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我が家は、下の妹と2人暮らし。食料品のストックは普段から決まったものは安売りの時にちょっと多めに買う程度。私自身、そんなにインスタントカップメンは食べないのだけど、妹は今学生をやっているので、時間短縮のときやお弁当代わりに食べるので、自分のためにと言うよりは主に妹用に常備で数個ストックしてる。どちらかと言えば私用になるのはインスタント袋メン。しかも、『チキンラーメン』は好きで、安売りの時[m:58]5袋パックを1~2パックストックしてる(食べちゃってない時もある)。あとは、カレールウとか愛用の『ミツカン味ポン』とか、めんつゆ。冷凍庫には激安の挽肉とか牛肉、冷凍うどんくらい。一番多いのはお菓子。妹も私もおせんべい、スナック菓子、駄菓子、お酒のおつまみ系がスキだから、そういうのはなんとなくストック(っていうほどないけど)されてる。私の住む町は、3/11の大震災当日から、ライフラインは途絶えることなく来た。精神的にまいってしまっていた私のために、妹がコンビニに行き、ちょうどタイミングよく届いたお弁当を買ってきてくれて食べた(私は普段コンビニ弁当はあまり食べない)。ガスを使うのが怖かったのだけど、電気が問題なく使えたのでまったく不便は無かった。その後は、家にあるものをボチボチ食べた。計画停電の実施中に限ってお腹が空いたりもした。3/16お昼に久しぶりに外食にも出た。ちょうど、大き目の余震がお店の席に着いた時にあって、寝不足と運動不足とストレスで気分が悪くなってしまい、頭痛とめまいの中食事をした。その後、不足するものを調達すべく、ダメもとで、イオンとドンキとダイソーを回った。欲しかったモノは、予想通りなくて、お菓子ばっかり買ってきてしまった[m:205]買い物してた時、気づいたことがあった。3/17今日の夕方に銀行から出金するためにコンビニに行こうとしたら、近くのスーパーがあいてたので、寄ってきた。一通り食料品でほしかったものを買ってきた。コンビニに行き、ATMで無事に出金。コンビにでも夕食のおかずにサラダを買い足した。この時にも、同じことを思った。そう。食べるものがたくさん並んでた・・・ということ。共通して『ない』ものは、カップめんだけだった。3/15午後のイオンの食品売り場は空の棚が目立った。計画停電に向けて、火を使わないものが軒並み皆無だった。パン売り場は異様だった。いつものメーカーのパンは姿を消していた。おそらく、いつもとは違う取引先の商品、大震災の影響を受けなかったメーカーや卸売業者の品物がズラーーーーッと並んでいた。季節品(草もち、桜もち)や、大福などがいつものパン売り場を占拠していた。幕張のドンキは店内がいつもとは違う意味で雑然としていた。店内中埃っぽくて、砂まみれって感じだった。あまりの状況にすぐに店を出てしまったのだけど、無いものとしては生理用品の売り場がガラガラになっていた。ダイソーも品物はたくさんあった・・・。私がほしかった物・・・懐中電灯(あったものが壊れてしまった)は、当然のようにどこにも無かった。インスタントラーメン、お米、納豆、懐中電灯、単1~3電池、蝋燭はどこにもなかった。今日寄ったスーパーにはお一人様1個限りでお米が売ってた。牛乳も卵も肉も野菜も魚も目立ってないものはなかった。パン売り場にも、(おそらく影響の少なかったメーカーのものが)食パンも菓子パンもいろいろたくさんあった。お店は買占めを見越して菓子パンを補充したんだろうけど、ずいぶん在庫があった。店を出る頃、店内アナウンスで「菓子パン全品3割引、お一人様何個でもOKで~す」と流れてた。私は戻ることもせず、店を出た。皮肉にも食料は大震災の大被害地じゃなければ、慌てなければ手に入る。余るほどに・・・。あの山積みの大福はまさか廃棄にまわらないよね・・・?あのパンは・・・今、色んな形で被災地の仲間たちを救おうと、なかまたちが時に自身の危険をも顧みず、また自身の資財を快く差し出して動いてくれている。私はその義援金の端数くらいのことしかしてないけど、好きなアーティストが言っていたように、可能な環境にいる人間は、外食をしたり、いまある生活をそのまままっとうすることで、必ず力になると信じて、『ふつうの生活を心がける』ことにした。あの日、私も大きく揺れた中にいた。家が倒壊しなかっただけ、津波をかぶらなかっただけ。冷たい泥水の中で息絶えたのは私だったかもしれない。忘れるわけがない。なぜ、文句を言いながらもTVを消せずにいるのか?ここでも、あそこでもつぶやいているのか?ひとごとじゃないからでしょ?でも、買いだめは必要ないよ。きれいなお皿で、あたたかいものを、きれいに手を洗ってたべられるんだから。40年近く前のオイルショックを生きた世代の方々は、わかっていても不安で仕方ないのかもしれない。小さな、食べ盛りの子供を抱える親は、我が子の空腹を想像できないのかもしれない。でも大丈夫。日本は高度経済成長をしてきた国。今、凍えてお腹を空かせて、傷ついている同士に暖かいものが一刻も早く届き、それが継続されるように、冷静に、『普通に』生活しないといけない。身の丈の義援金と冷静かつ普通の生活・・・これが私たちのすべきこと。そう思うんだけど、私はね。買い物・・・したよ。お菓子と、リサイクルショップで好きなブランドのバッグが格安だったから衝動買い。不謹慎?
