たちと記念撮影をしたのにと思うと辛く、斜里駅のそばで寝袋に入って寝るしかなかった。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院北海道北部↓ 1986年8月15日、網走駅を起点として自転車で走ったエリア。↓ 具体的なポイント。網走、能取岬、能取湖、サロマ湖、原生花園、斜里。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p108網走市内。↓ 私が学生時代、自分で作っていた冊子「WINDOW SHOPPING Vol.6 (1986年8月9日~8月21日)北海道特集の原稿表紙。この冊子には、自転車旅行の記録を文書とマンガで残す予定だったが、マンガは下書きの途中で止まり、完成しなかった。↓ 北海道を自転車旅行したときの自分の姿を描いた。↓ 「網走駅」の下書き部分。手前の像だが、ニポポ人形の形をした電話ボックスを描いた。私が網走駅に行った1986年8月15日には、駅前に2つの像の電話ボックスがあった。今はどうなっているだろう?↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p108「網走駅前の電話ボックス。ニポポ人形には願い事がかなうという伝えがある」↓ マンガを描くために、雑紙に色々と速記で描きとめた。網走駅付近にて。↓ 網走駅で知り合った女性を描きとめた。↓ 「あばしり旅のノート」 (網走駅で入手した)発行:1986年6月 網走市・網走観光振興公社 企画・作成。↓ 右側に、網走駅、天都山展望台(オホーツク流氷館)、博物館・網走監獄がある。ーーーーーーーーーー↓ オホーツク流氷館(名勝 天都山)入場券。(昭和61年:1986年8月15日印あり)↓ オホーツク流氷館の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーー↓ 博物館・網走監獄 大人入場券。 財団法人 網走監獄保存財団。↓ 博物館・網走監獄 パンフレット。↑ 【網走監獄の創設】北海道釧路集治監、網走囚徒外役所、このいかつく長い名が、明治23年に沿敷設された網走刑務所の最初の名称です。ここに外役所が設置されたのは、当時、南進の気配をみせていたソビエト・ロシアに対する国防上と、北海道内陸部開発のための札幌と網走を結ぶ中央縦貫道路の旭川、網走間の開削が直接の動機で、これが完了したのちは、自耕自食による永久的農業漢族の設置にありました。財団法人 網走監獄保存財団 網走市(網走番外地)↓ 明治の流刑地、網走に残された監獄のレ基礎を綴る博物館・網走監獄は網走の景勝地、天都山の中腹、緑の中にあって、ここから広々と広がる網走湖や刑務所農場を一望することができます。網走駅から5キロ、刑務所から2キロ、国道39号線、「博物館・網走監獄入口」バス停留所から歩いて約7分のところにあります。↓ 放射状 舎房。↓ 博物館・網走監獄の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ オホーツク水族館 記念入場券。オホーツク海の猛魚 オオカミウオ。↓ 入場券の裏面。↓ オホーツク水族館のパンフレット。↓ オオカミウオ。↓ 主な展示資料。↓ オホーツク水族館のご案内。ーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p107能取湖(のとろこ)とサロマ湖の位置。1986年には、まだ国鉄・湧網線が存在しており、車両が走るのを見た。1988年3月に廃線。↓ 網走、オホーツク水族館、ニッ岩、能取岬・灯台、能取湖の位置。↓ 能取岬灯台。↑ 自転車で能取岬灯台をまわるとき、小林美樹さんの「人魚の夏」を大声で歌った。「自転車を走らせて 灯台をまわり ギラギラの砂浜を 私は駆けてゆく」ーーーーーーーーーーー↓ 「藻琴湖(もことこ)」、、オホーツクに一番近い駅として有名な「北浜駅」、「濤沸湖(とうふつこ)」「原生花園駅」、「小清水駅」の位置。↓ 自分のマンガの下書き。原生花園駅付近で、朝に網走駅で話をした女性と再会し、お互いにビックリした。↓ 網走国定公園 小清水原生花園の記念スタンプ。↓ 斜里駅の記念スタンプ。ここで、フィルムのセット不備が発覚し、写真が撮影できていなかったことが分かり、ショックで寝込んだ。↓ 弘前ねぶたの斜里駅。
2023.08.15
コメント(2)
全2435件 (2435件中 251-300件目)