2011.03.17
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3/11金曜日は、体調が少し降下しており、自宅でゆっくり過ごしていました。昼食をとり、ルームウェアのままダラダラ過ごしてた。14:46 地震が起きた。止まらない。今まで生きてきた中で、一番の大きさ。こわい。こわい。私は、世の中で怖いもののトップに『地震』がある。自宅には私独り。どこかに?まっていないと耐えられない振動。すでに私はパニックだった。子供のようにオイオイと泣いた。普段使っていない固定電話の電源を入れて実家に電話。コールはするが誰も出ない・・・。留守電に繋がり、パニック状態の私は泣き叫ぶ。弟Sくんが出て、驚くほど冷静に「大丈夫だから」と言ってくれた。両親は近くのスーパーに買い物に出たところだから車内にいるかも・・・とのことだった。妹MちゃんにもCちゃんにも連絡つかない。小学校教員のHくんには連絡しなかった(立場をとっさに考えた)。彼の携帯ももちろん不通。独りの私は続く強い余震に放心状態だった。少しして、PCが使えることに気づく。震える手で立ち上げ、MixiとTwitterに助けを求めた。幸いにもライフラインは携帯電話以外生きていた。今、テレビが止まったら、電気が消えたら・・・想像するだけで怖かった。泣きながら、この後何がどうなるかわからず、とりあえず身繕いと、数日分の着替え、身の回り品、常備薬、お金・・・などをかばんに詰め、玄関に置いておいた。マンションの3階は体感が少し強くなるようで、余震のたびに動悸が起きた。ちょっとした乗り物酔いと興奮状態で激しい頭痛にフランフランしてた。母と連絡が取れ、少しホッとして泣いた。きょうだい全員、群馬のおば、いとこ、おいっこ、市原市のいとこそれぞれとも連絡が取れ、無事だった。その日から5日時間の経過とともに被害の大きさが明らかになると同時に、明るいニュースと残念なニュースが交互に流される。かつては無かった凶器と紙一重の武器になっている通信網。人間はこれほどまでにつながれるという安堵感と人間はどんな状況下でも嘘をつけるという嫌悪感多くは善意と正義感にみちた人間だと思うごくごく一部のより人間らしいとも言える卑しい感覚の人間には、今はかける言葉はない。人的二次的被害が起きないことだけを祈って。家の中がメチャメチャになって、割れた食器類を片付けようかと手に取った時、集中力が欠けていたため指を切った。私の被害はこの程度。さあ、どうしよう。とりあえず一般人には、一番流動的かつ効果的な義援金を一番信頼でき、スムーズに使ってもらえる団体に委ねようと思う。私ひとりでは鶴は何羽も折れないし、届けられないけれど、みんなで束になれば大きな千羽鶴、万羽鶴になるものね。女性タレントが提唱した「大人の千羽鶴(募金)」に絶賛の声http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1535874&media_id=114今、こういう時だからこそ、こういう柔らかさって大事だと思う。眉間に皺を寄せて、人の揚げ足取るくらいなら「うまいね」とわらって、鶴の一羽でも折る方が潔い本来、日本人はそういう民族だと思うから私は被災の当日も温かな食事と飲み物をとり、明るい部屋で、暖かな布団で横になれました。すべての日常にあらためて感謝2時間ちょっとの輪番停電を終えて、今回のことを少し記しました。
2011.03.15
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3年2ヶ月在籍した会社を、このたび退職しました。ここに至るまで、ずいぶん時間がかかってしまいました。心身ともに疲れ切ってしまい、体調不良がどうにもならなくなるまで来ました。精神疲労が強く、睡眠障害、摂食障害に近い味覚障害、そして、通勤電車に乗れなくなったことをマイカー通勤で誤魔化しながら過ごしてきました。お客様に会って何ぼなのに、誰かに会う事が辛くて、居場所がなくなりました。仕事は好きでした。この3年の間には、大きな手術も受けました。荷物も持てず、まともに歩けない時期もありました。復帰を喜んでくださったお客様、先輩、同僚には強く励まされました。悔しいことがあって延々泣きながら相談を聴いてもらった先輩もいました。元気がないと食事にさそってくださるお客様もいました。だからこそ、お客様を裏切るようなことが辛くて決断できなかった。偽善的、自己中心的な弱音だと思う。どこか、イイヒトでいたかったんだと思う。「すみません、もうできません」と言うことが、恥をかくことが出来なかったのだと思う。退職を決めた後、有給休暇を消化して自宅に引きこもっていた時には、まだ夜うなされていたようでした。目が覚めて、あまりに歯を喰いしばっていたために前歯が痛い日もありました。退職に際し、上司だけでなく、先輩にもずいぶん引き止められました。もう、決心していたので、揺るぐことは無かったのだけど、さみしかった。いくつかの書類に記入をし、会社からの貸与品を返却し、私物を片付けた。片付けに時間がかかったのと、名残惜しかったのか遅くなってしまった。オフィスを出るまで、涙は出なかった。帰りの車の中、もう戻れないと思い、寂しさからか、泣けて泣けてしかたなかったけど、新しいこれからをしっかり歩いて行こうと決めたから。お世話になったすべてに感謝を込めてさようならありがとう
2011.02.25
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